ログイン一度の交通事故で、御堂澄花(みどう すみか)は夫・御堂柊吾(みどう しゅうご)の恋人が運転する車にはねられ、流産した。 澄花が手術室で生死の境をさまよっているというのに、夫はその女性を庇い、澄花を連れて病院をあとにした。 その瞬間、澄花はようやくすべてを悟った。 彼を愛するのは、今夜で終わり。 仕事を辞め、離婚し、キャリアの頂点に返り咲く。 それでも柊吾は気にも留めなかった。「俺の気を引くための小細工にすぎない。まだ俺の子を身ごもってるんだ。どこへ行けるっていうんだ」 ところが、彼のもとに澄花の結婚式の招待状が届き、会社には流産を証明する診断書が送られてきた。 かつて誰よりも傲慢で、いつも人を見下ろしていた男が、今では彼女の指に輝く結婚指輪を強引に外し、どうしても彼女を手放そうとしない。「今から、俺たちはやり直す」 けれど澄花はただ静かに彼を見つめ、問いかけた。 「私たち、一体どうやってやり直せるの? あなたの子を妊娠していた私が事故に遭ったとき、あなたが庇って病院から連れていったのは、あの女だけだった。そのせいで、私たちの子はお腹の中で死んだ。 そして、あなたは私の母の形見を競り落として、あの女にプレゼントした。 あなたはあの女を持ち上げ、彼女のために道まで切り開いた。あなたがあの女を愛していることなんて、誰もが知ってる。 ねえ、教えて。こんな過去をどうやって消せばいいの?私はどうすれば、この苦しみを乗り越えられるの?こんな私たちが、どうやってもう一度やり直せるっていうの?」
もっと見る征宏は、やつれた澄花の顔を痛ましそうに見つめ、少し言葉を詰まらせてから、また口を開いた。「君は本当に……馬鹿なことをしたな……!」征宏の目から、悲しみの涙が止めどなく溢れた。彼はずっと、澄花を実の子供のように思ってきたのだ。澄花は隠そうとはせず、静かに首を振ってから言った。「先生、先輩……私、子供を亡くしました」あまりにも小さな声だった。それなのに、その一言は巨大な石が水面に叩きつけられたかのような衝撃をもたらした。一瞬にして、個室は静まり返り、聞こえるのは息遣いだけになった。どれほどの時間が経ったのか。最初に我に返ったのは智也だった。「何を言ってるんだ?どうしてそんなことになるんだ?」征宏もすぐに問いかけた。「澄花、どういうことだ。ちゃんと話してくれ。君、もう妊娠四か月だったんじゃないのか?」先生と先輩、二人が心配そうに自分を見つめているのを見て、澄花はあの交通事故について話した。すべてを聞き終えた征宏は、怒りのあまり全身を震わせた。「御堂柊吾という男は……どうしてそこまで冷酷になれるんだ!」智也は慌てて薬を取り出し、先生に飲ませると、その肩を支えながら澄花を見た。「お前が言ってた御堂柊吾の愛人……名前は何ていう?」澄花も急いで水の入ったグラスを手に取り、先生に飲ませながら答えた。「九条莉央です」その瞬間、智也の顔色が一変した。征宏に至っては、怒りのあまり顔色を変え、椅子に倒れ込むようにもたれたまま、言葉すら出せなくなってしまった。「先生、大丈夫ですか!?」澄花はひどく慌てた。「先生、ごめんなさい。全部私が悪いんです。こんなこと、先生に話すべきじゃなかった……!」智也は急いで外へ出て、スタッフを呼んだ。「お前のせいじゃない。先生はもう……いや、今はいい。先に先生を病院へ連れていく。お前も流産したばかりで体がもたないだろうから、無理して急ぐな。落ち着いてあとから来い。あとでお前に聞きたいことがある!」澄花は先生の様子を見つめながら、先輩が途中で飲み込んだ言葉が何を意味しているのか、なんとなく察していた。下腹部には、かすかな痛みが残っていた。流産してからというもの、ずっとこんな調子だった。それでも澄花は強く頷いた。「分かりました!」ほんの少し息を整えると、澄花はすぐに慌ただしく立ち
智也は、それ以上言葉を続けられなかった。澄花がこんなことをしているのも、結局はわざと距離を置いて柊吾の気を引き、自分を意識させようとしているだけなのだと、彼は思っていた。少し間を置くと、もどかしさを滲ませた声で言った。「男の心にお前がいないなら、どれだけ努力したって結末は変わらない。まして相手は、御堂柊吾みたいな冷酷で情の薄い、利益第一の資本家だ。あいつがビジネスの世界で何て呼ばれてるか知ってるか?『生きた閻魔』だぞ。ああいう人間に情けや同情を期待するだけ無駄だ」澄花は、先輩が自分を誤解していることに気づかなかった。その言葉を聞くと、胸の奥が少しだけ温かくなり、素直に頷いた。「先輩、分かってます」政府とのプロジェクトさえ無事に進められれば、父と兄の件についても政府側の関係者に相談し、必要な支援を求められる。柊吾の顔色をうかがう必要もなくなるし、子供を失ったことで柊吾が自分や父、兄にまで報復してくるのではないかと怯える必要もなくなる。しかし智也は、澄花の「分かってる」という言葉をまったく信じていなかった。その後は道中、この話題に触れることはなかった。それに彼は、柊吾の気を引くためなどという気持ちを抱いたまま、澄花が会社に戻って好き勝手することも許すつもりはなかった。あそこは研究をする場所だ。男を口説くための足がかりではない。だからこそ、智也は淡々と言った。「会社では今、新しい人材を入れようとしてる。俺が目をつけてるのは、聖陵大学から帰国した博士だ。かなり目立った実績と研究成果があって、昔のお前にも引けを取らない。それに、先生にも一度会わせてみようと思ってる。先生に最後の弟子として迎えてもらえるかどうか、相談するつもりだ」澄花は呆気に取られた。その言葉が何を意味しているのか、分からないはずがない。先輩は自分に失望し、もう自分を必要としていないのだ。「……誰なんですか?私も知ってる人ですか?」智也の声は硬かった。「学界の新星だ。かなり優秀な女の子だよ。お前はここ数年、くだらない日常のことばかりにかかりきりだったんだから、名前を言ったところで分からないだろ」もともと智也は、もし澄花が本当に目を覚まして戻ってくる気になったなら、莉央を会社に入れ、澄花の下につけて補佐をさせてもいいとさえ考えてい
