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第8話

Author: 芽生
柚月は一人でビザ申請センターへ赴き、すべての手続きを終えた。

その後、彼女は病院へは戻らず、この国を離れるための最後の身の回りの整理に取りかかった。

その間、永和の周囲の人間から、ひっきりなしに電話がかかってきた。

お手伝いさんは、社長が病院の食事が口に合わなくて困っているとオドオドしながらほのめかし、何か作って届けてもらえないかと尋ねてきたが、柚月は「あいにく忙しくしておりますので」と礼儀正しく断った。

ボディガードからは、社長の機嫌がすこぶる悪く、治療を拒否しては物を投げつけていると連絡があった。

「星野さんからどうにか宥めていただけないでしょうか」とすがるような口調で懇願されたが、柚月は「私にはどうすることもできませんから。皆さんで上手く対応してください。ご苦労をおかけします」と返した。

執事は、旦那様がひどく落ち込んでいて、しきりに星野さんに会いたがっていると口ごもりながら伝えてきたが、柚月は「そうですか」とだけ答えて電話を切った。

彼女は、一度たりとも病院へは足を運ばなかった。

そしてついに、この地を去る日がやってきた。

柚月は最後にパスポートなどの証明書と、ポツンと置かれたたった一つのスーツケースを点検し、忘れ物がないことを確認した。そして、ドアノブに手をかけたその瞬間――

スマートフォンが鳴った。

画面に表示している名前は「永和」

柚月はその文字を見つめ、空中で一瞬だけ指先を止めたが、最終的には通話ボタンを押した。

「もしもし」

電話の向こうから、ひどく掠れた永和の声が聞こえてきた。

「柚月」彼は言葉を区切り、まるで釈明の言葉を選ぶように少し間を置いた。「わかっている。お前が最近ずっと顔を見せないのは、この前のスキー場のことや、俺が火災現場に飛び込んだことで、まだ腹を立てているからだろう?」

彼はすべてお見通しだとばかりに小さくため息をつき、自らが妥協して歩み寄ってやっているという、どこか恩着せがましい響きを帯びた声で続けた。

「わかった、もう機嫌を直せ。俺は今日退院する。お前がずっと行きたがっていた、あのレストランを予約したよ。4年前のオープン当初、お前がしきりに口にしていたあそこだ。今から迎えに行くから、一緒に食事しよう」

彼はさらに声を低くし、不器用な機嫌取りのように囁いた。「柚月、俺は滅多に人を宥めたりしないんだ。もう意地を張るのはやめろ、な?」

柚月はスマートフォンを握りしめたまま、声が反響するほどがらんとしたリビングに立ち尽くし、一瞬だけ呆然とした。

あのレストランか……

4年前にオープンした当時、口コミで爆発的な人気を呼び、予約が全く取れないほどの店だった。彼女は目を輝かせながら「どうしても行ってみたい」と、彼に何度も何度もねだったものだ。

その度に彼は、「ああ、時間ができたらな」「最近は忙しいから、また今度」と答えた。

また今度。そしてまた、今度。

彼女が口にしなくなるまで。あのレストランが、オープンしたての話題店から定番の名店へと変わるまで。そして彼女が、「彼に時間がなかったわけではなく、ただ自分と一緒に食事をすることが、彼にとってはどうでもいい、優先順位の低いことだったのだ」と、ようやく残酷な現実を悟るまで。

それが今になって、ようやく彼に時間ができた。

よりによって、彼女がこの国を去ると決めたこの日に。

柚月はなんだか滑稽に感じ、そして少しだけ悲しくなった。彼女の沈黙は、思いのほか長く続いた。

「柚月?聞いてるのか?」

「……ええ」柚月は口を開いた。その声に感情は一切なかった。「結構よ、私は今日……」

「じゃあ、そういうことで決まりだ。今から迎えに行く、待ってろ!」

ツーツーという無機質な電子音が響き、彼は一方的に電話を叩き切った。

柚月がスマートフォンを置くと、暗転した画面に、無表情な自身の顔が鏡のように映し出された。

彼女は冷蔵庫の前へ歩み寄った。そこには、過去に彼に宛てて書いた付箋がまだ数枚貼られていた。大半が「ちゃんとご飯を食べて」「鍵を忘れないで」といった、些細な気遣いの言葉だった。

彼女は真新しい淡い黄色の付箋を一枚剥がし、ペンを取ると、一行の文字を書き留めた。

【永和、別れよう。あなたと彼女が、想いを遂げられるように。――柚月】

……

空港、国際線出発ターミナル。

柚月はたった一つのスーツケースを引いて、搭乗手続きを終え、保安検査を通過した。

搭乗待合室に入り、窓際の席を見つけて腰を下ろした直後、スマートフォンが震えた。永和からのメッセージだった。

【柚月、悪い。莉子の方で少しトラブルがあって……先にそっちへ向かわなきゃならなくなった。また今度埋め合わせるから、怒らないで俺の電話を待っててくれ】

案の定だ。

柚月はその一文を見つめたが、顔色一つ変えなかった。

永和がどんな顔をしてこのメッセージを打ったのか、容易に想像がついた。ほんの少しの罪悪感はあったかもしれないが、それ以上に、一刻も早く別の誰かの元へ駆けつけたいという焦燥感に駆られていたに違いない。

彼女は指先を動かし、一言だけ返信した。

【怒ってないわ】

だって、私たちはもう恋人同士ではないのだから。

怒る理由なんて、どこにある?

彼女はそのまま指先をタップし、彼の電話番号、LINE……すべてのSNSアカウントを躊躇なくブラックリストに放り込んだ。

一切の未練もない動作だった。

すべてを終えると、スマートフォンを機内モードに切り替え、バッグの中にしまった。

搭乗案内のアナウンスが響く。柚月は立ち上がり、搭乗口へと歩き出した。

機窓の外で、街がだんだんと小さくなり、やがて分厚い雲に覆い隠されていく。

飛行機は機首を上げ、果てしなく広がる青空へと突き進んでいった。

この先、永和を愛していない自分の人生は、きっと素晴らしいものになる。

彼女には、それがわかっていた。

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