ログインそう言い終えると、宥里はまっすぐ会社の正面玄関へと向かった。もう一言たりとも、知輝に話しかける気力はなかった。これからはもう、「赤沢家の若奥様」という肩書きに縛られることもない。この瞬間になって初めて、彼女は心がすっと晴れていくのを感じた。かつての自分は、この先ずっと、知輝とあの家から離れることは決してできないと思い込んでいた。けれど今、彼女はむしろ感謝していた。あの馬鹿げた結婚式のおかげで、自分はすっかり目が覚めたのだから。そのおかげで、この人生で何より信じ、頼るべきなのは、他でもない自分自身なのだと、はっきり悟ることができた。もう誰かから愛を得る必要もない。誰かに認められて初めて価値が生まれるわけでもない。私の存在は、それ自体に価値があるのだから!近づいてくる正面玄関と、その先に広がる明るく広大な世界を見つめながら、宥里は深く息を吸い込み、晴れやかな笑みを浮かべた。知輝はその場に立ち尽くしたまま、去っていく宥里の後ろ姿を見つめていた。宥里の最後の一言のせいで、ついさっきまで怒りに満ちていた胸の内に、なぜか説明のつかない不安が広がっていく。まるで心の奥の大切な一部分を、無理やりえぐり取られたようだった。宥里が最後に言ったあの言葉は、どういう意味だったのか。彼は問いただしたかった。もう自分とは何の関わりもなくなる、とは一体どういうことなのか。「先生、研究所の方がそろそろお着きになる頃だと思います。まずは受け入れの準備を整えましょう」香織のその一言が、知輝が宥里を追いかけて問いただそうとする衝動を、ちょうどそのタイミングで遮った。そうだ、今は会社のことが最優先だ。今日、花谷研究所の視察さえ無事に終われば、その後の提携契約も必ず成立するはずだ。宥里のことは……「宥里さんのことも焦る必要はありません。今日が終わったら葉山さんと一緒に部屋の件を進めて、できるだけ早く出ていきますから。私さえいなくなれば、宥里さんもきっと戻ってきます」香織は涙を拭いながら、知輝にそう言った。その言葉と涙は、たしかに効き目があった。知輝はそれを聞くと案の定また表情を曇らせ、苛立ちを募らせながら去っていく宥里の背中に向かって冷たく吐き捨てた。「悲劇のヒロイン気取りか」なぜ宥里は、香織のように理性的に物事を見るこ
今、その場にいる誰もが興味深げにこちらの様子を窺っている。会話の内容までは聞こえなかったが、知輝と香織の様子からただならぬ空気だけは誰の目にも明らかだった。「宥里さん、もう行ってくださいよ……!今日は本当に来るタイミングが悪すぎます」香織の目はみるみる赤くなり、声もそれにつれて涙声になっていく。「あなたが私を嫌っているのはわかっています。今日騒がずに帰ってくださるなら、私、すぐにでも先生のお宅から出ていきます。会社を辞めたって構いません。これから先、先生とは一切関わりを持ちません。それでいいですか!?」「香織、何を言ってるんだ」知輝は驚き、人目もはばからず香織の腕を掴んだ。「お前を辞めさせるつもりなど、俺には毛頭ない」「でも……」香織の目からは、すぐに涙がこぼれ落ちた。「先生にこれ以上お辛い思いをさせたくないんです。私が出ていかなければ、宥里さんもきっと安心できません。先生、今日という大事な日に少しの失敗もあってはいけません……」香織の涙が落ちるのを見て、知輝の怒りはついに頂点に達し、声を抑えることさえできなくなった。「警備員!ここに来て、この女を追い出してくれ!」ロビーでは、休憩スペースの動静を絶えず気にかけていた社員たちが、今や一人残らず顔に怒りをにじませていた。「あの女、何者よ。よりによって桃木さんを泣かせるなんて!」「本当に。一体何のつもりで、こんな大事な日に騒ぎを起こしに来るわけ?」「あの人、前にも社長に絡んできて、鈴木さんに追い払われた人よ。今日また来たのも、たぶん社長に絡むつもりなんじゃない」「そうそう、それで社長のそばに桃木さんがいるのを見て、桃木さんに矛先を向けて泣かせたってわけね」「あの女もよっぽど恥知らずよね。ちょっと綺麗な顔してるからって、社長を落とせるとでも思ってるのかしら」「桃木さんは社長の右腕だし、うちの会社の技術の要じゃない。あんな風に虐められるのは見てられないわ」非難の声はしだいに大きくなり、休憩スペースにいる宥里の耳にまではっきりと届くほどだった。宥里は香織を見つめた。その綺麗な頬には、まだ大粒の涙が伝い落ちていた。なるほど、香織はやり方を変えたわけではない。ただ、これまでは見物人が少なすぎただけなのだ。今これだけの観客が揃ったからこそ、堂々とその
