“ロホ”と呼ばれる女性は、世界のどこにも属さない流浪の魔法戦士。 長い銀髪、翠の瞳。腰に剣と小剣、背に弓。編み込まれた髪には刃を忍ばせ、 そして――自らの命を触媒に、火・水・風・土を操る“原初の魔法”を使う者。 彼女の運命はただ一つ。 「歩き続けること」――その理由も、終わりも語らぬまま。 相棒は、翼を持つ小さな竜の子・ファド。 さらに、ペガサスのような白馬・ペガス。 一人と一匹と一頭は、荒れた地、戦争の跡、まだ癒えぬ街を旅し続ける。
View More雪が舞っていた。「ロホ!もう少しで町だよー!」
前を飛ぶ小さなドラゴンがくるくると宙を回る。だが、その羽ばたきも少し重たそうだった。ロホと呼ばれた女性は 「……飛ばなくていい。疲れるから歩きなさい、ファド」 「えー、でも、空のほうが見通し良いんだもん」 「おまえの羽、濡れてる。羽風で雪を巻き込んでるよ。歩く方が賢明」 「……はーい……」 不服そうにファドと呼ばれたドラゴンがロホの肩に乗った。流麗な白い鬣を持つ馬は鼻をふん、と鳴らして雪を蹴る。細い道を縫うように進むぺガスの背中で、ロホは空を見上げた。空は白く、どこまでも遠かった。
銀髪は腰まで伸び、今日は気まぐれに編み込んである。翠の瞳の奥に炎のような静けさを宿し、ロホは雪を踏みしめていた。左に剣、右に小剣、太ももにはナイフ。背には弓。フードを被り皮鎧とローブを重ね、常に“戦い”と“日常”の狭間にいる魔法戦士。 その隣を、翼を小刻みに揺らしながら飛ぶのはドラゴンの子供・ファド。中型犬ほどの体躯で、おしゃべりといたずらが大好きな旅の相棒。 そして、ロホの背に静かに寄り添うのは、流麗な白い鬣を持つ馬――ぺガス。言葉は話さないが、その瞳と言動で十分すぎるほど意志が伝わる、誇り高き旅の仲間。 「私がその人に出会ったのは、その町に入ってすぐのことです」その町の名前は「カイレ」。 雪と霧に包まれる、小さな谷間の町だった。
町の宿屋は古びていたが、火の温もりがあった。
「……いらっしゃいませ。雪の旅、お疲れ様でした」 出迎えたのは、まだ十にも満たない少女だった。母親は病気らしく、代わりに受付をしているのだという。名をティレといった。 「お客様申し訳ございませんが、お馬のほうはご自身で小屋につないでいただけますでしょうか、一人しかいないので・・・」 ロホは頷きペガスを馬小屋に連れていき、まぐさもたっぷり与えた。 「宿、空いてる?後お風呂も・・・」 ロホの問いに、ティレはこくりと頷く。 「一番奥の部屋です。……あの……ローブ、濡れてます」 「ありがとう。でも乾かすから、大丈夫」 ファドはストーブの前で大の字になって伸びていた。 「天国ぅ……」 「……こいつ、火があるといつもこうなるんだよね」「……ふぅ……」
宿の共同浴場に音を立てず湯に沈む、湯殿にはロホしかおらず足を伸ばし、腕を伸ばして伸びをする。 湯気が舞い、ローブを脱いだロホの背があらわになる。 背筋はすらりと伸び、傷跡ひとつないように見えるが、その皮膚の奥には深い年月が刻まれている。 静かな湯音だけが、時を刻む。 ファドとぺガスは厩舎とストーブの近くでくつろぎ中。 今夜は誰にも邪魔されない── 湯から上がると、ティレが洗濯したローブをすでに干してくれていた。 気が利くどころではない。彼女の働きぶりは、大人顔負けだ。 「……ありがとう。早かったね」 「火のそばに干したから……あと、あったかいごはん、作ったんです。お口に合うかわからないけど……」 テーブルの上に並べられていたのは、この町の地のもの尽くしの料理だった。 • 雪下人参と鹿のシチュー • 干し魚の炙りに、山菜の酢漬け • 粟と蕎麦の雑炊風の一品 • そして、何より目を引いたのは── 「これは……?」 「ヤマリンドウのジャムを、麦粉のパンに……寒い時期にだけとれる、ちょっと甘酸っぱいの。