INICIAR SESIÓN詩織は小さく唇を噛み、ためらいがちに尋ねた。「……苦しい?」「見れば分かるだろ?」柊也は力なく笑い、まいったというように息を吐く。「この五年間、誰とも寝てないんだ。今までも何度かチャンスはあったけど、君に嫌われるのが怖くて、ずっと必死に耐えてきた」「俺だって男だ。君を前にして何の欲も湧かない方が、どうかしてる」ましてや相手は、十二年間求め続けた女性なのだ。抗えるはずがない。数秒の沈黙の後、詩織はぽつりと言った。「ミキが言ってた。一度私を捨てた人は、これから先も私を大切にしないって。手に入れた途端、どうせまた冷たくなるだけだって」その言葉に、柊也の熱は一瞬にして凍りついた。顔を上げた彼の瞳に、痛切な自責の念が浮かぶ。彼女がこれほどまでに怯え、今の状況を夢幻のように感じてしまうのは、すべて自分が深く傷つけたからだ。彼は詩織の手を取り、その甲に謝罪と祈りを込めるように深く口づけた。「……ごめん。俺が君を傷つけたからだ」「無理強いは絶対にしない。もし君が、手に入れられたら捨てられると不安に思うなら、この先ずっと焦らしてくれて構わない。一生そのまま、俺を弄んだっていい」詩織が帰宅したのは、すでに夜の十時を回っていた。柊也が家まで送り届けてくれたのだ。玄関を入ると、ミキがカイと遊んでいた。詩織の姿に気づき、声をかけてくる。「夕ご飯、食べた?」「うん、食べたよ」「よかった。私、作ってないから」ミキはカイを抱きかかえ、わしゃわしゃと撫で回している。カイもすっかり撫でられ慣れたもので、威嚇することもなくされるがままだ。「私、来週から仕事で北里に撮影に行くんだ。しばらく専属シェフはお休みだから、休暇中のお手伝いさん、呼び戻したら?」詩織は少し考えた。「ううん、いいよ。最近向こうも休みを満喫してるみたいだし。夕飯なら心配しないで。密がいるから、飢え死にすることはないわ」「それもそうね」密がいなくても、あの『忠犬』が目を光らせているのだ。たしかに彼女が食事に困る心配はないだろう。詩織がカイを抱き上げようと身を乗り出した時、ミキがふと彼女の首筋に目を留めた。「ねえ、首のそこ、どうしたの?赤いけど」「えっ……あ、蚊に刺されたのかも」「真冬に蚊なんている?」「……」詩織は言葉に詰まった
触れ合うほどに近い場所から、熱い吐息がうなじに吹きかかる。その熱は瞬く間に肌を伝い、全身を火照らせていった。顔を真っ赤にし、心臓を狂わせながらも、詩織は精一杯の平静を装う。「……救急箱を、片付けようとしただけ。別に、逃げてなんてないわ」柊也はその赤い耳たぶを至近距離で見つめ、不意に低く笑った。「何が可笑しいのよ」すべてを見透かされているような気まずさに耐えかね、再びその場を離れようとする。だが、立ち上がるよりも早く、背後から熱い体が重なった。痺れるような感触が腰に伝わり、逃げ場を塞がれる。そのまま耳たぶに柔らかな唇が落とされ、敏感な耳の奥に熱が吹き込まれた。思わず身をよじって避けようとしたが、柊也はそれを許さない。顔を傾けた彼は、逃げる詩織の淡い桜色の唇を、逃さず啄んだ。一度火がついた熱情は、もう誰にも止められなかった。柊也の口づけは激しく、貪欲で、彼女の退路を断つように深く、深く注がれる。やがて詩織が諦めたように瞳を閉じ、すべてを受け入れると、その力は少しずつ解け、甘く絡み合うような抱擁へと変わっていった。重なる胸の奥から、互いの鼓動がはっきりと伝わってくる。特に柊也のそれは、壊れそうなほど激しく打ち鳴らされていた。長い沈黙を破るように、柊也がようやく唇を離した。離れた詩織の頬は、上気して薄紅色に染まっている。その姿を見つめる柊也の瞳に、激しい衝動が渦巻いた。五年の空白――募りに募った独占欲は、たかが一度のキスで収まるはずもない。彼女の眼差し一つで、彼の欲望は容易く限界を超えてしまう。細い腰に回された指先が、無意識に、だが確かな意味を持って這い回った。そこが詩織の弱点であることを、柊也はよく知っている。どの場所が敏感で、どこを愛でれば彼女の理性が溶け出してしまうのか。五年という月日が流れても、彼はそのすべてを手の内に入れていた。首筋に熱い唇を這わせると、詩織の体がびくりと震えた。結んだ唇から漏れた子猫のような吐息が、柊也の昂ぶった神経をさらに煽る。痺れるような快感が全身を駆け抜け、柊也の声は、もはや判別できないほど掠れていた。彼は確認するように、愛おしさを込めてささやく。「……いいか?」自分は決して紳士ではない。かつて、骨髄提供の恩返しだと言って
