LOGINイースターの一週間前、エイドリアンは私に七日間の休暇をくれた。ストックホルムへのチケットを、こっそり私のバッグに忍ばせて。 ついに彼も、私を気遣うことを覚えたのだと思った。 その夜、階段で彼がノアと話している声が聞こえた。 「パパ、本当にビアンカおばさんと結婚するの? ママはどうなるの」 ノアはミニカーの模型を握りしめて、精一杯、平気なふりをしていた。 エイドリアンは少し黙った。「形だけの結婚だよ。夫のマテオがいなくなったから、放っておいたらビアンカとソフィアが危ないんだ。彼女たちを守る盾として、デ・ルーカの『名』が必要なんだ」 「ママは知ってるの?」 「ママには言えない」彼の声が少しだけ柔らかくなった。「ノア、これはママには内緒だぞ。誕生日におまえが欲しがってるアストンマーティンの模型、買ってあげる」 あのチケットは、贈り物なんかじゃなく、私を遠ざけるための道具だった。 彼が別の女にデ・ルーカの名前を名乗らせるというのなら、私だってこの結婚で眠らせてきた誇りや野心を、目覚めさせればいい。 北へ向かうこの旅で、私は戻ってこない。
View Moreそれから、オスロには本格的な冬が訪れた。暮らしが楽になったわけじゃない。ただ、迷いがなくなった。スカディの勢いはすごかった。私は一日中、会議に追われていた。国際提携の調整、寄付戦略の設計、拡張計画の立案、それに三か国をまたぐ法制度の整理。求められる負荷そのものは、以前と変わらない。でも決定的に違っていたのは、その時間が全部、自分で選んだものだったということ。ノアも少しずつ変わっていった。最初の一か月は、黒い車が家の前で減速するたびに顔を上げていた。二か月目には、それもなくなった。クリスマスの頃には、学校で友達もできて、ノルウェー語も覚え始めて、私の発音をわざわざ直してくるようになった。しかも、やけに真面目な顔で。そして何より、ピアノに夢中になっていた。ある日の夕方、ノアはリュックから絵が描かれた一枚の紙を取り出した。折り目のついたその紙を広げると、タウンハウスの前に二人の人影が描かれている。窓からは黄色い光がこぼれ、階段には雪。室内には、紺色のピアノ。「これ、なに?」と私は聞いた。ノアは少し呆れたような顔をする。当たり前のことを分かっていない大人に向ける、あの顔だ。「うちだよ」私は笑った。「じゃあ、なんでママだけ手袋片方なの?」「だって、よくなくすでしょ」さらっと言って、それからもう一度、絵の中の二人を指した。「ここでは誰も見せかけるために無理してないから、だからここが僕たちの家だよ」その言い方は驚くほど真剣だった。私はその絵を冷蔵庫に貼った。そして、思っていたより長く、その前に立っていた。オスロのあと、エイドリアンから直接連絡が来ることはなかった。メッセージも、電話も、完全に途絶えた。ただ一度だけ、半年後にヴィトーから弁護士を通じて連絡が届いた。内容は簡潔だった。公的な婚姻登録は解消済み。マテオの信託は、ビアンカとソフィアのために分離され、別管理に移行。ノアの権利は、離婚の進行に関係なく、独立して保護される。形式的で、無駄がなく、謝罪は一切ない。ああいう人間が負けを認めるときのやり方だった。私は必要なところに署名し、そのまま書類を送り返した。シカゴを離れて一年後、デ・ルーカ家の弁護士がオスロにやってきた。封のされた封筒、改訂された遺言書、それとエイド
二週間後、エイドリアンはついに私たちの居場所を突き止めた。だが、そこに辿り着くまでには、少し遠回りをしている。ヴィトーから電話を受けて三日後の夕方、日が落ちたばかりの頃、ソフィアから彼に連絡が入った。「パパ……頭が痛いの。来てくれる?」弱々しい声だった。それだけで、これまでは迷わず動いていたはずだ。マテオの娘で、すでに一度大きな喪失を経験している子ども――その事実が、彼を縛っていた。だがそのとき、エイドリアンはすぐには答えなかった。一度目を閉じてから、静かに聞き返す。「ママは?」「出かけてるの。電話も出てくれない……お願い、来て」本来なら医者を手配すれば済む話だった。それでも彼は、自分で向かった。ビアンカの部屋に入った瞬間、違和感ははっきりと形を持った。明るい照明、流れる音楽、笑い声。ソフィアはソファでゲームをしていて、ビアンカはその横でテレビを見ながら笑っている。具合が悪い様子は、どこにもない。「……どういうことだ」低い声だったが、それだけで空気が変わった。ビアンカがすぐに立ち上がる。「ちょっと、そんな怒らなくてもいいでしょ。ただ会いたがってただけよ」「頭が痛いって言ったよな」ソフィアの目が揺れる。エイドリアンと母の間で、ほんの一瞬視線が迷った。それで分かった。これは子どもがついた嘘じゃない。そう言うように仕向けられたものだ。エイドリアンはしゃがみ込み、コントローラーをそっと外した。「怒らないよ」やわらかく言う。「大丈夫だ」ソフィアはうなずいた途端、涙をこぼした。彼は立ち上がり、ビアンカを見る。「こんなこと、もう二度とやるな」ビアンカは腕を組んだまま言い返す。「何が?私たちのこと思い出させただけじゃない。あなたが放ってたんでしょ」「彼女は俺のせいで出ていったんだ」低く言う。「それに……本来お前が立つ場所じゃないところに立たせたのも俺だ」ビアンカはため息をつく。「まだそんな話してるの?本当に席の問題だと思ってる?」「違う」エイドリアンははっきり否定した。「俺がマテオへの罪悪感にかまけて、お前を止めるべきところで止めなかったからだ」その言葉は、彼の痛いところを突いた。「調べさせたんだ」ビアンカの表情が固