お母さんのレシピで……」 ロホは、無言で一口。 「……」 咀嚼し、味を噛みしめる。 「──やさしい味だ」 ティレの顔がぱっと明るくなる。 「本当? 本当に? よかったぁ……!」 「お母さんの味、なんだね」 「うん。お母さん、あんまり起きられないけど、レシピだけはたくさん残してくれてて……。あたし、それを覚えようと思って」 ロホは、ふと視線を落とす。 誰もいないはずの食卓で、誰かの存在が残っている──そんな温もりに包まれていた。 「……おいしかったよ。ちゃんと、“届いた”。この料理」 「……へへへ……!」 ティレの頬は赤らみ、少し涙がにじんでいた。その後ロホは一人、町の外れに足を運んだ。
雪の積もる丘に、木の十字架が並んでいた。 「墓地……?」 「この町、三年前に疫病で多くの人を失ったの」 声がして振り返ると、ティレがいた。手には小さなランタンを持っている。 「私のお父さんも、兄さんも、ここに……。それ以来、お母さんも体が弱くなっちゃって」 「……」 ロホは黙って雪の地面を見つめた。 「でも、お姉さんは旅をしてるんだよね? いいなぁ。私もいつか、外の世界を見てみたいなぁ」 「それは簡単なことじゃない」 「わかってる。……でも、今の毎日が変わらないまま終わっちゃうのも、ちょっと、怖い」 ロホは空を見上げた。 雪の夜空には、ひときわ強く光る星が一つあった。 「ティレ、空を見なさい」 「うん」 「人は上を向ける。どんなに足元が泥だらけでも、どんなに涙で顔がぐしゃぐしゃでも、上を見ることはできる。だから、歩ける」 ロホはそう言って、ティレの頭をそっと撫でた。宿の奥の部屋に、ぱちぱちと薪の爆ぜる音が静かに響いていた。
ストーブのそばで、ファドが丸くなって眠っている。 ベッドに横たわるティレの母は、浅く弱々しい息をしていた。 ロホはその隣に膝をつき、そっと手を額に当てた。 ……体は冷えている。だが、それは病の根だ。 彼女の魔法では――治せない。 ティレは毛布の中から顔を覗かせ、ぽつりと聞いた。 「……もし、お母さんが死んだら……あたし、どうなるのかな……」 ロホは答えなかった。 言葉を選ぶ時間は、残されていなかった。 ただ暖炉の火を見つめ、その小さな炎のゆらぎに、意志を込めた。 夜が明けた。 ロホは早朝の誰もいない台所で、ゆっくりと膝をつくと、土間の中心に手をかざした。 そこに、小さな火の種を生み出した。 拳ほどの大きさの、ゆらめく“炎の種”。 触れても熱くない。だが、確かに温かい。 風にも消えず、薪が尽きても灯り続ける、小さな命の光。 それは元素操作による“火”の魔法。 けれど、それは攻撃でも、照明でもない。 「これは……灯(ひ)だ」 そうロホは心の中でつぶやく。 “誰かの命が消えぬように”と、願いを込めた魔法。 ロホはそれだけを残し、部屋を出た。 支度を終え、ペガスの鞍に手をかける。 「ロホさん、行っちゃうの……?」 小さな声に振り返ると、ティレが玄関でじっと見つめていた。 「……お母さん、まだ苦しそうだよ……でも、昨日より……少し、あったかい気がするの、あとこれお弁当です。ヤマリンドウのジャムを麦粉のパンに挟んだサンドイッチ」 ロホは優しく頷き、こう告げた。 「寒さには負けない。そう願えば」 そう言って、ロホは再び旅立った。 歩き出すその背に、ティレは小さく手を振る。 「ありがとう……ロホさん!」 雪はまだ降っていた。 けれど、その町には、小さな光が灯っていた。ぺガスの蹄が、凍った地面を静かに打つ。
ロホは口の中で、かすかに呟いた。 「……願わくば、この町に次の春が来るように」 「ゆっくりでもかまいません、前に」 町を離れる白い影は、雪の丘を超え、また歩き出した。雪が深くなる山道の中腹。
