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第4話

作者: 閑雲
陽咲は静かに怜央を一瞥しただけで、何も答えなかった。

代わりに口を開いたのは、聡子だった。その声には、隠しきれない嘲笑が混じっている。

「ええ、あの子の祖父は確かに清水正雄という名前だったわ。でも、ただの田舎者よ。土いじり以外に何の取り柄もない男で、二年も前に死んだわ」

二年前――それはちょうど、陽咲が望月家に引き取られた年だった。

そこまで言うと、聡子は忌々しげに陽咲を睨み、ため息をついた。

望月家に引き取られて以来、陽咲は頑なに「清水」の名字を変えようとしなかった。「血の繋がりは、名字ひとつで証明するような薄っぺらいものではないでしょう」というのが彼女の言い分だった。

聡子も頭では理解していた。だが、目の前の娘が「望月」を拒み、「清水」という名字を背負い続けている事実は、家族の中に消えないしこりを残していた。それが、彼女が陽咲を心から愛せない理由の一つでもあった。

正雄を愚弄されることだけは、陽咲にとって絶対に譲れない一線だった。

彼女は聡子の嘲るような視線にも怯まず、凛とした態度で正雄を庇った。

「おじいさんは確かに田舎の人間でしたが、男手一つで私を不自由なく育て上げ、人としての道理とわきまえを教えてくれました。私にとって、おじいさんは決して、お母さんが仰るような『土いじり以外に何の取り柄もない男』ではありません」

聡子は陽咲の性格を熟知していた。一見おっとりとしていて従順そうに見えるが、その実、理不尽なことには決して屈しない、頑固な芯の強さがある。

怜央の前でこれ以上醜態をさらすわけにもいかず、彼女は苦々しげに陽咲を睨みつけると、口をつぐんだ。

陽咲の祖父が「ただの田舎者」だったと聞き、怜央の瞳には複雑な色がよぎった。それは、「救われた」という思いと、拭い去れない「失望」だった。

もし彼女が本当に、あの伝説の陶芸家、正雄の孫娘であったなら、これまでの冷遇を思えば、自分はどんな顔をして彼女に向き合えばよかったのか。

そうならなかったことに安堵する一方で、彼女がビジネスの助けにはならないという事実に、怜央は内心で重い溜息をついた。あの厄介な取引先を、結局は自分の力だけで口説き落とさなければならないのだ。

