主上、今度はわたくしがあなたを捨てます

主上、今度はわたくしがあなたを捨てます

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By:  6jayUpdated just now
Language: Japanese
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「そなたがやったのか」 あの夜の問いひとつで、彼女は廃された。焼け落ちた宮で、死んだことにされた女。 二年の月日を経て、顔に火傷を負った検屍の女医「医乃」が御前に召された。砒霜では映らぬ毒。井戸端の屍。腐敗が語る真実を、死人に代わって書き記すために——。 だが、主上は知っていた。彼女が誰であるかを。あの夜の銀の簪を、二年、夜ごと灰で磨いていた男の手。沈香の香りが、記憶のまま近づいてくる。 「名は何という」 今度は——わたくしが、主上を捨てさせていただきます。

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Chapter 1

1話. 銀の簪は清らかであった

朝靄(あさもや)がまだ晴れきらぬ掃司の裏庭、井戸端に、むしろが一枚かぶせられていた。

その端からはみ出た手は、青く硬ばったまま、爪のひとつひとつに黒ずんだ血を含んでいた。

「病死にござる。夜通し風邪を患うて、息を引き取ったのであろう」

欠伸を噛み殺しながら、亡骸の口から銀の簪を抜いて見せたのは、薬師寮の典薬 藤堂 英知であった。

明けの光のもと、簪は塵ひとつなく白く光っていた。

「ご覧あれ。清らかではないか。毒ならば、真っ黒に死んでおるはず」

取り囲む女医たちが揃って頷くなか、膝をつき、亡骸の指を一本ずつ開いて確かめている下っ端の検屍女医だけが、顔を上げなかった。

「医乃、そこで何をしておる。お典薬が病死と仰せなら、病死じゃ」

女医の長(かしら)が目尻を吊り上げても、その手は止まらない。

3月前、南の郷から上がってきたこの検屍女医を、女医所で歓迎する者は誰もいなかった。

火傷の痕のせいもあれば、亡骸を前にして度を越して冷静な性のせいもあった。

その女医がかつて、廃されて業火の中で死んだと記された、この国の中宮(きさき)であったことは、宮(みや)の誰ひとりとして知らぬ。

「毒殺にございます」

小さからぬ声ではなかったが、井戸端は一瞬にして凍りつき、藤堂の眉がぴくりと動いた。

「今、何と申した」

「この女房は、毒で死んだと申し上げました、お典薬」

「銀の簪がこうも清らかじゃというに、何の毒じゃというのか!」

ようやく上げた顔。

左の頬の下から、耳の後ろを過ぎ、首筋まで這った古い火傷の痕が、明けの光の中にさらされた。

「銀の簪は、砒霜(ひそう)しか知りませぬ。砒霜ならざる毒の前では、何も申しませぬ」

背後にざわめきが広がる。

「下っ端の分際で……」

「検屍女医がいつから典薬の判定に口を挟むようになったのやら」

「あのままでは、咎めを受けるぞ。ちっ」

聞こえぬふりで亡骸の唇を指先で押すと、妙に強ばった口の端の向こうから、白く爛れた舌先が覗いた。

爪の下の血は、苦しみに藻掻いて床を掻きむしった痕である。

風邪で死ぬ者は、こうは死なぬ。

口から痺れはじめ、腹のものを残らず吐き、終いには息が詰まって絶える、そういう毒がある。

『附子じゃ』

「この女房、最期に口にしたは何じゃ」

掃司の女房ひとりが肩をすくめた。

「ゆ、昨夜(ゆうべ)、煎じ薬を一椀呑みました。咳がひどいからと、誰かが届けて……」

「誰が届けた」

女房たちは互いに目配せするばかりで、口を開く者はない。

医乃は裾を持ち上げ、井戸端の捨て水の口の前にしゃがみ込んだ。

一夜(いちや)の汚れ水のなかに凝った黒い滓を素手で掬い上げると、指一節ほどの根の欠片がひとつ、引っかかって上がってきた。

それを親指と人差し指に挟み、じわりと力を込めた。

ポキリ——