白の景色の中に、ほんのわずか――“動いたもの”があった。 ロホはすぐに気配を察知し、低く告げた。 「……ファド、上」 「わっ、見つけた!? うわああっ、矢ッ!」 叫びと同時に、崖の上から飛び出してくる影。 毛皮に身を包んだ伏兵たちが、雪を蹴立てて襲いかかってくる。 「白い雪に白い服って、目立たないからって……こっちは馬がいるんだぞバーカ!」 ファドが吠え、ロホの頭上を跳ねるように飛びながら視線を釘付けにする。 ぺガスは、ロホの背に身を寄せるように滑らかに身を翻し、その巨体で斜面を塞いだ。 彼女は剣を抜いた。左手に握られた剣が、低く唸る。 ――一瞬の静寂。 そこから、雪が跳ね上がるようにして、戦が始まった。ロホの剣が、迫る山賊の刃を受ける。
反対の手には短剣――敵の腹を横に切り裂き、流れるように続く。 飛んできた投げ矢を、懐から取り出した短剣で受け流し、逆手にそのまま投擲。 短く鋭い音を立てて、敵の肩を貫く。 戦場に無駄はない。動きの一つ一つが、積み上げた修羅場の記憶だった。一方――ファド
おいおいおい! なんでオレが“囮”!? いやまぁ確かに飛べるし、炎もちょっと出せるし、可愛いし強いけど…… って、うわあっ!? また来た!何人いるんだよこの山! ファドはぐんと地を蹴り、斜面に咆哮を響かせた。 その小さな咆哮が、木々に積もった雪を揺らす。 ずしん――という音と共に、小規模な雪崩が起こる。 見たか!? これが“力学の応用”ってやつだよ!さすがドラゴン、頭いい~! ……って、噛みついたら「やめなさい」って怒るくせに、今は褒めてよ、ロホ!剣戟と咆哮のわずか数分――
戦闘は、短く、しかし鋭く、終わった。 血に染まる雪を踏み越え、ロホは最後の敵の前に立つ。 剣を収めず、静かに言った。 「人の弱みに付け込んで生きるな」 言葉よりも、瞳が全てを語っていた。 剣を鞘に戻すと、ぺガスが鼻を鳴らし、ふんと前足で雪を強く踏みしめた。 ロホは小声で呟く。 「朽ち果てなさい、誰にも知られずに」 白の静寂が、再び支配する。次に進むとき、またあの言葉が頭に浮かぶ。
「倒すだけじゃダメ。全員、仕留めないと」 それは冷酷ではない。 それが“誰かを守る側”としての、ロホの覚悟。全員仕留めなければ次の犠牲者が出るだけ。 そして、ファドの声が聞こえてきた。 「なあロホ……今日のオレ、けっこう頑張ったよね? ご褒美って、あるの?」 ロホは笑わない。けれど、その無言のまなざしには、“ご褒美以上”の信頼がこもっていた。 雪の中に、血の跡だけが残っていた。 白は静かに赤を包み、やがてその痕跡さえ、風に消えていく。 ぺガスは前足で雪をならし、ファドは木の陰でぶるぶると体を揺すっていた。 だが、ロホだけは動かず、山賊たちが崖を転げ落ちた方向を、ずっと見つめていた。 誰もが沈黙していた。 だから、ロホは自分の心の声に――耳を傾けた。ロホが崖下を見下ろすと、雪の斜面にはわずかながら、赤と黒の影が散らばっていた。
「……下に降りる」 ファドとペガスを待機させ、ロホは慎重に斜面を降りていく。 崖下のくぼみに、粗末な天幕がひとつ――山賊たちの仮設の野営地だった。 中には、干し肉と酒瓶、そして…くたびれた絵本が一冊だけ、炭袋の横に置かれていた。 ロホは、ふと立ち止まり、それを手に取る。 表紙は剥がれ、ページは濡れてふやけている。 だが中には、幼い筆致でなぐり書きされた言葉が、かろうじて残っていた。 「父ちゃん、帰ってきたらまたこれよんでね」 「あかりをけさないでね」 「さむくないようにしてね」 ロホの指先が、ほんの一瞬、止まった。 そして、そっとその本を天幕の中に戻す。 「……そう」 雪の音だけが、辺りを包んでいた。 「“誰かの父”だったかもしれないのね」 声は出さず、ただ心の中で告げる。 剣を握るということは、誰かの何かを奪うこと。 そしてそれは、己の命をも刻むこと。 やむを得ず奪うことを選んだのか安易に選んだのかはロホには分からない。 ロホは、雪をかぶせるようにして天幕を覆い、ひとつ深く息を吐いた。ぺガスが静かに寄ってくる。
