LOGIN結婚して七年、赤沢知輝(あかさわ ともき)は一度も花谷宥里(はなや ゆり)を公の場へ連れて出たことがなかった。それなのに、いつの間にか自分の教え子と結婚式を挙げようとしていた。 姑と息子までがそろって式に出席し、宥里を容赦なく追い払った。 夫は「謝れ」と言い、姑は「みっともない」となじり、息子までもが「もうママなんていらない」と言い放つ。 またしても家族に見捨てられた宥里は、ここでようやく決心がついた。もう、自分を大切にして生きていこうと。 赤沢夫人の座も、息子も、いらない。 知輝は思い込んでいた。かつて自分と結婚するため、なりふり構わずベッドにまで潜り込んできたあの宥里が、赤沢夫人という肩書きを失ってしまえば、まともに生きていけるはずがないと。 だが彼は知らなかった。見下していたはずの妻が、学術界の天才であり、知輝の一族全体の命運さえ左右できる存在であることを。しかも、彼女に想いを寄せる優秀な男たちは星の数ほどいることを。 誤解が解け、真実を知った知輝は焦り出す。だがその頃にはもう、宥里は、誰も逆らえないほどの大物にしっかりと囲い込まれていた。 隠されていた素性がひとつ、またひとつと明かされるたび、あの名門一族の正真正銘の令嬢すら警戒を強めていく。だが誰も知らない。偽物のお嬢様と蔑まれていた宥里こそが、あの名門一族ただ一人の後継者だということを。 やがて、己の愚かさを思い知った元夫が縋るように言う。 「宥里、全部俺が悪かった!だから頼む、俺を見捨てないでくれ!」 宥里「汚らわしい。さっさと消えて」 息子「ママ……もう僕のこと、いらないの?」 宥里「ごめんね。でも、あなたは私の子じゃないの」 貞末絢斗(さだすえ あやと)「ねえ、宥里。いっそ俺たちも、子供を作ってみない?」 宥里「はっ。あなた、まだお試し期間中でしょう?」
View Moreそう言い終えると、宥里はまっすぐ会社の正面玄関へと向かった。もう一言たりとも、知輝に話しかける気力はなかった。これからはもう、「赤沢家の若奥様」という肩書きに縛られることもない。この瞬間になって初めて、彼女は心がすっと晴れていくのを感じた。かつての自分は、この先ずっと、知輝とあの家から離れることは決してできないと思い込んでいた。けれど今、彼女はむしろ感謝していた。あの馬鹿げた結婚式のおかげで、自分はすっかり目が覚めたのだから。そのおかげで、この人生で何より信じ、頼るべきなのは、他でもない自分自身なのだと、はっきり悟ることができた。もう誰かから愛を得る必要もない。誰かに認められて初めて価値が生まれるわけでもない。私の存在は、それ自体に価値があるのだから!近づいてくる正面玄関と、その先に広がる明るく広大な世界を見つめながら、宥里は深く息を吸い込み、晴れやかな笑みを浮かべた。知輝はその場に立ち尽くしたまま、去っていく宥里の後ろ姿を見つめていた。宥里の最後の一言のせいで、ついさっきまで怒りに満ちていた胸の内に、なぜか説明のつかない不安が広がっていく。まるで心の奥の大切な一部分を、無理やりえぐり取られたようだった。宥里が最後に言ったあの言葉は、どういう意味だったのか。彼は問いただしたかった。もう自分とは何の関わりもなくなる、とは一体どういうことなのか。「先生、研究所の方がそろそろお着きになる頃だと思います。まずは受け入れの準備を整えましょう」香織のその一言が、知輝が宥里を追いかけて問いただそうとする衝動を、ちょうどそのタイミングで遮った。そうだ、今は会社のことが最優先だ。今日、花谷研究所の視察さえ無事に終われば、その後の提携契約も必ず成立するはずだ。宥里のことは……「宥里さんのことも焦る必要はありません。今日が終わったら葉山さんと一緒に部屋の件を進めて、できるだけ早く出ていきますから。私さえいなくなれば、宥里さんもきっと戻ってきます」香織は涙を拭いながら、知輝にそう言った。その言葉と涙は、たしかに効き目があった。知輝はそれを聞くと案の定また表情を曇らせ、苛立ちを募らせながら去っていく宥里の背中に向かって冷たく吐き捨てた。「悲劇のヒロイン気取りか」なぜ宥里は、香織のように理性的に物事を見るこ
