Masuk松永に電話をかけると、彼は三コールほどで応答した。「もしもし、神宮司さん?」「あ、松永さん……急に電話してしまってすみません」電話の向こうから、いつものチャラチャラした松永の声が聞こえる。いくら心に余裕がないとはいえ、彼に電話をかけるだなんて。自分でもありえないと思っていた。「全然、気にしないで。だけど本当にかけてくるとは思わなかったから驚いたなぁ」「わ、私も電話をかけることになるとは思ってもいませんでした」その言葉に、松永はアハハッと声を上げて笑った。一生繋がることがないと思っていたのは、お互い様だ。「どうかしたの?旦那さんのことで何かあった?」「あ、いえ……そういうわけではないんですけど……」瀬奈は松永相手に、正直に事情を話すことができなかった。そもそも彼はつい最近出会ったばかりで、湊斗とは話したこともない。そんな彼にこのような話をするのは正解なのだろうか。そのような思いから素直に打ち明けることが出来ずにいたものの、松永はそんな瀬奈の気持ちを見抜いていたようだ。「いやぁ、神宮司さんがわざわざ俺に電話かけてくるってことは旦那さん関連だろ?」「そ、それは……」心の中を見透かされたようで、瀬奈は認めざるを得なかった。「旦那さんと上手くいかなくて寂しくなっちゃった?なら、俺が一日相手してあげようか?今から君の家に――」「冗談はやめてください、松永さん」瀬奈は松永の馬鹿げた提案に、即座に断りを入れた。悩んでいたから電話したというだけであって、彼女まで不倫をしようなんて意思はない。「まぁ、そうだな……俺が神宮司さんと関係持っちゃったら旦那さんが可哀相だもんな」「前から思ってたんですけど、私と夫どっちの味方なんですか?」松永は瀬奈のその質問には答えなかった。代わりに、彼はしみじみと過去を思い返していた。「神宮司さんを見ていると、昔を思い出すな……俺もそういうときがあったなぁ」「そういえば、松永さんって昔結婚してたんでしたっけ」「ああ、そうだよ。社員の誰かから聞いたのか」松永が過去に結婚しており、その後離婚したという話は飲み会で隣に座った女性社員から聞いた話だった。今どき夫婦の離婚なんてそれほど珍しいことではない。離婚したというだけで色眼鏡で見るのも間違いだろうと思い、そこまで気にはしなかった。「前に神宮司さんが旦那さんを
里亜は呆然とする母親を、きょとんとした顔で見つめていた。彼女は幼さゆえに、事の重大さに気付いていない。たった今、大好きな父親に不倫疑惑がかけられたことなど知りもしないだろう。「……マナミって誰よ?」「パパのお友達?」その可能性も無くはないが、瀬奈は湊斗の不倫を疑わざるを得なかった。いくら妻とはいえ、夫の交友関係にまで口を出す筋合いはない。そのことをよく理解してはいるものの、嫌な予感がしてならない。年を取ってもなお、湊斗は若い女性たちから常に猛アタックされるような男だ。この世に瀬奈より若く美しい女なんてたくさんいるだろうし、彼さえその気になれば……。そこまで考え込んだ瀬奈は、あり得ないと首を横に振った。きっと何かの勘違いだと、彼女は湊斗を信じていた。「マナミって人と電話してたって?いつ?どんな話?」「昨日、部屋でパパが話してた。ホテルでマナミと会うって」「……」――ホテルですって?瀬奈の頭の中が真っ白になった。もしかして、最近帰りが遅いのはそのマナミという女と会っているせいなのか。二度と他の女と遊ばないというのは嘘で、本当はこっそり愛人を作っているのか。様々な考察が瀬奈の頭を駆け巡り、彼女は仰向けに倒れてしまった。「マ、ママー!」里亜が倒れ込んだ瀬奈に駆け寄った。彼女は目に涙を浮かべながら瀬奈の身体を揺さぶった。「ママー、死なないでー」「……里亜」身体は生きているが、心は死にかけていた。***その後、瀬奈はメイドの一人によってベッドまで運ばれた。彼女は自室のベッドに横たわり、目を閉じていた。そんな母親の姿を見た里亜が、ポツリと呟いた。「おばさん、ママ死んじゃうんですか?」「い、いえ……そんなことはありません、お嬢様!」俯く里亜の小さな背中を、励ますようにメイドがさすった。「里亜……大丈夫よ。心配しないで」娘にだけは心配をかけるまいと、瀬奈は何とか言葉を発した。「ねぇ……私が倒れたこと、湊斗には伝えないでおいてくれないかしら」「で、ですが……」渋るメイドに、瀬奈は頼み込んだ。「お願い、彼には言わないで。ただでさえ仕事が忙しいってのに、面倒かけたくないの」「……しょ、承知致しました」メイドたちは冷たい湊斗よりも親切な瀬奈に好感を抱いている。そのおかげか、彼女の願いを聞き入れた。瀬奈はベッドから上半身を起こ
