登入結婚して七年、赤沢知輝(あかさわ ともき)は一度も花谷宥里(はなや ゆり)を公の場へ連れて出たことがなかった。それなのに、いつの間にか自分の教え子と結婚式を挙げようとしていた。 姑と息子までがそろって式に出席し、宥里を容赦なく追い払った。 夫は「謝れ」と言い、姑は「みっともない」となじり、息子までもが「もうママなんていらない」と言い放つ。 またしても家族に見捨てられた宥里は、ここでようやく決心がついた。もう、自分を大切にして生きていこうと。 赤沢夫人の座も、息子も、いらない。 知輝は思い込んでいた。かつて自分と結婚するため、なりふり構わずベッドにまで潜り込んできたあの宥里が、赤沢夫人という肩書きを失ってしまえば、まともに生きていけるはずがないと。 だが彼は知らなかった。見下していたはずの妻が、学術界の天才であり、知輝の一族全体の命運さえ左右できる存在であることを。しかも、彼女に想いを寄せる優秀な男たちは星の数ほどいることを。 誤解が解け、真実を知った知輝は焦り出す。だがその頃にはもう、宥里は、誰も逆らえないほどの大物にしっかりと囲い込まれていた。 隠されていた素性がひとつ、またひとつと明かされるたび、あの名門一族の正真正銘の令嬢すら警戒を強めていく。だが誰も知らない。偽物のお嬢様と蔑まれていた宥里こそが、あの名門一族ただ一人の後継者だということを。 やがて、己の愚かさを思い知った元夫が縋るように言う。 「宥里、全部俺が悪かった!だから頼む、俺を見捨てないでくれ!」 宥里「汚らわしい。さっさと消えて」 息子「ママ……もう僕のこと、いらないの?」 宥里「ごめんね。でも、あなたは私の子じゃないの」 貞末絢斗(さだすえ あやと)「ねえ、宥里。いっそ俺たちも、子供を作ってみない?」 宥里「はっ。あなた、まだお試し期間中でしょう?」
查看更多花谷謙三は、国内の科学技術分野では知らない者がいないほどの重鎮だった。生涯を研究に捧げ、結婚もせず、子供も持たなかった。弟子を取ることも滅多になかったが、かつて彼のもとで学んだ者たちは、今ではそれぞれの分野で国を支える存在となっている。直樹も、謙三の弟子の一人だった。現在、謙三は体調の都合で第一線を退かざるを得ず、直樹が代わって研究所を預かっている。直樹こそが謙三の後継者だと言っても、決して過言ではなかった。謙三はすでに新たな弟子を取らなくなっている。だからこそ、直樹の弟子になることは、この分野を志す学生たちにとって、何よりも重要な登竜門となっていた。奈緒が直樹の弟子になれたことを、源一郎は大変喜んでいた。それはつまり、奈緒がこの分野の頂点へ上る切符を手にしたも同然だったからだ。「よくやった。さすが我が貞末の血筋だ」源一郎は満足げに奈緒を褒めた。「慢心せず、若浦さんのもとでしっかり学びなさい」「はい、そうします」奈緒は素直に頷いた。大事な用件を伝え終えると、そばで黙っている絢斗の様子をちらちらと窺いながら、彼のすぐ近くに腰を下ろした。だが、座った途端、絢斗の射抜くような冷ややかな視線に気づき、椅子ごと慌てて距離を取った。絢斗はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「そういえば、花谷先生が一番可愛がり、誰よりも目をかけていた弟子は、若浦さんではなかったはずだ。そう考えると、若浦さんの弟子になったくらいで、そこまで得意げになることでもない」奈緒の顔がこわばった。絢斗の言葉に滲む嘲りを、聞き逃すはずがなかった。彼女はうつむき、瞳の奥に湧き上がる暗い感情を必死に押し殺した。源一郎はそんなことには気も留めず、絢斗の話に頷いた。「ああ、俺もそれとなく聞いたことがある。先生が一番可愛がっていたのは、最後に取った弟子だったそうだな。しかも先生ご本人が正式に認めた最後の弟子だったとか。ずば抜けた才能の持ち主で、百年に一人ともいわれる天才だったらしい」そう言って、源一郎は苦笑した。謙三のその評価は、いささか大げさだと思っていたからだ。この世に百年に一人の天才など、そうそういるものか。とはいえ、あれほどの人物にそこまで見込まれ、可愛がられていたというなら、その実力は相当なものに違いない。
