“ロホ”と呼ばれる女性は、世界のどこにも属さない流浪の魔法戦士。 長い銀髪、翠の瞳。腰に剣と小剣、背に弓。編み込まれた髪には刃を忍ばせ、 そして――自らの命を触媒に、火・水・風・土を操る“原初の魔法”を使う者。 彼女の運命はただ一つ。 「歩き続けること」――その理由も、終わりも語らぬまま。 相棒は、翼を持つ小さな竜の子・ファド。 さらに、ペガサスのような白馬・ペガス。 一人と一匹と一頭は、荒れた地、戦争の跡、まだ癒えぬ街を旅し続ける。
ดูเพิ่มเติม雪が舞っていた。「ロホ!もう少しで町だよー!」
前を飛ぶ小さなドラゴンがくるくると宙を回る。だが、その羽ばたきも少し重たそうだった。ロホと呼ばれた女性は 「……飛ばなくていい。疲れるから歩きなさい、ファド」 「えー、でも、空のほうが見通し良いんだもん」 「おまえの羽、濡れてる。羽風で雪を巻き込んでるよ。歩く方が賢明」 「……はーい……」 不服そうにファドと呼ばれたドラゴンがロホの肩に乗った。流麗な白い鬣を持つ馬は鼻をふん、と鳴らして雪を蹴る。細い道を縫うように進むぺガスの背中で、ロホは空を見上げた。空は白く、どこまでも遠かった。
銀髪は腰まで伸び、今日は気まぐれに編み込んである。翠の瞳の奥に炎のような静けさを宿し、ロホは雪を踏みしめていた。左に剣、右に小剣、太ももにはナイフ。背には弓。フードを被り皮鎧とローブを重ね、常に“戦い”と“日常”の狭間にいる魔法戦士。 その隣を、翼を小刻みに揺らしながら飛ぶのはドラゴンの子供・ファド。中型犬ほどの体躯で、おしゃべりといたずらが大好きな旅の相棒。 そして、ロホの背に静かに寄り添うのは、流麗な白い鬣を持つ馬――ぺガス。言葉は話さないが、その瞳と言動で十分すぎるほど意志が伝わる、誇り高き旅の仲間。 「私がその人に出会ったのは、その町に入ってすぐのことです」その町の名前は「カイレ」。 雪と霧に包まれる、小さな谷間の町だった。
町の宿屋は古びていたが、火の温もりがあった。
「……いらっしゃいませ。雪の旅、お疲れ様でした」 出迎えたのは、まだ十にも満たない少女だった。母親は病気らしく、代わりに受付をしているのだという。名をティレといった。 「お客様申し訳ございませんが、お馬のほうはご自身で小屋につないでいただけますでしょうか、一人しかいないので・・・」 ロホは頷きペガスを馬小屋に連れていき、まぐさもたっぷり与えた。 「宿、空いてる?後お風呂も・・・」 ロホの問いに、ティレはこくりと頷く。 「一番奥の部屋です。……あの……ローブ、濡れてます」 「ありがとう。でも乾かすから、大丈夫」 ファドはストーブの前で大の字になって伸びていた。 「天国ぅ……」 「……こいつ、火があるといつもこうなるんだよね」「……ふぅ……」
宿の共同浴場に音を立てず湯に沈む、湯殿にはロホしかおらず足を伸ばし、腕を伸ばして伸びをする。 湯気が舞い、ローブを脱いだロホの背があらわになる。 背筋はすらりと伸び、傷跡ひとつないように見えるが、その皮膚の奥には深い年月が刻まれている。 静かな湯音だけが、時を刻む。 ファドとぺガスは厩舎とストーブの近くでくつろぎ中。 今夜は誰にも邪魔されない── 湯から上がると、ティレが洗濯したローブをすでに干してくれていた。 気が利くどころではない。彼女の働きぶりは、大人顔負けだ。 「……ありがとう。早かったね」 「火のそばに干したから……あと、あったかいごはん、作ったんです。お口に合うかわからないけど……」 テーブルの上に並べられていたのは、この町の地のもの尽くしの料理だった。 • 雪下人参と鹿のシチュー • 干し魚の炙りに、山菜の酢漬け • 粟と蕎麦の雑炊風の一品 • そして、何より目を引いたのは── 「これは……?」 「ヤマリンドウのジャムを、麦粉のパンに……寒い時期にだけとれる、ちょっと甘酸っぱいの。