その後、瀬奈は愛斗を玄関で見送った。ちょうど外が暗くなり始めていた頃だった。瀬奈は送っていこうかと言ったが、愛斗はそれほど遠くはないからと断った。黒川区は都会であるため、夜に出歩いたところで別に危なくはない。最近は夜遊びをしているヤンチャな学生たちをよく見かける。それに加え、ちょうど雨が上がっていた。今の状況であれば、徒歩で家に帰ることができるだろう。「瀬奈さん……今日はご迷惑をおかけしてすみません」「いえいえ、気にしないで。あなたをここへ連れてきたのは私なんだから」湊斗の服を着ている愛斗の姿は、正直かなり違和感がある。しかし、それ以外に着るものがないため仕方が無い。「では……失礼します。今日はありがとうございました。明日にでも服を返しに来ます」「あら、別にもらっていってもいいのよ?湊斗は服が一着無くなったことくらい気付かないだろうし」「い、いえそういうわけには……!」ハイブランド好きな湊斗は、かなりの量の服やアクセサリーを所有している。年を取ってからは購入品も少なくなったが、若い頃に買った服が未だに大量に残っている。そのため、仮に愛斗が借りパクしたところで彼はおそらく気付きもしないだろう。「と、とにかく……服はきちんとお返しします」「そう、待っているわ」待っている――というその言葉に、愛斗の顔が少しだけ赤くなった。そういえば、さっき彼と抱き合ってたんだっけ。二十近く年が離れているせいか、瀬奈はあまり気にしなかった。きっと愛斗もさほど気に留めてはいないだろうと、瀬奈は勝手に思い込んだ。しかし、実際愛斗は瀬奈と抱き合ったことがいつまでも頭から離れなかった。「じゃあね、愛斗君」「はい」瀬奈は愛斗を見送り、家に戻った。湊斗が帰ってくる前に終わらせることができてよかったと、瀬奈は安堵の息を吐いた。そんな彼女の元に、里亜がやってきた。里亜は瀬奈が湊斗を受け入れたあの日から、正式に湊斗の子――神宮司家の令嬢となった。とにかく里亜を甘やかそうとする湊斗に対し、瀬奈はお灸をすえることも多い。「ママ、お腹空いた」「そうね、今日もパパ遅くなるみたいだし……先に食べちゃいましょう」瀬奈はキッチンに行くと、エプロンを身体に巻き付け、夕食の支度を始めた。よほどお腹が空いていたのか、里亜もキッチンまでついて来て支度を手伝った。「あら、ありがと
全てを話し終えた愛斗は、切なそうな表情で俯いた。気のせいか、その瞳には涙が滲んでいるようにも見える。そんな彼の辛そうな様子を見ていると、瀬奈は胸が締め付けられた。どうしてこんなにも心優しい少年が、辛い目に遭わないといけないのだろうか。血の繋がった我が子に平然とそのような言葉を吐くことのできる沙織の異常さを改めて知った。「さっき言いましたよね。昔からずっと疑問に思っていたと。幼い頃は、なぜ両親が自分を愛していないのかを不思議に思っていました。だけど、姉さんも似たような状況だったせいかあまり深く考えることはありませんでした」「愛斗君、それは……」瀬奈は愛斗の愛されていないという考えを否定しようとしたが、言葉がどうしても出てこなかった。沙織が百合子と愛斗を愛しているのかと言われれば、答えは否だった。そんなことないよなんて、家庭の事情をよく知りもしない赤の他人に言われたところで何の慰めにもならない。それに、愛斗は慰めの言葉なんて望んではいないだろう。「子を愛していない母親なんていないと言いますが……本当にそうでしょうか?」愛斗の言っていることはごもっともだった。我が子を愛する母親が大半を占める中でも、当然例外は存在する。沙織だけではなく、瀬奈の母親も似たようなものだった。今は亡き母は、泰西にのみ愛を注ぎ、瀬奈と静香には関心を向けなかった。当時の母親の置かれた状況を思えば、彼女だけを責めるのも間違いかもしれない。わかってはいるものの、幼少期の瀬奈は寂しさを感じずにはいられなかった。――母親という存在は、それほどまでに子供にとっては大きなものなのである。おそらく愛斗も、心のどこかで沙織のことを信じていたのではないだろうか。「なら、俺は母さんの子供ではありませんね。この間もハッキリ言われたし――好きでもない遊び相手の男との子供なんて気持ち悪くてたまらないって」「そんな……沙織が……?」沙織の言動に、瀬奈は絶句した。なぜ、そこまでの暴言を吐けるのだろうか。知らない男の子供だから可愛くないと言うが、そんな人間は仮に愛する男性との間に生まれた子だったとしても、可愛がれないだろう。「さっき、元気だったかって聞きましたよね。正直に言うと、元気ではありませんでした。近頃はとくに、何も手につかなくなってしまって」「愛斗君」彼が何かを思い悩んでいることは、
