FAZER LOGINどれほど座り込んでいたか、医乃は手の甲で目尻を拭い、出納帳を元に戻してから身を起こした。
泣く刻(とき)は、後にもある。
今、知らねばならぬのは一つ。
誰がその宣旨を一日早う書いたか。
宣旨は帝の名で下るが、初本(しょほん)を書く手は別にあった。
蔵人所は上がってきた初本を年ごとに束ね、文書庫の奥の櫃(ひつ)に収めていた。
出納帳の書架を過ぎて櫃の前に立つと、錠前は錆びて用をなさず、掛け金だけが掛かっていた。
ぎぃ——
蓋を持ち上げるや、古紙の匂いがどっと押し寄せた。
束からその年その月のものを探し当てるのに、さほど時はかからなかった。
一番上に置かれた一枚であった。
廃庶人(はいしょじん) 橘氏(たちばなうじ)。
己の名の刻まれた一行目から、医乃の目は長く離れなかった。
一の宮を害さんとした罪、妬(ねた)みて宮を乱した罪、国母の座を汚した罪。
紙の上に並ぶ罪目は、見慣れぬほど滑らかであった。
ずっと以前から磨かれていた文(ぶん)のように。
されど医乃を凍らせたのは、内容ではなかった。
筆跡であった。
画(かく)を最後まで押し下げ、終いの撥(は)ねを上へ弾き上げる癖。
この世でこう書く者は、ただ二人であった。
一人は彼女自身、もう一人はその癖を彼女に授けた人。
7歳の頃、父の書斎の文机(ふづくえ)の前。
小さな手に筆を握らせ、その上を大きな手で包み込んだ人があった。
「画を最後まで押せ。終いを濁す者は、言葉尻も濁すぞ」
「はい、父上」
「よう聞いた。いま一度、横画をやってみよ」
墨の匂いと共に、背後から低い笑い声が降ってきた。
「そうじゃ、そうじゃ。わが長女(ちょうじょ)は、筆跡がわしにそっくりじゃ。これならいずれ、どの文(ふみ)に出しても恥ずかしゅうない」
医乃の指先が、初本の上の文字をなぞって滑った。
廃・庶・人。
一画一画が、あの日の書斎で教わったままであった。
父であった。
左大臣 橘 定方(さだかた)。
彼女を誰より先に抱き上げ、誰より先に書を授け、客が来るたび長女の筆跡を取り出して自慢した人。
東宮妃(とうぐうひ)選びの日、門前で遂に目を赤く染めた人。
一の宮が生まれた折は、震える筆で文を送ってきた。
『わが長女、あっぱれじゃ。まことにあっぱれじゃ』
その文の一字一字を、彼女は未だ目を閉じて描ける。
その人が、娘の廃される一日前に、娘の廃后の宣旨を書いた。
「……父上(ちちうえ)」
唇の間から声が洩れた。
廃された日より、父は一度も彼女を訪ねなんだ。
廃庶人の住まいに火が出た折も、彼女が死んだと宮の内外に伝わった折も。
その沈黙を、罪人となった娘を訪なうに忍びぬ父の苦しみと見做し、恨むまいと努めてきた。
されど、彼が悲しむ謂れは、はじめから一つもなかった。
娘を捨てた手こそ、その手であったのだから。
初本を持ち上げると、下にもう一枚、薄い紙が挟まれていた。
心なく開いた医乃の手が、そのまま凍りついた。
女御(にょうご)選びの名簿であった。
国母の座に上る娘の名と家柄、歳を書き記す文書。
橘家 次女、花。
歳 17。
その名簿が上がった日は、一の宮が倒れる3日前であった。
吸い込んだ息が、喉の何処かに詰まって下りぬ。
3日前。
その頃、花は殊に足繁く中宮御所に文安(ぶんあん)に来ていた。
姉が煎じ薬を飲む姿を頬杖をついて眺めては、あどけない顔で問うのであった。
「姉上、その薬、何の薬にございますか。わらわも飲んでみとうございます」
「苦いだけじゃ。そなたは飲めぬ」
「ちぇっ。姉上のものは、何でもよう見えるんですもの」
その折は姉のものを欲しがる妹の他愛ない駄々と見て、笑い流していた。
その妹の名簿が、姉が崩れる3日前に、すでに蔵人所に上がっていた。
