理仁は唯花を抱きかかえて二人の住処へと帰った。玄関のドアを開けた瞬間、ペットの犬が飛び出してきた。「どけ!」理仁が低い声で一喝すると、子犬はおとなしく床に伏せて、それ以上は近寄って来なかった。シロは知っている。オスのほうの主人は自分のことを好きではないと。幸い、彼は犬をいじめることはなく、餌も水も十分だった。「プルプルプル……」この時、理仁の携帯が鳴り響いた。彼は唯花を抱きかかえているので、携帯を取り出して電話に出ることができなかった。すると相手はすぐに電話を切った。きっと悟が彼に言われた通りに、十分おきに彼に電話をしてきているのだろう。理仁が言い訳をして逃れるために事前に準備しておいた策だ。しかし、今となってはその必要もなくなった。神崎夫人親子はすでに唯月の家にはいないのだから。彼は唯花を彼女の部屋へと連れて行き、ベッドの上に横たわらせて布団をかけた後、携帯を取り出して悟に電話をかけ、小声で言った。「悟、もう電話はかけてこなくていいぞ」「もういいのか?ちょうど自動電話サービスでも利用しようかと思ってたところだぞ」理仁の口角が引き攣った。「ご飯食べたか?よかったら一緒に行く?」「俺はいい。お前は牧野さんと約束して食事しないのか?」悟は言った。「もしデートに誘って断られたら恥ずかしいだろうが。俺たちは会って連絡先を交換はしたけど、彼女のほうから連絡してきてないんだ。俺だって彼女が俺のことをどう思ってるのかさっぱりわからないしさ」理仁「……俺はようやくばあちゃんがなんで俺に対してやきもきしていたのか、わかったような気がする」悟は言葉を詰まらせ尋ねた。「じゃ、今から彼女を食事デートに誘ったらいいかな?」「お前次第だろ。どのみち、女性を追いかけるなら、少しくらい図々しくならないとな」「どうやら君は今、顔の面の皮が相当分厚くなってるようだね」理仁は自分の顔を触った。「その厚さを測ったことはないから、どのくらいかは知らんがな」悟はハハハと笑った。「内海さんは俺の人生の中で最も尊敬すべき女性だよ。この世でたった一人しかいないね!」「黙れ!」理仁は彼に怒鳴り、電話を切った。彼は唯花のベッドの端に腰をかけて、彼女の寝顔を静かに見つめていた。その表情は非常に優しく穏やかになってい
理仁はやはり素直になれなかった。「それは断じてない!」「ほんとのほんとに?」「ない!」唯花は姿勢をまっすぐにし、残念そうに言った。「もしあなたが私のことが恋しくて眠れないっていうんなら、清水さんにお姉ちゃんの家に残ってもらって、私はあなたと一緒にいようと思ったのになぁ。まあ、あなたがそう言うんだったら、やっぱりお姉ちゃんのところに行って来ようっと。最近どんどん寒くなってきたし、もう冬の気配だわ。一人で寝たらなんだかちょっと冷えるのよねぇ、はぁ」結城理仁「……」彼女はつまり、彼が彼女のことを恋しいとひとこと言えば、まくらを抱きかかえて彼の部屋にやって来て、一緒のベッドで寝ると言いたいのか?唯花は、やはり残念そうな様子で、手を伸ばし理仁の顔を二度触った。そしてその手を下のほうへ滑らし、彼の首を通って、最後は胸の位置まで来ると、またそこを触った。理仁が何を思っているのか読み取れない瞳で彼女をじっと見つめた時、彼女はスッとそのやりたいように動かしていた自由な手を離した。「お腹ペコペコだわ。ご飯食べましょ。うちの旦那さんが自ら作った料理の味を確かめに行かなくちゃね」唯花はからかい終わると部屋を出て行こうとした。彼女は理仁の横を通り過ぎて行った。理仁は突然彼女のほうへ体の向きを変え、後ろから彼女の腰を抱き寄せた。「俺をからかっといて、そのまま行く気?」彼の声は低くかすれていて、彼女の腰をぎゅっと強い力で抱きしめた。空手を習っていた彼女でも、彼のそのがっちりと絡みついているその両手を引き離すことができなかった。