半ば透けた白い肉のあらわれた断面を、医乃は迷いなく舌先に当てて、すぐに吐き出した。

「こ、この娘、気でも触れたか!」

藤堂がぎょっとして後ずさるあいだに、舌先はもう針で刺されたように痺れはじめていた。

「附子にございます。煎じ薬に混ざれば、銀の簪では捉えられませぬ」

「附子じゃと……」

「薬師寮の薬種を、誰が持ち出したと言うのじゃ」

「声を落とせ、誰ぞ聞いておるやも」

藤堂の顔が赤くなったり青くなったりした。

「ど、どこぞで拾うた根か知れたものではあるまい! そのようなもの、何の証となろうか!」

「ゆえに、検屍書に書き残します。この水口のどの位置で、誰が見ている前で掬い上げたか、ひとつ残さず」

根の欠片が、藤堂の手の平の上にそっと落ちた。

「病死とお書きになるなら、お典薬が自ら舐めて、お書きなされませ」

熱い炭でも受けたように手を震わせながらも、藤堂はそれを払い落とすことができない。

医乃は、先ほど口を開いた掃司の女房に顔を向けた。

「煎じ薬の椀は、どこにございますか」

「そ、それが……明け方、誰かが下げてゆきました。顔は見えず、裳(も)の裾だけ……」

「何色でしたか」

唇だけ動かしていた女房が、怯えた顔で首を振る。

「わ、わかりませぬ。まことにございます」

わからぬという顔ではなかった。

口にしてはならぬ、と知る顔であった。

濡れた手を裳で拭きながら見下ろす亡骸の上に、2年前の夜が重なる。

あのときもこの宮のどこかで、銀の簪ひとつが黒く変じ、小さな手から茶碗が落ちた。

その音は、まだ耳を離れぬ。

ガチャン——

「母上(ははうえ)……」

「この毒は、砒霜ではございませぬ!」

簪の色だけを見れば砒霜であった。

されど砒霜に中(あた)ったのならば、血を吐くはずの幼子は、唇が青ざめてゆくあいだ、ただ小さな指先を震わせるばかりだった。

喉が裂けんばかりに叫んだその言葉に、あの夜、耳を傾けた者は誰もいなかった。

その夜のことは、ひとつとして正しくは記されなかった。

毒の名も、茶碗を手渡した手も、記録にはなく、よりにもよってあの日でなければならなかった理由を問う者もなかった。

『死せる者は嘘をつかぬ。ただ、言えぬだけ』

『わたくしが、代わりに書く』

「中宮の君、お成りー!」

井戸端の者が一斉に平伏するあいだに、医乃も額を土に当てた。

新しい中宮(きさき)が誰であるかは、とうに知れていた。

左大臣 橘 定方の次女。

廃后が追われてちょうど一月(ひとつき)の後に婚儀を上げた、廃后の異母妹。

知りながら、2年のあいだ、その顔だけは思い浮かべまいと努めてきた。

絹の裾がさらりと引かれる音より先に、香(こう)が届いた。

幼い花が、姉の部屋から密かに持ち出して塗っていた、あの梅香であった。

姉さま、わらわにもそれを。

姉さまのものは、みな美しい。

白粉(おしろい)も掛け香も絹靴も、姉のものならば何でもねだった幼い声が、耳をかすめた。

「何の騒ぎじゃ」

土をつかんだ指先に、我知らず力がこもる。

「中宮の君、この卑しき女医が、お典薬の判定を覆そうといたしましたゆえ……」

藤堂がいそいそと膝で前へにじり出た。

「ほう?」

縫いの沓(くつ)が目の前に止まったかと思うと、折り畳まれた扇の先が、医乃の顎の下に差し込まれた。

「面を上げよ」

息を整えて上げた顔の上に、鳳凰の文(もん)の袿(うちぎ)をまとった花が影を落とした。

姉の掛け香を欲しがった妹は、ついに姉の座まで奪った。

火傷の痕でひととき止まった花の目が、目元に長く留まるかと思うと、紅の唇の端がくいと上がる。

「おや」

「亡くなったわらわの姉さまに、まあ、何と似ていること」

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1話. 銀の簪は清らかであった