今、その場にいる誰もが興味深げにこちらの様子を窺っている。会話の内容までは聞こえなかったが、知輝と香織の様子からただならぬ空気だけは誰の目にも明らかだった。「宥里さん、もう行ってくださいよ……!今日は本当に来るタイミングが悪すぎます」香織の目はみるみる赤くなり、声もそれにつれて涙声になっていく。「あなたが私を嫌っているのはわかっています。今日騒がずに帰ってくださるなら、私、すぐにでも先生のお宅から出ていきます。会社を辞めたって構いません。これから先、先生とは一切関わりを持ちません。それでいいですか!?」「香織、何を言ってるんだ」知輝は驚き、人目もはばからず香織の腕を掴んだ。「お前を辞めさせるつもりなど、俺には毛頭ない」「でも……」香織の目からは、すぐに涙がこぼれ落ちた。「先生にこれ以上お辛い思いをさせたくないんです。私が出ていかなければ、宥里さんもきっと安心できません。先生、今日という大事な日に少しの失敗もあってはいけません……」香織の涙が落ちるのを見て、知輝の怒りはついに頂点に達し、声を抑えることさえできなくなった。「警備員!ここに来て、この女を追い出してくれ!」ロビーでは、休憩スペースの動静を絶えず気にかけていた社員たちが、今や一人残らず顔に怒りをにじませていた。「あの女、何者よ。よりによって桃木さんを泣かせるなんて!」「本当に。一体何のつもりで、こんな大事な日に騒ぎを起こしに来るわけ?」「あの人、前にも社長に絡んできて、鈴木さんに追い払われた人よ。今日また来たのも、たぶん社長に絡むつもりなんじゃない」「そうそう、それで社長のそばに桃木さんがいるのを見て、桃木さんに矛先を向けて泣かせたってわけね」「あの女もよっぽど恥知らずよね。ちょっと綺麗な顔してるからって、社長を落とせるとでも思ってるのかしら」「桃木さんは社長の右腕だし、うちの会社の技術の要じゃない。あんな風に虐められるのは見てられないわ」非難の声はしだいに大きくなり、休憩スペースにいる宥里の耳にまではっきりと届くほどだった。宥里は香織を見つめた。その綺麗な頬には、まだ大粒の涙が伝い落ちていた。なるほど、香織はやり方を変えたわけではない。ただ、これまでは見物人が少なすぎただけなのだ。今これだけの観客が揃ったからこそ、堂々とその
宥里が休憩スペースの椅子から立ち上がろうとした矢先、知輝が険しい顔つきで大股にこちらへと歩み寄ってきた。「お前、ここで何をしている?」声は抑えられていたが、隠しきれない怒りが表情や口調に滲み出ていた。「私……」「宥里さん!」香織が追いついてきて知輝の隣に並び立つと、慌てて宥里の言葉を遮った。「お気持ちはわかりますが、今は騒ぎを起こしていい場面じゃありません。今日は研究所の重要な方が視察にいらっしゃる日なんです。何かあれば、先生にも会社全体にも大きな影響が出てしまいます!」これまで、香織が宥里の前で低姿勢な態度をかなぐり捨て、こんなふうに振る舞うのは初めてのことだった。会社という場だからこそ、皆の前では社内での自分の立場を守る必要があったのだろう。宥里が表情も変えず、椅子に座ったまま微動だにしないのを見て、香織は畳みかけるように言った。「こんな肝心なときに、先生の邪魔をするのはやめてもらえませんか!」