翌日の午後、エイドリアンの父、ヴィトー・デ・ルーカから直接電話がかかってきた。「エヴェリン」名前を呼ばれただけで、場の空気が変わる人だった。だがその日は、わずかに疲れがにじんでいた。「エイドリアンが申し訳ないことをしたな」私は答えなかった。「ノアはまだ子どもだし、お前は異国で一人だ」言葉は続く。「戻ってくるなら、ビアンカが二度とお前の前に出ないようにする。財団もファミリーオフィスも、すべてエイドリアンから外させる。立て直すべきものは、俺が責任を持って整える」私は窓の外に目を向けた。オスロの通りは静かで、淡い光に包まれている。背後では、ノアがダイニングテーブルで黒いブロックを組み立てながら、小さく鼻歌を歌っていた。その音を聞きながら、ふと思う。――彼はきっと、それが魅力的な提案だと確信して言い出したのだろう。失ったものはすべて戻る。立場も、力も、形の上では元通りに。けれど。「私がどうして出ていったのか、勘違いしていますわ」静かに言った。「やり直すのが怖かったわけじゃないのです」「では、なぜだ?」「ようやく分かったからです。これまで必死に守ってきたものが、自分のものじゃなかったって」回線の向こうが静まり返る。「十年間、私はこの家のために土台を作ってきました。散らかっていたものを形にして、混乱を整理して、恥を名誉に変えてきたんです。でも、それが当たり前になりすぎたのです」小さく息を吐く。「私がいなくても回るものだって、みんな思い込んでいました。だからエイドリアンは、それを自分のものみたいに扱って、他の人に差し出したんでしょう」「エヴェリン――」「最後まで言わせてください」声は落ち着いていた。ヴィトーのような男たちにとって、女の涙より、その静けさのほうがよほど脅威に映るのだ「あなたは、私が名前や家やお金に執着していると思ってるんですね。でも本当に手放せなかったのは、私が自分で積み上げてきたもののほう。そこから一歩引いたら、それ以外のものは思っていたよりずっとちっぽけなものでした」ヴィトーはしばらく黙り、やがて長く息を吐いた。「……研究所に入ったそうだな」「ええ」「このままそこにいるつもりか」「ええ」短い沈黙。「なら、金で買い戻せるな
エイドリアンが書類を見つめたまま動けずにいると、インターホンが鳴った。最初に胸をよぎったのは、期待だった。気づけば立ち上がっていた。ノアが駆け寄ってくる足音や、スーツケースを手にしたまま、怒りを隠しきれない表情で立つ私の姿が、ほとんど反射のように思い浮かんでいた。――だが、扉の向こうにいたのはビアンカだった。白いドレスに身を包み、指にはエメラルドの指輪。まるでこの家がすでに自分のものだと信じているかのような、揺るがない笑みを浮かべている。「会議、途中で抜けたって聞いたわ」そう言いながら中に入り、ふとテーブルの書類に目を留めた。「……エヴェリン、出ていったの?」エイドリアンは答えない。ビアンカの驚きはほんの一瞬で、すぐに落ち着いた表情へと戻る。「そう。だったら、ちょうどいいわね」そのまま距離を詰め、声を少しだけ落とした。「もうシカゴ中が見てるのよ。あなたの隣にいたのが誰か、指輪も席も婚姻登録も、全部」一拍置き、彼の反応を待つ。「エヴェリンがいないなら、これ以上迷う必要はないでしょう。ここで終わらせましょう」それでも彼が何も言わないのを見て、ビアンカは腕に触れようとした。次の瞬間、エイドリアンは反射的にそれを振り払う。「……触るな」ビアンカは眉をひそめる。「どうしたの?急に」「妻が息子を連れて出ていったぞ。ダイニングには離婚協議書が置かれてる。この状況で、お前は何を言いに来たんだ?」「彼女は、自分で出ていったのよ」「違う」間を置かずに返す。「俺が、そうさせたんだ。自分の居場所を別の人間に渡すところを、目の前で見せたからだ」ビアンカは腕を組み、少し首を傾けた。「だったら、ちゃんと認めたらいいじゃない。問題は書類じゃないわ。あなたがしたこと、そのものよ。私を彼女が立っていた場所に立たせたでしょ。それも人前で」エイドリアンは言葉を失った。事実だったからだ。エイドリアンはずっと、自分に言い聞かせてきた。あの結婚はあくまで法的な隠れ蓑であり、見苦しくても必要な手段だったのだと。だが、エヴェリンを傷つけたのは、そんな書類上の話ではなく、行動のほうだった。あの席。あのネックレス。あのケーキ。そして、自分の息子が家で待ってると言うのに別の子どもを抱き上げ、カメラの前に立っ