朝靄(あさもや)がまだ晴れきらぬ掃司の裏庭、井戸端に、むしろが一枚かぶせられていた。その端からはみ出た手は、青く硬ばったまま、爪のひとつひとつに黒ずんだ血を含んでいた。「病死にござる。夜通し風邪を患うて、息を引き取ったのであろう」欠伸を噛み殺しながら、亡骸の口から銀の簪を抜いて見せたのは、薬師寮の典薬 藤堂 英知であった。明けの光のもと、簪は塵ひとつなく白く光っていた。「ご覧あれ。清らかではないか。毒ならば、真っ黒に死んでおるはず」取り囲む女医たちが揃って頷くなか、膝をつき、亡骸の指を一本ずつ開いて確かめている下っ端の検屍女医だけが、顔を上げなかった。「医乃、そこで何をしておる。お典薬が病死と仰せなら、病死じゃ」女医の長(かしら)が目尻を吊り上げても、その手は止まらない。3月前、南の郷から上がってきたこの検屍女医を、女医所で歓迎する者は誰もいなかった。火傷の痕のせいもあれば、亡骸を前にして度を越して冷静な性のせいもあった。その女医がかつて、廃されて業火の中で死んだと記された、この国の中宮(きさき)であったことは、宮(みや)の誰ひとりとして知らぬ。「毒殺にございます」小さからぬ声ではなかったが、井戸端は一瞬にして凍りつき、藤堂の眉がぴくりと動いた。「今、何と申した」「この女房は、毒で死んだと申し上げました、お典薬」「銀の簪がこうも清らかじゃというに、何の毒じゃというのか!」ようやく上げた顔。左の頬の下から、耳の後ろを過ぎ、首筋まで這った古い火傷の痕が、明けの光の中にさらされた。「銀の簪は、砒霜(ひそう)しか知りませぬ。砒霜ならざる毒の前では、何も申しませぬ」背後にざわめきが広がる。「下っ端の分際で……」「検屍女医がいつから典薬の判定に口を挟むようになったのやら」「あのままでは、咎めを受けるぞ。ちっ」聞こえぬふりで亡骸の唇を指先で押すと、妙に強ばった口の端の向こうから、白く爛れた舌先が覗いた。爪の下の血は、苦しみに藻掻いて床を掻きむしった痕である。風邪で死ぬ者は、こうは死なぬ。口から痺れはじめ、腹のものを残らず吐き、終いには息が詰まって絶える、そういう毒がある。『附子じゃ』「この女房、最期に口にしたは何じゃ」掃司の女房ひとりが肩をすくめた。「ゆ、昨夜(ゆうべ)、煎じ薬を一椀呑みました。咳がひどいからと、誰か
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2話. 姉の座
扇の先が顎をとどめたまま止まっても、医乃は目を伏せなかった。今、逃げれば、終わりである。「お畏れながら、わたくしは南の山郷から上がってまいった女医にございます。中宮の君の姉君(あねぎみ)にお目にかかったことはございませぬ」「南のどこじゃ」「波嶺郷(はみねごう)にございます」「波嶺とな」首をかしげる花の癖(くせ)は、幼いときのままである。欲しいものを手に入れる寸前、この子はいつもこう首を傾けた。「その火傷は?」「郷に大火があった折に、負うたものにございます」『波嶺郷には、あの年、火事はなかった』隠しているのは、ただひとつ。それがひとつ露れた日、わたくしは二度死ぬ。「もっとも、わらわの姉さまはかように醜うはなかった」扇の先が頬の下の爛れをなぞり、首筋まで下りてゆくと、背後に控えた典侍たちがくすくすと笑った。花は聞かせるために声を張る。「そなたたちも存じておろう。わらわの姉さまがどのようなお方であったかを。腹を痛めてお産みになった一の宮を、毒で亡き者にしようとした毒婦じゃった。ゆえに天が火をお下しになり、連れてゆかれたのじゃ」医乃は奥歯を噛みしめた。7つの折、石段から転げ落ちて額を裂いた夜、一晩中そばにいて傷を縫うてくれたのが誰であったか、この子は忘れておるだろう。あるいは、わざと消してしまったのかもしれぬ。「して、何の騒ぎじゃと?」「この女医が、風邪で絶えた女房を毒殺じゃと言い張るのでございます、中宮の君」額を土に付けたまま、藤堂はちらと中宮の顔色を窺った。「毒殺?」花の睫毛(まつげ)がふるりと揺れる。「何の毒じゃ」問いが疾(と)すぎた。己でもそう気づいたのか、花はすぐさま扇を開いて口元を隠した。掃司の女房ひとりが死んだと申すに、中宮が真っ先に問うたのは毒の名であった。誰が死んだかも、いかにして死んだかも、差し置いて。花の背後で典侍 紀伊(きい)がそっと頭を下げると、濃い縹(はなだ)の裾がその足元に揺れた。掃司の女房がついぞ口にしなかった色を、医乃は知る心地がした。「掃司の女房ひとり死んだくらいで、この明け方から騒がしきこと」扇が閉じた。パチン——「病死で片づけよ。中宮御所の近くで泣き声を立てられるのも、縁起が悪い」「中宮の君、この女房は附子に中(あた)って——」——「誰がそなたに口を開けと申し