美玲から送られてきたメッセージを証拠としてスクリーンショットを保存し、続いて社長室から届いた通知もスクリーンショットに残した。家に戻ったら、先輩に頼んで弁護士を紹介してもらい、対応を任せるつもりだった。そこまで済ませると、澄花は周囲のことをすべて頭から追い出し、余計なことを考えず、展示会のほかの重要な内容に集中した。少し離れた場所から澄花を見た直哉は、嫌悪を隠そうともせず吐き捨てた。「厚かましくついて入ってきた挙げ句、莉央を陥れるのに失敗したら、今度はもっともらしくペンを持ってメモなんか取ってる。あいつ、本当に内容が理解できてるのか?」そこで言葉を切ると、呆れ果てたように続けた。「事情を知らない奴が見たら、あいつまで研究に参加するつもりなのかと思うだろ。お前の気を引くためなら、本当に何でもありだな。恥も外聞もない!」柊吾は澄花を見ることも、直哉の言葉に応じることもなく、ただ冷淡に言った。「お前はしゃべりすぎだ」だが、その視線の端では、客席で真剣に話を聞いている澄花の姿を捉えていた。――俺の気を引くため?もしそうなら、この数日、彼女の様子がおかしかったことにも説明がつく。直哉もそれ以上は何も言わなかった。ちょうど莉央が戻ってきたからだ。「さっきの発表内容が公開された直後に、SMテクの高瀬社長から協業の申し出が来たの。それに、高瀬社長の恩師である阿部教授も私の発表を見てくださったらしくて、一度会ってみたい、できれば最後の弟子として迎えたいって。展示会が終わったら、私が食事をご馳走するわ。みんなでお祝いしましょう!」莉央の口調は、先ほどの不愉快な一幕など最初からなかったかのように、軽やかで明るかった。直哉も、それでいいと思った。澄花のような女など、彼らがわざわざ気に留めるほどの存在ではない。澄花を大した人間だと思っているのは、ほかならぬ本人だけだ。――馬鹿馬鹿しい。……展示会が終わると、智也が自ら澄花を迎えに来た。澄花が話を聞きながらかなりの量のメモを取っていたのを見て、彼は思わず満足げに頷いた。――ようやく、少しは研究者らしくなってきたな。褒めてやろうとした、そのときだった。智也は、少し離れた場所から大勢に囲まれて出てくる一団に気づいた。ほかの人間まではよく見えなかったが、先頭に
どれほど鈍い人間でも、それくらいは分かる。柊吾は澄花に席を譲らせ、莉央を自分の隣に座らせようとしているのだ。それを聞いた莉央も、もう座ろうとはせず、ただ澄花の前に立ったまま、彼女が席を立つのを待っていた。まるで澄花のほうが自分の席を横取りしたかのように、当然の顔をしていた。澄花は無表情のまま、まっすぐ前を見つめた。――私は、誰にも何も負い目はない。「耳でも聞こえないのか?席を譲れって言ってるんだ」会場にはますます人が集まってきていた。直哉は冷たい声で、さっさと立つよう澄花に命じた。澄花はただ、馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。「席を変えたいなら、御堂社長と榊原さんが九条さんと一緒に運営スタッフへ相談すればいいでしょう!ここは私の席ですし、先に来て座っていたのも私です。どうして私が譲らなきゃいけないんですか?」柊吾がわずかに眉を上げ、澄花へ視線を向けた。彼にじっと値踏みするように見られているのが、澄花にも分かった。長年、人の上に立ち続けてきた者は、ほんの一瞥だけで、余計な言葉などなくとも周囲を圧倒する威圧感を放つ。澄花は彼が怖かった。心の奥底に、柊吾そのものへの恐れがあり、そして彼が持つ、圧倒的な権力にも畏怖を感じていた。それでも、どうして自分ばかりが何度も譲らなければならないのだろう。もうすぐ、二人は何の関係もなくなるというのに。澄花は顔を上げ、真正面から柊吾の目を見返した。柊吾の眼差しが冷たくなる。彼が怒り始める前触れだということを、澄花は知っていた。そのとき、莉央が一歩前へ出た。「柊吾、私は大丈夫よ。席ひとつくらい、彼女に譲ってあげてもいいじゃない。私のために、関係のない人に腹を立てたりしないで。ね?」「関係のない人」と口にしたとき、莉央は澄花を一瞥した。彼女は以前から澄花という存在そのものは知っていた。しかし澄花がどんな人間なのかを知ったのは、先日、美玲が殴られた一件があってからだった。まさか、こんな女だったとは。莉央は、妊娠で体つきがふっくらし、顔にはシミまで浮かんでいる澄花を眺めた。そんな彼女と張り合う気などないと言わんばかりに、寛大な口調で続ける。「妊娠しているんだから、あまり出歩かないほうがいいわ。今は赤ちゃんが一番大事でしょう?こういう技術に興味があ