その街には、妙に評判の良い宿があった。「サービスが良すぎる」「料理が贅沢すぎる」「値段は安すぎる」──そんな噂が旅人たちの間でささやかれていた。ある日、一人の若い旅商人がその宿に泊まった。白髪混じりの宿主が笑顔で迎え、上等な部屋へと案内する。そして夜半、彼は静かに消えた。翌朝、荷物も衣服も残された部屋に、旅商人の姿はなかった。「夜のうちに出て行かれたのでしょう」宿の者は、そう言って笑った。だが、真実を知る者はいなかった。……彼は“狩られた”のだった。私がその宿に入ったのは、数日後のことです。旅の途中、山あいの街に立ち寄ったロホとファドは、妙に丁寧な応対を受けた。「旅人様には特別に、上質な部屋と夕餉を」「ええと、これ……一泊でいいのよね?」とロホ。宿の者はにこやかに笑い、「もちろんです」と応える。温泉、食事、部屋……どれも豪勢すぎた。ファドがそっと呟く。「ロホ……この宿、変だよ。よすぎるもん。」ロホは湯気の立つ茶を飲みながら答えた。「わかってる。……何かが“こちらを試してる”」その夜、静けさが深くなったとき、宿の裏手で“何か”が動いた気配がした。翌朝、ロホが外へ出ると、宿屋の主人が満面の笑みで貴族に金貨の袋を手渡されていた。「良い獲物でございますよ、旦那様。なにせ……筋の通った、美しい女です」貴族たちはくすくすと下品に笑い、袋を揺らす音を楽しむように聞いた。ロホが近づき、低い声で抗議した。「こんなこと……いずれ露見する。法も秩序もないのか」貴族の一人が鼻で笑う。「ここは私有地だよ。お嬢さん」「外の世界の常識など通用しない」「さあ、森へ行こうか。きみの“逃げ道”は、用意してある」兵士たちに武器を取り上げられ、ロホは丸腰で森の縁へと押し出された。背後では、貴族たちが笑いながら下劣な言葉を投げ合っていた。「腰を抜かせてやるのが楽しみだ」「あの気位の高さを、どこまで砕けるか……」彼らの笑い声が、森の奥に響いていた。森へ入ってすぐ、空気が変わった。ロホは立ち止まり、空を仰ぐように目を閉じて呟いた。「……これは、私を怒らせる遊びだったのね」最初の矢が放たれるより早く、ロホの姿が森に溶けた。一人の貴族が弓を構えるより先に、背後から音もなく襲われる。ロホはその男を無言で倒し、弓と短剣を奪った。そこから
旅の途中、森を抜けた先の、緩やかな丘のふもとに、一軒の小さな小屋があった。木の壁は少し傾き、屋根は草に覆われ、それでも扉には、きれいな布が結ばれていた。ロホはぺガスを降り、慎重に扉を押してみる。きい、と優しい音を立てて扉が開くと、中には──台の上に整然と並ぶ、干し肉、保存用の野菜、果物、そして旅に必要な小物たち。そして台の端には、木の板。素朴な文字で、こう書かれていた。【ご自由にどうぞ。代金は箱へ。】横には、小さな木箱が置かれ、錠も、鎖も、なにもなかった。ファドが目を丸くする。「えっ!?こんなとこに置いといたら、盗まれちゃうよ!」ぺガスも鼻をひくつかせ、不思議そうに覗き込んでいる。ロホは、しばらく台と箱を見つめ、ふっと笑った。そして珍しく、少し興奮した声で言った。「……すばらしいわ」「箱に嘘を言う必要がないなんて──こんな奇跡、滅多にないわ」ロホは、干し肉と林檎、そして小さな水袋を選んだ。代金をきちんと木箱に入れ、手のひらをそっと箱に重ねる。「どうか、この善意が、少しでも長く続きますように」ファドが首をかしげて尋ねる。「でも、もし誰かが全部盗ったら?」ロホは笑って肩をすくめた。「盗む人もいるかもしれない。でも、ここには“信じようとする人”がいた。それだけで、十分よ」ロホは、小さく、でも確かに微笑んでいた。ロホが干し肉と林檎を袋に詰め、木箱に代金を収めていたとき。ぎぃ、と小屋の裏手の扉が開き、一人の男が現れた。年の頃は四十を過ぎた辺り。日に焼けた顔に、優しい笑みを浮かべた旅人のような男だった。男は、背中に担いだ籠から、新しい野菜や、編み籠に入った果物を台に並べ始めた。ロホは静かに見守っていた。ふと、男がこちらに気づく。そして、にこにこと笑って言った。「おっ、いいとこ来たね。取り立ての林檎と麦だ。よかったら、どうだい?」そう言って、まだ朝露のついた林檎を差し出す。ロホは一瞬迷ったが、男の飾り気のない態度に、ふっと微笑んだ。「……では、ありがたく」彼女は手に取った林檎を軽く撫で、それから再び、代金を箱にそっと追加した。男は目を丸くして笑った。「正直者だねぇ。ここ、取っていくだけの奴もいるんだけどさ、それでも俺、続けてるんだ」ロホは林檎を手の中で転がしながら答えた。「……信じるということは、相
