Masuk詩織の全身が強張った。重なった唇の隙間から、必死に声が漏れる。「だ、誰か、来るわ……!」しかし、柊也は動きを止めるどころか、彼女の唇をさらに深くこじ開けた。まるで胸の奥でくすぶっていた狂おしいほどの独占欲を、このキス一つにすべて注ぎ込むかのように、容赦なく舌を絡ませてくる。背中に当たる築山の岩は氷のように冷たく、すぐ数歩先からは客の笑い声が聞こえてくる。逃げ場のない死角に追い詰められ、息継ぎすら満足にできないまま、詩織の身体は小刻みに震え始めた。少しでも身をよじれば衣擦れの音が響いてしまうため、彼女は抵抗することすらできない。料亭は煌々と照らされ、廊下には絶えず人が行き交っている。そんなスリルを楽しむかのように、彼はわざと刃の上を歩くようなギリギリのラインで、彼女の甘さを貪り尽くそうとしていた。やがて詩織の膝から完全に力が抜け落ちた頃、ようやく彼は少しだけ唇を離した。親指の腹で彼女の濡れた口元を無造作に拭いながら、暗く燃えるような瞳で見下ろしてくる。「……いっそ、見つかればいい」詩織は抗議の代わりに、彼のすねをヒールで軽く蹴り飛ばした。「痛いな」柊也は低く喉を鳴らして笑うと、ようやく少しだけ余裕のある顔に戻った。大きな掌で詩織の頭をすっぽりと包み込み、宥めるように優しく撫でる。「悪かったよ、からかいすぎた。お前を呼び出したのは、新年のプレゼントを渡すためだ」詩織が『プレゼントって何?』と口を開きかけた、その瞬間だった。川の対岸、漆黒の夜空に、突如として一輪の巨大な花が咲き乱れた。最初はいくつもの光の尾が空高く舞い上がり、次の瞬間、腹の底に響くような轟音とともに炸裂する。溢れ出した金色の光の粒が、まるで柳の枝が垂れるように夜空の半分を埋め尽くし、きらきらと降り注いだ。見上げた詩織の横顔が、花火の眩い光に照らし出される。その瞳には、息を呑むような驚きと歓喜が浮かんでいた。だが、柊也は夜空を彩る花火など一瞥もしなかった。ただひたすらに、目の前の彼女だけを見つめていた。彼女の瞳の中で弾ける光の海を見つめながら、柊也はそっと身を屈め、彼女の髪のつむじに、愛おしげに口づけを落とした。花火が燃え尽き、最後の一筋の光が夜の闇へと静かに溶けていく。詩織はまだ夜空を見上げたままだった。その瞳は驚くほどきらきらと輝き
「ちょっ、母さん!人に見られたら恥ずかしいだろ、勘弁してくれ!」譲が情けなく命乞いをすると、悦子はしぶしぶ手を止めたものの、腹の虫はまだ治まらない様子だった。「……あんた、昨日の夜、汐莉ちゃんと喧嘩したわね?」探るような母親の問いに、譲の顔からすっと笑みが消えた。「ああ」とだけ短く肯定する。「ここ数日、ずっと考えていたのよ。この縁談、いくらなんでも急ぎすぎたんじゃないかって」二人が出会ってから婚約に至るまで、わずか半年しか経っていない。その間も、向こうの家族がやたらと結納を急かしてくることに、悦子は内心不信感を抱いていた。さらにこの数日で、悦子の耳には少しばかり気になる情報も入ってきていた。だからこそ、この機会に息子の意思をはっきりと確認しておきたかったのだ。「それにね、あの子の生い立ちや実家のこと、ちゃんと調べた上で決めたの?」「……いや」譲は包み隠さず認めた。そもそも最初、汐莉に目を留めた理由――それは単に、容姿が詩織に似ていたから、というだけだったのだから。悦子は周囲を気にしながら、ぐっと声を潜めた。「……噂で聞いたのだけれど。汐莉ちゃんは、愛人の子らしいわね。私がそういう出自の人間をどれほど憎んでいるか、あんたも知っているでしょう?」悦子は何も、汐莉という個人を目の敵にしているわけではない。「愛人の子」という存在そのものに、生理的な嫌悪感を抱いているのだ。それは、悦子自身が過去にどれほど深い傷を負わされたかに起因している。悦子の父親は、元々は母方の実家である名家・一条家に婿入りした身だった。一条家の莫大な資金と人脈を利用して会社のトップにのし上がった後、恩を仇で返すように外に愛人を作り、隠し子まで設けたのだ。母の一条澄子(いちじょう すみこ)は悦子を出産した際、大出血を起こして子宮を摘出しており、二度と子供が産めない身体になっていた。そのため、一条家の跡取りは一人娘の悦子だけだった。結婚前、父親は「生まれてくる子供には一条の姓を継がせる」と固く約束していた。しかし、権力を握った途端にその約束を反故にし、外で作った腹違いの姉弟を勝手に認知したばかりか、愛人やその息子を一条家のグループ企業に次々とねじ込み、実家の財産や経営権を丸ごと乗っ取ろうと企んだのだ。最終的に、母の澄子は一条の家と会
