LOGINデータ改竄(かいざん)事件から数日後、プロジェクトの定例会議が開かれた。
先日の一件で翔は完全に信頼を失って、会議の隅で小さくなっている。玲奈も不機嫌な表情で黙ったままだ。対照的に美桜と陽斗は、困難を共に乗り越えた「相棒」。息ぴったりのコンビとして活躍していた。
美桜は陽斗の隣にいると、不思議と心が落ち着くのを感じる。陽斗も美桜のリーダーとしての成長を、誇らしい気持ちで見守っていた。
会議が終わり、メンバーが席を立ち始める。オンラインで参加していた蒼也が美桜に声をかけた。
「高梨さん、先日のデータ改竄の件、見事だったね。君と一条君の連携は完璧だった。聞いていて、胸がすくようだったよ」
純粋な称賛だった。それから彼は少しだけ、プライベートな響きを声に含ませる。
「それと以前、妹が世話になった件もある。改めて、僕から礼をさせてくれないか。次の戦略について、ランチでもしながら話したい」
蒼也の言葉は業務上の提案と妹の件のお礼という、断りようのない口実だった。
そのやり取りを、陽斗は黙って聞いていた。その横顔は嫉妬を通り越して、「好敵手(ライバル)」の登場を前にした、闘志のようなものが燃えている。彼はもうただの「後輩」ではない。美桜を守り、勝ち取ろうとする一人の男だった。美桜は、蒼也の誘いをプロジェクトのリーダーとして断ることはできない。「はい、ぜひ」と彼女が答えると、モニターの向こうで蒼也が満足げに微笑んだ。
◇ 会議が終わって、美桜と陽斗は営業企画部に戻る。陽斗は何も言わない。沈黙が、彼の複雑な心情を物語っていた。美桜は、改めて自分が置かれている状況を自覚する。
陽斗――絶望のどん底から自分を救い、献身的に支えてくれる、情熱の騎士。
蒼也――自分の才能を認め、対等な立場で新しい世界を見せてくれる、知性の騎士。(私は、どうしたら……)
リーダーとして、一人の女性として、二人の優秀なパートナーからの信頼と好意に、真剣に向き合わなければならない。
いつかは二人のうち(賑やかな週末だったわ。一時はどうなることかと思ったけれど、案外楽しかったかも) 美桜は気持ちを切り替えて、今週もしっかりと仕事をこなした。 今日はプロジェクトの中間報告会が行われている。美桜がリーダーに復帰してから、チームの士気は高く、会議室は前向きな熱気に満ちていた。 オンラインで参加している蒼也のチームの担当者が、AIによる第一次分析の結果をスクリーンに映し出した。「こちらが、北米と欧州の物流ルートの最適化シミュレーション結果です。ご覧の通り、AIの予測に基づけば、年間でおよそ15%のコスト削減が見込めます」「おお……!」 と、会議室から感嘆の声が上がった。プロジェクトは順調な滑り出しを見せている。美桜も安堵の息をついた。 しかし蒼也の部下の表情は、なぜか晴れない。彼は続けた。「ですが一つ、深刻な問題が発見されました。東南アジアの、とある古い物流拠点のデータです。こちらをご覧ください」 スクリーンに、新しいグラフが映し出される。その片隅にありえないほどの異常値を示す、一本だけ突き抜けた棒グラフがあった。「なんだ、あれは」「明らかにおかしいぞ」「どうしてあそこだけ、あんなことに?」 会議室がざわめきに包まれる。蒼也がそのざわめきを制するように、口を開いた。「簡単に言うと、AIが『存在しないはずの大量の在庫』が、この拠点にだけ、毎年必ず出現すると予測している。物理的にありえない。我々はこれを『ゴーストデータ』と呼んでいる。このゴーストの正体を突き止めない限り、AIは学習を誤り、使い物にならなくなる」「何だって……」「AIが使えないんじゃ、このプロジェクトが根底からくつがえるじゃないか」 蒼也の言に、会議室の熱気は急速に冷えていった。プロジェクトが深刻な壁にぶつかった瞬間だった。 重苦しい沈黙を破ったのは、翔である。彼は腕を組み、これ見よがしに大きなため息をついてみせる。「なるほどな。やはり最新技術というのは、こういう『想