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3話. 御前付き
「し、主上(しゅじょう)!」裳を持ち上げて真っ先に伏したのは花で、井戸端の頭々は波のごとく低く下りた。その波に身を沈めると、土を押さえた手の下で、己の脈がどくどくと鳴る。『面(おもて)を上げるな』『声も変えよ』『2年ぞ。この肌も損なわれた。見破られる道理はない』風に乗って、沈香(じんこう)が流れてきた。東宮の頃からこの君が用いていた香である。夜もすがら書を読み、彼女の膝を枕に眠った夜も、茶碗の砕けたあの夜、彼女を見下ろしていたその日も、この御方からは同じ香がした。黒き沓(くつ)が目の前で止まった。「朕(ちん)が名を問うておる」「……医乃にございます」喉を削り取られて掠(かす)れた声の上に、短い沈黙が落ちた。「医乃」煌仁(こうじん)がその名を口のなかで転がす。「面を上げよ」上げねば不敬、上げれば終わりやもしれぬ。医乃は火傷の爛れた左の頬からまず見せて、顔を上げた。ふたたび見るこの君は、少し痩せていた。濃くなった目の下の隈のもとで、頬骨がくぼんでいる。その目が、彼女の顔の上で止まる。一息。二息。煌仁の表情は微塵も動かぬ。『……知らぬのじゃ』強ばっていた肩がほどけるのに、どうしてか、みぞおちの奥が冷えた。見破れぬほどに、この御方にとって、わたくしは何者でもなかったのだろうか。ゆえに彼女は見なかった。袍(ほう)の袖のなかで、帝のこぶしが白く握り込まれていたことを。「何を見て毒殺と申した」「口元の強ばり、舌の爛れ、爪の下の血の痕——いずれも附子中毒の兆しにございます。捨て水の口にて煎じ薬の滓を見つけ、そのなかに附子の根がございました」「銀の簪は」「銀の簪は、砒霜しか知りませぬ、主上」煌仁の瞼がゆっくり落ち、また上がった。医乃が己の指先に目を落としたあいだに、その目は彼女の結い上げた髷(まげ)へ上った。木の簪ひとつだけ挿さったその場所でひと呼吸とどまり、ふたたび下りてくる。「その根、こちらへ」泥に汚れた手を開くと、煌仁がみずから身を屈め、附子の欠片を摘み上げた。手の平をかすめた指の先は、氷を握って放したあとのように冷たかった。収めてゆくその右の手の甲を、ぬらぬらと凝った火傷の痕が覆っていた。『……あれは』2年前にはなかった痕であった。弓を引くたび彼女が手ずから紫雲膏(しうんこう)を塗ってやった
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4話. 桐の小箱
女医所に噂が回るのに、半日とかからなかった。「あの山郷の女医、御前付きになったってさ」「中宮の君の御前で楯突いたというに?」「主上が自ら名を問うたと申すではないか」「首筋にあの醜きを下げて、何の術(すべ)で」ざわめきの合間を縫うて、医乃は黙々と検屍書を書き進めていた。童女 福、掃司の女房、21歳、死因は附子中毒。筆先の止まった紙の上に、福(ふく)という名が引っかかった。どこかで聞いた名である。記憶を手繰ろうとした瞬間、何者かの肩が医乃の肩をとんと突いて過ぎた。倒れた硯から溢れた墨が、半日かけて書いた検屍書の文字を、一息に飲み込んだ。「あら、肘が当たったこと」女医ひとりが口元を押さえて笑うと、部屋のあちこちで含み笑いが続いた。墨に濡れた紙をしばし見下ろしていた医乃が、無言のまま新しい紙を取り出した。墨を擂り直し、一行目から筆を下ろすと、亡骸の背丈から爪の下の血の形、水口で根を掬った位置と、その折に居合わせた者の名まで、よどみなく綴られてゆく。笑い声がひとつふたつと途切れた。