宥里はゆっくりと顔を上げた。目の前には、値踏みするような冷たい目を向ける貞末奈緒が立っていた。「本当にあんたなのね!」貞末奈緒(さだすえ なお)は驚いた様子を見せながらも、口元には嘲りの色を滲ませていた。「ああ、違ったわね。あんたはとっくに貞末姓を名乗る資格なんてなくなってるんだった。私の居場所を奪っていた偽物のくせに、貞末家を追い出されてから、さぞみじめな暮らしをしてるんでしょう?」まさかこんな場所で貞末家の人間と鉢合わせするとは、宥里も思っていなかった。できることなら、一生関わりたくない相手だった。奈緒の嘲りに、返す言葉はなかった。宥里はうつむいたまま相手を避けて通り過ぎ、一刻も早くこの場を離れようとした。だが奈緒は、そう簡単には見逃してくれなかった。付き添いのスタッフに命じる。「通さないで!」行く手を塞がれ、宥里は悟った。奈緒は、このまま自分を黙って通り過ぎさせるつもりなど毛頭ないのだ。「偽物さん、正直に言いなさいよ。何の用でここに来たの?」奈緒は宥里から視線を離さず、その表情に浮かぶわずかな動揺さえ見逃すまいとしていた。「診察に来ただけよ」宥里はこれ以上関わり合いになりたくなかった。ただ早くこの場を離れたい。「嘘つき!診察なら外来でしょ。どうして入院病棟にいるのよ!」奈緒も馬鹿ではない。鋭くそこを突いてくる。「もしかして、外での暮らしが立ち行かなくなって、伯父様がここに入院していると聞いて、こっそり忍び込んだの?それで、貞末家に戻してくれって頼み込むつもり?」奈緒の言う伯父とは、貞末家の実権を握る当主で、東邦グループの会長でもある、国内一の資産家、貞末源一郎(さだすえ げんいちろう)のことだった。そして奈緒は、貞末家の分家筋で見つかった、正真正銘の貞末家の令嬢だ。一方、偽物として貞末家を追い出されたのは――宥里だった。宥里は首を振った。「貞末会長がここにいらっしゃるなんて知らなかったわ。奈緒さん、お見舞いに来たのなら、早く中へ入ったら?私にかまって時間を無駄にする必要はないでしょう」奈緒は時間を確認した。確かに、急いで中へ入らなければならない。源一郎はいつも多忙で、入院中であっても仕事の手を緩めない人だった。今日は良い知らせも持ってきている。「偽物さん、身の程をわ
病室に束の間の沈黙が流れた。知輝の薄い唇がわずかに動き、何か言おうとする。だが、知輝が何か言うより先に、香織が口を開いた。「奥様、お願いです。先生と離婚しないでください。全部、私のせいなんです。本当に申し訳ありません。どうしたら許していただけますか?土下座でも何でもします。どうか先生のことを誤解しないでください」言い終えるや否や、香織は布団を勢いよくはねのけ、裸足でベッドから下りた。周囲が止める間もなく、宥里の前に膝をつく。その拍子に、膝が床を打つ鈍い音が病室に響いた。細い両手で宥里のズボンの裾をしっかりと掴み、声を振り絞って泣きじゃくる。「もう、お願いですっ……もう先生に怒らないでください。全部私のせいなんです。こうして謝りますから、どうか……」ようやくわずかに和らいでいた知輝の表情が、香織が跪いた瞬間、たちまち凍りついた。