追われた姉の座に妹が入るまで、きっちり一月(ひとつき)。
宮の内外は性急に過ぎると囁いていたが、3日前より、或いはそれより遥か前より、組まれていた盤であった。
父は娘を一人捨て、その座に別の娘を据えた。
欠けた器を割り、新しき器を据えるかのごとくに。
そうして嫁ぎ去った娘の筆跡だけは、座敷の軸に表装して残しておくだろう。
「……ははっ」
乾いた笑いだけが洩れ、涙は出なかった。
呆れ果てれば涙も道を失うと、医乃は今宵はじめて知った。
一の宮が倒れた夜の記憶が、もう一つ浮かび上がった。
伏していた彼女の視界の隅、中宮御所の門外に父が立っていた。
左大臣があの刻にそう速く宮へ入れたことを、あの折は問うてみる余裕もなかった。
父は伏した娘を一度見た。
そして顔を背けた。
その日より、父は娘を正面から見ずにいた。
初本を握る手に力が籠もるほど、これを携え、いつか父の顔前に広げてみせたいとの念が募った。
されど初本が失せれば、父はすぐに気づく。
その刹那、宮に残る他の証(あかし)は悉(ことごと)く竈の中に入るであろう。
福の包みのように。
袖の筆入れから紙と筆、指ほどの墨壺を取り出した医乃は、月光の下、父の筆跡を一字ずつ写しはじめた。
画を最後まで押し下げ、終いの撥ねを上へ弾き上げながら。
指先が震えて画が歪めば、息を止めて押し直した。
遠くで夜回りの拍子木が過ぎるたび、筆を握る手の甲に冷や汗が滲んだ。
「……父に教わった筆で、父の罪を写しておるのじゃ」
声に出せば、指の震えが少しは収まった。
書架の下を小さき鼠が一匹、紙の匂いを嗅いで駆け過ぎた。
医乃はその動きに合わせて息を継ぎ、また筆を押した。
末の一行を写し終えたそのときであった。
カチリ——
文書庫の奥、蔵人所に通じる潜り戸の鍵が回る音がした。
医乃の筆先は紙の上でそのまま止まった。
蓮が見張る塀の方からは、鳥の声ひとつ聞こえぬ。
鍵を持つ誰かが、内側の戸より入ってくる。
医乃は写した紙を襟元の奥深くへ押し込み、初本を櫃に戻して蓋を閉じた。
隠れる間もなかった。
書架の影に背をぴたりと寄せ、襟元の上を掌で押さえた。
軋みながら潜り戸が開き、灯籠の光が書架の間を長く舐めた。
光の向こうに、絹の袍(ほう)の裾が見えた。
そして灯籠の柄を握る手。
7歳の彼女の手の上に重ね、筆を握らせたあの手であった。
「そこにおるのは誰ぞ」
顔を背けたあの夜より、はじめて聞く父の声であった。
医乃は掌の下の襟元を、もう一度深く押さえ込んだ。
父上が推挙なさいました典薬。そのひと言に煌仁はそれ以上問わず、皇太后はふたたび手を打った。慶賀の声は、日の落つるまで、絶えなかった。女医所の庭にても、女房どもが寄り集まりて囁き合うた。中宮御所に、ようやく陽が差したと、中宮さまのお顔いろがその間に明るうなったと。医乃はその脇を過ぎて薬局に入り、戸を閉めた。薬研を引き寄せて甘草を碾(ひ)く間、輪が回るごとに乾いた根が砕ける音が、室内を満たした。2月(ふたつき)。左大臣が推挙した梅澤の典薬がそう取ったという。女院御所の広縁にて、あの御方は否とは仰せにならなかった。盆の縁を押さえる指のみが、白かった。さらに強く押し付けた薬研の輪の下にて、甘草はすでに粉となっていた。粉を紙に注ぎかけ、手が止まった。どこにも使い処のない甘草であった。翌日の未の刻、彼女は茶の盆を蓮に持たせて清涼殿の戸口までで引き返させた。女医所に急な骸が入ったとの言葉を添えて。骸は、なかった。蓮が空の盆を持ち戻って、口を尖らせた。「主上は戸口を3度お見遣りなさいました。女医はどこぞ、とお問いゆえ、骸を見にお越しです、と申し上げたら、長らく何も仰せでなく、茶が苦い、とお仰せでしたよ」「茶葉は、わたしが減らして送ったに」「ですからねえ。師匠が減らしてお送りになったものなのに、苦いと仰せです。蔵人の御方は日記にひと行だけお記しになりまして、筆を置かれましたよ。女医来ず、って」「それで、そなたは何を申したのじゃ」「わたしは、何も申しておりません。ただ盆を下げて参っただけでございます」