美桜の隣には陽斗と蒼也。少し後ろに彩花。 そして、正面には翔と玲奈。 まったくもって、誰も望んでいないメンバーである。 事情が分からない彩花以外は、全員が嫌そうな顔をしていた。 6人は道の真ん中で固まる。数秒間、何とも言えない気まずい沈黙が流れた。 沈黙を破ったのは、翔だった。彼は美桜の隣に立つ陽斗と蒼也を値踏みするように見ると、わざとらしく大きな声で言う。「なんだ、美桜。ずいぶん趣味が変わったじゃないか。今度はガキと、ひょろっとした優男か? 俺みたいな大人の男が、恋しくなってるよなぁ?」 蒼也はプロジェクトの協業先の社長だが、もう後のない翔は体面を取り繕うことすらしない。 子供じみた悪意をむき出しにしている。「あらー、先輩。そのワンピース、去年のセール品じゃありませんか? 翔さんと釣り合うには、もうちょっと自分に投資しないとダメですよ? もう若くないんだから、自分磨きをしないと!」 玲奈も品定めするような視線で、勝ち誇ったように言った。 陽斗が怒りで顔をこわばらせ、一歩前に出ようとする。美桜がそっと彼の腕を掴んで制止する横で、蒼也は全く動じず、まるで道端の石でも見るかのに無表情で二人を見ている。「美桜さん」 彩花が隣にやってきて、ひそひそと言った。「あの人たち、誰ですか? めちゃくちゃ感じ悪いんですけど」「あ~……」 美桜はげんなりとした様子で答えた。「私の元彼と、別れる原因になった浮気相手」「うげ! 浮気とか、最低!」 彩花は思わずといった感じで、大きな声を出した。道行く人がちらちらと見ている。「浮気して別れておいて、こうやって突っかかってくるんですか? やだ、必死。一周回って面白いですね!」 そして翔と玲奈に向かって、にっこりと笑顔を向ける。「初めまして! いつも美桜さんがお世話になっているそうで。それにしてもお二人って、見ていてすごく痛々しいカップルですね。お似合いです! 応援してます!」
「三ツ星商事に入社希望を決めたのは、理念に共感したからです」 彩花が言う。「特にホームページに掲載されていた、一条社長の言葉に感銘を受けました。総合商社として物流を担い、世界各地をネットワークを結ぶことで、社会の課題に貢献していく……というものです」「あー、そんなことも言っていたなぁ」 陽斗が軽く笑うと、美桜は眉をしかめた。「またそんな言い方をして。社長を無条件で敬えとは言わないけれど、あまり失礼な態度を取っては駄目よ」「陽斗さんは不思議な人ですね。あれ、陽斗さんの名前も『一条』でしたっけ。まさか社長の親戚とか……?」 彩花の言葉に、陽斗は慌てて手を振った。「ないない。たまたまだよ。そこまで珍しい苗字でもないし」「それもそうですね」 彩花が頷いて、蒼也は少し複雑そうな目で陽斗を眺めた。 4人と1匹の午後は、ぎこちないながらも案外楽しく過ぎていく。彩花が、探るような目で陽斗に話しかけた。「陽斗さんって、かっこいいですね! もしかして、美桜先輩と付き合っているとか?」「俺は付き合いたいんだけどね。先輩はガードが固くて」 陽斗は蒼也を牽制するように、にっこりと笑って答える。美桜はもう気が気でない。 そのやり取りを見て、彩花は兄をキッチンの隅へと引っ張っていった。「兄貴、陽斗さんは手強いよ。美桜さんと付き合いたければ、先手を打たないと。ボヤボヤしてたら取られちゃう」「分かっている。今日こうやって話して、実感したよ」 彩花の囁きに、蒼也は頷いていた。 ケーキを食べ終わった後、彩花が「せっかくだから、この後、4人でどこかに出かけましょうよ!」と無茶な提案をした。蒼也は呆れながらも、美桜と共にいる時間を伸ばしたい一心で、その提案に乗った。◇ 猫のミオはお留守番をしてもらって、4人は町なかを歩いていた。 彩花は口実をつけて陽斗を連れ出して、兄と美桜を2人きりにしよ
「頭脳だけじゃなく、肉体の疲労にも糖分は効きますから。俺も大学時代に部活でよく甘味を食べました。今もトレーニング後は食べますよ」「一条君は、ラグビー部だったと聞いている」 蒼也が言うと、陽斗は笑った。どこか獰猛(どうもう)な笑みだった。「よくご存知で。如月社長は何でもよく調べていらっしゃいますね。やっぱり男たるもの、体は鍛えておかないと。いざという時に大事な人を守れませんから」 大柄で体格の良い陽斗が言うと、迫力がある。 一方で細身の蒼也は、わずかに眉をしかめた。「心外だな。僕だってジムには通っている。何かあれば、女性の一人くらい抱えられるさ」 二人の間に火花が散って、美桜は頭を抱えた。彩花はニヤニヤしている。「えー、何? 二人とも、騎士のつもりですかぁ? いいなー、乙女心がくすぐられちゃう」「彩花。お前は黙っていろ」 蒼也が呆れたように言ったので、その場が少し和んだ。猫のミオが「にゃあ~」と鳴いて、みんな笑った。 それを機に蒼也がキッチンに立ち、コーヒーとケーキを運んできたので、4人はソファに座る。 陽斗が言う。「如月社長は、美桜先輩の高校の同級生と聞きました。