Mag-log in書架の影に息を潜めた医乃の方へ、灯籠の光が書架の間を一間ずつ明らめながら近づいてきた。
隠れる処は多くはない。
うずくまって見咎められれば盗人、先に名乗り出れば道に迷うた女医でお茶を濁せるやもしれぬ。
いずれにせよ杖は喰らうが、検非違使庁に引かれるか否かはこの一歩に懸かっていた。
医乃は裳(も)の裾を払い、影の外へ歩み出た。
「……ここにおりまする、大臣(おとど)さま」
正面から降り注ぐ灯籠の光に目が痛んだが、医乃は顔を背けなんだ。
ここで顔を背ければ、隠しごとのある者になる。
「……女医か」
定方(さだかた)が眉をひそめた。
2年の間に父は目に見えて老いていた。
鬢(びん)に白が混じり、目尻の皺は深う刻まれていたが、人を見下ろす眼光のみは昔のままであった。
この夜更けに左大臣が自ら鍵を携えて文書庫を訪なう謂れは多くはない。
今朝、藤堂典薬が薬の帳を携えて清涼殿に入り、附子(ぶす)の半斤が欠けたことが帝の耳に入った。
そして今宵、父がここにある。
何かを確かめに、或いは片付けに。
「御前(ごぜん)女医にございます、大臣さま」
「ああ、噂の山里の女医じゃな」
定方の口の端が斜に歪んだ。
娘の声を聞き分ける気配は、微塵もない。
灯籠が揺れるたび、父の袍の胸元から梅香がほのかに立ち上った。
中宮御所に立ち寄ってきた途上であるらしい。
この夜中に中宮と会い、直ちに文書庫へ。
2年であった。
頬から首筋まで火に焼かれた肉がひきつり、声はわざと潰して低くした。
それでも医乃は、何処かで待っていた。
父ならば、歩みでも目元でも、何か一つくらいは気づいてくれようかと。
娘の姉妹(きょうだい)ほど灯籠を掲げながら、父は相変わらず異国の女を検分するように医乃を眺めていた。
「女医がこの刻に蔵人所の文書庫で、何の用じゃ」
「検屍書を蔵人所に上げに参り、道に迷いましてございます」
「道に迷うた? 塀を越えて?」
定方が灯籠を下げ、その手を照らした。
「山里の出(で)にしては、手が綺麗じゃな」
引かぬ手の甲を伝って上った光が、手首のひきつれた肌に触れると、定方は鼻先を歪めて灯籠を戻した。
「醜いの」
その一言で、父は娘に気づく機を取り逃した。
「それでも帝の目に留まったそうな。その面(つら)で男目に留まる才が、あるとみえる」
返しの代わりに、問い一つが胸の内で巡った。
この人はもともとこういう言(こと)を吐く人であったか。
或いは、娘にだけは吐かずにおいた言を、他人の娘には平然と吐く人であったのか。
「中宮の君が、そなたをいたくご不快に思うておられるでな」
顎の下まで突きつけられた灯籠から、熱が顎先を舐めた。
「わが娘がご不快ならば、わしも不快じゃ」
わが娘。
医乃はその三文字を、噛みしめて飲み下した。
この人にとって娘はもはや一人きりであった。
「近頃、宮に鼠が多い。人の帳を嗅ぎ回る鼠がな」
書架を舐めた光が、出納帳の挿さる場所を過ぎ、奥の櫃の上で止まった。
掛け金が斜に掛かっていた。
急いた余りまともに掛け直せずに去った跡であった。
定方の目が一気に細くなった。
「何を見たか」
「何も、見ておりませぬ」
「何を見たかと、問うておる」
父がずいと足を踏み出した。
幼い娘を軽々抱え上げた広い肩が、今は塀のごとく彼女の前を塞いだ。
「見たとて、小女(しょうじょ)に何が解りましょう、大臣さま。女医は屍(かばね)しか読めませぬ」
言葉は舌先から滑らかに流れ出た。
この人に教わった筆で、たった今この人の罪を写しておきながら、声は一度も揺らがなかった。
「屍を読む目が紙を読めぬと申すか。その舌で、わしの前で戯言(ざれごと)を吐くか」
「……」
「卑しき分際で」
パン——!