「ちょっと力を緩めてよ」唯花は彼の手をほどくことができず、彼に力を緩めるようにお願いするしかなかった。理仁は彼女の頬にキスをし、ようやくその力を緩めた。そして彼女は彼の胸の中でくるりと体の向きを変え、顔を上げて美しいその顔に彼をからかうような笑みを浮かべていた。瞳はキラキラと綺麗に輝いていて、まるで真っ暗な夜空に瞬く星のようだった。理仁の瞳にはこの時の彼女がとても魅力的に映っていた。「内海さん」「あなたに『唯花さん』って呼ばれるのが好きなんだけどなぁ」「君こそよく俺を『結城さん』って呼んでるだろ」理仁のこの言葉は少し拗ねているようだった。彼女はどうもあまり親しげに呼んでくれない。「私
夫婦はさっきまでお互いにからかい合っていた。それが食事の時には、理仁は唯花に対してとても細かいところまで気が利いて、彼女を気遣うじゃないか。唯花は彼にこのように優しくされて、驚いた。それと同時にまた心の中で思った。良い旦那さんって、なるほど自分の手で調教しないと出来上がらないのね。彼女自ら仕立て上げた良い夫を誰かに奪われないといいのだが。夕飯が終わってから、夫婦は一緒に彼女の姉の家に行った。陽はその時すでに目を覚ましていた。しかし、自分一人で遊ぼうとはせず、まるで金魚のフンのように母親の後にくっついて離れない。唯花は彼を抱っこすることはできたが、よく懐いていた清水でさえも、抱っこされるのを拒否されていた。「お姉ちゃん、明日って仕事?」唯花は甥を抱っこしたまま姉に尋ねた。唯月は陽を見つめ、暫く悩んでから言った。「唯花、私、仕事を辞めて自分で何かやり始めるわ」陽の現在の様子では、唯月は本当に安心できない。しかし、会社を休むと、まだ新入社員である彼女は仕事を失いかねない。一日考えて、唯月は子供の面倒を見ながら、自分で何か事業を始めようと決めた。「お姉ちゃん、何を始めるか考えてる?」唯月は相手の反応を気にしながら言った。「お弁当屋さんを開こうと思うけど、あなたはどう思う?会社で働く以外なら、料理は私自信があるし。だから、お昼だけのお弁当屋さんはどうかなって。午前中お弁当作りをしてお昼前に売ったら、午後からは店を閉めて陽の世話ができるでしょ」「お弁当を作るなら、かなり早起きしないといけないわよ。とても疲れるわ。お姉ちゃん、あなた一人だけで、やっていけそう?」最初は彼女はきっと問題ないだろうが、毎日毎日ではきついだろう。唯月は言った。「最初は小さなお店でお弁当の種類もそこまで作らないでやってみようかな。すぐ作れるおにぎりとか、卵焼きとか野菜炒めとかシンプルなおかずで。お金が稼げてきたら、ちゃんとした店舗を構えてバイトの子を雇ってやるの」ずっと話を聞いていただけの理仁がこの時、口を開いた。彼は義姉が自分で小さなお店から始めるのには賛成だった。「義姉さん、どこか弁当を売るのに適した場所は見つかっていますか?店じゃなくてお弁当をどこかに運んで道端で売るならどこがいいですか?初期費用はいくらかかるんですか?」「商店
「唯花、明日あなた達はそれぞれ自分の仕事に専念してちょうだい。私のところに来る必要ないから。私一人で陽の面倒を見るわ」唯花は安心できなかった。「だったら、清水さんにここにいてもらうわ」清水を雇ったのは、もともと昼間、陽の面倒を見てもらうためだ。それに彼女と理仁が住んでいる家の掃除もお願いしていた。唯月は少し申し訳なさそうにしていた。清水は妹の夫である理仁が、唯花を疲れさせたくないから雇ったベビーシッター兼家政婦だ。それが結局、いつも清水に自分の手伝いばかりさせることになっている。「お姉ちゃん、私たちは姉妹でしょ。お互いにサポートして当然よ」唯花は姉に心理的負担をかけたくなかった。「お姉ちゃんと陽ちゃんが何事もなく生活してくれるだけでいいの。他の何よりも重要なことよ」「清水さんの給料は、あなたが先に代わりに払ってもらえる?