LOGINフロアのあちこちで、PCの電源が落とされる音が響く。窓の外はもう濃い藍色に染まり始めていた。美桜は一つ小さく息を吸い込むと、まだデスクに向かっている陽斗の背中へと歩み寄った。
どう切り出そうか。考えがまとまらないまま、彼のデスクの横に立つ。その背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
「一条君」
美桜は自分の声が、少しだけ上ずったように聞こえた。
陽斗はすぐには振り返らなかった。画面をじっと見つめたまま、数秒の間がある。「……はい?」
顔を上げた表情は、仕事モードの硬さと一人きりの時に見せる物憂げな影が残っていた。
しかし美桜の顔をはっきりと認識した瞬間、彼の雰囲気がふわりと変わる。まるでスイッチが入ったように、翳りがすっと消え去って、美桜がよく知る人懐っこい大型犬のような笑顔がぱっと咲いた。「先輩、お疲れ様です。どうかしましたか?」
見事な切り替わりに一瞬言葉を詰まらせながらも、美桜は本題を切り出した。
「あのね、今週末もしよかったら……」
そこまで言いかけた時、陽斗は言葉を遮るように、にこりと笑った。
「先輩! 俺も今、同じこと考えてました。先輩、最近またすごく頑張ってるから、お疲れでしょう。だから今度の週末、俺が先輩の家に行って、晩ごはん作りますよ。特製のオムライスです」
「え? 私の家に?」
予想外の言葉と心を読まれたようなタイミングに、美桜は固まる。
陽斗は少し照れながらも、まっすぐに美桜を見ていた。「はい。いつも先輩には助けてもらってばかりだから、たまには俺が先輩を甘やかしたいんです」
真剣な眼差し。ひたむきな優しさ。美桜はもう断ることなどできなかった。
「……わかったわ。じゃあ、待ってる」
戸惑いながらも頷くと、陽斗は心の底から嬉しそうに顔を綻ばせた。
◇ 週末のスーパーは、家族連れの賑やかな声で満ちていた。美桜が入口で辺りを見回す「美味しい」 思わず笑みがこぼれる。その笑顔を見て、陽斗の顔が満足そうに緩んだ。 クライマックスは、卵を焼く工程だ。陽斗はフライパンを巧みに操り、プロ顔負けの半熟とろとろの卵を、鮮やかな手つきで作り上げていく。真剣な横顔と普段の彼とのギャップに、美桜は知らず知らずのうちに見とれていた。 出来上がったオムライスに、陽斗はケチャップで何かを書き始める。『いつもありがとう』という言葉と、少しだけ歪んだ温かい笑顔のマークだった。 ダイニングテーブルで、二人は向かい合って座る。「いただきます」 手を合わせてから、美桜はスプーンをオムライスに入れた。ふわふわ、とろとろの卵の中から、湯気の立つチキンライスが現れる。 一口食べて、優しい味に目を見開いた。(美味しい……。ただ美味しいだけじゃない。陽斗君の優しさが、全部詰まっているみたい)「とっても美味しいわ。陽斗君が料理上手で、びっくりしちゃった」「先輩に喜んでもらえて、俺も嬉しいです。これからは男も料理ができないと、だめですからね。練習したんですよ」 食事の間、不思議と仕事のことは一切頭に浮かばなかった。「あの最後の逆転トライ、すごかったですよね! 残り30秒で、あそこから繋いでいくなんて。俺、興奮して声、枯れちゃいましたよ!」 陽斗はスプーンを握りしめて、身振り手振りを交えながらラグビーの試合の興奮を熱っぽく語る。少年のような姿に、美桜は自然と引き込まれていた。「あのミステリー作家の新作、もう読みましたか?」 という彼の問いかけからは、思いがけず共通の趣味が見つかった。「もちろん! 私は特に初期の作品の、あの叙述トリックが好きで……」「え、先輩もですか。俺もです! あの最後の一行で、世界が全部ひっくり返る感じ、たまらないですよね!」 目を輝かせて同意する彼に、美桜も熱を帯びて語り返す。(翔といる時は、いつも仕事の話か、自慢話ばかりだった。こんなふうに同じものを見て、同じ