墨を倒した女医がこそこそと席を外し、代わりに女医の長が歩み寄って袖に両手を差し入れたまま立った。「御前付きとなったとて、女医所の務めを疎かにする気ではあるまいな。明日より入る亡骸は、そなたがすべて洗え」「はい」筆は止めぬまま、首だけで頷いて見せた。「……はい、とな?」袖に収めたはずの手が、知らず解けていた。「洗い申します。亡骸は、わたくしがまず見るが宜(よろ)しゅうございます」口だけ動かしていた女医の長が、わざとらしく咳払いをして背を向けた。「師匠!」タン——勢いよく開いた戸の隙間から、丸い顔がひょいと差し込まれた。16になるかどうかの、頬の赤い見習い女医が、両手に蒸した芋を抱えて目を輝かせている。「わたし、蓮(れん)と申します! 今日より師匠のもとで学ぶようにと言われまして!」「……誰がそう申した」「女医の長さまです! 誰も師匠のもとに行かぬと申すので、わたし真っ先に手を挙げました!」蓮が屈託なく芋をひとつ差し出した。「先ほど井戸端で、残らず見ておりました。あの根を噛まれるところ! まことに大したものでございました!」「噛んだのではない。舌先に当てたのじゃ」「それがもっと凄うございます!」危うく吹き出しかけた笑いを噛み殺すうち
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5話. 残りの片方
一睡もせず朝を迎えた医乃の処の戸を、薄闇の晴れきらぬうちに、老いた蔵人がひとつ叩いた。「御前付き検屍女医、清涼殿へ参れとの主上の仰せじゃ」明け早くに蒸し芋を包んで来て、縁側に腰を下ろしていた蓮が、ぱっと立ち上がった。「師匠! はじめての御前入りですよ!」「なぜそなたが浮き立っておるのじゃ」「存じませぬ、ただ、わたしの胸がどきどきと鳴るばかりで!」袖の奥深くへ銀の簪を押し込むあいだも、この簪を送った者が誰であれ、今日その顔を見ることになるやもしれぬ、という思いが離れなかった。清涼殿まで先立つ老蔵人は、少し曲がった背で、歩のたびに舌打ちをしていたが、ついに一言を添えた。「のう、主上の御前では、問われたことにのみ答えよ。目は床に、口は重く。承知しておるか」「はい、御蔵人さま」「それと、主上が何を仰せになっても驚くでないぞ」「……何を仰せになるとて、そう申されますか」老蔵人は答えの代わりに、長い溜息を吐いた。「わしにも、わからぬ。昨日より主上が、人が変わられたようでな」老蔵人の長い息は、回廊を幾度か折れるあいだ続き、その果てに清涼殿の戸が開かれた。水を打ったような静けさの奥、上奏(じょうそう)の山の向こうで、煌仁は医乃が伏して久しくなっても、筆を走らせるばかりで、顔ひとつ上げない。いつの間にか帝の脇に立った老蔵人が、咳払いをした。「主上、検屍女医、参ってございます」「そうか」筆が止まり、上がった眼差しを、医乃はまっすぐに受けた。昨夜あの小箱を置いていった者がこのお方ならば、今、何かが露れるはずであった。「重ねて見ても、朕の知る顔ではないな」強張っていた肩から、するすると力が抜けた。『……違うたか』「検屍書は」「ここにございます」煌仁は検屍書を受け取って読み下していったが、一枚を繰る手が、妙に遅い。「附子は、薬種庫の薬帳と照らしたか」「藤堂のお典薬がお照らしになると申されましたが、まだ知らせはございませぬ」「であろうな」煌仁は検屍書を文机の端へ下ろし、顔も上げずに、ふたたび筆を取った。「波嶺郷と申したな」「……はい、主上」「波嶺に火が出たのは、いつのことぞ」床に手をついた医乃の指先に、知らず力が入る。「2年前の冬にございます」「検屍は、どこで学んだ」「郷の医師さまから、肩越しに学び申しました」「肩越
last updateLast Updated : 2026-11-05
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6話. 薬を煎じていた手