ファドが、不安げにロホの顔を覗き込む。 「……大丈夫、ロホ?」 ロホは首を振り、ただ短く告げた。 「行こう。“あの町”の上空に、まだ火は灯っているから」 ふたりと一頭は、再び北へと進み出す。 木々の間から、薄日が差し込む。 雪にわずかに反射して、まるで“灯”のように見えた。 ファドが、そっと聞く。 「ねぇロホ……“火”ってさ、どこまで届くの?」 ロホは答えず、ただ歩き続けた。 けれどその背中には、確かに“消えない灯”が揺れていた。ティレは、目を覚ました。
朝の光が差し込む部屋。 静かに燃える薪ストーブ。 そして、ロホが残した“灯”の魔法が、まだ淡くゆらめいていた。 「……あったかい」 枕元の母が、微かに咳をして、唇を動かした。 「……ティレ……、ありがとう……あたたかいわね……」 その声を聞いた瞬間、ティレの目に、涙が浮かんだ。 そして彼女は小さく、つぶやいた。 「ロホさん……あなたは、神様じゃなくて、火のひと」 そう言って、胸元のペンダントに触れる。 そこには、小さなヤマリンドウの花びらが一片、押し花にしてあった。ロホはそっと、剣の柄に指を沿わせた。
「わたしが憎むのは、剣を抜かせる“状況”そのもの。欲望や暴力よりも、“無関心”が生む凍てついた社会のほう」 そして、小さく呟く。 「……少し、歩こう」 その言葉で、ファドがぴょこっと顔を上げた。 ぺガスが雪を蹴り、ロホの傍へ歩み寄る。 白に染まる山道は、まだ続いている。 だが、そこにはもう、誰の足跡もなかった。 ロホはまた、歩き出す。 その背に残った静けさは、 誰かの祈りのように、雪の中に溶けていった。雪山を越えたその先に、また別の町が見えてくる。
ロホはふと、昨夜のティレの言葉を思い出す。 「迷宮都市に行きたい」 「……叶えばいい」夜は、深かった。焚火の火はとうに絶え、星明りだけが、ひっそりと野を照らしていた。ファドは、丸くなって夢の中。ぺガスも、微かな寝息を立てている。ロホは一人、空を仰いでいた。剣も、弓も、ローブも――すべてを地に下ろし、ただ素の自分で、静かに座っていた。誰も聞いていない。だから、ロホはそっと呟く。「……私が歩くのはね。」「旅が好きだからじゃない。自由だからでもない。」「――贖罪なの。」空は答えない。ただ、凍てつくほど静かだった。ロホは、自分の手を見下ろした。細く、しなやかで、幾千の命を救い、また奪った手。「……はるか昔。私は、初めてこの地に、“争い”をもたらした。」「理由なんて、今となっては、どうでもいい。」「知らなかったから?間違っていたから?誰かを守りたかったから?」ロホは、かすかに首を振った。「結果が、すべてよ。」彼女は、目を閉じた。まぶたの裏に、幾千幾万の火と血と、泣き叫ぶ声が蘇る。忘れたくても、忘れられない。赦されなくても、仕方ない。だから。だから――「私は、赦しを求めない。」「ただ、歩く。世界が、戦いを手放すその日まで。」少し、風が吹いた。ロホは、そっと笑った。「……ずっと先のことだろうね。」「それでも、歩く。」「それしか、できないから。」ファドが寝返りを打き、ぺガスが鼻をふん、と鳴らす。その気配に、ロホは目を細めた。そうだ。たとえ永遠の籠に囚われていても、今、ここに、隣で眠る者たちがいる。それだけで、今日という一日は――少しだけ、救われている。ロホは立ち上がり、剣を腰に戻し、ローブを翻した。そしてまた、誰も知らない夜道を、歩き出す。「私は、歩き続ける者。それだけが、私に許された、生き方。」