お母さんのレシピで……」 ロホは、無言で一口。 「……」 咀嚼し、味を噛みしめる。 「──やさしい味だ」 ティレの顔がぱっと明るくなる。 「本当? 本当に? よかったぁ……!」 「お母さんの味、なんだね」 「うん。お母さん、あんまり起きられないけど、レシピだけはたくさん残してくれてて……。あたし、それを覚えようと思って」 ロホは、ふと視線を落とす。 誰もいないはずの食卓で、誰かの存在が残っている──そんな温もりに包まれていた。 「……おいしかったよ。ちゃんと、“届いた”。この料理」 「……へへへ……!」 ティレの頬は赤らみ、少し涙がにじんでいた。その後ロホは一人、町の外れに足を運んだ。
雪の積もる丘に、木の十字架が並んでいた。 「墓地……?」 「この町、三年前に疫病で多くの人を失ったの」 声がして振り返ると、ティレがいた。手には小さなランタンを持っている。 「私のお父さんも、兄さんも、ここに……。それ以来、お母さんも体が弱くなっちゃって」 「……」 ロホは黙って雪の地面を見つめた。 「でも、お姉さんは旅をしてるんだよね? いいなぁ。私もいつか、外の世界を見てみたいなぁ」 「それは簡単なことじゃない」 「わかってる。……でも、今の毎日が変わらないまま終わっちゃうのも、ちょっと、怖い」 ロホは空を見上げた。 雪の夜空には、ひときわ強く光る星が一つあった。 「ティレ、空を見なさい」 「うん」 「人は上を向ける。どんなに足元が泥だらけでも、どんなに涙で顔がぐしゃぐしゃでも、上を見ることはできる。だから、歩ける」 ロホはそう言って、ティレの頭をそっと撫でた。宿の奥の部屋に、ぱちぱちと薪の爆ぜる音が静かに響いていた。
ストーブのそばで、ファドが丸くなって眠っている。 ベッドに横たわるティレの母は、浅く弱々しい息をしていた。 ロホはその隣に膝をつき、そっと手を額に当てた。 ……体は冷えている。だが、それは病の根だ。 彼女の魔法では――治せない。 ティレは毛布の中から顔を覗かせ、ぽつりと聞いた。 「……もし、お母さんが死んだら……あたし、どうなるのかな……」 ロホは答えなかった。 言葉を選ぶ時間は、残されていなかった。 ただ暖炉の火を見つめ、その小さな炎のゆらぎに、意志を込めた。 夜が明けた。 ロホは早朝の誰もいない台所で、ゆっくりと膝をつくと、土間の中心に手をかざした。 そこに、小さな火の種を生み出した。 拳ほどの大きさの、ゆらめく“炎の種”。 触れても熱くない。だが、確かに温かい。 風にも消えず、薪が尽きても灯り続ける、小さな命の光。 それは元素操作による“火”の魔法。 けれど、それは攻撃でも、照明でもない。 「これは……灯(ひ)だ」 そうロホは心の中でつぶやく。 “誰かの命が消えぬように”と、願いを込めた魔法。 ロホはそれだけを残し、部屋を出た。 支度を終え、ペガスの鞍に手をかける。 「ロホさん、行っちゃうの……?」 小さな声に振り返ると、ティレが玄関でじっと見つめていた。 「……お母さん、まだ苦しそうだよ……でも、昨日より……少し、あったかい気がするの、あとこれお弁当です。ヤマリンドウのジャムを麦粉のパンに挟んだサンドイッチ」 ロホは優しく頷き、こう告げた。 「寒さには負けない。そう願えば」 そう言って、ロホは再び旅立った。 歩き出すその背に、ティレは小さく手を振る。 「ありがとう……ロホさん!」 雪はまだ降っていた。 けれど、その町には、小さな光が灯っていた。ぺガスの蹄が、凍った地面を静かに打つ。
ロホは口の中で、かすかに呟いた。 「……願わくば、この町に次の春が来るように」 「ゆっくりでもかまいません、前に」 町を離れる白い影は、雪の丘を超え、また歩き出した。雪が深くなる山道の中腹。