顔が横に飛んだ。
頬が焼けるごとく熱く、口中に生ぬるい血の味が広がった。
医乃は曲げられた首をゆっくり正した。
目の前に、父の手があった。
5歳の夜、熱に浮かされる彼女の額を一晩押さえてくれた手。
嫁ぐ日、最後に髪を撫でてくれた手。
その手が、たった今、彼女の頬を打った。
定方はその掌を袍の袖に擦りつけて拭った。
汚れでも触ったかのように。
頬はたちまち痺れて感覚が鈍ったのに、鳩尾(みぞおち)の下の何処かが、氷を飲んだごとく疼いた。
嫁ぐ朝、同じ袖で涙を拭うてくれた父であった。
その袖の下で、娘を打った手がゆっくり握りしめられていた。
「出合(であい)!」
定方が潜り戸の方へ首をひねった。
「文書庫に盗人が入った。これを引き摺り出し、検非違使庁へ送れ! 速(と)うせよ!」
駆け込んできた蔵人所の下役二人が、医乃の両腕を荒々しく掴み上げた。
腕を後ろに捩じられた折、襟元から紙がかさりと鳴った。
医乃は背を僅かに反らし、音を胸の下に押し込んだ。
父の筆跡を写したその紙であった。
あと一度身を捩れば、襟の外に滑り出てしまう。
医乃は耐えていた腕から力を抜き、下役らに引き摺られながらも、胸だけは真っ直ぐに張って紙の擦れる音を息の内に押し殺した。
「検非違使(けびいし)佐に、しかと伝えよ」
定方が下役らの方へ顎をしゃくった。
「口を割るまで、爪を一枚ずつ剝いで良いとな」
医乃は奥歯を噛みしめた。
検非違使庁に引かれれば、文書庫に忍び入った謂れを問われ、波嶺郷(はみねごう)の女医とは何者かも問われる。
その果てに、2年前に焼け死んだはずの女が現れる。
塀の外の蓮と共に。
「最後に、もう一度問う。何を見た」
定方が再び手を振り上げた。
「終いまで口を閉ざすならば、その口から裂いてやろう」
掌が風を切って降りてきた。
下役らの手に押さえ込まれた肩が、袍の端を擦る。
闇の中、袖の内の紙片が焼きつくほど熱く感じられた。
医乃は目を閉じなんだ。
今度ばかりは、見据えておきたかった。
わたくしを捨てた手が、どのような形をしているのかを、しかと目に焼きつけるために。
されど掌は、彼女の頬に届かなんだ。
宙で、誰かがその手首を鷲掴みにした。
定方の顔が白く引き、医乃を掴んでいた下役らの手が同時に緩んだ。
顔を上げた医乃の目に、灯籠の光の向こうから濃い袍の裾が入ってきた。
手首を掴んだ手の甲の上に、火に溶けて凝ったような傷が、くっきりと浮かんでいた。
「左大臣」
低い声が、文書庫の中を凍らせた。
「朕の女医である。手を離せ、左大臣」
医乃は額より手を離さぬまま、もう一方の手で傘の柄を握った。彼の手のちょうど上であった。「何時(いつ)より、熱(ねつ)がおありなさいました」「知らぬ」「お知りにならぬのではなく、お申しにならぬのでございます」柄を彼の方へ押して立て直そうとすれど、柄は微動だにしなかった。「そなたの懐の鉢が濡れるよりましじゃ」「鉢は、油紙に包んでございます」「ならば、そなたが濡れるよりましじゃ」医乃は柄を離さなかった。彼もまた、離さなかった。終いに唐傘はふたりのちょうど中ほどにまっすぐ立ち、宮の塀に至るまで、ふたりは並んで片の肩ずつ濡れた。脇門の敷居を越えつつ振り返った彼の横顔の上、雨か汗か知れぬものが、こめかみを伝うて流れた。唇の色が、闇の内にても白かった。***夜明け前より女医所の部屋の戸を叩いた伏見は、烏帽子の紐も結んでおらぬ顔をしていた。「主上が火の塊にあられまする。典薬(てんやく)を呼ばんとしたれば退けなさり、薬師寮の者は敷居も越えさせるなと仰せられ……。女医のみ参れとの仰せにございます」寝所の褥(しとね)の上で、煌仁は衾(ふすま)を首まで引き上げたまま、臥していた。昨夜塀の下にて取った額は、その間に、さらに燃え上がっていた。それなのに、彼は衾の内にて肩を縮めて震えていた。乾いた咳が破(は)ぜて脇を揺らすたび、彼の眉間が、刃にふたたび斬られる者のごとく狭まった。子の刻、雨中に