その街には、妙に評判の良い宿があった。「サービスが良すぎる」「料理が贅沢すぎる」「値段は安すぎる」──そんな噂が旅人たちの間でささやかれていた。ある日、一人の若い旅商人がその宿に泊まった。白髪混じりの宿主が笑顔で迎え、上等な部屋へと案内する。そして夜半、彼は静かに消えた。翌朝、荷物も衣服も残された部屋に、旅商人の姿はなかった。「夜のうちに出て行かれたのでしょう」宿の者は、そう言って笑った。だが、真実を知る者はいなかった。……彼は“狩られた”のだった。私がその宿に入ったのは、数日後のことです。旅の途中、山あいの街に立ち寄ったロホとファドは、妙に丁寧な応対を受けた。「旅人様には特別に、上質な部屋と夕餉を」「ええと、これ……一泊でいいのよね?」とロホ。宿の者はにこやかに笑い、「もちろんです」と応える。温泉、食事、部屋……どれも豪勢すぎた。ファドがそっと呟く。「ロホ……この宿、変だよ。よすぎるもん。」ロホは湯気の立つ茶を飲みながら答えた。「わかってる。……何かが“こちらを試してる”」その夜、静けさが深くなったとき、宿の裏手で“何か”が動いた気配がした。翌朝、ロホが外へ出ると、宿屋の主人が満面の笑みで貴族に金貨の袋を手渡されていた。「良い獲物でございますよ、旦那様。なにせ……筋の通った、美しい女です」貴族たちはくすくすと下品に笑い、袋を揺らす音を楽しむように聞いた。ロホが近づき、低い声で抗議した。「こんなこと……いずれ露見する。法も秩序もないのか」貴族の一人が鼻で笑う。「ここは私有地だよ。お嬢さん」「外の世界の常識など通用しない」「さあ、森へ行こうか。きみの“逃げ道”は、用意してある」兵士たちに武器を取り上げられ、ロホは丸腰で森の縁へと押し出された。背後では、貴族たちが笑いながら下劣な言葉を投げ合っていた。「腰を抜かせてやるのが楽しみだ」「あの気位の高さを、どこまで砕けるか……」彼らの笑い声が、森の奥に響いていた。森へ入ってすぐ、空気が変わった。ロホは立ち止まり、空を仰ぐように目を閉じて呟いた。「……これは、私を怒らせる遊びだったのね」最初の矢が放たれるより早く、ロホの姿が森に溶けた。一人の貴族が弓を構えるより先に、背後から音もなく襲われる。ロホはその男を無言で倒し、弓と短剣を奪った。そこから
旅の途中、森を抜けた先の、緩やかな丘のふもとに、一軒の小さな小屋があった。木の壁は少し傾き、屋根は草に覆われ、それでも扉には、きれいな布が結ばれていた。ロホはぺガスを降り、慎重に扉を押してみる。きい、と優しい音を立てて扉が開くと、中には──台の上に整然と並ぶ、干し肉、保存用の野菜、果物、そして旅に必要な小物たち。そして台の端には、木の板。素朴な文字で、こう書かれていた。【ご自由にどうぞ。代金は箱へ。】横には、小さな木箱が置かれ、錠も、鎖も、なにもなかった。ファドが目を丸くする。「えっ!?こんなとこに置いといたら、盗まれちゃうよ!」ぺガスも鼻をひくつかせ、不思議そうに覗き込んでいる。ロホは、しばらく台と箱を見つめ、ふっと笑った。そして珍しく、少し興奮した声で言った。「……すばらしいわ」「箱に嘘を言う必要がないなんて──こんな奇跡、滅多にないわ」ロホは、干し肉と林檎、そして小さな水袋を選んだ。代金をきちんと木箱に入れ、手のひらをそっと箱に重ねる。「どうか、この善意が、少しでも長く続きますように」ファドが首をかしげて尋ねる。「でも、もし誰かが全部盗ったら?」ロホは笑って肩をすくめた。「盗む人もいるかもしれない。でも、ここには“信じようとする人”がいた。それだけで、十分よ」ロホは、小さく、でも確かに微笑んでいた。ロホが干し肉と林檎を袋に詰め、木箱に代金を収めていたとき。ぎぃ、と小屋の裏手の扉が開き、一人の男が現れた。年の頃は四十を過ぎた辺り。日に焼けた顔に、優しい笑みを浮かべた旅人のような男だった。