清涼殿より下がったその朝、女医の長は約束どおり、福の亡骸を医乃に引き渡した。「洗うと申したのじゃ、洗え。棺入れは午後じゃ」医乃は袖の奥の銀の簪を懐へ移し、袖をたくし上げた。清涼殿で滲んだ冷や汗が背にまだ張りついているが、亡骸の前に立てば頭の中が澄むのは、今も昔も変わらぬ。日の差さぬ、冷えた部屋の戸口で、蓮が鼻を押さえて足を踏みかえた。「師匠、わたし、本当に入らねばなりませぬか」「入らずともよい。代わりに、わたしが読み上げるものを書き留めよ」「それならば、できます!」ぬるい湯に木綿を浸し、亡骸の脇に膝をつくと、唇を辛うじて動かすほど小さな声が洩れた。「福。言いさしたことを、続けよ。わたしが代わって書く」検屍の折、いつもの癖であった。昨日見た強ばった口元、爛れた舌先を再び確かめ、爪の下の血の痕を見下ろしてゆく手が、右の手の平で止まった。親指の下に、厚い胼胝(たこ)が結ばれていた。掃司の女房ならば、砧(きぬた)で打つ胼胝が手の平の真ん中に広く散っておらねばならぬ。なれどこの胼胝は、一点に瘤のように硬く固まっていた。長い杓を握り、ひとつの向きに幾千、幾万、何かを掻き混ぜつづけた手。薬鍋の前にうずくまり、夜通し火を守り、薬を焦がさぬがため、ただ掻き混ぜてきた手であった。「蓮」「はい!」「掃司へ行き、福がいつよりあの場に居ったか、聞いて参れ」矢さながら駆け出る蓮を後ろに、その手の平を見下ろすあいだ、頭より先に、指先が思い出した。毎朝、湯気の立つ薬の椀を捧げて中宮御所の敷居を越えた、小さな、赤くひび割れた手。御方さま、今朝は少し、苦くなきよう煎じ申しました。恥じらうように俯いて笑うていた幼き女房の顔が浮かぶ。井戸端で筵(むしろ)を引き剝がしたとき、見分けられなんだのは、毒に腫れた顔が黒く青く死んでいたゆえであった。検屍書に記した齢は21。2年前であれば19。あの子の齢と、ちょうど合う。福(ふく)。どこで聞いた名か、今、ようやく知れた。彼女が中宮御所の主であった時分、薬房で彼女の薬を煎じていた、あの童女であった。「師匠! 聞いて参りました!」蓮が息を切らせて戸口にすがった。「福ねえさま、掃司に来て2年にしかならぬそうです! その前にどこに居ったのか、誰も知らぬのです。問えば、口をしかと閉ざしていたと申しておりました」
last updateLast Updated : 2026-11-05
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7話. すでに廃后であった
宣旨が一日早く下ったか否かを確かめる道は、ひとつしかなかった。蔵人所の出納帳(しゅつのうちょう)。宣旨は、初本(しょほん)が蔵人所に入った日より御璽(ぎょじ)が捺されて下るその日まで、一行の洩れもなく、その帳に記される。中宮であった時分、彼女はその出納帳を自ら繙(ひもと)いて見たことがあった。疫病の折に下る救恤(きゅうじゅつ)の宣旨が、何ゆえ3日も遅れたのかを質すためであった。その折、蔵人所の下役が慌てつつ指し示した書架の場所を、彼女は未だ覚えていた。障りは、末席の女医に、蔵人所の文書庫へ入る道が無い、ということであった。昼は下役が守り、夜は近衛の廻(めぐり)が巡る。「蓮」女医所の裏庭で、夕餉の片付けをしていた蓮が顔を上げた。純に言伝(ことづて)を終えて戻った直後で、鼻の頭が冷たい風に赤くなっていた。「今宵、わたしと共に、塀をひとつ、越えてはくれぬか」蓮の手から柄杓(ひしゃく)がぽとりと落ちた。「……師匠、それは、盗みを働けと仰せですか」「盗みなどではない。福の遺した言葉が、真(まこと)か、確かめるのじゃ」蓮はしばし医乃を見上げ、唇をすぼめた。「危ないのでしょう?」「そうじゃ」「見つかれば、咎めを受けるのですね?」「おそらくは」「……宜しゅうございます」思いもよらぬ答えに瞬くばかりの医乃の前で、蓮が柄杓を拾い、水気をぱっぱと払い、にっと笑った。「師匠は、亡骸の言葉をお信じになるのでしょう。それなら、わたしは師匠のお言葉を信じます」医乃は答える代わりに、水に浸ってふやけた蓮の手の甲を、己の袖でひと拭いしてやった。水に濡れた手を拭きながら、蓮は小さき声で聞いた。「師匠、なにゆえ、わたしに、お打ち明けなさいます」「盤(ばん)を打つに、ひとりでは駒が足りぬ」「駒……わたしは、駒でございまするか」「駒ではない。手じゃ」「手」「いざという時に、わたしの代わりに紙を取り、井戸に落とす手じゃ。盗まれしものは、井戸の底の泥に沈ませればよい」「……師匠」「怖うはないか」「怖うございます。されど、怖うてやらぬよりは、怖うてやる方が、わたしの性に合うておりまする」***処を出る前、医乃は懐から出した銀の簪を、しばし手の平に載せてから、結った髷に押し込んだ。廃されたあの夜より、はじめて、髷に挿す簪であった。誰が送った