私が社会復帰してお金を稼ぐようになったら、あなたにお返しするから」妹が彼女を手伝ってくれることはとても心強く感謝していたが、それでもそれを当然のことだとは思いたくなかった。理仁は優しい声で言った。「義姉さん、俺たちは家族ですから、そんなに固く考えなくても大丈夫ですよ。俺も唯花さんも稼ぎはまあまああります。それに子供もまだいないし、生活へのプレッシャーはほとんどありません。清水さんの給料に関しては、気にしないでください。俺たちも清水さんへの待遇を悪いようにはしませんから」唯月は妹の夫である結城理仁のことを本当によくできた旦那だと、どんどん思うようになってきた。妹は彼女よりも幸運に恵まれている。理仁は責任感のある男性だ。夜九時過ぎ、夫婦二人は久光崎のマンションから自宅へと帰っていった。おばあさんはその時、すでにリビングのソファに座ってテレビを見ていた。夫婦二人が手を繋いで帰って来たのを見て、おばあさんはその瞬間すごくテンションを上げた。理仁は少しぎこちない様子だったが、唯花のほうは緊張せず自然体だった。二人は夫婦なのだから、手を繋いでも、別に後ろめたいことじゃないだろう?「おばあちゃん、どこに行ってたの?私が起きてからずっと見かけなかったけど」おばあさんの前までやって来ると、唯花は理仁の手を離し、おばあさんの隣に座った。「昔からの友達と一緒におしゃべりしてたのよ。さっきお姉さんのとこ
唯花をなぐさめた後、おばあさんは軽くあくびをし、それから、テレビのリモコンを置いて立ち上がり、夫婦二人に言った。「私は先に休ませてもらうわね。もう年寄りだから、これ以上は耐えられないわ」数歩進み、彼女はまた立ち止まって唯花のほうへ振り向いた。「唯花ちゃん、あなたの枕を持っていったほうがいいかしら?」唯花は笑って言った。「必要ないわ。客間にも枕はあるから」おばあさんは孫の顔をちらりと見ると、それ以上は特に何も言わずに部屋のほうへと歩いて行った。唯花がお風呂に入る時に、おばあさんはすでに大きないびきをかいて寝ていた。あのぐうぐうと大きな音を立てたいびきが、また彼女の部屋で鳴り響いている。唯花「……」十数分後。唯花がパジャマを着て、部屋から出てドアを閉めた瞬間、夫の姿が目に飛び込んできた。彼もパジャマを着ていて、両腕を胸の前に組み、彼の部屋のドアに寄りかかって立っていた。「まだ寝ないの?明日仕事でしょ」唯花は彼をからかった言葉は忘れたふりをして、まるで口から出まかせに彼にこう言ったような感じを出していた。そして彼の目の前を通り過ぎ、客間のほうへと歩いて行った。そして客間の扉を開くと、彼女はぽかんと口を開けてしまった。シーツは、ない。布団も、ない。枕も、見あたらない。明らかに彼女がベッド用品を揃えて買って来たというのに、どうしてなくなっているのだ?泥棒でも入ったの?泥棒が入ったといってもまさか、ただベッド用品だけを盗んで去って行くわけないだろう。彼女は振り返って、あの壁に寄りかかって立っているツンデレ男を見た。絶対に彼が彼女がお風呂に入っているうちに、客間にあるベッド用品を全て持ち去ってしまったのだ。理仁は依然として何も言わず、さっきと同じように静かに彼女を見つめていた。唯花は体を方向転換させ、彼の前にやって来ると、少しだけ足を止め、また彼の部屋のほうへと歩いて行った。歩きながら「確か誰かさんが言っていたわね、部屋に入って契約書を好きに探していいって」と言った。理仁は彼女が部屋に入った後、自分もその後に続き、ドアを閉めて冷静に言った。「ゆっくり探せばいいさ。見つからなかったら、今後はその契約書の話はしないでくれよ。だって、そんなもの初めから存在してなかったんだからね」彼の部屋にある金庫を
