Share

46話

last update publish date: 2026-10-04 11:04:25

 「楽譜……?」

 莉子のその呟きに、雪乃の息が止まった。

 風が紙片を揺らし、その影が雪乃の瞳の奥で震えた。

 彼女が手にしている紙片を雪乃は凝視した。四つ折りにされた跡が残るそのメモに雪乃は見覚えがあった。太陽の光に透けて見える裏側の音符の羅列は、自分が書いた旋律だった。

(黒木さんは、ずっと持っていてくれたの……?)

 紙片を折りたたみ、メモ帳と一緒に上着の内ポケットへしまった黒木が告げた言葉を、雪乃は思い出す。

『受け取ります。将来、金目になるかもしれませんし』

 その時の黒木の表情は読めなかった。ただ、喜んでもらえなかった気がして、悲しかった。きっと彼は、あれを処分しただろう――雪乃はそう思っていた。楽譜を読めない彼にとって、自分が渡した短い旋律に価値はない。あれを堂々と『対価です』と自信げに渡した己を恥じてさえいた。

 でも、黒木はそれを持っていてくれた。四つ折りにして、財布の中にずっと――&h
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter
Comments (1)
goodnovel comment avatar
恵
毎日1話ずつしか更新されないのがもどかしい。読み続けるか悩むところ。 さくさく話が展開してほしい。
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   47話

     汗を手の甲で拭い、左手でネクタイを緩めながら、黒木は別荘へ戻ってきた。 胸の奥がざわついている。 あの高月の態度の違和感が、喉の奥に重く残っていた。 別荘の駐車場へ差し掛かったところで、見知った黒の高級車が視界に入り、黒木は自然と走る速度を緩めた。 運転席のドアが開く。出てきたのは、柊也の秘書を務める田迎だった。「黒木さん、お戻りでしたか」 田迎は軽く会釈し、後部座席のドアを開けた。すると、スラックスの皺を伸ばしながら、柊也が姿を現した。 黒木は思わず息を呑む。急ぎの用件で電話をしてきたはずの男が、なぜ今、目の前にいるのか。「雪乃は部屋か?」 柊也は何でもないことのように訊ねてきた。その態度に、黒木は眉を顰めた。「私に、お電話をされたのでは?」「電話?」 柊也の表情は本気で分からないという顔だった。(――謀られた) その瞬間、黒木の脳裏に最悪の予感が走った。高月が言っていた「急ぎの用件」など、最初から存在しなかったのだ。目的はただ一つ――自分を雪乃の側から引き離すこと。(なんのために? なぜバレるような嘘を?) 黒木の張り詰めた表情に気付いたのか、田迎が微かに眉を寄せた。「何かありましたか?」 柊也は視線を別荘の玄関へ向けたまま、黒木の様子に気付く気配もない。 黒木は返事もせず、弾かれたように踵を返すと、再び海へ向かって全力で走り出した。 革靴が地面を叩く音が、やけに遠く聞こえる。すぐ戻ります、と告げた自分の声だけが、耳の奥に居座っていた。 青褪めた顔で『行って』と告げた雪乃が、脳裏に浮かぶ。上着を預かろうと伸ばされた指先も、こちらを真っ直ぐに見つめていた目も、鮮明に覚えていた。 あの時、一緒に連れていけばよかった。電話を受ける間、傍で待っていてもらうことだってできたはずだ。 黒木は奥歯を噛み締め、地面を蹴る足に力を込めた。 遊歩道へ続く道中、急ぎ足で戻ってくる高月とすれ違う。 どういうつもりで自分と雪乃を引き離したのか、胸

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   46話

     「楽譜……?」 莉子のその呟きに、雪乃の息が止まった。 風が紙片を揺らし、その影が雪乃の瞳の奥で震えた。 彼女が手にしている紙片を雪乃は凝視した。四つ折りにされた跡が残るそのメモに雪乃は見覚えがあった。太陽の光に透けて見える裏側の音符の羅列は、自分が書いた旋律だった。(黒木さんは、ずっと持っていてくれたの……?) 紙片を折りたたみ、メモ帳と一緒に上着の内ポケットへしまった黒木が告げた言葉を、雪乃は思い出す。『受け取ります。将来、金目になるかもしれませんし』 その時の黒木の表情は読めなかった。ただ、喜んでもらえなかった気がして、悲しかった。きっと彼は、あれを処分しただろう――雪乃はそう思っていた。楽譜を読めない彼にとって、自分が渡した短い旋律に価値はない。あれを堂々と『対価です』と自信げに渡した己を恥じてさえいた。 でも、黒木はそれを持っていてくれた。四つ折りにして、財布の中にずっと――……。 財布なら、毎日持ち歩くものだ。開くたびに、この紙が目に入ることもあったはず。それでも、邪魔だと取り出してしまうことはなかったのだ。(聞いたら、また金目になるからって言うのかしら) そんな返事をする黒木の顔が、容易に思い浮かんだ。今なら、その言葉を聞いても落ち込まずにいられる気がした。楽譜を読めない彼が、あの日からずっと手元に置いていてくれた。それが分かっただけで、もう十分だった。 胸の奥が、妙に擽ったい。 初めてだった――自分が渡したものを、そのまま持っていてくれた人は。柊也は一度も、雪乃からのプレゼントを開けたことがなかった。 だが、その紙片は今、莉子の指先に摘ままれている。 莉子は不審そうに眉を顰めながら、その紙切れを潮風の中で空に翳した。「これって、ゴミかな?」 雪乃は莉子へ近付き、手を伸ばした。 指先が紙片に届く寸前、莉子の手がひょいと引かれた。 空を掴んだ指が、行き場をなくして宙に残る。もう一度伸ばしても、莉子は半