「誰も目覚めない村。けれど、誰も死んでもいないというのなら――わたしが、その夢の続きを歩こう」第一幕:白銀の森、沈黙の案内その村へ向かう道は、誰にも教えられなかった。ただ、旅の道中に出会った老婆が、手紙のような語りで言ったのだ。「そこは、冬が続くのよ。春が来ない村。でもね……誰も泣かないの。泣く暇も、ないのかもしれないわね」ファドがひそひそとロホに話す。「ねぇ、嫌な予感しかしない。ほら、“誰も泣かない”とか、“春が来ない”とか、ホラーじゃん。絶対なんか出るでしょ。しかも、雪!」「雪が怖いの?」「いや、雪の中の“静かすぎる場所”が怖いの!」そして、たどり着いたその村は――雪に閉ざされ、音のない、永遠の眠りのような場所だった。第二幕:動かぬ人々、揺れぬ時間村の家々には灯がともり、暖炉の火も燃えていた。鍋の湯もわずかに立ち上っている。しかし、人々は皆、眠ったままだった。老いた者も、子供も、若者も。誰もが、まるで物語の一節で止まった人形のように――呼吸していた。ロホはゆっくりとひざまずき、眠る少女の頬に手を添える。「……生きてる」ファドが言う。「これ、全員が同じ夢見てるとか……?」「それが“誰かの魔法”なら、何かがまだ“生きてる”ってことよ」第三幕:夢の主村の奥、白い教会のような建物に足を踏み入れると、そこにはひとりの“少女”がいた。少女の名は、ソルナ。凍てついた花の上に座り、目を開けたまま、微動だにしない。だが、ロホが近づいたとき――少女の瞳が、こちらを見返した。「あなたは、夢の外から来た人。でも、ここはもう夢になった場所……わたしの、“もう来ない春”なの」少女はかつて、村でただ一人生き残った“魔導の子”だった。冬の凍結病が村を襲ったとき、彼女は魔法で皆を“眠らせる”ことで命を救った。だが、春が来なければ、彼らは目を覚まさない。「私は、起こすことができない。誰かが、続きを歩いてくれないと、私は……ただ、春を待つ人形になる」第四幕:歩く者の祈りロホは、そっと髪を編み込み直す。そして、火のない指先で、空を指し示す。「……冬は、終わらせるものじゃない。“超える”ものよ」彼女は魔法を使う。自らの魔力で、村全体に**“春の幻”**を編み上げる。花が咲き誇る幻影鳥の囀り冷えた空気を包む、微か
「この国のすべてが嘘だとしても――わたしの剣と、歩みだけは、本当でいたいの」第一幕:招かれざる旅人その国の名は――ゼレトリア。大陸の南西、常に霧に包まれた“契約国家”。あらゆる条約、協定、言葉ですら“証文”でなければ意味を持たない。「……この国、やたらサイン求めてこない?」「“旅人歓迎”って言葉も、文書がないと無効なんだって」ファドは目を白黒させる。ロホは警戒を解かず、剣の柄に手を添えたまま、城門をくぐった。その背後で、門番たちはひそひそと話す。「例の“銀の剣”じゃないか……」「証拠は?」「まだ……だが、“本物”なら“試練”を与えられるはずだ」第二幕:祈りを忘れた神殿ロホが立ち寄ったのは、かつて神殿だった建物。しかし今は、ただの“裁判所”として使われている。「神に祈るより、契約に誓え。神託よりも、証拠を」刻まれた言葉に、ロホは眉をひそめる。そこに現れたのは、ゼレトリア宰相補佐ヴェイン。「あなたのような“誓いを持たぬ旅人”には、この国は“危険”です。剣を抜けば罪、黙していても不信。いっそ、あなたも“嘘をつく者”になってみませんか?」ロホは静かに笑う。「……嘘をつくなら、他人のためだけにする」第三幕:偽りの試練ロホには、“過去の経歴調査”と称して、偽の罪が科される。「数年前、ヴァルナ辺境での武装蜂起に関与していた可能性がある。被害者の名は――“リレア・エイル”」その名に、ロホの目が僅かに揺れた。(――リレア。あのとき、確かに私は剣を振るった。でも、彼女は……)ロホは剣を抜かず、裁きの広間で口を開く。「私は、その場にいた。でも、誰も殺していない。その剣は、あくまで“彼女の祈り”を守るために抜いた」「証拠は?」「ないわ。……でも、彼女はこう言った。“この剣が祈りであれば、誰かを救う光になる”と」第四幕:祈りの剣その夜、王宮に火の手が上がる。何者かが反政府組織の名を借りて襲撃したのだ。「――誰かが“嘘の正義”を騙ってる」ロホは単身、城へと駆ける。迷いはない。なぜなら――守るべき言葉があったから。「たとえ嘘の中で死ぬとしても、そのとき“わたしの剣”が、本物だったと信じられるなら、それでいい」剣を抜く。それは祈りのように真っ直ぐだった。最終幕:本当の嘘襲撃者の正体は、ヴェイン自身。この国を