「香織、何をしてるんだ!すぐに立て!」彼女のもとへ駆け寄り、抱き起こそうと手を伸ばす。「嫌ですよ!」香織は必死に首を振って抵抗した。「奥様が許してくれるまで立ちません!」その瞬間、知輝の怒りが頂点に達した。強引に香織を抱き上げる。「お前には何の非もない。謝るべきなのはお前じゃない!」香織はぐったりと知輝の腕に体を預け、息を切らしながら泣き続けていた。青ざめた小さな顔には、必死に耐えているような痛々しさが滲んでいる。大好きな香織が今にも泣き崩れそうな様子を見て、陽太はたまらず声を張り上げた。「ママ!早く香織さんに謝ってよ!香織さん、気を失っちゃいそうなんだよ!謝らないなら、もうママなんていらない!」「そう」宥里は静かに陽太を見つめて言った。「じゃあ、いらなくて結構よ」身を削る思いでこの世に産み落とした我が子を、じっと見つめる。痛みが限界を超えると、こんなにも何も感じなくなるのかと、改めて思い知った。「ちょうどよかったわ。私も、もうあなたはいらない」陽太はその場で固まった。数秒呆然としたあと、甲高い泣き声を上げる。「いらないならいい!僕だってママなんていらない!香織さんが僕のママになるもん!あっち行って!行って!」「宥里!」知輝は、宥里が陽太にそんな残酷な言葉を投げつけるとは思ってもみなかった。「陽太はお前の子供だぞ。よくもそんな残酷なことが言えるな。もうが
声は左手から聞こえてきた。宥里は足を止め、左側の病室へ顔を向けた。病室のドアは完全には閉まっておらず、大きく開いた隙間から中の様子がはっきりと見えた。香織はベッドに半身を起こし、陽太は小さな体をベッドの縁に寄せるようにして、両手でしっかりと香織の手を握りしめていた。ベッドから少し離れた椅子には知輝が腰を下ろし、穏やかな眼差しで二人を見守っている。事情を知らない者が見れば、仲睦まじい親子三人そのものだった。香織は愛おしそうに陽太を見つめ、彼に手を握られたまま優しい声で言った。「もう大丈夫だよ。陽太くんを心配させちゃったね。ごめんね」そう言うと、香織は優しく陽太の額へキスをした。陽太はまったく嫌がる素振りを見せず、それどころか照れたように頬を赤らめた。あどけなく、思わず頬が緩むほど可愛らしい仕草だった。だが、その口から出てきた言葉は、扉の外にいる宥里の心を凍りつかせるものだった。「全部ママが悪いんだ。何も知らないくせに勝手に邪魔ばっかりして、香織さんを入院させちゃったんだから。僕、ママなんて嫌い。香織さんに謝りに来ない限り、もう仲直りしないから。絶対に許さない!」香織は目を丸くした。陽太がそんなことを言うとは思っていなかったらしい。目を潤ませ、その瞳には戸惑いと安堵が入り混じっていた。そこで知輝が口を開いた。声にはわずかに厳しさが滲んでいる。「大人の事情は、子供が余計な口を挟むものじゃない」陽太は不服そうに口を尖らせた。「余計な口なんかじゃないよ!ママのことが、本当に嫌いなだけ!」そう言うと、香織の手を離して知輝のそばへ歩み寄った。そして、とても真剣な顔で言った。「ねえパパ、早くママと離婚してよ。香織さんに本当のママになってもらいたいんだ。いいでしょ?」「えっ?」香織がその言葉に息を呑んだ。ひどく動揺した様子だった。「陽太くん、何を言い出すの……」「陽太」知輝の顔がすっと冷たくなり、声にも厳しさが増した。「誰にそんな馬鹿げたことを教わったんだ」知輝は大学院生を指導する教授であると同時に、千人を超える社員を抱える科学技術企業の経営者でもある。ひとたび冷たい顔で怒れば、その威圧感は本物だった。周囲の空気まで凍りつかせるようだった。陽太はその様子に怯えて泣き出し、香織の胸に飛び込んだ。それでも