医乃が口元に耳をさらに近づけてみても、小珠からは息がゆき交うのみで、次の言葉は出なかった。袖口を掴んでいた指がほどけ、瞼がふたたび下りた。再び取った首筋には、先刻よりも確かに指先を押し上げる脈があった。眠りに落ちたのであった。顔を上げれば、広縁の上の煌仁が彼女を見ていた。何も問わぬ顔で、ただ彼女の口が開くのを待つ眼であった。医乃はその眼に短く頭を垂れ、薦ごと小珠を担架に移せと言いつけた。日の落つる頃、女医所の検屍の間の板の上でふたたび眼を開いた小珠に、蓮が温めた重湯を匙で含ませた。戸の外は、堀川が残していった下人がふたり、守っていた。「夜ごとに灰を運んでおりました」小珠は夜着の襟を顎の下まで引き上げ、震えていた。「別堂(べつどう)の裏の焚き口より出る灰を、桶に入れて池の水口(みなくち)に流しておりました。灰より、鉄の生臭が立っておりました。半年ほど経ちましたら、歯茎より血が出て、歯が揺らぎ……」「水銀、煉丹という言葉は、どこで聞いた」「別堂の戸の隙より……。灰を運び出せと申された御方が、今宵は煉丹がまだ足らぬ、水銀が未だ澄まぬと、独り言を仰せでした。わたくしは、それが何のことやら知りもせなんだ」「その御方は、誰じゃ」小珠の唇が、白く閉ざされた。瞳が戸の方へひとたび彷徨い、そのまま夜着の内へ逃げ込んだ。それ以上は問わず、医乃は小珠の爪の下より掻き出した灰色の澱を、銭ひとつに擦りつけた。黄なる銅の光が、擦られた箇所だけ、銀のごとく白く照った。蓮が口を大きく開いた。&
庭に満ちて平伏した女房たちの間から、悲鳴が破れた。「め、眼を……!」「骸が眼を開いた!」「物の怪じゃ、物の怪!」女房ひとりが後ずさって尻餅を突く間も、医乃は小珠の顔より眼を離さなかった。開いた二つの瞳は、何も見ぬまま、虚空に懸かっていた。女房が鏡を捧げて駆け出てくると、医乃は鏡を受け、小珠の鼻の下に近く寄せた。庭が、息をひそめた。磨き上げた銅の鏡の真ん中に、爪ほどの霧が結び、そして消えた。また、結んだ。「息をしておりまする」医乃は鏡を持ち上げ、広縁の上へ示した。「息は未だ、この身を去ってございませぬ」皇太后が膝の上の手を袖の内に納めた。南原 道玄の口の端に懸かった笑みが、初めて片側だけに残った。「御厨子所(みずしどころ)へ人を遣わしてくださりませ。甘草と緑豆をひと掴みずつ、水二杯を一杯に濃く煎じまするよう。それと、生温い塩水をひと鉢」煌仁が首を巡らすこともせずに伏見へ合図をすると、老蔵人は腰を押さえたまま回廊の方へ駆け出した。濡らした無名で小珠の顔を拭ってやると、白粉(おしろい)の落ちた跡の下から、熱の差したごとき紅(あか)い頬が現れた。唇を拭うと、無名の端に青き色が移った。蓼藍(たであい)の染料であった。誰かが生きた顔の上に、死者の顔の色を塗り置いていたのである。開いた口の内の舌は、ひからびて裂け、鼻を近づけると、口の内より甘ったるく生臭い草の匂いが昇った。「曼陀羅華(まん
医乃は敷居の向こうで、歩みを止めなかった。止めれば振り向くこととなり、振り向けば、眼を見られることとなる。背後から、花の笑い声が響いた。「母上もさように見えまするか。わらわも初めて見し折、誰かに似ておると申しました。骸の脇にて首をまっすぐ立てる眼にございます」「誰に似ておった」「……亡き姉上にございます」「中宮は、未だ姉の思いを捨てぬのう」皇太后の笑いが、低く続いた。閉まる戸が、その笑いを半ばで断った。女院御所の塀を出るまで、医乃は後を振り返らなかった。池風が入って却って涼しい広縁であったはずが、小袖の内は、しっとりと湿っていた。