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   45話

     雪乃は驚いて振り返ると、そこには鮮やかな水着にシアー素材の羽織を引っかけた莉子が、笑顔でこちらへ歩いてくるところだった。濡れた髪を掻き上げながら、莉子は自慢げに胸を張っていた。「ちょうどPVの撮影が終わったところなんですよ。来月新曲を出すんですけど、是非聴いてくださいねー」 屈託のない笑顔を見て、昨日柊也から聞かされた滞在理由を、今になって思い出した。(この子がここにいるって覚えていたら、絶対ここには来なかったのに) 溜息を喉の奥で呑み込み、雪乃は莉子へ軽く頭を下げて愛想笑いを浮かべると、その場を立ち去ろうと足を向けた。 だが、莉子は軽快な足取りで追ってくる。雪乃の目の前へ回り込もうとした瞬間、すっと雪乃を隠すように割り込んだのは黒木だった。「もぅ、私は奥様と話したいだけなんですー」 莉子は不満げに唇を尖らせた。「私の仕事ですので」 黒木は表情ひとつ変えず、淡々と突っ撥ねる。莉子はつまらなそうに肩を竦めると、黒木を上から下まで眺めた。「私もボディガードほしいなー。社長にお願いしようかな?」 その言葉を無視し、雪乃は足を進めて莉子の横を通り過ぎた。 けれど、莉子は一定の距離を保ちながら、雪乃の後ろをぴったりとついてくる。背後から視線を感じ続けるのは、決して気持ちのよいものではなかった。 そこへ、息を切らした莉子のマネージャー・高月が駆け寄ってきた。「黒木さん!」 高月は黒木の前で立ち止まると、息を乱しながら告げた。「桐生社長からお電話です」 黒木は眉間に深々と皺を寄せた。「私に?」「黒木さんの携帯が繋がらないようです」 黒木がスラックスのポケットから携帯電話を取り出し画面を確認すると、表示は圏外になっていた。「後でかけ直すと伝えてください」「ですが、急ぎの用件とのことです。契約のことで話したい、と仰っていました」「契約?」 黒木は眉を寄せて、額に皺を作った。 それを聞いていた雪乃の表情に翳りが差した。(もしかしたら

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   44話

     雪乃は深く頭を下げた。 黒木はその姿を一瞥すると、静かに言った。「奥様、頭をお上げください」 頭上で響く黒木の低い声に、雪乃がそっと顔を上げると、黒木は感情の読めない眼差しで雪乃を見つめていた。「分かりました。車を出します」 理由を問い質すこともなく、それだけ告げると黒木は踵を返し、雪乃を連れて義両親たちに挨拶をしないまま、外に出た。 雪乃は後部座席に座り、シートベルトを締める手が僅かに震えていた。 黒木がエンジンをかけると、雪乃はルームミラー越しに黒木を見た。すると、彼と視線が合う。『街に降りてもらって……病院に行きたい』「何科ですか?」 雪乃は一瞬だけ黙った。 喉がひきつり、言葉が形になるまで数秒かかった。『婦人科』 たった四文字の口形。黒木は理由を問うことは一切せず、「分かりました」と短く応じて、雪乃から視線を外し、アクセルを踏み込んだ。 山道を抜け、沿岸部の街並みに入ると、一軒の婦人科クリニックの前に車が止まった。 車を降りようとして、雪乃ははっと息を呑んだ。自分は着替えの服すら満足になく、お金がない――。申し訳なさに身を縮こまらせ、雪乃はおずおずと黒木を見上げた。 唇が震えながら動く。『お金を貸していただけないでしょうか』 黒木は迷う素振りすら見せず、上着の内ポケットから二つ折りの財布を取り出すと、それをそのまま雪乃へ差し出した。「どうぞ」 まさか財布ごと渡されるとは思わず、雪乃は驚いて目を丸くした。財布の重みが掌に乗ると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。「現金とカードが入ってます。どちらを使っても構いませんので」 黒木は淡々と言った。その声音には、貸し借りの感覚がまるでなかった。 ただ「必要だから渡す」という事務的な判断だけがあるように聞こえた。(誰かに頼らなければならない自分が情けない) そんな思いが、喉の奥で引き攣るように渦を巻いた。『絶対に返します』 雪乃は震える唇で、その言葉を形作