白の景色の中に、ほんのわずか――“動いたもの”があった。 ロホはすぐに気配を察知し、低く告げた。 「……ファド、上」 「わっ、見つけた!? うわああっ、矢ッ!」 叫びと同時に、崖の上から飛び出してくる影。 毛皮に身を包んだ伏兵たちが、雪を蹴立てて襲いかかってくる。 「白い雪に白い服って、目立たないからって……こっちは馬がいるんだぞバーカ!」 ファドが吠え、ロホの頭上を跳ねるように飛びながら視線を釘付けにする。 ぺガスは、ロホの背に身を寄せるように滑らかに身を翻し、その巨体で斜面を塞いだ。 彼女は剣を抜いた。左手に握られた剣が、低く唸る。 ――一瞬の静寂。 そこから、雪が跳ね上がるようにして、戦が始まった。ロホの剣が、迫る山賊の刃を受ける。
反対の手には短剣――敵の腹を横に切り裂き、流れるように続く。 飛んできた投げ矢を、懐から取り出した短剣で受け流し、逆手にそのまま投擲。 短く鋭い音を立てて、敵の肩を貫く。 戦場に無駄はない。動きの一つ一つが、積み上げた修羅場の記憶だった。一方――ファド
おいおいおい! なんでオレが“囮”!? いやまぁ確かに飛べるし、炎もちょっと出せるし、可愛いし強いけど…… って、うわあっ!? また来た!何人いるんだよこの山! ファドはぐんと地を蹴り、斜面に咆哮を響かせた。 その小さな咆哮が、木々に積もった雪を揺らす。 ずしん――という音と共に、小規模な雪崩が起こる。 見たか!? これが“力学の応用”ってやつだよ!さすがドラゴン、頭いい~! ……って、噛みついたら「やめなさい」って怒るくせに、今は褒めてよ、ロホ!剣戟と咆哮のわずか数分――
戦闘は、短く、しかし鋭く、終わった。 血に染まる雪を踏み越え、ロホは最後の敵の前に立つ。 剣を収めず、静かに言った。 「人の弱みに付け込んで生きるな」 言葉よりも、瞳が全てを語っていた。 剣を鞘に戻すと、ぺガスが鼻を鳴らし、ふんと前足で雪を強く踏みしめた。 ロホは小声で呟く。 「朽ち果てなさい、誰にも知られずに」 白の静寂が、再び支配する。次に進むとき、またあの言葉が頭に浮かぶ。
「倒すだけじゃダメ。全員、仕留めないと」 それは冷酷ではない。 それが“誰かを守る側”としての、ロホの覚悟。全員仕留めなければ次の犠牲者が出るだけ。 そして、ファドの声が聞こえてきた。 「なあロホ……今日のオレ、けっこう頑張ったよね? ご褒美って、あるの?」 ロホは笑わない。けれど、その無言のまなざしには、“ご褒美以上”の信頼がこもっていた。 雪の中に、血の跡だけが残っていた。 白は静かに赤を包み、やがてその痕跡さえ、風に消えていく。 ぺガスは前足で雪をならし、ファドは木の陰でぶるぶると体を揺すっていた。 だが、ロホだけは動かず、山賊たちが崖を転げ落ちた方向を、ずっと見つめていた。 誰もが沈黙していた。 だから、ロホは自分の心の声に――耳を傾けた。ロホが崖下を見下ろすと、雪の斜面にはわずかながら、赤と黒の影が散らばっていた。
「……下に降りる」 ファドとペガスを待機させ、ロホは慎重に斜面を降りていく。 崖下のくぼみに、粗末な天幕がひとつ――山賊たちの仮設の野営地だった。 中には、干し肉と酒瓶、そして…くたびれた絵本が一冊だけ、炭袋の横に置かれていた。 ロホは、ふと立ち止まり、それを手に取る。 表紙は剥がれ、ページは濡れてふやけている。 だが中には、幼い筆致でなぐり書きされた言葉が、かろうじて残っていた。 「父ちゃん、帰ってきたらまたこれよんでね」 「あかりをけさないでね」 「さむくないようにしてね」 ロホの指先が、ほんの一瞬、止まった。 そして、そっとその本を天幕の中に戻す。 「……そう」 雪の音だけが、辺りを包んでいた。 「“誰かの父”だったかもしれないのね」 声は出さず、ただ心の中で告げる。 剣を握るということは、誰かの何かを奪うこと。 そしてそれは、己の命をも刻むこと。 やむを得ず奪うことを選んだのか安易に選んだのかはロホには分からない。 ロホは、雪をかぶせるようにして天幕を覆い、ひとつ深く息を吐いた。ぺガスが静かに寄ってくる。
