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9話. その手

Author: 6jay
last update Petsa ng paglalathala: 2026-11-05 18:06:42

書架の影に息を潜めた医乃の方へ、灯籠の光が書架の間を一間ずつ明らめながら近づいてきた。

隠れる処は多くはない。

うずくまって見咎められれば盗人、先に名乗り出れば道に迷うた女医でお茶を濁せるやもしれぬ。

いずれにせよ杖は喰らうが、検非違使庁に引かれるか否かはこの一歩に懸かっていた。

医乃は裳(も)の裾を払い、影の外へ歩み出た。

「……ここにおりまする、大臣(おとど)さま」

正面から降り注ぐ灯籠の光に目が痛んだが、医乃は顔を背けなんだ。

ここで顔を背ければ、隠しごとのある者になる。

「……女医か」

定方(さだかた)が眉をひそめた。

2年の間に父は目に見えて老いていた。

鬢(びん)に白が混じり、目尻の皺は深う刻まれていたが、人を見下ろす眼光のみは昔のままであった。

この夜更けに左大臣が自ら鍵を携えて文書庫を訪なう謂れは多くはない。

今朝、藤堂典薬が薬の帳を携えて清涼殿に入り、附子(ぶす)の半斤が欠けたことが帝の耳に入った。

そして今宵、父がここにある。

何かを確かめに、或いは片付けに。

「御前(ごぜん)女医にございます、大臣さま」

「ああ、噂の山里の女医じゃな」

定方の口の端が斜に歪んだ。

娘の声を聞き分ける気配は、微塵もない。

灯籠が揺れるたび、父の袍の胸元から梅香がほのかに立ち上った。

中宮御所に立ち寄ってきた途上であるらしい。

この夜中に中宮と会い、直ちに文書庫へ。

2年であった。

頬から首筋まで火に焼かれた肉がひきつり、声はわざと潰して低くした。

それでも医乃は、何処かで待っていた。

父ならば、歩みでも目元でも、何か一つくらいは気づいてくれようかと。

娘の姉妹(きょうだい)ほど灯籠を掲げながら、父は相変わらず異国の女を検分するように医乃を眺めていた。

「女医がこの刻に蔵人所の文書庫で、何の用じゃ」

「検屍書を蔵人所に上げに参り、道に迷いましてございます」

「道に迷うた? 塀を越えて?」

定方が灯籠を下げ、その手を照らした。

「山里の出(で)にしては、手が綺麗じゃな」

引かぬ手の甲を伝って上った光が、手首のひきつれた肌に触れると、定方は鼻先を歪めて灯籠を戻した。

「醜いの」

その一言で、父は娘に気づく機を取り逃した。

「それでも帝の目に留まったそうな。その面(つら)で男目に留まる才が、あるとみえる」

返しの代わりに、問い一つが胸の内で巡った。

この人はもともとこういう言(こと)を吐く人であったか。

或いは、娘にだけは吐かずにおいた言を、他人の娘には平然と吐く人であったのか。

「中宮の君が、そなたをいたくご不快に思うておられるでな」

顎の下まで突きつけられた灯籠から、熱が顎先を舐めた。

「わが娘がご不快ならば、わしも不快じゃ」

わが娘。

医乃はその三文字を、噛みしめて飲み下した。

この人にとって娘はもはや一人きりであった。

「近頃、宮に鼠が多い。人の帳を嗅ぎ回る鼠がな」

書架を舐めた光が、出納帳の挿さる場所を過ぎ、奥の櫃の上で止まった。

掛け金が斜に掛かっていた。

急いた余りまともに掛け直せずに去った跡であった。

定方の目が一気に細くなった。

「何を見たか」

「何も、見ておりませぬ」

「何を見たかと、問うておる」

父がずいと足を踏み出した。

幼い娘を軽々抱え上げた広い肩が、今は塀のごとく彼女の前を塞いだ。

「見たとて、小女(しょうじょ)に何が解りましょう、大臣さま。女医は屍(かばね)しか読めませぬ」

言葉は舌先から滑らかに流れ出た。

この人に教わった筆で、たった今この人の罪を写しておきながら、声は一度も揺らがなかった。

「屍を読む目が紙を読めぬと申すか。その舌で、わしの前で戯言(ざれごと)を吐くか」

「……」

「卑しき分際で」

パン——!

顔が横に飛んだ。

頬が焼けるごとく熱く、口中に生ぬるい血の味が広がった。

医乃は曲げられた首をゆっくり正した。

目の前に、父の手があった。

5歳の夜、熱に浮かされる彼女の額を一晩押さえてくれた手。

嫁ぐ日、最後に髪を撫でてくれた手。

その手が、たった今、彼女の頬を打った。

定方はその掌を袍の袖に擦りつけて拭った。

汚れでも触ったかのように。

頬はたちまち痺れて感覚が鈍ったのに、鳩尾(みぞおち)の下の何処かが、氷を飲んだごとく疼いた。

嫁ぐ朝、同じ袖で涙を拭うてくれた父であった。

その袖の下で、娘を打った手がゆっくり握りしめられていた。

「出合(であい)!」

定方が潜り戸の方へ首をひねった。

「文書庫に盗人が入った。これを引き摺り出し、検非違使庁へ送れ! 速(と)うせよ!」

駆け込んできた蔵人所の下役二人が、医乃の両腕を荒々しく掴み上げた。

腕を後ろに捩じられた折、襟元から紙がかさりと鳴った。

医乃は背を僅かに反らし、音を胸の下に押し込んだ。

父の筆跡を写したその紙であった。

あと一度身を捩れば、襟の外に滑り出てしまう。

医乃は耐えていた腕から力を抜き、下役らに引き摺られながらも、胸だけは真っ直ぐに張って紙の擦れる音を息の内に押し殺した。

「検非違使(けびいし)佐に、しかと伝えよ」

定方が下役らの方へ顎をしゃくった。

「口を割るまで、爪を一枚ずつ剝いで良いとな」

医乃は奥歯を噛みしめた。

検非違使庁に引かれれば、文書庫に忍び入った謂れを問われ、波嶺郷(はみねごう)の女医とは何者かも問われる。

その果てに、2年前に焼け死んだはずの女が現れる。

塀の外の蓮と共に。

「最後に、もう一度問う。何を見た」

定方が再び手を振り上げた。

「終いまで口を閉ざすならば、その口から裂いてやろう」

掌が風を切って降りてきた。

下役らの手に押さえ込まれた肩が、袍の端を擦る。

闇の中、袖の内の紙片が焼きつくほど熱く感じられた。

医乃は目を閉じなんだ。

今度ばかりは、見据えておきたかった。

わたくしを捨てた手が、どのような形をしているのかを、しかと目に焼きつけるために。

されど掌は、彼女の頬に届かなんだ。

宙で、誰かがその手首を鷲掴みにした。

定方の顔が白く引き、医乃を掴んでいた下役らの手が同時に緩んだ。

顔を上げた医乃の目に、灯籠の光の向こうから濃い袍の裾が入ってきた。

手首を掴んだ手の甲の上に、火に溶けて凝ったような傷が、くっきりと浮かんでいた。

「左大臣」

低い声が、文書庫の中を凍らせた。

「朕の女医である。手を離せ、左大臣」

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