医乃が手を引くと、一夜、彼女の手のひらの下に在った手の甲が、明け方の空気に晒された。凝り着いた肌に紫根の色が淡く移り、彼女の手が覆うていた分だけ、紅かった。彼女は褥(しとね)の脇より退き、敷居の方へと平伏した。敷居の向こうの爪先が一寸ほど内へ越えて、止まった。「あら」澄んだ声であった。「主上がご不例と承りましたゆえ菊の茶を淹れて参りましたが、女医が先にございましたか」褥の上で衾が揺らぎ、眼を開いた煌仁の視線が敷居の中宮と平伏した女医を越え、おのが手の甲で止まった。その手を衾の内へと引き入れつつ、彼が身を起こした。「中宮、早いお出ましじゃな」「母上が、主上にお上げのものは毒味からお経よ、と仰せでした。本日は毒味の掌侍の手を経て参ってございまする」花が眼で合図すると、弓(ゆみ)が膝で寄って盆を褥の脇に下ろした。その脇に軽やかに座しつつも、花は敷居の方へひと度も首を向けなかった。「一夜じゅう、お熱が高うあられたとか。薬師寮(やくしのつかさ)もお退けになったと伺い及びました」「女医が、おった」「さようにござりまするか。女医が、おられましたか」花がおのが手にて茶を注ぎ、両の手で上げると、煌仁は茶碗を受け取ったが、唇に当てずに盆へ戻した。「ただ今、煎じ薬を干したところじゃ。苦きが舌に残っておって、茶の味が分からぬ」花の口元に懸かった笑みは、乱れなかった。ただ、その眼が、衾の上に置かれた手の甲の紅みに、長く留まった。「ならば、わらわは退がりまする。
裳裾を巻き取った拳は、ほどけなかった。もう一歩だけ踏み出せば、歪んだ絹がその握りより抜けるはずであった。医乃は、歩みを踏み出さなかった。「……布を、取り替えねばなりませぬ、主上」返事の代わりに、拳が裳裾をさらに強く引いた。眼は、相変わらず閉じたままであった。薬の器を下ろし、褥(しとね)の脇にふたたび座すると、ようやく拳が裳裾を放し、己の場所を見つけたごとく彼女の膝の上に、とんと落ちた。裳越しに、熱が膝まで染み入ってきた。彼女はその手を膝に置いたまま、別の手で盥(たらい)の布を絞った。水滴が盥の内に、ぽた、ぽた、と落ちる音が、灯明ひとつ残した寝所を満たしていた。子の刻を過ぎて熱が煮え立ってくるや、煌仁の息が浅く早くなった。汗に濡れた髪が額に貼りつき、乾いた唇が何かを探すごとくに動いた。匙にて水を含ませてその唇を潤し、布を替え、また替えた。盥の水が温んでくると、戸の外の伏見に新しい水を乞うた。老蔵人は、夜を徹して膝がしびれるほどに戸口を離れなかった。水桶を入れるたび、彼女の膝の上に置かれた手を見たが、日記を取り出すことは、なかった。丑の刻のころ、熱に浮かされた唇の間より、低き声が洩れた。眼は、開かなかった。誰を呼ぶのか、何に追われるのか分からぬ、声であった。医乃は耳を近くに寄せた。「……あの夜に、なぜ……」「主上」「……なぜ、引かなんだ…
医乃は額より手を離さぬまま、もう一方の手で傘の柄を握った。彼の手のちょうど上であった。「何時(いつ)より、熱(ねつ)がおありなさいました」「知らぬ」「お知りにならぬのではなく、お申しにならぬのでございます」柄を彼の方へ押して立て直そうとすれど、柄は微動だにしなかった。「そなたの懐の鉢が濡れるよりましじゃ」「鉢は、油紙に包んでございます」「ならば、そなたが濡れるよりましじゃ」医乃は柄を離さなかった。彼もまた、離さなかった。終いに唐傘はふたりのちょうど中ほどにまっすぐ立ち、宮の塀に至るまで、ふたりは並んで片の肩ずつ濡れた。