ファドが、不安げにロホの顔を覗き込む。 「……大丈夫、ロホ?」 ロホは首を振り、ただ短く告げた。 「行こう。“あの町”の上空に、まだ火は灯っているから」 ふたりと一頭は、再び北へと進み出す。 木々の間から、薄日が差し込む。 雪にわずかに反射して、まるで“灯”のように見えた。 ファドが、そっと聞く。 「ねぇロホ……“火”ってさ、どこまで届くの?」 ロホは答えず、ただ歩き続けた。 けれどその背中には、確かに“消えない灯”が揺れていた。ティレは、目を覚ました。
朝の光が差し込む部屋。 静かに燃える薪ストーブ。 そして、ロホが残した“灯”の魔法が、まだ淡くゆらめいていた。 「……あったかい」 枕元の母が、微かに咳をして、唇を動かした。 「……ティレ……、ありがとう……あたたかいわね……」 その声を聞いた瞬間、ティレの目に、涙が浮かんだ。 そして彼女は小さく、つぶやいた。 「ロホさん……あなたは、神様じゃなくて、火のひと」 そう言って、胸元のペンダントに触れる。 そこには、小さなヤマリンドウの花びらが一片、押し花にしてあった。ロホはそっと、剣の柄に指を沿わせた。
「わたしが憎むのは、剣を抜かせる“状況”そのもの。欲望や暴力よりも、“無関心”が生む凍てついた社会のほう」 そして、小さく呟く。 「……少し、歩こう」 その言葉で、ファドがぴょこっと顔を上げた。 ぺガスが雪を蹴り、ロホの傍へ歩み寄る。 白に染まる山道は、まだ続いている。 だが、そこにはもう、誰の足跡もなかった。 ロホはまた、歩き出す。 その背に残った静けさは、 誰かの祈りのように、雪の中に溶けていった。雪山を越えたその先に、また別の町が見えてくる。
ロホはふと、昨夜のティレの言葉を思い出す。 「迷宮都市に行きたい」 「……叶えばいい」私がその人に出会ったのは、その町に入って七日のことです。そこは、かつて“夜明けの森”と呼ばれた場所だった。星を読み、風を詠み、森と共に千年を生きる者たち――エルフの都。けれど今では、街灯が星明かりを消し、石畳が根を覆い、高層の石造りの建物が、かつての大樹に取って代わっていた。ロホは、そんな都市の酒場の片隅に、ひとり佇んでいた。店内では、耳の長い青年たちが、香草の効いた肉料理を囲み、赤いワインを高く掲げていた。笑い声。陽気な音楽。どこかに、“生きることの喜び”が溢れているはずなのに――ロホは、窓際の影に身を置いたまま、目を伏せていた。ファドがぽつりと尋ねる。「ねぇロホ……あの人たちも、エルフなんだよね?」ロホは答えない。ただ、静かに呟いた。「……かつて、星と話せた者たちよ。」「今のあなたたちは、どこまでが“エルフ”なのかしら。」翌日。ロホは都市を離れ、森の名残を求めて歩いた。そこにいたのは、一本の木の根元で何かを聞こうとしている、若いエルフの少年だった。彼は名をトウエルと言った。「昔、この木はね、風と話せたって言うんだ。」「……ほんとうは、まだ聞こえるんじゃないかって思って。」ロホは目を細め、近くに腰を下ろした。「聞こえるのなら、それは、あなたがまだ忘れていない証拠。」「この世界が“本当はどうだったか”を、まだどこかで覚えているから。」トウエルは、小さく微笑んだ。「たまにね……木が、笑ってる気がするんだ。」ロホは、その夜、一枚の布に、“風の形”を刺繍し、森の入り口にそっと結びつけた。何も語らず、何も遺さず、ただ、それが“願い”となることを信じて。「……星を忘れてもいい。でも、思い出せる誰かが、この世界に一人だけでもいれば、それでいい。」ロホは旅立った。トウエルは、その後も森に通い、いつしか小さな子供たちに“木の声の聴き方”を教える者になったという。誰もそれが、かつてロホと出会った少年だとは知らなかった。でも彼の語る物語には、どこか風の香りがして、星明かりに似た静けさが宿っていた。私がその森にもう一度足を踏み入れたのは、幾星霜を越えた後のことです。季節は、静かに巡っていた。あのとき、枝を擦り合わせながら語っていた木々も、その多くが倒れ、苔に包まれ、けれど――根は、残っていた。ロホは、ぺガスのたてがみ
