Share

016話

last update publish date: 2026-09-08 11:02:00

「それって、雪乃自身はどうでもいいってことじゃないの?」

「違います! そういう意味じゃなくてっ!」

 手振り身振りを交えて慌てふためく湊の姿に、雪乃は思わず頬を緩めた。

 その笑顔に引き寄せられるように、湊が雪乃を真っ直ぐに見つめる。

「悪い意味じゃなくて……百地先輩の音楽への才能は無限で、俺よりも発想がすごくて。本当に憧れてるんです」

「何慌ててんのよ」

 凛が可笑しそうに口元を緩め、雪乃も小さく微笑み返した。

 湊が自分の音楽をそこまで高く買ってくれていたのだと知り、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 ――けれど、次の瞬間。冷たい現実が雪乃の心を掠めた。

 その才能ピアノを失ってしまった今の自分は、果たして彼の憧れに値するのだろうか。右手が動かず、二度と自由に鍵盤を叩けない自分に、一体何が残っているというのだろう。

 急に影を落とした雪乃の表情に気づき、湊が戸惑ったように言葉を詰まらせる。

 その異変を敏鋭に察
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   42話

    「隣の部屋を黒木に貸したんだ」 その言葉が鼓膜に落ちてきた瞬間、雪乃の胸の中で戸惑いが生じた。 柊也がなぜ、わざわざそんなことを口にしたのか分からない。 黒木が隣の部屋にいるのなら――激しく物音を立てれば、彼が異変に気付いて助けに来てくれるかもしれない。それは絶望の淵で見えた、確かな希望ではないだろうか。 ただ、黒木を雇ったのは柊也だ。契約上の雇い主に逆らってまで、夫婦の私室の問題にどこまで踏み込んで介入してくれるのかという不安は残る。それでも、何もないよりはマシだった。 僅かな希望に縋り直すように、強張っていた肩の力がふっと抜け、身を竦めていた筋肉が柔らかくなる。 だが、その安堵を潰すように、柊也が雪乃の耳元で静かに囁いた。「俺たちがここで、何をしているか物音で分かるかもしれないな」 ――そういうことか、と雪乃は悟った。 雪乃には、その言葉が「隣の部屋にいる警護に、自分が夫に屈服させられ、抱かれている音を聞かれることになる」という恥辱の暗示にしか思えなかった。 救いなどではなく、さらなる屈辱と支配の警告。 そう受け取った途端、柔らかくなりかけた筋肉が緊張し、雪乃は再び冷たい絶望へと突き落とされた。「四六時中、一緒にいる警護に知られるのはさすがに恥ずかしいか?」 柊也の問いかけに、雪乃は必死で深く頷いた。(そうよ、嫌よ、恥ずかしい――だからやめて) 心の中で叫びながら、救いを求めるように何度も頷く。 けれど、柊也が雪乃の意を汲んだことなど、今までただの一度もなかった。 雪乃の頷きを「恥ずかしがっている妻の可憐な反応」として都合よく解釈した柊也は、満足そうに目を細めると、愛おしげに彼女の頬を撫でた。「なるべく――音を立てないように気をつけるよ」 そう言って、柊也は雪乃の太腿に触れていた手をさらに上へと移動させ、ショーツに手をかける。雪乃は恐怖のあまり懸命に身を捻るが、ギシッと軋むベッドの音に、思わず動きを止めてしまった。 冷たい指先がショーツの縁をなぞり、布越しに感じたことのない怖気が背筋を駆け上が

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   41話

    「両親に孫の顔を見せてやろう」 その言葉が耳の奥に落ちた瞬間、雪乃の脳は一拍遅れて意味を理解した。 理解した途端、視界の端が白く霞む。 背中に触れる柊也の掌の熱が、服越しにもかかわらず酷く熱い。雪乃の背中に嫌な汗が流れた。 柊也の胸を押している右手の古傷が、まるで「逃げられない」と告げるように疼いた。「孫の顔を見せれば、母さんはおとなしくなるだろうし、父さんも跡継ぎができたって喜ぶと思うんだ」 柊也は雪乃の首筋に顔を埋め、柔らかな唇で触れてくる。ぞっ、と全身の肌に鳥肌が立った。「年老いた両親を喜ばせよう――前回は駄目だったが、今回は分からないだろ?」(……嫌……っ) 月のものだという言い訳は、二度目は絶対に通用しない。 雪乃はホテルの時のように、必死の思いで柊也の顔を両手で掴み、まっすぐに彼の目を見つめた。『莉子さんがいるのに、いいの?』 唇をはっきりと動かす。読んでくれ、理解してくれ――と心の中で切実に願う。 しゃくだけれど、今は彼女の存在すら言い訳にして、この手から逃れようとするしかなかった。 だが、柊也はどこまでも余裕そうに薄く笑うだけだった。「莉子は関係ないだろ? いくら彼女でも、夫婦の部屋には来ないさ」 通じない。雪乃は首を振り、焦燥感に駆られながら再び口元を激しく動かす。『でもっ。彼女は、貴方に会いに別荘にまでついてきたんでしょ?』「すまない。今のは読み取れなかった」 冷淡な一言とともに、体が宙を舞った。 ベッドの上に力任せに投げ出され、雪乃はうつ伏せのまま倒れ込む。 ベッドから逃げ出そうと必死に手でシーツを掴み、這うようにして降りようとした。 だが、いつまでも思い通りに開かない右手の中指が、シーツの上で虚しく滑るだけだった。力を込めるほど、古傷の疼きが鋭さを増し、指先の感覚だけが遠ざかっていく。 けれど、次の瞬間――腰にかかる重く鈍い圧迫感に、体がぐにゃりとベッドへ沈み込む。 柊也が上から跨がって