「野菜を見に行きましょうか。今日の主役ですから」 彼はごく自然に野菜コーナーへと美桜を促すと、山と積まれた玉ねぎの中から、慣れた手つきでいくつかを手に取った。「陽斗君、なんだか手際がいいのね」 感心する美桜に、彼は少し得意げに笑いかける。「良い玉ねぎは、ずっしり重くて硬いのがいいんですよ。あと、芽が出てないやつですね」 陽斗は一つひとつ重さを確かめて、表面に傷がないかを入念にチェックしている。その目は真剣そのものだ。(いつもは少し子供っぽいところもあるのに……) 鶏肉コーナーへ移動すると、彼は「オムライスにはやっぱりもも肉ですよね」と言いながら、パックをいくつか見比べ始めた。肉の色つや、パックの底に溜まった水分の量。その視線は、まるで目利きの料理人のようだ。 陽斗の知らない一面に触れた気がして、美桜の心臓が小さく音を立てた。「陽斗君、なんだか手際がいいのね」 美桜が感心して言うと、陽斗は少し笑う。「昔、ちょっとだけ洋食屋でバイトしてたことがあるんです」 軽く誤魔化すような調子に美桜は首を傾げたが、それ以上は気にしなかった。 会計の際、陽斗は美桜が財布を出すより早く、自分のスマートフォンで決済を済ませてしまう。「あ、私が払うのに」 恐縮する美桜に、彼は悪戯っぽく笑いかける。「これは俺から先輩への『元気回復プロジェクト』への投資なんで。経費ですよ、経費」「あはは。なにそれ」(本当は私が陽斗君を元気づけたかったのにね。あべこべになってしまったわ) 美桜は内心で苦笑しながら、帰路についた。◇ 美桜の部屋のキッチンは、一人暮らし用で決して広くはない。そこに陽斗と二人で立つと、肩が触れ合いそうな距離になる。 陽斗は持参したシンプルな黒いエプロンを手際よく身につける。買ってきた食材を冷蔵庫にしまい始めた。淀みない動きに、美桜はただ見ていることしかできない。「先輩は卵を溶いて
フロアのあちこちで、PCの電源が落とされる音が響く。窓の外はもう濃い藍色に染まり始めていた。美桜は一つ小さく息を吸い込むと、まだデスクに向かっている陽斗の背中へと歩み寄った。 どう切り出そうか。考えがまとまらないまま、彼のデスクの横に立つ。その背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。「一条君」 美桜は自分の声が、少しだけ上ずったように聞こえた。 陽斗はすぐには振り返らなかった。画面をじっと見つめたまま、数秒の間がある。「……はい?」 顔を上げた表情は、仕事モードの硬さと一人きりの時に見せる物憂げな影が残っていた。 しかし美桜の顔をはっきりと認識した瞬間、彼の雰囲気がふわりと変わる。まるでスイッチが入ったように、翳りがすっと消え去って、美桜がよく知る人懐っこい大型犬のような笑顔がぱっと咲いた。「先輩、お疲れ様です。どうかしましたか?」 見事な切り替わりに一瞬言葉を詰まらせながらも、美桜は本題を切り出した。「あのね、今週末もしよかったら……」 そこまで言いかけた時、陽斗は言葉を遮るように、にこりと笑った。「先輩! 俺も今、同じこと考えてました。先輩、最近またすごく頑張ってるから、お疲れでしょう。だから今度の週末、俺が先輩の家に行って、晩ごはん作りますよ。特製のオムライスです」「え? 私の家に?」 予想外の言葉と心を読まれたようなタイミングに、美桜は固まる。 陽斗は少し照れながらも、まっすぐに美桜を見ていた。「はい。いつも先輩には助けてもらってばかりだから、たまには俺が先輩を甘やかしたいんです」 真剣な眼差し。ひたむきな優しさ。美桜はもう断ることなどできなかった。「……わかったわ。じゃあ、待ってる」 戸惑いながらも頷くと、陽斗は心の底から嬉しそうに顔を綻ばせた。◇ 週末のスーパーは、家族連れの賑やかな声で満ちていた。美桜が入口で辺りを見回す
クロフト博士との提携やゴーストデータの騒ぎから数週間が経過し、プロジェクトは再び確かな足取りで前進していた。チームに活気が戻り、会議室は建設的な意見が飛び交う熱気に満ちている。 陽斗もサブリーダーとして以前と変わらず、否、それ以上に精力的に働いていた。彼の明るい声と人懐っこい笑顔は、チームの雰囲気を和ませる潤滑油のようだ。 けれど美桜だけが気づいていた。彼がふとした瞬間に見せる、どこか遠くを見つめる目に宿る翳りや、一人でいる時の物憂げな表情に。(クロフト博士の一件。やっぱり、陽斗君は失敗をまだ引きずっているのかもしれない。無理もないわ。『必ず成功させてみせる』って、あんなに自信に満ちていたのに……。プライドをひどく傷つけてしまったのね。初めて味わう大きな敗北だったはずだから) デスクでPCに向かいながら、美桜はプロジェクトルームのガラス壁の向こうにいる陽斗の背中を盗み見る。 陽斗のダメージが、恋のライバルである蒼也に完膚なきまでに負けてしまったせいもあるとは、彼女は気づいていない。(陽斗君はいつも私を支えてくれるけど、彼自身の弱さは決して見せようとしない) 美桜の胸が、ちくりと痛んだ。 チームの輪の中心で笑っている陽斗の顔。けれどその瞳の奥には、一瞬だけ誰もいない場所を見ているような、深い翳りがよぎる。プロジェクトが再び軌道に乗ってから、彼は以前にも増して完璧な「明るい後輩」を演じているように見えた。(私が、彼を傷つけてしまったんだわ……) クロフト博士との一件での敗北は、陽斗のプライドをどれほど傷つけたことだろう。陽斗はいつも美桜を助けて、守ってくれた。その彼が初めて見せた弱さを、美桜はただ見ていることしかできなかった。(今度は私が、彼の力になりたい) 何か声をかけたい。でも、どんな言葉をかければいいのだろう。「頑張って」は、もう十分すぎるほど頑張っている彼には酷な言葉だ。「元気出して」も、今の彼には空々しく響くに違いない。(そうじゃない。言葉じゃなくて) ふと、自分の心が疲弊