日中の陽射しは鋭く、大地に突き刺さるようだった。乾いた空気に汗は乾かず、ファドは舌を出しっぱなしでぐったりしていた。「ロホ~、溶けそうだよぉ……」ロホはぺガスのたてがみに手を添え、汗を袖でぬぐった。「……もう少し歩くと、風の匂いが変わるはず。」その言葉の通り、しばらく進むと風の温度が変わり、やがて鬱蒼とした木々に包まれた、深い森へと足を踏み入れた。森は、涼しかった。頭上から射す僅かな木漏れ日は、斑に地面を照らし、あれほどまとわりついていた汗が、少しずつ引いていくのが分かる。ぺガスは鼻を鳴らし、ファドは「生き返る~」と枝にぶら下がった。ロホは、静かに息を吸い込む。「……この森、生きてるわね。」森の奥へ進むと、開けた広場に出た。陽光がふわりと差し込み、風がゆるやかに草を揺らす場所。その中央に、ひとりの老人が腰を下ろしていた。背をまっすぐにし、長い杖を脇に立てた姿は、まるで一本の古木のようだった。ロホが近づいて、軽く頭を下げる。「ごきげんよう。ここで、何を?」老人は目を細め、しわの深い顔に、微かに笑みを浮かべた。「もうすぐ、シンフォニーが始まる。」ファドが小声で囁いた。「……音楽会? どこで?」ロホは、黙って腰を下ろした。ぺガスも広場の端に佇み、静かに草を踏んでいた。やがて、空気の流れが変わった。一陣の風が、森を駆け抜けたのだ。その風は木々の間を通り、節の中をくぐり抜け、葉を震わせ、枝を叩き、地面の石と草と共鳴し――音が、生まれた。低い管のような、幹のうねり。高い笛のような、葉の擦れ。風に揺れる木の枝が弦となり、洞の中で鳴る虫たちがリズムを刻む。それは――人の手では決して奏でられない、この森そのものの“音楽”だった。ロホは目を閉じた。音が、染み込んでくる。この森に宿る命が、風と共に歌っているようだった。音楽は、やがて静かに終わった。風が去り、森が再び深い呼吸に戻る。ロホは、そっと立ち上がり、深く礼をした。「……素晴らしい“演奏”でした。」老人は、何も言わず頷いた。そして、ロホがぺガスに乗り、歩き出したとき。老人は、誰にともなく、ぽつりと呟いた。「……はぁ~……神が地上を歩くようになるとは、世も末だのぉ。」その声は、ロホの耳には届かなかった。けれど、森の奥の木々は、またひとつ、微かに葉を
私がその人に出会ったのは、その町に入って三日のことです。そこは、かつて“森の民”と呼ばれたエルフたちが暮らしていた地方だった。かつて――その森は、声があった。風が葉を撫でれば歌い、枝が揺れれば物語を語った。けれど今、森は伐られ、町は広がり、エルフの若者たちは色鮮やかな服をまとい、商談に忙しそうに笑っていた。ロホは、ぺガスのたてがみに手を添え、街角で立ち止まった。そして、ぽつりと呟いた。「……葉擦れの音を、もう聞かないのかしら。」「あの枝に宿っていた“声”を、もう思い出せないのかしら。」誰も彼女の言葉には気づかない。ファドは、少し不思議そうな顔をしたが、何も言わず、ロホの肩で耳をぴくりと動かした。町のはずれ、伐採場となった森の名残に、ロホはひとりで足を運んだ。草は少なく、切り株が無数に並ぶ。かつて聖域と呼ばれた一角には、今や朽ちかけた木の祠がひとつ、静かに立っているだけだった。ロホは、その祠の前に膝をついた。