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   40話

     柊也はベッドの縁に腰を下ろし、化粧台の椅子に座る雪乃へ手を伸ばした。 その動きは、まるで舞台の上で決められた振付をなぞるように滑らかだった。 そっと重ねられたその手は、さっき大広間で強く握られたものとはまるで別人のものだった。 絹のように柔らかく、触れた瞬間に溶けてしまいそうなほど優しい。 みんなの前で妻を糾弾しようとした人物とは思えないほどに。 彼の裏切りを知るまで、この優しさは本物だと思っていた。でも、今は違う。全て、偽りだということを雪乃は見抜いている。 雪乃は手を抜き、化粧台の上に置いていたメモ帳とボールペンを左手で掴んだ。掌が汗で湿っている。ページを開く指が、僅かに震えていた。『私は何のために呼ばれたんですか?』 書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。言葉にできた、それだけで、息が少し楽になった気がした。 けれど、その安堵は長くは続かなかった。 その文字を見た柊也は、困ったように眉を下げた。まるで、雪乃が理不尽なことを言っているかのような表情だった。 伝えたはずの言葉は、彼の中で都合よく塗り替えられていく――その予感に、軽くなったはずの胸が、再び重く沈んでいった。「さっきのあれを怒っているのか? あれはパフォーマンスだよ」(パフォーマンス……?) その言葉が、胸の奥で鈍く響く。 雪乃は眉間に皺を寄せ、喉が引き攣るような感覚に襲われた。「莉子は雪乃を許すって言ってくれた。でも、大人としては謝罪の場を設けるべきだろ?」 雪乃は理解できなかった。 そもそも莉子の怪我は大したものではない。 あの時、あの場で右手を負傷したのは自分の方だ。 なのに――どうして、自分が謝罪をしなければならないのだろう?「雪乃は反省している、と莉子に見せる必要があったんだ」(反省も何も、私を踏み躙ったのは貴方たちなのに?) 胸の奥がぎゅっと縮こまり、呼吸が浅くなる。 気道が狭まったように息が苦しい。「雪乃が何も謝らないと周囲の心証が悪いだろ? だから、人

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   39話

     黒木の低い声が、静かに空気を切った。「私の警護対象者ではない方の命令は、聞けません」 莉子の笑みが、ぴしりと音を立てて崩れた。その顔には隠そうともしない苛立ちが浮かぶ。 雪乃は、右手でそっと口元を覆った。 笑みを隠すため――けれど、胸の奥がじんわりと熱を帯びているのを自覚していた。あの莉子に、自分の声を出せないという欠点を逆手に取って、やり返すことができたのだから。 その一部始終を見ていた琴子が、すかさず声を上げる。「雪乃さん。莉子ちゃんは柊也の幼馴染みよ? そういう態度はどうなのかしら?」 嫌みの前触れのような声音。 莉子の右の口角が吊り上がるのが雪乃の目に入った。 雪乃は返す術もなく、ただ静かに視線を落としたその瞬間――「失礼します」という黒木の声が雪乃と琴子の間に割って入った。「奥様にはこれからご予定がありますので、失礼致します」(予定――?) 雪乃は目を瞬かせたまま、黒木に腕を軽く添えられ、その場から連れ出される。大広間を出て、廊下に出たところで黒木を見上げ、そっと唇を動かした。『なにか予定、あったかしら?』 黒木は雪乃から視線を逸らし、前方を見て、淡々と答える。「口からでまかせです」 雪乃は目を丸くした。 その言葉の意味が胸の奥に落ちていくにつれ、頬がじわりと熱を帯びる。(助けてくれたの?) 雪乃は黒木の前に歩み出て、口元を動かした。『ありがとう』 あの場に味方はいない、と思っていたのに。背後にいたようだった。 黒木の表情は変わらない。ただ、短く息を吐き、素っ気なく言い捨てた。「有言実行しただけです」 階段を上がりましょう、と黒木は雪乃を促し、二人は並んで広い階段を一段ずつ上る。 雪乃はそっと隣を歩く黒木を盗み見た。 その横顔はいつも通り無表情なのに――耳の後ろが、ほんのり赤く染まっているように見えた。 雪乃はそれに触れず、視線を落とし、黒木に見えないように俯いたまま、もう一度だけ小さく唇を動かした。『あ&