怜央はそんな内心を微塵も表に出さず、静かに立ち上がった。

「お義母さん、もう九時になります。今日は陽咲を連れて帰りますね。また折を見て顔を出します」

病室を出てすぐの廊下で、怜央が唐突に足を止めた。

背後を歩いていた陽咲は避ける間もなく、彼の広い背中にのめり込むようにぶつかった。

陽咲はわずかに眉をひそめ、じんじんと痛む額を片手で押さえながら、怜央を見上げた。

怜央の顔色は決して優れているとは言えなかった。その切れ長の瞳は深く沈み、測りかねるような暗い光を宿して、じっと彼女を見つめている。

「どうしたの?」

陽咲が怪訝そうに問いかけると、その声が彼を強引に現実へと引き戻した。

怜央は小さく眉間にしわを寄せ、考え込みすぎていた自分に毒づく。

彼はいつものように陽咲の手を取ろうとした。しかし、その手は空を切った。

陽咲が条件反射のように彼の手を振り払った。

――汚らわしい。

その瞳の奥に宿った明らかな嫌悪の色に、怜央は一瞬、呆気に取られた。見間違いだろうか。あの陽咲が、自分に対してこんな目を向けるはずがない。

しかし、彼女はさらに一歩後ずさり、他人を見るような冷ややかな視線を向けてくる。怜央はそれ以上強いるのを諦め、憮然とした様子で歩き出そうとした。

その時、病室から出てきた悠里が、連れ立って帰ろうとする二人の後ろ姿にどす黒い嫉妬の視線を送っていた。

あの田舎娘が、どうして怜央さんと結婚できたのよ……

悠里は瞬時にその醜い感情を押し殺すと、再び顔を上げた時には、今にも泣き出しそうな不安げな表情へと塗り替わっていた。

「怜央さん……お母さんは今夜、このまま入院することになったわ。昼間に運転手に休暇をあげてしまったし、こんなに暗い中、一人でタクシーに乗るなんて怖くて……

「……送ってくれないかしら?ちょうど望月家も、あなたたちの帰り道でしょう?」

怜央は、悠里の切実な頼みに喉を鳴らし、迷うように隣の陽咲を窺った。

陽咲はただ一言だけ言い捨てた。「ご自由に」

そして、そのまま一度も振り返ることなく歩き出した。

彼が誰を送り、誰と夜を過ごそうと、今の彼女には心底どうでもいいことだった。

陽咲が車の傍らで一分待って、ようやく、怜央が一人でこちらへ歩み寄ってきた。

その背後には、誰の姿もない。

「悠里は理玖に送らせたよ。夜も遅いし、明日は俺も朝が早いからな」

茂野理玖(しげの りく)は、怜央の専属運転手である。

陽咲は答えず、無言のまま後部座席に乗り込んだ。

怜央がシートベルトを締めようとして手を止め、目を閉じた陽咲を見た。「……なぜ助手席に乗らない?」

「疲れてるの」

陽咲は目を閉じたまま短く答えた。「悠里が座っていた席など、汚らわしくて座りたくもない」という本音は飲み込んだ。

怜央は何も言わず、エンジンを始動させた。

信号待ちの合間、窓の外をぼんやりと眺める陽咲の姿をバックミラー越しに見つめるうち、憐央はふと、どこかで彼女に会ったことがあるような奇妙な感覚に囚われた。

しかし、それを思い出す前に信号が青に変わり、彼はアクセルを踏み込んだ。

「しかし驚いたよ、陽咲。君の祖父も清水正雄という名前だったとはね。一瞬、あの陶芸界の巨匠かと思ったじゃないか」

彼はいつものようにどこか小馬鹿にしたような響きを込めて笑った。

もし彼女の祖父があの正雄先生なら、俺のビジネスも安泰だったんだがな。

怜央はそう思いながら、後部座席の陽咲を盗み見た。

彼女は以前よりもさらに冷たく、まるで別人のように感じられ、怜央は理由のない不安を覚えた。

陽咲は彼の言葉に含まれる侮蔑を敏感に感じ取り、背筋を正した。その声は氷のように冷え切っていた。

「おじいさんはただの田舎者。あのご高名な正雄先生と比べられるような人じゃないわ……怜央、分かっているはずよ。おじいさんは私にとって唯一無二の家族なの。二度と、あんな風に軽んじるような口は叩かないで。

これ以上、お互いのために言葉を汚したくはないわ」

その言葉は、冷たい刃物のように車内の空気を切り裂いた。怜央の浮ついた気分は一瞬にして冷え込んだ。

「馬鹿にしているわけじゃない。君の被害妄想だ」

怜央は冷淡に言い訳したが、陽咲はもう口を閉ざし、彼と会話する気配すらなかった。

無視されたことに、怜央の胸の内にふつふつと激しい苛立ちが沸き起こった。彼は乱暴に車を路肩に寄せると、突き放すような口調で言い放った。「そんなに俺の言い草が気に入らなくて、同じ空気を吸うのも不快だと言うなら……ここで降りたらどうだ?」

それは明らかに、「謝って機嫌を取れ」という脅しであり、ここから追い出されたくなければ従えという傲慢な宣言だった。

二年も共に暮らしていれば、彼が何を望んでいるかなど手に取るように分かる。ここで自分が折れて、彼のプライドを立ててやるのを待っているのだ。

……どうして私が?おじさんを侮辱したのは、彼の方なのに。

陽咲は彼に従わなかった。

怜央の苛立ちを含んだ視線を受け止めながら、ただ静かに彼を見つめ返す。

街灯の淡い光が彼女の清らかな横顔を照らし、その静謐さがかえって彼女を優しく、どこか儚げに見せていた。

その姿に、怜央の頑なな心が一瞬、揺らいだ。思わず、言葉を飲み込んで取り繕おうとした――その時だった。

陽咲は白く細い手でドアを開けると、迷うことなく車を降りた。そして、一度も振り返ることなく前を向いて歩き出す。

静まり返った夜の道に、コツ、コツと規則正しいハイヒールの音だけが冷たく響き渡る。その音が、怜央の焦燥感をいっそう煽った。

深夜に面倒な事態になるのを避けたかった怜央は、車の速度を落として彼女の後を追った。「戻ってこい」と促すように短くクラクションを鳴らすが、陽咲は無視して歩き続ける。

怜央の最後の忍耐も尽き果てた。彼はハンドルを強く握りしめ、「勝手にしろ!」と吐き捨てると、アクセルを乱暴に踏み込んで夜の闇へと消え去った。

路地の奥から、時折思い出したように犬の遠吠えが響いてくる。

吹き抜ける夜風の冷たさに、陽咲は身をすくめてトレンチコートの襟をかき合わせた。

ベージュのコートに濃い色のデニムという軽装では、深夜の凍てつくような空気はあまりに厳しい。暗く冷え切った夜道をたった一人で歩くその背中は、痛々しいほどに孤独だった。

ふと視線を上げると、雲の合間に数粒の星が疎に輝いていた。亡き祖父が、死の間際に泣きじゃくる自分をなだめるためについた優しい嘘が蘇る。

「寂しくなったら、空を見上げて一番明るい星を探すんだ。おじいさんはそこにいて、お前を見守っているからね」

鼻の奥がツンと熱くなり、陽咲は目を凝らした……あった。涙で滲む視界の先、夜空で一際強く、凛として輝く星を見つけた。

少しだけ心が安らいだ彼女は、鼻をすすり、かじかむ手でタクシーを呼ぼうとした。ポケットを探り――血の気が引いた。

スマホがない。怜央の車に置き忘れてきてしまったのだ。

このまま、歩いて帰るしかないのだろうか。

絶望に近い徒労感に襲われたその時、背後から控えめなクラクションの音が響いた。

「おや、これは奇遇ですね。清水さんではありませんか」

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