last updateLast Updated : 2026-11-05
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8話. 父の筆跡
どれほど座り込んでいたか、医乃は手の甲で目尻を拭い、出納帳を元に戻してから身を起こした。泣く刻(とき)は、後にもある。今、知らねばならぬのは一つ。誰がその宣旨を一日早う書いたか。宣旨は帝の名で下るが、初本(しょほん)を書く手は別にあった。蔵人所は上がってきた初本を年ごとに束ね、文書庫の奥の櫃(ひつ)に収めていた。出納帳の書架を過ぎて櫃の前に立つと、錠前は錆びて用をなさず、掛け金だけが掛かっていた。ぎぃ——蓋を持ち上げるや、古紙の匂いがどっと押し寄せた。束からその年その月のものを探し当てるのに、さほど時はかからなかった。一番上に置かれた一枚であった。廃庶人(はいしょじん) 橘氏(たちばなうじ)。己の名の刻まれた一行目から、医乃の目は長く離れなかった。一の宮を害さんとした罪、妬(ねた)みて宮を乱した罪、国母の座を汚した罪。紙の上に並ぶ罪目は、見慣れぬほど滑らかであった。ずっと以前から磨かれていた文(ぶん)のように。されど医乃を凍らせたのは、内容ではなかった。筆跡であった。画(かく)を最後まで押し下げ、終いの撥(は)ねを上へ弾き上げる癖。この世でこう書く者は、ただ二人であった。一人は彼女自身、もう一人はその癖を彼女に授けた人。7歳の頃、父の書斎の文机(ふづくえ)の前。小さな手に筆を握らせ、その上を大きな手で包み込んだ人があった。「画を最後まで押せ。終いを濁す者は、言葉尻も濁すぞ」「はい、父上」「よう聞いた。いま一度、横画をやってみよ」墨の匂いと共に、背後から低い笑い声が降ってきた。「そうじゃ、そうじゃ。わが長女(ちょうじょ)は、筆跡がわしにそっくりじゃ。これならいずれ、どの文(ふみ)に出しても恥ずかしゅうない」医乃の指先が、初本の上の文字をなぞって滑った。廃・庶・人。一画一画が、あの日の書斎で教わったままであった。父であった。左大臣 橘 定方(さだかた)。彼女を誰より先に抱き上げ、誰より先に書を授け、客が来るたび長女の筆跡を取り出して自慢した人。東宮妃(とうぐうひ)選びの日、門前で遂に目を赤く染めた人。一の宮が生まれた折は、震える筆で文を送ってきた。『わが長女、あっぱれじゃ。まことにあっぱれじゃ』その文の一字一字を、彼女は未だ目を閉じて描ける。その人が、娘の廃される一日前に、娘の廃后の宣旨を書い
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9話. その手
書架の影に息を潜めた医乃の方へ、灯籠の光が書架の間を一間ずつ明らめながら近づいてきた。隠れる処は多くはない。うずくまって見咎められれば盗人、先に名乗り出れば道に迷うた女医でお茶を濁せるやもしれぬ。いずれにせよ杖は喰らうが、検非違使庁に引かれるか否かはこの一歩に懸かっていた。医乃は裳(も)の裾を払い、影の外へ歩み出た。「……ここにおりまする、大臣(おとど)さま」正面から降り注ぐ灯籠の光に目が痛んだが、医乃は顔を背けなんだ。ここで顔を背ければ、隠しごとのある者になる。「……女医か」定方(さだかた)が眉をひそめた。2年の間に父は目に見えて老いていた。鬢(びん)に白が混じり、目尻の皺は深う刻まれていたが、人を見下ろす眼光のみは昔のままであった。この夜更けに左大臣が自ら鍵を携えて文書庫を訪なう謂れは多くはない。今朝、藤堂典薬が薬の帳を携えて清涼殿に入り、附子(ぶす)の半斤が欠けたことが帝の耳に入った。