香織のその一言が、知輝の怒りに火をつけた。「今すぐここを出て行け。さもないと警備員を呼んでつまみ出させるぞ!」香織の言うとおりだ。宥里はいつも俺の足を引っ張るばかりで、俺の立場なんて少しも考えてくれない。七年前、赤沢家の嫁の座を手に入れるために、俺に薬を盛って無理やり関係を持った。俺はちゃんと責任を取って結婚し、赤沢家の嫁という立場も体裁も与えた。それなのに、どうしてまだ不満なんだ。どうしてまた、こんなところで勝手な真似をする。しかも今日は大事な日だというのに、何の連絡もなく会社まで押しかけてきて騒ぎを起こすなんて。一体、何がしたいんだ?まさか、みっともなく喚き散らして、俺と香織の評判まで台無しにしようとでもいうのか。家の中でのちょっとした揉め事ならまだいい。だが会社が絡む以上、今度ばかりは彼女を見過ごすわけにはいかない。「おい、聞こえたか?今すぐ失せろ!」知輝は眉を深く寄せ、冷ややかな目で言い放った。今度、知輝の口から出たのは「出て行け」ではなく、「失せろ」という言葉だった。宥里はバッグを持つ手にぐっと力を込めた。その「失せろ」という言葉は、やはり胸に突き刺さった。「知輝、少し落ち着け」それまで黙って傍らに立っていた洋介が、ついに口を挟んだ。「宥里だって、今日視察
宥里は会社の入り口に立ち、深く息を吸い込むと、結局そのまま中へと足を踏み入れた。このときエントランスはまだがらんとしていて、直樹の言っていた出迎えの人間の姿はどこにもなかった。仕方なく、宥里はひとまず休憩スペースに腰を下ろし、直樹が電話を終えて中に入ってくるのを待つことにした。受付の若い女性は宥里を一瞥しただけで、社員の誰かを待っているのだろうと思い特に気にも留めず、受付の周りに集まった同僚たちとの雑談に花を咲かせていた。「聞いてよ、今朝もまた、社長と桃木さんが一緒に出社してきたのよ。あれって、もう一緒に住んでるんじゃない?」その一言に、周りの数人の空気が一気に盛り上がった。「まさか。前に、社長と鈴木さんが話してるのを聞いたことあるんだけど。社長って結婚してて、奥さんも息子もいるらしいわよ」「でもさ、この何年か社長の奥さんを見たことある人いる?れっきとした社長夫人でしょ。旦那の会社に一度も来たことないなんて、普通ありえなくない?」宥里は目を伏せ、小さく笑った。一度もない、というわけではない。実際には二度来たことがある。一度は知輝に食事を届けに来て、面倒くさそうな態度で追い返された。もう一度は離婚協議書を届けに来て、結局知輝本人にすら会えなかったのだ。「まあ、そりゃそうよね。もう亡くなってるか、離婚してるかのどっちかじゃない?」宥里は唇を軽く結んだ。うん、死んではいない。もう離婚するのだ。「とにかく、私はどう見ても社長と桃木さんがお似合いだと思うわ。私、あの二人推してるの」「私も推してる。あの二人、まさにお似合いって感じよね。片や若手のエリート社長、片や可愛くも頼れる実力抜群の右腕」「あなたたち、そこで何を話してるの?」専用エレベーターの扉が開く音とともに、きびきびとしたスーツ姿の香織がエレベーターから降りてきた。受付の面々がまだ立ち話をしているのを見て、彼女はさっと表情を険しくした。「今日、研究所の重要なお客様が視察にいらっしゃるって言ったはずよね。あなたたち、玄関でお出迎えもせずにここで噂話とはどういうこと?」数人は慌てて姿勢を正した。「申し訳ありません、桃木さん。でも、どなたもいらっしゃっていなくて……」たしかに、連絡を受けてから今まで、フードデリバリーの配達員が二人来た以外は、休憩
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