男は、背中に担いだ籠から、新しい野菜や、編み籠に入った果物を台に並べ始めた。ロホは静かに見守っていた。ふと、男がこちらに気づく。そして、にこにこと笑って言った。「おっ、いいとこ来たね。取り立ての林檎と麦だ。よかったら、どうだい?」そう言って、まだ朝露のついた林檎を差し出す。ロホは一瞬迷ったが、男の飾り気のない態度に、ふっと微笑んだ。「……では、ありがたく」彼女は手に取った林檎を軽く撫で、それから再び、代金を箱にそっと追加した。男は目を丸くして笑った。「正直者だねぇ。ここ、取っていくだけの奴もいるんだけどさ、それでも俺、続けてるんだ」ロホは林檎を手の中で転がしながら答えた。「……信じるということは、相
「誰も目覚めない村。けれど、誰も死んでもいないというのなら――わたしが、その夢の続きを歩こう」第一幕:白銀の森、沈黙の案内その村へ向かう道は、誰にも教えられなかった。ただ、旅の道中に出会った老婆が、手紙のような語りで言ったのだ。「そこは、冬が続くのよ。春が来ない村。でもね……誰も泣かないの。泣く暇も、ないのかもしれないわね」ファドがひそひそとロホに話す。「ねぇ、嫌な予感しかしない。ほら、“誰も泣かない”とか、“春が来ない”とか、ホラーじゃん。絶対なんか出るでしょ。しかも、雪!」「雪が怖いの?」「いや、雪の中の“静かすぎる場所”が怖いの!」そして、たどり着いたその村は――雪に閉ざされ、音のない、永遠の眠りのような場所だった。第二幕:動かぬ人々、揺れぬ時間村の家々には灯がともり、暖炉の火も燃えていた。鍋の湯もわずかに立ち上っている。しかし、人々は皆、眠ったままだった。老いた者も、子供も、若者も。誰もが、まるで物語の一節で止まった人形のように――呼吸していた。ロホはゆっくりとひざまずき、眠る少女の頬に手を添える。「……生きてる」ファドが言う。「これ、全員が同じ夢見てるとか……?」「それが“誰かの魔法”なら、何かがまだ“生きてる”ってことよ」第三幕:夢の主村の奥、白い教会のような建物に足を踏み入れると、そこにはひとりの“少女”がいた。少女の名は、ソルナ。凍てついた花の上に座り、目を開けたまま、微動だにしない。だが、ロホが近づいたとき――少女の瞳が、こちらを見返した。「あなたは、夢の外から来た人。でも、ここはもう夢になった場所……わたしの、“もう来ない春”なの」少女はかつて、村でただ一人生き残った“魔導の子”だった。冬の凍結病が村を襲ったとき、彼女は魔法で皆を“眠らせる”ことで命を救った。だが、春が来なければ、彼らは目を覚まさない。「私は、起こすことができない。誰かが、続きを歩いてくれないと、私は……ただ、春を待つ人形になる」第四幕:歩く者の祈りロホは、そっと髪を編み込み直す。そして、火のない指先で、空を指し示す。「……冬は、終わらせるものじゃない。“超える”ものよ」彼女は魔法を使う。自らの魔力で、村全体に**“春の幻”**を編み上げる。花が咲き誇る幻影鳥の囀り冷えた空気を包む、微か
「この国のすべてが嘘だとしても――わたしの剣と、歩みだけは、本当でいたいの」第一幕:招かれざる旅人その国の名は――ゼレトリア。大陸の南西、常に霧に包まれた“契約国家”。あらゆる条約、協定、言葉ですら“証文”でなければ意味を持たない。「……この国、やたらサイン求めてこない?」「“旅人歓迎”って言葉も、文書がないと無効なんだって」ファドは目を白黒させる。ロホは警戒を解かず、剣の柄に手を添えたまま、城門をくぐった。その背後で、門番たちはひそひそと話す。「例の“銀の剣”じゃないか……」「証拠は?」「まだ……だが、“本物”なら“試練”を与えられるはずだ」第二幕:祈りを忘れた神殿ロホが立ち寄ったのは、かつて神殿だった建物。しかし今は、ただの“裁判所”として使われている。「神に祈るより、契約に誓え。