未の刻の茶の席にて、医乃は膏を替える手を止めた。魚市場の路地で開(あ)いた箇所のひと端が、糸の結び目の間からなお新しい血を出していた。「糸を抜く日が、3日は遅うなりました」「路地に参った値じゃ」「どなたが、ついて参れと申し上げました」煌仁が茶碗を取り上げては下ろした。「ひとりで参るなと申したのじゃ。朕を伴わず参るな、とは申さなんだ。此度より、さよう改めて伝えよう」返事もせず、巻き直す無名の最後の結び目を、わざと固く締めると、頭上で呻き声が洩れた。それでも顔は上げなかった。「女院御所にて、何を下されたか」「薬菓を下されましたが、口に入れてはおりませぬ。池には鯉がまたひとつ浮き、石の縁ごとに灰色の澱が乾きついてございました」&
医乃は盆の上に突いた手を、引くことができなかった。女院御所。この御方の嫡母(ちゃくぼ)の住まう御殿。中宮御所に住まった頃、朝ごとに文安(もんあん)に参上すると、いつも笑いながら手を取ってくださる御方であった。「……皇太后さまが、何故に」「妃候補(ひこうほ)の間別当(かんべっとう)は、女院御所の主宰じゃ」煌仁が焦げた草案を指先で押しやった。「中宮の候補の単子(たんし)が、事の3日前に蔵人所に入ったという。その単子を受け取った処も、女院御所であった。その後、女院御所は中宮の後ろ盾とならった」女院御所の池の鯉が腹を返すという蓮の饒舌が、唐突に耳をかすめた。「この件は、朕が引き受ける」草案を折って入れた文机の抽斗は、検屍書と白い簪の納まる、あの抽斗であった。「そなたは当分の間、女院御所のほうには足を向けるな」「……は、主上」答え終わるより前に、戸口の外が騒がしくなった。伏見が戸を開けると、紫の袿(うちぎ)を着た老いた女房がひとり、敷居の外に平伏していた。「女院御所の至密(しみつ)にございます。皇太后さまが、明朝の文安の席に、御前の女医も同席を、と仰せにございます。中宮さまが、尊き女医がおりますと奏上なされたとのこと」清涼殿のうちが凍てつくなか、煌仁の顎の筋がひとたび浮かび、沈んだ。皇太后の召しは、帝でも遮ることができぬ。遮れば、遮った由を、皇太后が先に問う。女房が退がると、煌仁が低く口を開いた。
医乃が紙から目を離さぬまま呼ぶと、無名の端を結んでいた蓮が顔を上げた。「灯明をもうひとつ運んでおくれ。今宵は、そなたの部屋にて眠ってくるがよい」「また、おひとりになさるおつもりですか」「骸の脇に居るのと同じじゃ。この紙にも、言い残したことがある」蓮は口を尖らせながらも、灯明をひとつ余分に点してから退がった。二つの灯明を紙の両脇に置くと、交わり合う光が紙の上の影をきれいに拭い去った。骸の前に座する折のように、彼女はひと息を整え、手を膝に置いた。まず、色味を見た。廃庶人 朝井の氏、その冒頭の画の先は、乾きながら青みを帯びていた。松を焚いて受けた煤で拵えた松煙(しょうえん)の墨が、そうなる。ところが罪目の行まで降りてくると、画の先が温かな光に褪せていた。油を焚いて受けた煤で拵えた墨が乾けば、必ずかく、茶に赤みの差す色となる。紙を斜めに傾ければ、冒頭の行は光を吸い込むようにしっとりと沈んだが、罪目の行だけ、漆を塗ったごとく照っていた。油煙に膠(にかわ)をたっぷり溶かさねば出ぬ艶であった。次に、折り目であった。蔵人所に入った草案は、半折にされ束に綴じられる。その縦の筋が通る冒頭の行の「廃」の字の真ん中は、墨が筋を追って細く裂けていた。先に乾いた墨の上を紙が折れ、墨の皮がはじけた跡であった。同じ筋が、罪目の行の「害」の字をも通っていた。ところが「害」の字の墨は、裂けるどころか、折れた谷を伝ってもったりと溜まり、ぷっくりと脹(ふく)らんでいた。すでに谷の付いた紙の上に筆を下ろしてこそ、墨はかく溜まるのである。冒頭の