何も語らず、何も問わず、ただそっと、最後に残った一本の立ち枯れた木に手を添えた。樹皮は乾き、命の気配はすでに薄れていた。それでも、確かにそこには“記憶”が残っていた。かつての森の声。エルフの笑い。子の誕生を祝う歌。風が運んだ祈り。すべてが、この一本の木の中に、まだ――生きていた。ロホは、誰にも聞こえない声で、そっと語りかけた。「……ごめんなさい。あなたたちの声は、私が覚えている。」「たとえ、誰も思い出さなくても。」風が吹いた。それはまるで、木が最後の呼吸をしたかのような、静かな風だった。ファドがそっと近づき、ロホの足元に丸くなった。ロホは、目を閉じた。「生きるために変わること」を、責めはしない。でも、この世界に“忘れられたもの”があるなら、自分だけは、それを覚えていたい――それがロホの選んだ“歩き続ける者”の生き方だった。翌日、ロホたちは再び旅立った。街は何も変わらず、若きエルフたちは今日も華やかに笑っていた。ただ一人、商人の娘がふと立ち止まり、なぜか涙が浮かびそうになるのを、不思議に思った。何か大切なことを、思い出しそうな気がした。それは、ロホが町を離れてから、しばらく経ったある日。あのエルフたちの町では、誰にとってもさして重要ではない、ちょっとした噂が流れていた。「町外れの伐採場
夜の風が草を揺らし、焚火の赤が、そっと揺れる。ロホとファドは、夕食を囲んでいた。葉の上には、ささやかな炊き込みご飯。ぺガスは、すこし離れた場所で草を噛んでいる。ファドが、口いっぱいにごはんをほおばりながら言う。「ロホって、旅の途中でいろんな人に会ってきたんだよね?」ロホは、木の匙をゆっくりと置いて、少しだけ夜空を見上げる。「ええ。 ──たとえば、ある商人の話があるわ」「その人は、食堂で家族と食事をしていたの。自分の跡を誰に継がせるか悩んでいたのよ」「子供たちは、それぞれ大量に注文して、食べきれずに残していった。」「でもね、末の子だけは、 “自分が食べられる分だけ”を注文して、きれいに全部食べきったの。」ファドがご飯を止めて、きょとんとする。「それで? その子が跡継ぎになったの?」「ええ。商人は言ったのよ──“自分のお腹の容量もはかれない者が、大きなお金を動かす資格はない”って。」ファドは、じっと葉皿を見つめる。「……じゃあ、オレもいつか、“食べきれるだけ”にしないとね」ロホは、穏やかに微笑んだ。「それができたら、もう“立派な跡継ぎ”よ」「何のかは……分からないけれど」焚火がぱち、と弾けた。その音を聞きながら、ファドがにんまり笑う。「じゃあ、オレの跡継ぎは……ロホね」「え? 私が?」「だって、ロホってなんでもちゃんと残さず食べるし、火も扱えるし、言葉も知ってるし──“旅人代表”って感じ!」ロホは吹き出しそうになってから、ゆっくりと笑った。「……ありがとう。でも、私はもう十分に“跡”よ。ファド、あなたは“未来”になりなさい。」夜空の星が瞬いていた。ロホは最後のひと粒をすくい取り、葉をきれいに拭った。そして、火に手をかざしながら、静かに言った。「ちゃんと食べる。それだけで、人は“守るべきもの”を持てるようになるのよ」
ロホは、足元の地面に静かに耳をあてた。草の匂い。土のぬくもり。遠くの小鳥の羽音。……だが、人の気配は、ない。ゆっくりと立ち上がると、ぺガスに小さく目配せし、ファドには高い木の枝を指さした。「頼んだ。」「まかせろー!」ファドは元気よく飛び上がり、ぺガスは鼻先を鳴らして周囲に目を光らせた。ロホは、銀の髪をほどき、そっと水に入った。冷たく、だが心地よい流れが、肌を洗っていく。少しだけ、目を細めて、空を仰いだ。そこには、雲一つない、澄みきった空が広がっていた。ロホが水浴びを終えて着替えていると巨大な牛のモンスターが襲い掛かってきた、ロホは軽くいなして急所に一突きでモンスターは絶命する。