愛斗と百合子が湊斗の子ではないこと。瀬奈も既に知っていた事実だったが、当の本人の口から直接聞くことになるとは想像もしていなかった。しかも、その事実を伝えたのが他でもない沙織だなんて。彼が今一体どんな気持ちでいるのか、瀬奈は頭を抱えた。「愛斗君……どうして……」「ずっと疑問に思っていたんです。母は常に何かを隠しているようだったし、父に本妻がいると知ってからは……もしかすると自分は父の子供ではないんじゃないかって少しずつ思うようになりました」愛斗は瀬奈と湊斗と話したあの日、沙織に直接尋ねた。自分は湊斗の子供ではないのかではなく、自分の本当の父親は一体誰か、と。確信があったわけではないが、どうしても真実を知りたくてかまをかけたのだ。沙織はそんな質問をされてもなお、動揺する素振りすら見せなかった。『どうしてそんなことを聞くのかしら?誰かに何か言われたの?』『そういうわけじゃないけど……ただ、そうなんじゃないかって思っただけで』『ふーん、そう』そこで沙織は、愛斗から顔を背けた。馬鹿げたこと言わないでよね、そんなわけないでしょう――なんて言葉を彼は期待していたのかもしれない。しかし、現実はどこまでも残酷で、沙織はどこまでも冷たい人間だった。『父親が誰かって言ったわよね?わからないわ、そんなの気にしたこともない』『…………え?』理解が追い付かない息子に、沙織はもう一度言い放った。『父親はわからない。それが答えよ。これで満足したかしら?』『母さん……』沙織の答えは、彼が望んでいたものとはかけ離れていた。たとえ父親が湊斗ではなかったとしても、他にきちんと存在しているのならまだ耐えられた。しかし、誰かわからないだなんて。彼女の放った一言は、愛斗にとってはもっとも最悪なものだった。『……どうして』『どうしてですって?それに関してはきちんと答えられるわ――適当な男たちと遊んでたら運悪く出来ちゃったのよ』その答えに、愛斗は絶句した。愛し合って生まれた子ではなく、望まれなかった子。父親は彼の存在すら知らず、母親ですら彼の誕生を喜ばなかった。自分は両親にとってその程度の存在だったのか。もちろん愛された実感なんてなかったけれど、生まれたときから疎まれていたのか。『仕方ないでしょう?できちゃったんだから』『もしかして、姉さんも……』沙織はもはや
瀬奈は愛斗を神宮司邸に入れると、すぐに風呂に入らせた。長時間雨に打たれた後だ。風邪を引いてしまっているかもしれない。受験が近いというのに、体調を崩してしまうのは大変だ。瀬奈は愛斗の世話をメイドに任せ、一度部屋へ戻った。「奥様、あの方は一体どちら様ですか?」「愛斗君よ。沙織の息子の」「沙織さんの息子……って、ええ!?」メイドは衝撃を受け、思わず声を上げた。神宮司家にいる人間で、沙織のことを知らない者はいない。瀬奈と沙織の立場を考えれば、驚くのも当然だろう。ここにいるメイドたちが瀬奈を聖母だと敬っている以上、沙織の息子である愛斗に良くない感情を抱く者もいるかもしれない。「お客様だから、あまり無礼な真似はしないようにね」「は、はい……」メイドは驚きながらもコクリと頷いた。それから一時間後、風呂から上がった愛斗が瀬奈の前に姿を現わした。彼は気まずそうに開いた扉の隙間から顔を覗かせた。「あ、あの……」「あら、愛斗君。お風呂から上がったのね」瀬奈は愛斗を怖がらせないように、笑顔で手招きした。遠慮がちに部屋に入ってきた愛斗は、ダボダボのシャツとズボンを着ていた。「……湊斗の服、ちょっと大きかったわね」「しゃ、社長の服だったんですか……」それもよく見たらシャツ一枚で数十万もする超高級ブランド。そのことを知った愛斗の顔が急に青くなった。瀬奈の暮らす神宮司邸には湊斗以外に男がいないため、彼の服以外に愛斗が着れるようなものはなかったのだ。しかし、サイズはどう見ても合わなかった。身長百八十を超える湊斗に対し、まだまだ成長途中の愛斗は百七十センチほど。ズボンの裾が床に付き、シャツは萌え袖状態。何か可愛い。瀬奈はこみ上げてくる笑いを抑えながら、愛斗に声をかけた。「あらあら、そんなに心配しないで。湊斗はそういうの気にしないから」「ほ、本当ですか……?」愛斗を安心させるための嘘、というわけではない。湊斗はシャツ一枚汚したところで別に何とも思わないだろう。彼にとっては大した額ではないうえに、代わりなんていくらでもあるのだから。「さぁ、座ってちょうだい。愛斗君」「は、はい……」瀬奈は愛斗に正面の席を勧め、彼はそっと腰を下ろした。瀬奈が準備した紅茶と、クッキーが机の上に置かれている。「久しぶりね、元気にしてた?」「……」瀬奈のその質問に、愛斗