そして今宵、父がここにある。何かを確かめに、或いは片付けに。「御前(ごぜん)女医にございます、大臣さま」「ああ、噂の山里の女医じゃな」定方の口の端が斜に歪んだ。娘の声を聞き分ける気配は、微塵もない。灯籠が揺れるたび、父の袍の胸元から梅香がほのかに立ち上った。中宮御所に立ち寄ってきた途上であるらしい。この夜中に中宮と会い、直ちに文書庫へ。2年であった。頬から首筋まで火に焼かれた肉がひきつり、声はわざと潰して低くした。それでも医乃は、何処かで待っていた。父ならば、歩みでも目元でも、何か一つくらいは気づいてくれようかと。娘の姉妹(きょうだい)ほど灯籠を掲げながら、父は相変わらず異国の女を検分するように医乃を眺めていた。「女医がこの刻に蔵人所の文書庫で、何の用じゃ」「検屍書を蔵人所に上げに参り、道に迷いましてございます」「道に迷うた? 塀を越えて?」定方が灯籠を下げ、その手を照らした。「山里の出(で)にしては、手が綺麗じゃな」引かぬ手の甲を伝って上った光が、手首のひきつれた肌に触れると、定方は鼻先を歪めて灯籠を戻した。「醜いの」その一言で、父は娘に気づく機を取り逃した。「それでも帝の目に留まったそうな。その面(つら)で男目に留まる才が、あるとみえる」返しの代わりに、問い一つが胸の内で巡った。この人はもともとこう
last updateLast Updated : 2026-11-05
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10話. 減ってゆく膏(こう)
「し、主上……!」定方が手首を抜き、慌しく平伏した。その後ろで下役らも次々に膝をつき、床に落ちた灯籠がころころと転がって書架の脚に掛かった。煌仁(こうじん)は平伏した定方の頭を見下ろした。「この夜更けに、左大臣は文書庫に何の用か」「じ、蔵人所の務めを検めに……」「左大臣が自ら鍵を携えて?」「……近頃、下役が怠るゆえ、臣(しん)が自ら……」「勤勉な事じゃのう」煌仁の声は水の流れるごとく淡々としていた。その淡々さに、平伏した下役らの背が一様に縮んだ。「朕も寝つかれぬゆえ、宮を歩いておった。文書庫の塀の下で病み鶏(どり)が鳴いておったゆえ寄ってみれば、左大臣が朕の女医を打っておるではないか」塀の外の闇で蓮が、ひくっと息を呑む音が聞こえた気がした。定方は額を床に押しつけた。「臣がこの女医を盗人と誤認いたし……」「誤認したならば退がれ。あ、そしてな」退がろうとした定方の背が、強ばった。「明朝、薬師寮の薬種庫から失せた附子(ぶす)の半斤の件で、薬師寮の別当と共に清涼殿に参られよ。左大臣がこう勤勉であらば、朕も安んじて任せられよう」定方の肩が、ぴくりと震えた。「……は、主上」床に転がった灯籠も拾わぬまま退がる定方は、医乃に一瞥すら与えなかった。ただ傍らを擦り過ぎる刹那、硬い袍の袖が彼女の手の甲を掻くように撫でた。氷のごとき絹であった。下役らまで退がり切った戸口に、伏見(ふしみ)が息を切らせて駆け込んできた。「し、主上……! はっ、はっ……、寝つかれぬゆえ宮を歩かれると仰せられたのに、歩く御仁がなにゆえそう駆けられまするか……!」「伏見」「……は、主上」「静かにせよ」伏見はぴたりと口を結び、医乃を横目にちらと見てから、そろりと戸の外に退がった。二人のみ残った文書庫で、医乃は膝を折って頭を垂れていた。『……ご覧になっただろうか』櫃を開けたことを。いや、そもそもどこまで見ておられたのか。「怪我は」「……ございませぬ」「頬が腫れておる」「お気になさいますな。末席の女医の頬など」しばし言葉のない煌仁の影が、床に置かれた灯籠の光に沿うて揺れ、医乃の膝の前まで長く伸びた。「朕の女医が打たれるは、朕が打たれるも同じじゃ」医乃は膝上の手を強く握った。額が割れるほど床を叩いていた彼女を置いて背を向けた人であった。その
last updateLast Updated : 2026-11-05
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