柊也の声はわずかにかすれ、溢れ出す想いを抑えきれない様子で、詩織の瞼にそっと唇を落とした。松田龍二との因縁、そしてあの夜の記憶が詩織の脳裏を駆け巡る。胸が締め付けられるような感覚に襲われ、彼女は震える声で尋ねた。「……じゃあ、あの路地裏で私を助けてくれたのも、あなただったの?」「ああ」柊也はどこまでも優しい声で応じた。「あの頃、君が危ない目に遭わないか心配で、ずっと後をつけていたんだ。……まさか、本当にあんな奴らに襲われるとは思わなかったけど」あの時期、彼は父である海雲に「もう無茶な真似はしない」と約束し、監視のボディガードを遠ざけていた。ただ、誰にも邪魔されずに彼女を見つめていたかったのだ。顔を合わせることも、言葉を交わすこともない。それでも、遠くから彼女の姿を目にするだけで、明日も生きていこうと思えた。以前、須藤校長から聞かされた言葉が脳裏に蘇る。「あの日、身を呈して君を助けてくれた人はね、ひとりで八人を相手にして、半月も入院したんだよ」――あの時の恩人は、他でもない柊也だったのだ。その事実を噛みしめ、詩織の胸の奥で一旦は引いた熱が再びぶり返す。柊也は彼女の瞳の奥を覗き込むように、じっと見つめ続けた。「……誤算だったのは、退院してようやく君に会いに行った時、君の隣にはもう『騎士』がいたことだ」「それに、君が彼を『彼氏だ』と言っているのも、この耳で直接聞いてしまったからね」あまりに皮肉で、あまりに切ないすれ違い。「……どうして、あの時聞いてくれなかったの?」詩織は苦い後悔に苛まれる。十二年だ。人生の中で、これほど長い時間をどれだけ持てるというのだろう。「聞いたさ。だけど君は『好きな人がいる』と答えた。……俺は、それが京介のことだとばかり思っていたよ」京介の名を口にするだけで、柊也の瞳には隠しきれない暗い影が落ちる。未だにその名には、拒絶反応にも似た痛みが伴うのだ。「それはあなたが……いつだって私に冷たく接していたからじゃない」詩織の声に、割り切れない想いが混じる。「お母さんに骨髄を提供してくれた時も、私は恩返しがしたいって、あなたを訪ねて行ったのに」それは、詩織にとってあまり思い返したくない、若気の至りだった。当時、彼女はまだ十八歳。世間のことなど何も分かっておらず、人の心の機微に
屋上には強い風が吹いており、詩織の髪を激しく乱していた。なんとかして彼の命を繋ぎ止めたい。そう思っても、こんな局面に直面したことのない十七歳の少女に、気の利いた言葉など見つかるはずがない。「……もしあなたが飛び降りたら、お母さんが悲しむわ!」しばらくの沈黙。やがて、冷たい風に乗って男の声が届いた。「俺の母は、もう死んだ」しまった……!自分の浅はかな言葉に血の気が引き、猛烈な自己嫌悪に陥る。「ご、ごめんなさい!ごめんなさい……!」男は彼女の謝罪を意に介すことなく、わずかに体を前に傾けた。彼がいるのは、欄干の外側。縁のギリギリだ。あと一寸でも前に体重をかければ、すべてから解放される。飛び降りてしまえば、払っても払ってもつきまとう悪夢から、底なし沼のような絶望から逃れられる。ぼやけた視界の中で、男の背中がふらりと揺れた。「待って!」詩織はパニックになりながらも、なりふり構わず声を張り上げた。「私、今日、国際数学オリンピックで金メダルを獲ったの! ……ねえ、見ず知らずの私に、おめでとうって言ってくれない!?」その切羽詰まった声は、見えない糸のように彼の足首を絡めとった。彼のいる暗黒の世界には存在しない、明るく、そして必死な声だった。「その大会、すごく難しかったのよ!なのに私、満点を取ったの!私ってすごいでしょ!?」柊也は何も答えなかった。しかし、それ以上前に進むこともなかった。