それから数日後、陽斗は目当ての資料を探し当てていた。 それは水濡れの後が色濃く残る、日報の束である。当時、日報が書かれた現地で大規模な洪水が起こり、三ツ星商事の施設も浸水したのだ。水濡れはその痕跡だった。 陽斗はかなりの精度で資料を絞り込むことに成功したが、それでもまだかなりの量が目の前に積まれていた。「良くやった、一条君。あとは僕に任せてくれ。自社開発のAIで分析し、内容を精査する」 蒼也はすぐに最新のスキャナを三ツ星商事に送り届けた。 陽斗と美桜、蒼也も含むチームのメンバーが手分けして、資料の山をスキャンしていく。 だが、その結果は思わしくなかった。 蒼也のチームの技術者から「社長、AI-OCRの分析では、エラーが数千件単位で検出されています」という悲観的な報告が上がったのだ。しかし蒼也は、スキャンした資料の一点を鋭い目で見つめていた。「いや、待て」 彼は何か閃いたように、指で顎をなぞる。「人間は、ランダムな間違いは犯さない。間違いには、必ずパターンがある。そう……例えば、水で滲んだ『3』は、『8』に見える可能性がある」 彼の推理は、単なる技術論ではなかった。15年前に、洪水災害の疲労困憊の中でデータを再入力したであろう、名もなき社員の心理状態までを、蒼也は正確に読み解いていた。 そして蒼也は自社の技術者に、的確な指示を飛ばす。「全データの突合分析を中断しろ。AIに新しい命令を与える。『15年前の、この期間のデータに限り、『8』と入力されている数値を、一時的に『3』と仮定して、全体の再計算を実行せよ』と」 技術者たちが、大慌てでコマンドを打ち込む。数秒の沈黙の後、モニターに映し出されたグラフから、異常値を示す赤いグラフだけが、すっと綺麗に消え去った。 ゴーストデータが完全に消滅した瞬間だった。「やった……!」「これで間違いないぞ!」 プロジェクトは最大の危機を脱した。安堵と興奮が、皆の間に流れる。 蒼也は陽斗に向き直った
(諦めるな。どんなに複雑に見える問題も、必ずどこかに綻びがあるはずだ) 彼は紙の資料探しと並行して、AIが検出した「ゴーストデータ」のパターンを、時系列で徹底的に分析し始めた。 画面には過去20年分の物流拠点の在庫データが、グラフとして表示されている。そのほとんどが正常な範囲で上下している中、問題の東南アジア拠点だけが、ある時点を境に毎年、物理的にありえない量の在庫を計上し続けていた。(このグラフの形。ランダムな入力ミスじゃない。まるで心電図にバグが起きたみたいに、一定の法則で、異常値が続いている。これはどこか大元の計算式か、参照データそのものが汚染された証拠だ) 陽斗は、その「異常が始まった時点」を特定するため、さらにデータをさかのぼっていく。 5年前、エラーは存在する。10年前、存在する。14年前、存在する。 そして――。(……15年前) 陽斗の指がぴたりと止まった。 15年前のデータまでは、異常値は存在しない。しかし、14年と364日前のデータから、突如として、あの「ゴースト」が現れている。「先輩」 隣で同じようにデータを分析していた美桜に、彼は声をかけた。「原因が分かりました。このゴーストが生まれたのは、ちょうど15年前の今日です」 彼はPCの画面を美桜に見せる。そこには正常なデータと異常なデータが、くっきりと分かれたグラフが表示されていた。「この日を境に、何かが起きたんです。システムが入れ替わったか、あるいは何か物理的なトラブルがあって、データの入力方法が変わったか……。デジタルで追えるのは、ここまでです。でも答えは、必ずこの『空白の一日』の前後にあるはずです」「……それは」 美桜は、陽斗の鋭い分析に息を呑んだ。何万という数字の羅列の中から、たった一つの「境界線」を見つけ出した、彼の驚異的な集中力と観察力。 陽斗はまっすぐな瞳で、美桜を見つめた。「俺が、その答えを見つけてきます。15年前の、紙の資料の