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   38話

    「そんな、お母様。ここでそんな話は……夫婦のお話なのに」 莉子は両手を頬に当て、恥ずかしそうに頬を染めた。この時の口の端も引き攣っているのが雪乃の目にはっきりと映し出されたのだが、自分以外誰も気付いていないようだった。 琴子と言えば、莉子の発言を気に留める様子はなく、不満そうに口を尖らせる。「だって、あなたたち結婚して五年でしょう? できないのはおかしいわよ」 できないも何も……雪乃と柊也が肌を重ねたのは、結婚してからたった一度だけだった。 しかも、柊也に無理やり奪われたあの一度が、実を結ぶことはなかった。「授かり物だからさ。心配しないでよ」 軽やかに笑う柊也の手が、力任せに押さえつけている雪乃の左手の上で、静かに動いた。 指先が、雪乃の指輪にそっと触れる。 その触感に、背筋を氷でなぞられたような激しい悪寒が走り、雪乃の肌にぞっと鳥肌が立った。指輪を嵌めさせ、自分を「妻」という籠に閉じ込めている男の冷酷な圧迫感が全身に伝う。 ホテルでは月ものだと嘯いて拒否をしたことで免れたが――もしも、今夜誘われたら?(同じ嘘は通用しないかも――……) あの痛みと、自分ではなくなる感覚を、また味わう羽目になるかもしれない恐怖で、雪乃は首を締め付けられたかのように、気管が狭まる感覚に襲われた。(でも、莉子さんがいるから何もないかもしれない) 皮肉にも、莉子の存在に安心している自分がいて雪乃は感情をどこに置けばいいか分からなかった。「でも、あっという間に時間が過ぎちゃうわよ。まだ動けるうちに孫を抱きたいわ」 なおも食い下がる琴子に、それまで黙って茶を飲んでいた謙也が重い溜息を吐いた。「ここでそんな話はやめないか」「だって、あなた――」「くだらん」 謙也は呆れたように一言吐き捨てると、腰を上げて大広間を出て行ってしまった。「母さん、父さんをあまりイライラさせないでくれ。宥めるのが大変なんだから」 柊也は困ったように息を吐くと、よ

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   37話

     現れたのは、桐生謙也――柊也の父親だった。 桐生エンタテインメントの社長職こそ引退したものの、発行済み株式の3分の2超を握る大株主であり、その威厳と生真面目な厳格さは今なお健在だった。 謙也の鋭い眼光が大広間を見渡す。一瞬で場が静まり返る中、彼の視線が雪乃の上で止まった。「……久しぶりだな、雪乃さん」 低く重厚な声でそう声をかけられ、雪乃は弾かれたように立ち上がると、深く頭を下げる。謙也は短く頷き、整然とした足取りで席へと向かった。 謙也は椅子に腰を下ろし、柊也の隣に座る莉子を一瞥し、眉を顰めて問い質す。「何故、柊也の隣に君がいる?」 その厳格な声に、莉子はハッとしたように顔を強張らせ、慌てて立ち上がった。「ご、ごめんなさい。つい幼馴染みの癖が抜けなくて……」 突然しおらしく、申し訳なさそうに頭を下げながら雪乃が座る席まで行くと、彼女に笑いかける。「すみません、奥様。お席、代わりましょう」 戸惑いながらも、雪乃は促されるまま柊也の隣へと席を移し、莉子は雪乃が元々座っていた位置に腰を下ろす。 そのやり取りを見ていた琴子が、ここぞとばかりに謙也へ話しかけた。「あなた、聞いてくださいな。実は雪乃さんが、莉子ちゃんに物を投げて怪我を負わせたそうなのよ」「お母様、私はもういいんです……」 謙也は冷ややかな一言でそれを遮った。「大した傷でもないのに、いつまで責める必要がある。……理由がなければ、物など投げん」 淡々とした、けれど一切の反論を許さない一言だった。 琴子も莉子も言葉を詰まらせる。謙也はそのまま、柊也と莉子の二人を冷酷な眼差しで見据えた。「むしろ、人目の多い場所で、表舞台に立つ人間が目立つような真似をするべきではない。いつ写真を撮られるかも分からんのだぞ」 先ほどまで雪乃を罪人として糾弾していた空気は一瞬で瓦解し、一転して柊也と莉子が謙也から厳しく叱られる構図へと変わった。琴子も夫の威圧感の前に割り込む

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status