「このメダル、あなたにあげる!だから、私の代わりに大切に持っててくれない!?」「私が大人になってお金を稼げるようになったら……そのメダルを持ってきて!そうしたら、何でも好きなものをプレゼントしてあげるから!」交渉術など知らない。ただ、こう言えば少しは彼の気を引けるかもしれないと、無我夢中で口走っていた。もしかしたら、「プレゼント」という言葉に心が揺らいでくれるかもしれない。そんな一縷の望みにすがりついて。男はしばらく黙り込んでいたが、やがて問い返してきた。その声からは、先ほどまでの頑なな響きが消えている。「……高いものとでも、交換できるのか?」「もちろんです! 私に払える範囲なら何でもいいわ。好きなものを選んで」食い気味に答えると、彼が気が変わるのを恐れるように、詩織はメダルを縁の近くへそっと置いた。「ここに置いておくから
深い絶望の淵に沈んでいた彼女を、力強く引き上げてくれたのが柊也だった。あの日、あの時の記憶はあまりにも強烈だ。何年経とうと、光を背負って現れた彼の姿を鮮明に思い出すことができる。心の一番深い場所に、消えない焼き印のように刻み込まれているのだ。だからこそ彼女は、一切の見返りを求めず、七年もの間彼に愛情を捧げ尽くすことができた。なのに今になって、あれは最初の出会いではないと言うのだ。「じゃあ……いつなの?」真相を知りたいという焦燥で、胸が波打つ。彼女の瞳からその渇望を読み取ったのだろう。柊也は腰に回していた手を離し、立ち上がってデスクへと向かった。引き出しから小さな箱を取り出すと、戻ってきて再び彼女を抱き寄せる。そして、その箱を詩織の手に乗せた。「開けてみて」渡されたのは、ベルベット生地のジュエリーボックスだ。何度も手で弄ばれていたのだろう。箱の角は擦り切れ、生地が薄くなっている。柊也の静かな眼差しを受けながら、詩織はゆっくりと蓋を開けた。中に収められていたのは、金と赤のコントラストがまぶしい立派なメダルだ。それを見た瞬間、詩織は息を呑んだ。まさか、という疑念を確かめるように、震える指でメダルをつまみ上げ、裏側を確認する。そこには、受賞者の名前がはっきりと刻まれていた。『江崎詩織』私の、メダルだ!初めて国際数学オリンピックに出場した時に獲得したもの。あの年、彼女は十七歳だった。国際大会という大舞台で満点を叩き出し、堂々の金メダルに輝いた。この実績が高村教授の目に留まり、後に愛弟子として迎え入れられることになった、まさに彼女の人生の転機とも言える品だ。「――思い出したかな?」柊也が静かに問いかける。「……あの時の、病院の屋上にいた自殺志願の人?」記憶の断片が、鮮明に繋がり始めた。あの日、メダルを手にした詩織は、真っ先に母・初恵へ報告しようと駆け出した。だが、母が働く職場に着くと、同僚の女性から「お母さんは仕事中に倒れて、救急搬送されたわよ」と告げられた。生きた心地がせず、病院へ急行した。診察室に呼ばれた彼女を待っていたのは、残酷な診断結果だった。重症再生不良性貧血。救うための最善策は、骨髄移植しかない。わずか十七歳の詩織にとって、それは青天の霹靂
以前の詩織は、柊也が想い続けているのは志帆だと思い込んでいた。だが今は、それがまた別の誰かであることを察している。「大ありだ。これ以上ないほど直接的にな」全てを話すと決めた以上、もう隠すつもりはなかった。彼女と京介が付き合っていなかったと知ったあの日から、いつか機会を見つけて打ち明けようと思っていたのだ。今日という日が、その時なのだろう。「今日の事件は、もとはと言えば彼女がきっかけなんだ。十二年前、俺が松田龍二と揉めたのも、彼女を助けるためだったから」詩織は視線を伏せた。瞳に宿る複雑な感情を悟られたくなかったのだ。憧れのヒロインを救い出すヒーロー。そんな物語のような一幕があったとは。「……そんなに好きだったのに、どうして結ばれなかったの?」努めて淡々と言いながらも、言葉の端々に隠しきれない刺が混じる。「彼女には別の相手がいると、誤解していたんだ」柊也の声には、深い悔恨が滲んでいた。