とある東方の交易都市。路地裏に小さく店を構える、異国の武具職人のもとへ、ロホは偶然、足を踏み入れた。壁に並ぶのは、異国の武器たち。見慣れない細身の剣、湾曲した刃、短く美しい脇差し。その中で──ひときわ静かに、しかし不思議な存在感を放つ一本があった。白鞘に収められた、一本の──刀。ロホは、その刀に近づく。指先をそっと鞘に添え、静かに引き抜くと──細身で、美しくわずかに反った刃が、月光を受けて淡く輝いた。すう、と息を呑む。刃が鳴った。わずかに、まるで歌うように、空気を震わせた。ロホは、その瞬間、心のどこかで確信した。「──これは、“生きる”ための刃だ。」豪奢でもない。威圧でもない。ただ、一振り、一閃のなかに、生きるか死ぬかの覚悟だけが込められていた。ファドがそっと囁く。「ロホ……それ、好きなんだね。」ロホは、目を細めたまま答える。「……この刃は、無駄がない。 “必要なもの”だけを、研ぎ澄ました形。」彼女の声は、いつになく、優しかった。店主が、にこりと笑う。「それは、東の国で“刀”と呼ばれるものです。切る突く叩くが全て出来る命を断ち、命を守るためだけに、形を磨いた武器。」「一本を持った者は、何百の兵にも劣らぬと──そんなふうにも言われます。」ロホは、静かに刀を鞘に戻し、礼をして返した。そして、ぽつりと呟いた。「……いつか、これを手にする日が来るかしら。」ファドが笑う。「ロホが持ったら、また無敵になっちゃうね!」ロホも、少しだけ、肩を揺らして笑った。刀はまだ、彼女の手にはない。だが。心の奥深く、一本の刃が、静かに根を下ろした。それは、冬の終わりを告げる冷たい風が吹く頃だった。ロホは、東の山中、人里離れた小さな庵を訪れた。庵には、世にも名高い刀匠が住んでいるという。ただし、彼は気に入った者にしか刀を打たない。それも、金や名誉には一切動かないと噂されていた。戸を叩くと、中から現れたのは、白髪の老人だった。だがその目は、鋼のように研ぎ澄まされ、一瞬で人の芯を見抜く光を宿していた。老人は、ロホをじっと見つめると、ふっと笑った。「……ねぇさん。あんた、相当修羅場をくぐってきたね。」「しかも──やむを得ず、な。」ロホは、一瞬、身構えかけた。この世界において、ここまで深く、自分の“傷”を見抜い
緩やかな丘陵を越えた先。風に乗って甘い香りが漂う村に、ロホとファド、ぺガスはたどり着いた。小さな市では、袋詰めの胡桃(くるみ)が山のように積まれている。村人たちは誇らしげに言った。「ここは胡桃の名産地なんだよ!」ファドは、丸い殻を手に取り、くるくると転がしながら首をかしげた。「ねぇロホ、これ、どうやって食べるの?」ロホも、胡桃を手に取ってしばし観察した。すると、近くの村人が笑いながら教えてくれる。「ハンマーか割り器で叩いて割るんだ。 硬いから気をつけてな!」ロホは小さく頷き、懐から──なにも取り出さず。そのまま、胡桃を片手に挟み込むと。ぐしゃり。乾いた音とともに、胡桃は粉々に割れた。中から見事な実だけが、ころんと掌に残る。「……」村人たち、凍りつく。一人、また一人、顔を見合わせ、誰からともなく囁く。「……今、素手で割ったよね……?」「しかも、潰したってレベルじゃない……」「あの人、何者……」ファドは一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうに声をあげた。「さすがロホー! すごーい!! もうオレにもやってやって!」ロホは少し首を傾げ、ファドにも胡桃を一個手渡した。そして──また、ぐしゃり。今度は音すら軽く、胡桃は割れた。ファドは両手で大事そうに胡桃の実を受け取った。村人たちは、ぽかんと口を開けたままだった。ロホは気にも留めず、普通に胡桃の実を頬張りながら言った。「香ばしくて、美味しいわね。」ファドもにこにこしながら頷く。「うん!ナッツってこんなに美味しいんだね!」ロホはふと思い、村人たちに問いかけた。「もしかして、……この方法、推奨されない?」村人たちは全力で首を振った。「無理です無理です普通の人は絶対無理です!!!!」その夜、村の広場では小さなお祭りが開かれた。胡桃の殻割り大会──ただし「素手部門」は廃止となった。だが、村の子供たちは、「銀髪のお姉さんみたいに強くなりたい!」と、張り切って胡桃割りの練習を始めたという。そして、誰もが噂するようになった。「あの旅人は──胡桃よりも、強い。」