翌朝、ベッドから起き上がれないほどの猛烈な身体の怠さが、あの夜、彼がどれだけ激しく自分を貪ったかを物語っていたのだから。しかしそれ以上に詩織を驚かせたのは、柊也の顔に刻まれたあの傷跡が、志帆とは一切関係のないものだったという事実だった。心の底で燻っていた怒りが、また少しだけ薄れていく。詩織は、いまだに自分を強く握りしめている彼の手をちらりと見下ろし、わざと意地悪な問いを投げかけた。「もし、あなたが間に合わなかったらどうするつもりだったの?」「私が本当に、ホストを買っていたとしたら?」瞬間、柊也の手がギリッと音を立てんばかりに強く握り込まれた。静かだった彼の瞳の奥で、暴力的とも言えるほどの暗い情念がドス黒く渦を巻き始める。「もしも、なんてない」歯を食いしばるようにして絞り出されたその声は、ひどく掠れていた。「俺は……間に合ったんだ」詩織は込み上げてくる笑いを堪えながら言った。「だから、仮定の話よ。私たちは結局、5年も離れていたの。5年もあれば、色んなことが起きるわ」空白の5年――その言葉が出た途端、柊也の瞳からスッと光が消えた。絡めた指の力は緩むどころかさらに強くなり、まるでこの数年間で手からこぼれ落ちたもの、不確かだったものを、すべて力ずくで繋ぎ止めようとしているかのようだ。彼は深く顔を沈め、額が触れ合うほどの距離まで詩織に顔を近づけた。夜そのもののように重く、深い声が響く。「……狂うほど嫉妬する」「相手を殺したいくらいにな」「だが……それでも絶対にお前の手は離さない」......あっという間に年末を迎え、いよいよ大晦日の夜となった。詩織は、家族や親しい友人たちと過ごすために、高級料亭『玉響(たまゆら)』で年越し蕎麦と特別懐石の席を予約していた。店に到着すると、なんと偶然にも賀来家と坂崎家も、同じ料亭の別室で年越しの食事会を開いていた。初恵は以前、海雲に世話になった恩を忘れておらず、詩織を連れて彼らの部屋へ挨拶に出向くことにした。席についた柊也は、普段の強引で余裕たっぷりの態度はどこへやら、珍しく背筋を伸ばして行儀よく座っていた。詩織に熱を帯びた甘い視線を絡ませることもなく、初恵と話す時も極めて礼儀正しく、謙虚な好青年を演じきっている。その様子を見て、ミキが詩織の耳元でこっそり囁いた
車は静かに夜の街を抜け、詩織のマンションのエントランス前に滑り込んだ。だが今夜は、いつものように逃げるように車を降りることはしなかった。運転手も空気を読み、無言でそっと車を降りていく。後部座席に満ちる空気は普段よりも数段冷え込んでいるように感じられたが、詩織を握りしめる柊也の掌だけは、火傷しそうなほど熱かった。まるで、少しでも力を緩めたら彼女がふっと消えてしまうとでも言わんばかりに、帰りの道中、彼は片時もその手を離そうとはしなかったのだ。道すがら少しだけ窓を開け、夜の冷たい風に当たったおかげで、詩織の酔いは随分と醒めていた。混沌としていた思考も、少しずつ輪郭を取り戻していく。ずっと心の奥底に燻っていたあの頃の疑念は、彼が自らの口で真実を告げた瞬間、確信へと変わった。あの夜の男は――間違いなく、柊也だったのだ。だが、それでも辻褄の合わない細かな事実が多すぎる。詩織の記憶が正しければ、あの夜、柊也は交通事故に遭っていたはずだ。確か、志帆を迎えに行く途中で事故に巻き込まれたと聞いていた。今ではもう薄くなってしまったが、彼の眉骨の辺りには、その時の傷跡が確かに残っている。それはおそらく、彼の身体に刻まれた傷の中で唯一、詩織とは全く無関係の傷跡なのだ。次から次へと溢れ出す疑問に思考が追いつかず、詩織はどこから口をつければいいのか分からなかった。沈黙を破ったのは柊也の方だった。夜の闇に溶け込むような、低く掠れた声が響く。「あの夜、どうして俺があの店にいたのか……そう聞きたいんだろ?」それは問いかけではなく、すべてを見透かしたような断言だった。詩織はついに顔を上げ、彼の瞳を見つめ返した。街灯の明かりに照らされた彼の横顔は、光と影の狭間でどこか仄暗く見えたが、繋がれた手のひらだけはどうしようもなく熱い。「実は……ずっとお前の動向には人を付けて見守らせていた。どんな会食に出席しているか、同席者は誰か、どこの会社と手を組もうとしているか、とか……」「お前の仕事に口出ししたかったわけじゃない。ただ、変な連中が寄り付かないように、俺が裏から網を張っておきたかっただけだ」「例えば、以前お前が『吉来キャピタル』の投資マネージャーの面接に行った時もそうだ。あそこの板木はろくでもない男だからな。あいつの下につけば、お前が嫌