たった一つの誤解のせいで、二人の時間は十二年もの間、止まったままになってしまった。後悔しないはずがない。もしあの時、誤解がなかったら。自分たちの運命はどう変わっていただろうか。おそらく自分は復讐など捨てていただろう。父である海雲が望んだように、彼女と共に穏やかな人生を歩んでいたはずだ。実際、昔の柊也は彼女の存在に何度も揺らぎかけていた。海雲は柊也の復讐心を削ぐために、詩織を徹底的に利用した。彼女に見合い相手を次々と紹介し、あえて柊也にその品定めをさせることで、彼の独占欲を煽り、憎しみから目を逸らさせようとしたのだ。それは柊也にとって、耐え難い挑発だった。だが当時の彼は、詩織の心には京介がいると信じ込んでいた。だから、何もできなかったのだ。これ以上、真実を知りたくない。そう思ってしまった自分に気付き、詩織は小さく息を吐いた。どうやったって、心は揺らぐ。ミキの言う通りだ。私は今、また彼に振り回されている。「あいつらを止めた時、肋骨を三本折ってね。半月も入院する羽目になった。退院して一番に彼女のもとへ向かったんだが、そこで何を見たと思う?」「……私が聞いたのは、松田龍二の動機よ。理由は分かったから、これ以上は聞きたくない」何故か苛立ちがこみ上げ、詩織はパタンと音を立てて救急箱の蓋を
賢が電話を切った直後、入れ替わるように悠人からの着信が入った。彼はハンドルを握りながら通話ボタンを押した。「もしもし、賢さん?今どこですか?」「悪い。急用ができたから行けなくなった。みんなで楽しんでくれ」「えっ、マジですか? せっかく久しぶりに北里に戻ってきたのに……みんな待ってますよ」「また次の機会にな」賢はそれだけ告げると通話を切った。悠人がこの店に残っていたのは、ひとえに賢を待つためだった。主役が来ないのなら長居は無用だ。彼は興味を失い、友人たちに挨拶をして早々に引き上げることにした。運転手から「まもなく到着します」と連絡があり、店の外で待とうとエントラン
余計なことは喋るなという警告か?詩織がその真意を探ろうと睨み返した時には、彼はもう興味を失ったように視線を外していた。そして、自分の腕に愛おしそうにしがみつく志帆に向き直ると、先ほどとは打って変わった穏やかな声色で囁く。「ヒールで立ちっぱなしは辛いだろう。あっちで少し座ろうか」「うん、ありがとう」二人は見せつけるように寄り添い合い、人混みの中へと消えていった。詩織はふと視線を落とし、自らの足を包むハイヒールを見つめた。口元に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。学生時代、親友のミキによく愚痴をこぼしていたものだ。「ハイヒールなんて、現代の拷問器具よ!」けれど社会に出れば、嫌
その瞬間、詩織の脳裏には無数の言葉が駆け巡った。「末長くお幸せに」といった定型的な祝福。あるいは、「お似合いね、一生お互いを縛り合って世間に害を撒き散らさないでね」という皮肉たっぷりの毒舌。けれど結局、彼女は何も言わなかった。祝福の言葉だろうと呪いの言葉だろうと、かつて彼に真剣な想いを捧げた自分を裏切ることになるような気がしたからだ。だから彼女は沈黙を選び、そのまま静かに部屋を出て行った。詩織が去ったあとの部屋で、柊也は一人、黙々とケーキを食べ続けた。半分ほど平らげたところで手を止め、誰に聞かせるでもなく呟く。「……このケーキが、はなむけ代わりってことにしておくか」
その一連の光景を、志帆は冷ややかな目で見つめていた。皿の上に載った極上のフォアグラが、急に砂を噛むように味気なく感じられる。詩織は今日一日フル回転で働いていたため、空腹は限界に達していた。譲にメニューを渡され、遠慮なく自分の好きなものを次々とオーダーしていく。その飾らない姿を見て、譲はまたしても彼女への評価を新たにしていた。本当の彼女は、こんなにも自然体で魅力的な女性だったのか。それに引き換え、以前の自分はどうしてあんなにも目を曇らせていたのだろう。「江崎詩織は媚びを売るのが上手い、あざとい女だ」などと。よくよく思い出してみれば、かつての彼女は常に柊也を中心に回