神託よりも、証拠を」刻まれた言葉に、ロホは眉をひそめる。そこに現れたのは、ゼレトリア宰相補佐ヴェイン。「あなたのような“誓いを持たぬ旅人”には、この国は“危険”です。剣を抜けば罪、黙していても不信。いっそ、あなたも“嘘をつく者”になってみませんか?」ロホは静かに笑う。「……嘘をつくなら、他人のためだけにする」第三幕:偽りの試練ロホには、“過去の経歴調査”と称して、偽の罪が科される。「数年前、ヴァルナ辺境での武装蜂起に関与していた可能性がある。被害者の名は――“リレア・エイル”」その名に、ロホの目が僅かに揺れた。(――リレア。あのとき、確かに私は剣を振るった。でも、彼女は……)ロホは剣を抜かず、裁きの広間で口を開く。「私は、その場にいた。でも、誰も殺していない。その剣は、あくまで“彼女の祈り”を守るために抜いた」「証拠は?」「ないわ。……でも、彼女はこう言った。“この剣が祈りであれば、誰かを救う光になる”と」第四幕:祈りの剣その夜、王宮に火の手が上がる。何者かが反政府組織の名を借りて襲撃したのだ。「――誰かが“嘘の正義”を騙ってる」ロホは単身、城へと駆ける。迷いはない。なぜなら――守るべき言葉があったから。「たとえ嘘の中で死ぬとしても、そのとき“わたしの剣”が、本物だったと信じられるなら、それでいい」剣を抜く。それは祈りのように真っ直ぐだった。最終幕:本当の嘘襲撃者の正体は、ヴェイン自身。この国を
とある東方の交易都市。路地裏に小さく店を構える、異国の武具職人のもとへ、ロホは偶然、足を踏み入れた。壁に並ぶのは、異国の武器たち。見慣れない細身の剣、湾曲した刃、短く美しい脇差し。その中で──ひときわ静かに、しかし不思議な存在感を放つ一本があった。白鞘に収められた、一本の──刀。ロホは、その刀に近づく。指先をそっと鞘に添え、静かに引き抜くと──細身で、美しくわずかに反った刃が、月光を受けて淡く輝いた。すう、と息を呑む。刃が鳴った。わずかに、まるで歌うように、空気を震わせた。ロホは、その瞬間、心のどこかで確信した。「──これは、“生きる”ための刃だ。」豪奢でもない。威圧でもない。ただ、一振り、一閃のなかに、生きるか死ぬかの覚悟だけが込められていた。ファドがそっと囁く。「ロホ……それ、好きなんだね。」ロホは、目を細めたまま答える。「……この刃は、無駄がない。 “必要なもの”だけを、研ぎ澄ました形。」彼女の声は、いつになく、優しかった。店主が、にこりと笑う。「それは、東の国で“刀”と呼ばれるものです。切る突く叩くが全て出来る命を断ち、命を守るためだけに、形を磨いた武器。」「一本を持った者は、何百の兵にも劣らぬと──そんなふうにも言われます。」ロホは、静かに刀を鞘に戻し、礼をして返した。そして、ぽつりと呟いた。「……いつか、これを手にする日が来るかしら。」ファドが笑う。「ロホが持ったら、また無敵になっちゃうね!」ロホも、少しだけ、肩を揺らして笑った。刀はまだ、彼女の手にはない。だが。心の奥深く、一本の刃が、静かに根を下ろした。それは、冬の終わりを告げる冷たい風が吹く頃だった。ロホは、東の山中、人里離れた小さな庵を訪れた。庵には、世にも名高い刀匠が住んでいるという。ただし、彼は気に入った者にしか刀を打たない。それも、金や名誉には一切動かないと噂されていた。戸を叩くと、中から現れたのは、白髪の老人だった。だがその目は、鋼のように研ぎ澄まされ、一瞬で人の芯を見抜く光を宿していた。老人は、ロホをじっと見つめると、ふっと笑った。「……ねぇさん。あんた、相当修羅場をくぐってきたね。」「しかも──やむを得ず、な。」ロホは、一瞬、身構えかけた。この世界において、ここまで深く、自分の“傷”を見抜い
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