思い出があるのはいいことですね。でも、公私混同はどうかと思いますよ」「公私混同をした覚えはない。一条君、君こそどうなんだ? 先輩のプライベートにまでついてくるなど、後輩として逸脱しているのでは?」「いやー。猫のミオちゃんに会ってみたくて。社長の憧れの人の名前をつけた猫だから、きっと可愛いんだろうなと」 陽斗と蒼也の間に再び火花が散る。 美桜はいたたまれない気持ちでコーヒーを飲んで、彩花はそんな彼女の肩をぽんぽんと叩いていた。「陽斗君、彩花ちゃんは三ツ星商事に入社希望なの。2年後には優秀な後輩ができるかもしれないわ」 美桜が話題を逸らすと、陽斗は頷いた。「それは嬉しいな。彩花さん、我が社のどんなところが気に入ったの?」「こら、陽斗君。『我が社』だなんて大げさよ。社長や重役じゃないんだか
「……違う。僕は、いつでも完璧を追求しているだけだ」「はいはい。それで、その完璧なコーヒーを淹れて、美桜さんをおもてなしする、と。……言っておくけど、私は適当なところで帰るからね。後は美桜さんとうまくやってよ? ライバルがいるんでしょ?」 図星を突かれ、蒼也はわずかに眉をひそめる。「余計なお世話だ。そもそも、今日はお前のOG訪問のお礼が目的で……」 ピンポーン。 蒼也の言い訳を遮るように、軽快なインターホンの音が響いた。 マンションの入口モニタに美桜が映っていたので、ロックを解除する。 彩花が「はいはーい、主役のご登場です!」と楽しそうに言う横で、蒼也は一度、大きく深呼吸をした。そして、いつものクールで完璧なポーカーフェイスを貼り付けて、玄関のドアへと向かった。 ドアを開けると、少し緊張した面持ちの美桜が立っていた。 そして彼女の背後から、なぜか陽斗が気まずそうに顔を覗かせた。 蒼也と彩花は、予想外の「招かれざる客」の登場に一瞬固まった。 蒼也はすぐにクールな表情に戻り、「一条君もようこそ」と、大人の対応で彼を迎え入れる。「こんにちは、蒼也君、彩花ちゃん」 美桜の挨拶に、彩花はぺこりと頭を下げた。「こんにちは、美桜先輩。この間はありがとうございました。おかげさまで、改めて三ツ星商事に入社したいと思いました」「そう、それは良かった。あなたのような後輩ができたら、嬉しいわ」「えへへ。……ところで、そちらの方は?」 彩花は陽斗を見る。陽斗はにっこりと笑った。「どうも、初めまして。美桜さんの後輩で指導を受けている、一条陽斗です。如月社長にもお世話になっています」「初めまして。如月の妹の彩花です。よろしくお願いします」 彩花はそつなく挨拶を返しながらも、「おぉ……。この人が例の『ライバル』の人……」などと小
金曜の終業後。オフィスの中は、一週間を無事に終えた開放感で満たされている。 社員たちが飲み会の予定や週末の話をしている中、陽斗が美桜に話しかけた。「先輩。週末はご予定、ありますか? もしよければ僕と、どこかに出かけませんか」「えっと……」 美桜は言い淀んでしまった。週末は蒼也と約束がある。 だが、陽斗にその話をしていいものかどうか。 少し悩んだ後、隠すことではないと思い直して、美桜は口を開いた。「週末は、如月社長のお宅に行こうと思ってるの。妹さんと、猫のミオちゃんに会う約束があって……」「……部屋に、行くんですか?」 陽斗の笑顔が固まって、声が少しだけ低くなった。彼の動揺を美桜ははっきりと感じ取る。慌てて付け加えた。「あ、いや、妹さんも一緒だから! やましいことなんて、何もないわよ!」「なるほど、そういうことでしたか」 その言葉を聞いて、陽斗は少しだけ安堵したように見えた。しかし次の瞬間、彼はとんでもないことを言い出した。「じゃあ、俺もついて行っていいですか?」「えっ!? だ、だめよ! 突然押しかけたら、ご迷惑になるでしょう」「先輩が他の男の部屋に行くの、俺は嫌です。猫と妹さんが一緒でも、心配なんです。お願いです、連れて行ってください」 陽斗のいつになく頑固な表情。彼の子供のような独占欲と、真剣な心配が入り混じった表情に、美桜は「ダメ」と言い切れなくなってしまった。◇ 週末、蒼也の住む、都心の高級マンションの一室。 リビングの大きな窓からは、東京の絶景が一望できる。今は昼間だが、夜になれば素晴らしい夜景が見えるだろう。 蒼也はその景色に背を向けて、キッチンで豆から挽いたコーヒーを、一滴一滴、丁寧にハンドドリップしている。その真剣な横顔は、精密機械を操る科学者のようだった。 ソファの上では妹の彩花が、兄の愛猫である美しいメインクーン――ミオ