脇門の敷居を越えつつ振り返った彼の横顔の上、雨か汗か知れぬものが、こめかみを伝うて流れた。唇の色が、闇の内にても白かった。***夜明け前より女医所の部屋の戸を叩いた伏見は、烏帽子の紐も結んでおらぬ顔をしていた。「主上が火の塊にあられまする。典薬(てんやく)を呼ばんとしたれば退けなさり、薬師寮の者は敷居も越えさせるなと仰せられ……。女医のみ参れとの仰せにございます」寝所の褥(しとね)の上で、煌仁は衾(ふすま)を首まで引き上げたまま、臥していた。昨夜塀の下にて取った額は、その間に、さらに燃え上がっていた。それなのに、彼は衾の内にて肩を縮めて震えていた。乾いた咳が破(は)ぜて脇を揺らすたび、彼の眉間が、刃にふたたび斬られる者のごとく狭まった。子の刻、雨中に
医乃が口元に耳をさらに近づけてみても、小珠からは息がゆき交うのみで、次の言葉は出なかった。袖口を掴んでいた指がほどけ、瞼がふたたび下りた。再び取った首筋には、先刻よりも確かに指先を押し上げる脈があった。眠りに落ちたのであった。顔を上げれば、広縁の上の煌仁が彼女を見ていた。何も問わぬ顔で、ただ彼女の口が開くのを待つ眼であった。医乃はその眼に短く頭を垂れ、薦ごと小珠を担架に移せと言いつけた。日の落つる頃、女医所の検屍の間の板の上でふたたび眼を開いた小珠に、蓮が温めた重湯を匙で含ませた。戸の外は、堀川が残していった下人がふたり、守っていた。「夜ごとに灰を運んでおりました」小珠は夜着の襟を顎の下まで引き上げ、震えていた。「別堂(べつどう)の裏の焚き口より出る灰を、桶に入れて池の水口(みなくち)に流しておりました。灰より、鉄の生臭が立っておりました。半年ほど経ちましたら、歯茎より血が出て、歯が揺らぎ……」「水銀、煉丹という言葉は、どこで聞いた」「別堂の戸の隙より……。灰を運び出せと申された御方が、今宵は煉丹がまだ足らぬ、水銀が未だ澄まぬと、独り言を仰せでした。わたくしは、それが何のことやら知りもせなんだ」「その御方は、誰じゃ」小珠の唇が、白く閉ざされた。瞳が戸の方へひとたび彷徨い、そのまま夜着の内へ逃げ込んだ。それ以上は問わず、医乃は小珠の爪の下より掻き出した灰色の澱を、銭ひとつに擦りつけた。黄なる銅の光が、擦られた箇所だけ、銀のごとく白く照った。蓮が口を大きく開いた。&
庭に満ちて平伏した女房たちの間から、悲鳴が破れた。「め、眼を……!」「骸が眼を開いた!」「物の怪じゃ、物の怪!」女房ひとりが後ずさって尻餅を突く間も、医乃は小珠の顔より眼を離さなかった。開いた二つの瞳は、何も見ぬまま、虚空に懸かっていた。女房が鏡を捧げて駆け出てくると、医乃は鏡を受け、小珠の鼻の下に近く寄せた。庭が、息をひそめた。磨き上げた銅の鏡の真ん中に、爪ほどの霧が結び、そして消えた。また、結んだ。「息をしておりまする」医乃は鏡を持ち上げ、広縁の上へ示した。「息は未だ、この身を去ってございませぬ」皇太后が膝の上の手を袖の内に納めた。南原 道玄の口の端に懸かった笑みが、初めて片側だけに残った。「御厨子所(みずしどころ)へ人を遣わしてくださりませ。甘草と緑豆をひと掴みずつ、水二杯を一杯に濃く煎じまするよう。それと、生温い塩水をひと鉢」煌仁が首を巡らすこともせずに伏見へ合図をすると、老蔵人は腰を押さえたまま回廊の方へ駆け出した。濡らした無名で小珠の顔を拭ってやると、白粉(おしろい)の落ちた跡の下から、熱の差したごとき紅(あか)い頬が現れた。唇を拭うと、無名の端に青き色が移った。蓼藍(たであい)の染料であった。誰かが生きた顔の上に、死者の顔の色を塗り置いていたのである。開いた口の内の舌は、ひからびて裂け、鼻を近づけると、口の内より甘ったるく生臭い草の匂いが昇った。「曼陀羅華(まん