乱入してきたあの偽男は、太一に首根っこを掴まれ、そのままどこかへ連行されていった。それを見た汐莉は、針のむしろに座らされたような恐怖に襲われた。あの男、尋問されて私の名前を吐くんじゃ……慌てて霜花と対策を練ろうとしたが、霜花はすでに京介の背中を追って足早に部屋を飛び出した後だった。柊也と詩織が帰ってしまったことで、京介はすっかり興行を削がれていた。沙羅に簡単な別れを告げると、足早に店を後にした。彼が帰るのを見た霜花は、必死にその後を追いかけた。『ラウンジ・ノクターン』のエントランスで、ようやく彼の背中に追いつく。外はいつの間にか雨が降っており、肌寒い湿気が立ち込めていた。霜花はすがるような声で彼を呼び止めた。「京介!雨が降ってるの……家まで送ってくれない?」京介は車のドアに手をかけたまま動きを止め、振り返った。その視線は、この夜に降りしきる雨よりも冷ややかだった。「今夜の騒ぎ、お前が一枚噛んでるのか?」霜花の顔色が変わった。……江崎詩織のために、私を責めてるの!?彼女は引きつった笑顔を顔に貼り付け、必死に誤魔化そうとした。「な、何のこと?私はただ、あなたのお誕生日を祝いに来ただけで、何のことだか……」「霜花」京介は冷たく彼女の名前を呼び、その言葉を遮った。彼女を見下ろす瞳に同情の欠片はなく、ただ深い失望だけが沈んでいた。「俺の目を誤魔化せるとでも思ったか?」霜花の顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼の前で惨めな姿だけは晒したくなかったのに、こらえきれずに涙が溢れ出す。「ええ、そうよ。認めるわ!」彼女は突然金切り声を上げた。か弱く可憐な偽りの仮面は完全に砕け散り、その下から醜く歪んだ本性が露わになる。「あの子が目障りなのよ!だから大勢の前で赤っ恥をかかせてやりたかったの!」雨粒が彼女の髪を伝って落ち、化粧が崩れる。街灯の下に浮かび上がったその顔は、狂気じみていた。京介は、まるで赤の他人を見るような静かな目で彼女を見つめ続けている。「でもね、私がこんなことをしたのは……あなたを愛してるからなのよ!」「いい加減にしろ」京介の声は重く、冷徹だった。「無駄な真似はよせ。俺とお前はもう終わったんだ。その現実をいい加減受け入れろ」「でも、あの子には好きな人がいるのよ!」「だから
「五年前の夜、419号室に男がいたのは事実だ」「だが、お前じゃない」柊也はわずかに身を乗り出し、底なしの深淵を思わせる冷酷な瞳で男を威圧した。「なぜならあの夜、あの部屋で彼女を抱いたのは――」彼は一瞬だけ言葉を区切り、重く、しゃがれた声で、その場にいる全員を叩き伏せるように言い放った。「――俺だからだ」その言葉が落ちた瞬間、個室の中は死に絶えたような静寂に包まれた。霜花はハッと息を呑み、指を強く握りしめた。瞳孔が限界まで収縮する。汐莉の顔に張り付いていた冷笑が、完全に凍りついた。男は血の気を失い、柊也から放たれる殺気に怯えて顔を上げることすらできなくなった。美穂から金を受け取った時は、「江崎の過去を徹底的に叩け」としか聞いていなかったのだ。まさかその時の『本命の男』が現場にいるだなんて、誰が想像できただろうか!柊也はもう、他の誰にも視線を向けることはなかった。背筋を伸ばし、詩織の手の甲を親指でそっと撫でる。その仕草には、有無を言わさぬ絶対的な庇護の意志が込められていた。そして、冷たい声で太一に命じた。「こいつはお前に任せる。裏で糸を引いている人間を全員炙り出せ。一人も逃がすな」「了解っす!」太一は弾んだ声で答えた。こういう汚れ仕事は彼の得意分野だ。同時に、太一は内心で深く安堵の息を吐いていた。なるほどな。柊也が最初から最後まで余裕ぶっこいてた理由が分かったぜ。まさかこいつ自身がその『男』だったとはな。まったく、俺の焦りを返してほしいぜ。ミキは、ずっと握りしめていた酒瓶からようやく手を離した。柊也が自ら名乗り出てくれてよかった。もしあともう一秒遅ければ、この酒瓶は間違いなくあの偽男の頭で砕け散っていたことだろう。柊也は再び詩織の隣に腰を下ろしたが、繋いだ手を決して離そうとはしなかった。彼女を包み込むその大きな掌は、驚くほど熱かった。今の詩織の頭の中は、完全に混乱していた。思考が追いつかない。だが同時に、すべてがひどく腑に落ちるような感覚もあった。なぜなら――あの夜の彼が『柊也』だったのだとすれば、あの時の抱きしめられ方や感触が似ていた理由も、すべて筋が通る。その「筋が通る理由」がベッドでの感触だなんて、当然ながら彼女自身しか知らない秘密だった。自分が丹念に練