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   43話

     逃げようとすればするほど、音が大きくなることに気付いた雪乃は、逃げることを諦め、受容することに決めた。ただ、一度音が出てしまえば、ベッドのスプリングの軋む音が大きくなる一方で、肉同士がぶつかる音も鳴り止まない。雪乃が動かないように気をつけたところで、柊也が動くせいで音は部屋の壁に反響する。「……くっ」 柊也の短い唸り声とともに、熱い飛沫が雪乃の腹の奥を叩いた。  ※ 執拗に重ねられる行為に耐え続け、雪乃がようやく解放されたのは、東の空が白み始めた夜明け頃だった。 所有物のように扱われることへの憤りすら、時間が経つにつれて感じなくなり、雪乃は頭の中を空っぽにすることで現実から目を逸らし続けた。 静まり返った部屋に、柊也の携帯電話が甲高い電子音を響かせる。 画面を見た柊也が、苦々しく眉を寄せた。秘書の田迎からだった。会社で重大なトラブルが発生したという報せに、柊也は溜息を吐くと、横たわる雪乃には目もくれず、急ぎ身支度を整えて部屋を出て行った。 嵐が去った部屋で、雪乃は重い体をなんとか起こした。 一晩中捻り上げられていた関節が軋み、体を起こすだけで呻き声が漏れそうになる。右手の古傷も、握り締め続けた名残でじんじんと熱を持っていた。 よろよろとした足取りで、雪乃は部屋に備え付けられている浴室に向かった。 シャワーのレバーを上げると、水が肌を打ち、徐々に温度が上がっていく。 曇った鏡に映る自分の顔を、雪乃はぼんやりと見つめた。 目元は赤く腫れ、濡れた髪が頬に張り付いている。見慣れているはずの顔が、昨夜までの自分とはどこか違う人間のように思えた。 シャワーの温度を上げ、何度も肌を擦った。それでも、柊也に触れられた感覚まで洗い流すことはできない。 これ以上擦れば、肌が赤くなるだけだと分かって、ようやく手を止めた。 浴室を出る際、雪乃は一度だけベッドへ目を向けた。 乱れたシーツが目に入った瞬間、胃の奥がせり上がる。 すぐに視線を逸らし、何も見なかったことにするようにロングカーディガンの前をきつく合わせた。

  • 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた   42話

    「隣の部屋を黒木に貸したんだ」 その言葉が鼓膜に落ちてきた瞬間、雪乃の胸の中で戸惑いが生じた。 柊也がなぜ、わざわざそんなことを口にしたのか分からない。 黒木が隣の部屋にいるのなら――激しく物音を立てれば、彼が異変に気付いて助けに来てくれるかもしれない。それは絶望の淵で見えた、確かな希望ではないだろうか。 ただ、黒木を雇ったのは柊也だ。契約上の雇い主に逆らってまで、夫婦の私室の問題にどこまで踏み込んで介入してくれるのかという不安は残る。それでも、何もないよりはマシだった。 僅かな希望に縋り直すように、強張っていた肩の力がふっと抜け、身を竦めていた筋肉が柔らかくなる。 だが、その安堵を潰すように、柊也が雪乃の耳元で静かに囁いた。「俺たちがここで、何をしているか物音で分かるかもしれないな」 ――そういうことか、と雪乃は悟った。 雪乃には、その言葉が「隣の部屋にいる警護に、自分が夫に屈服させられ、抱かれている音を聞かれることになる」という恥辱の暗示にしか思えなかった。 救いなどではなく、さらなる屈辱と支配の警告。 そう受け取った途端、柔らかくなりかけた筋肉が緊張し、雪乃は再び冷たい絶望へと突き落とされた。「四六時中、一緒にいる警護に知られるのはさすがに恥ずかしいか?」 柊也の問いかけに、雪乃は必死で深く頷いた。(そうよ、嫌よ、恥ずかしい――だからやめて) 心の中で叫びながら、救いを求めるように何度も頷く。 けれど、柊也が雪乃の意を汲んだことなど、今までただの一度もなかった。 雪乃の頷きを「恥ずかしがっている妻の可憐な反応」として都合よく解釈した柊也は、満足そうに目を細めると、愛おしげに彼女の頬を撫でた。「なるべく――音を立てないように気をつけるよ」 そう言って、柊也は雪乃の太腿に触れていた手をさらに上へと移動させ、ショーツに手をかける。雪乃は恐怖のあまり懸命に身を捻るが、ギシッと軋むベッドの音に、思わず動きを止めてしまった。 冷たい指先がショーツの縁をなぞり、布越しに感じたことのない怖気が背筋を駆け上が

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status