宥里が休憩スペースの椅子から立ち上がろうとした矢先、知輝が険しい顔つきで大股にこちらへと歩み寄ってきた。「お前、ここで何をしている?」声は抑えられていたが、隠しきれない怒りが表情や口調に滲み出ていた。「私……」「宥里さん!」香織が追いついてきて知輝の隣に並び立つと、慌てて宥里の言葉を遮った。「お気持ちはわかりますが、今は騒ぎを起こしていい場面じゃありません。今日は研究所の重要な方が視察にいらっしゃる日なんです。何かあれば、先生にも会社全体にも大きな影響が出てしまいます!」これまで、香織が宥里の前で低姿勢な態度をかなぐり捨て、こんなふうに振る舞うのは初めてのことだった。会社という場だからこそ、皆の前では社内での自分の立場を守る必要があったのだろう。宥里が表情も変えず、椅子に座ったまま微動だにしないのを見て、香織は畳みかけるように言った。「こんな肝心なときに、先生の邪魔をするのはやめてもらえませんか!」香織のその一言が、知輝の怒りに火をつけた。「今すぐここを出て行け。さもないと警備員を呼んでつまみ出させるぞ!」香織の言うとおりだ。宥里はいつも俺の足を引っ張るばかりで、俺の立場なんて少しも考えてくれない。七年前、赤沢家の嫁の座を手に入れるために、俺に薬を盛って無理やり関係を持った。俺はちゃんと責任を取って結婚し、赤沢家の嫁という立場も体裁も与えた。それなのに、どうしてまだ不満なんだ。どうしてまた、こんなところで勝手な真似をする。しかも今日は大事な日だというのに、何の連絡もなく会社まで押しかけてきて騒ぎを起こすなんて。一体、何がしたいんだ?まさか、みっともなく喚き散らして、俺と香織の評判まで台無しにしようとでもいうのか。家の中でのちょっとした揉め事ならまだいい。だが会社が絡む以上、今度ばかりは彼女を見過ごすわけにはいかない。「おい、聞こえたか?今すぐ失せろ!」知輝は眉を深く寄せ、冷ややかな目で言い放った。今度、知輝の口から出たのは「出て行け」ではなく、「失せろ」という言葉だった。宥里はバッグを持つ手にぐっと力を込めた。その「失せろ」という言葉は、やはり胸に突き刺さった。「知輝、少し落ち着け」それまで黙って傍らに立っていた洋介が、ついに口を挟んだ。「宥里だって、今日視察
宥里は会社の入り口に立ち、深く息を吸い込むと、結局そのまま中へと足を踏み入れた。このときエントランスはまだがらんとしていて、直樹の言っていた出迎えの人間の姿はどこにもなかった。仕方なく、宥里はひとまず休憩スペースに腰を下ろし、直樹が電話を終えて中に入ってくるのを待つことにした。受付の若い女性は宥里を一瞥しただけで、社員の誰かを待っているのだろうと思い特に気にも留めず、受付の周りに集まった同僚たちとの雑談に花を咲かせていた。「聞いてよ、今朝もまた、社長と桃木さんが一緒に出社してきたのよ。あれって、もう一緒に住んでるんじゃない?」その一言に、周りの数人の空気が一気に盛り上がった。「まさか。前に、社長と鈴木さんが話してるのを聞いたことあるんだけど。社長って結婚してて、奥さんも息子もいるらしいわよ」「でもさ、この何年か社長の奥さんを見たことある人いる?れっきとした社長夫人でしょ。旦那の会社に一度も来たことないなんて、普通ありえなくない?」宥里は目を伏せ、小さく笑った。一度もない、というわけではない。実際には二度来たことがある。一度は知輝に食事を届けに来て、面倒くさそうな態度で追い返された。もう一度は離婚協議書を届けに来て、結局知輝本人にすら会えなかったのだ。「まあ、そりゃそうよね。もう亡くなってるか、離婚してるかのどっちかじゃない?」宥里は唇を軽く結んだ。うん、死んではいない。もう離婚するのだ。「とにかく、私はどう見ても社長と桃木さんがお似合いだと思うわ。私、あの二人推してるの」「私も推してる。あの二人、まさにお似合いって感じよね。片や若手のエリート社長、片や可愛くも頼れる実力抜群の右腕」「あなたたち、そこで何を話してるの?」専用エレベーターの扉が開く音とともに、きびきびとしたスーツ姿の香織がエレベーターから降りてきた。受付の面々がまだ立ち話をしているのを見て、彼女はさっと表情を険しくした。「今日、研究所の重要なお客様が視察にいらっしゃるって言ったはずよね。あなたたち、玄関でお出迎えもせずにここで噂話とはどういうこと?」数人は慌てて姿勢を正した。「申し訳ありません、桃木さん。でも、どなたもいらっしゃっていなくて……」たしかに、連絡を受けてから今まで、フードデリバリーの配達員が二人来た以外は、休憩