ぺガスの背には、毛皮も爪もついたままの、巨大な牛型モンスターの死骸が載っていた。ロホは、特に急ぐでもなく、特に誇示するでもなく、ただそれを引き連れて、宿屋の前まで来た。宿の親父は、目を丸くした。「……それ、まさか、あの“荒れ牛”か?」ロホは、小さく頷くだけだった。「肉はいる? 皮も、角も。」親父は一瞬戸惑ったが、すぐに目を輝かせて手を打った。「ああ、ああ! 買うとも! ちょうど塩漬けの樽が足りなかったところだ!」交渉はあっけなかった。「……風呂付きの部屋を。」宿屋の主に、ロホは簡潔に頼んだ。値段は、少し高かった。だが、迷いはなかった。それに、たっぷりの食事と、余った金貨がひと袋。ロホは、それを懐にしまいながら、何も言わずぺガスのたてがみを一撫でしてやった。宿の厨房では、すでに肉の大鍋がぐつぐつと煮えはじめている。ファドは、椅子の上でしっぽを振りながら、待ちきれない様子だった。「ねえロホ、今日のご飯、絶対おいしいよね!?」ロホは、ほんのすこしだけ、目尻を和らげた。「……まあ、期待していい。」広間には、湯気と、脂の甘い香りが立ちこめる。 出来上がった料理は厚切りのステーキにビーフシチュー。ロホは迷わず葡萄酒を注文した。ファドがステーキに夢中になってかぶりつく。旅の途中、ほんのひとときの、ささやかな贅沢。ロホは、空になった鞄を椅子に掛けると、何も言わず、テーブルに手をついた。静かに、しかし確かに、今日という一日を生き延びたことを、かみしめるために。ファドは、宿屋のロビーでくるくると回っている。「ロホ~!早くあったかいお
その日は、小さな村に向かう途中の谷で野営していた。食料は底をつき、保存していた干し肉も、ぺガスの鞍袋で粉のようになっていた。ファドの尻尾が、くぅとしおれた。「……お腹、鳴った……」ロホは、無言で弓を取った。矢筒を背に、ぺガスを休ませ、草を踏まず、音を立てずに森の奥へと入っていく。森の空気は冷たく、静かだった。ロホは木々の間に身を潜め、足跡と風の匂いをたどる。やがて見つけたのは、小さな群れから外れた一頭の鹿だった。角の欠けた若い雄。傷を負っている。いずれ群れには戻れまい。ロホは、弓を引いた。けれど、その矢を放つ前に――鹿と、目が合った。一瞬。そのまなざしに、ロホは息を飲んだ。恐れではない。憎しみでもない。ただ、「知っている」という目。生きることと、死ぬことと。それを、この鹿は受け入れている。ロホは、矢を放った。心臓を外さず、苦しませることなく、静かに、確実に命を奪う。鹿は、音も立てずに崩れ落ちた。ロホは、近づき、地に膝をついた。そして――目を閉じて、祈った。「いただきます。あなたの命で、私たちはまた歩けます。」「この命、無駄にはしません。」やがて、ファドとぺガスがやってきた。ファドは、鹿の姿を見て、黙って座った。ロホは手早く解体し、必要な肉を切り出すと、骨のいくつかは丁寧に包んだ。その夜、焚火の上で鹿肉が香ばしく焼けていた。ファドは夢中で頬張り、ぺガスも耳をぴくりと動かしていた。ロホは、焼きあがった最後の一切れを手にし、それを火にかざした。そして、ぽつりと呟いた。「……あなたのこと、忘れません。」翌朝、ロホは残った骨を、小さな石の祠に埋めた。その上に、一輪の野花を添える。旅人には通じぬ儀式。でも、それがロホのやり方だった。ファドが聞いた。「ロホ、あの鹿に話しかけたの?」ロホは、空を見上げて答えた。「……話しかけたんじゃない。聞かせたの。」「ありがとう、って。」命を奪うたびに、彼女は生きることの重さを抱え直す。それが、歩き続ける者の“狩り”。生きるために殺し、殺すことで、生きることを、ますます大切にする――ロホの狩りは、いつも祈りに似ていた。
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