翌日、宥里は出勤前にまず直樹の家に立ち寄り、ワインを届けた。研究所で贈り物を渡すところを他の人に見られるのは好ましくなく、直樹にも余計な面倒をかけることになる。リビングで直樹は、嬉しそうにワインのボトルを抱え込んでいた。「いいな、毎年君がくれるこの一本を楽しみにしてるんだ」「先輩がお好きなら、毎年お持ちしますね」宥里は詩音の部屋のほうに目をやった。「詩音は?学校ですか?」「ああ、朝早くから出ていったよ。受験生は勉強が大変だからな」娘の話になると、直樹の顔にはいたわるような表情が浮かんだ。それから宥里に向かって笑いかける。「もっとも、君にはわからないだろうけどな。大学受験を経験したことがないんだから」たしかに、宥里は大学受験を経験していなかった。幼い頃に推薦で大学への進学が決まっていたからだ。詩音と同じ年頃には、すでに研究所に研修生として配属されていたのだ。ただ、その頃の彼女の名前はまだ貞末宥里だった。その後、研究所では恩師の姓を名乗るようになったが、直樹が変更してくれたのは研究所内の人事登録だけだった。それ以外の情報は何一つ変えておらず、今も戸籍上は貞末宥里のままだった。少なくとも研究所では、「貞末宥里」という名前と貞末家とのつながりを完全に断ち切りたかったからだ。「ちょうどいい、宥里が今日来てくれたから。じゃあ研究所には先に寄らず、直接あの会社に行くとするか」直樹の言葉に、宥里は思考から引き戻された。「今からですか?」もともと直樹と決めていた視察の予定は今日だったが、今から向かうというのは少し早すぎるのではないか。「ああ」直樹は立ち上がり、鞄を手に取った。「大丈夫だ、先方の対応もいいし、今日はいつでもこちらを受け入れられると言っていた。行く前に一声かけるだけでいい」宥里は、直樹が電話をかけて今から向かうと先方に知らせているのを見ていた。見たところ、直樹はあの会社を本当に高く評価しているようだし、心から力になりたいと思っているようだった。だとすれば、先方の会社の実力と製品さえ問題なければ、先輩の顔を立ててこの提携を了承し、あの会社に部品供給と技術支援を行ってもいい。宥里がそう考えていると、直樹が電話を切った直後、ふとそのスマホの画面に【桃木】という文字が見えた。相手の姓は
彼はどうかしていた。宥里が赤ワインを選んでいるのを見て、店員にいいように勧められているのではないかと心配になり、親切心から助けようとした。それだけのつもりだったのだ。まさか、相手からこんな態度を取られるとは。だが、宥里が赤ワインに詳しいというのは、洋介にとって思いもよらないことだった。宥里……彼女は、ごく普通の、いや、平凡で退屈な専業主婦ではなかったのか?これまでの数年間、彼女は毎日、知輝や陽太、そして赤沢家の人間たちを中心に生活していた。家事と料理、送り迎え。それ以外といえば、知輝のそばにまとわりついているだけだった。仕事の面では知輝の助けになるどころか、仕事の場に連れて出られるような人間ではなかったのだ。それが、これまでの数年間、洋介がずっと抱いてきた宥里の印象だった。けれど、今目の前にいる宥里は、まるで自分の知っている宥里とは別人のようだった。手際よくエンジンを直してみせたかと思えば、こうしてこの場に堂々と立ち、優雅にワインを選び、しかもワインの知識に至っては、自分より上かもしれない。ちょうどそのとき、ワインサロンのマネージャーがデキャンタージュを終えたワインを持って戻ってきて、丁重に洋介へ声をかけた。「鈴木様、お待たせいたしました。ワインのデキャンタージュが完了いたしました」だが今の洋介には、そのワインへの興味はすっかり失せていた。まるで見知らぬ他人でも見るような目で自分を見る宥里の様子にどうにも落ち着かず、洋介はそのままマネージャーに、その場で自分のグラスに注ぐよう命じた。マネージャーも深く問い返すことなく、素直にグラスに注いで手渡した。洋介はそのグラスを手に宥里のそばへと歩み寄った。「そんなに詳しいなら、この六十年物のワインがどうか見てくれないか」宥里は洋介という人間に対して好感など欠片も抱いていなかったが、六十年物のワインそのものには興味をそそられた。手にしていたワインを置き、グラスに鼻を近づけ、深く香りを吸い込む。不意に近づいてきた女の姿と、その整った横顔を目にして、洋介はグラスを持つ手が思わず震えた。その拍子にグラスの中のワインがわずかに揺れ、ふわりと香りが立った。宥里はその香りに、わずかな違和感を覚えた。「これ、六十年物ではないですね」その一言に、洋介はもう他のことな