彼女は彼のベッドに上がると、横たわり、気持ちよさそうにこう言った。「前に一回ここで寝たけど、あなたのベッドって格別に暖かく感じるのよね。たぶん、これも私の幻覚なんでしょうけど」布団を引っ張って来て自分にかけると、彼女はニコニコと笑って言った。「理仁さん、おやすみ」理仁は黒い瞳をキラリと輝かせ、彼女を暫く見つめていた。そして急に、彼女の上の布団をはがし、その上に覆いかぶさろうとした。が、彼女は勢いよく起き上がり、素早く床に下りてスリッパを履いて出て行こうとした。「唯花さん」理仁は手を伸ばして彼女を掴まえた。「あの、わ、私部屋に戻ってトイレに行ってくる」月一回のあれがやって来て、雰囲気がぶち壊しだ。しかし、この場にいた某氏は理解できていない。「俺の部屋にもトイレくらいあるぞ」「だけど、あなたの部屋には足りない物があるのよ。部屋に戻ってトイレに行ってから、またここに戻ってくるわ。だけど、あなたは今日、私と寝られないわよ」唯花は少し残念そうに彼の頬をつねった。「もうちょっと我慢してね」理仁がいくらあっち方面に疎いとは言えども、この時ようやく状況を理解したようだ。彼はゆっくりと彼女を掴んでいた手を放し、彼女は自分の部屋へ戻っていった。少ししてから、唯花が再び彼の部屋へと戻ってきた。そこで彼女が見たのは理仁が彼女に背を向け、両手で枕を抱きしめて、なんだか悶々としている様子だった。唯花はその光景を目にして、やっぱり他の部屋で寝た方がいいだろうかと迷っていた。まあいい、やっぱりおばあさんと一緒に今夜は寝ることにしよう。唯花はまた身を翻して部屋の外へ出て行こうとした。「君を抱きしめることもさせてくれない気?」ん?唯花はその瞬間足を止め、振り返って、あの悶々としている男を見た。「ただ抱きしめてるだけも辛いかと思って」「一人じゃよく眠れないんだ」彼が我慢できるというのだから、だったら彼女は何も遠慮することはない。それで、唯花は嬉々として理仁の傍へと戻り、布団をめくりながら言った。「あなたもそんな様子を見せないでよ、夫に毎日愚痴をこぼす主婦みたいよ」「俺は男だ」「あ、女じゃなく男のほうの主夫だね」理仁は手を伸ばして彼女を引っ張り、横たわらせた。彼は彼女の上に覆いかぶさり、機嫌の悪そうなキ
神崎夫人は夫から差し出されたティッシュを受け取り、瞳に溜まった涙を拭いた。そしてやっと口を開いた。「陽君は私の妹と少し似ていたわ。彼のお母様は、唯月さんと言うのだけれど、彼女がちょっと痩せたら、もっと妹にそっくりだわ。姫華が唯花さんと初めて会った時、なんだか彼女にとても親近感が湧くって言ってた。私が唯月さん親子に会った時にも、姫華と同じような感覚になったわ。たぶん、それも親戚同士だからなんじゃないかしら。航さん、今回はたぶん、本当に妹が見つかったんだと思う……」神崎夫人は妹が早くに亡くなっていることを思い、涙がまた頬を流れた。「でも、あの子はもうこの世にいないのね。十五年も前に亡くなっていただなんて。だからこんなに長い間探し続けても、見つからなかったわけだわ。他界しているんだから、どこを探しても意味がないはずよね」夫である神崎航は妻を慰めた。「君は妹なんだろうと感じただけだろう。人と人との縁というのは時に本当に不思議なものだよ。まだ泣くのは早い、DNA鑑定をしてからの話だよ」一度も会ったことのない義妹がもしも本当に死んでいるのだとしたら、神崎航もとても残念だと思った。彼が妻と知り合ったばかりの頃、彼女は神崎グループのただの社員だった。その時から妹のことを捜し始めたのだ。あれから数十年が経っているが、彼女は一度も諦めたことはなかった。子供たちにも手伝ってもらい、彼女の妹捜しは続いていたのだ。長年の努力と信念が、ある日突然虚しいものへと変わったのだから、妻がそれを受け入れられないのは至極当然のことだ。「私の直感が教えてくれるの。唯月さんと唯花さんは妹の娘たちなんだって。妹がいなくなってからというもの、あの二人の女の子はとっても辛い日々を過ごして……二人が強く生きてきたおかげでどうにかなったけどね。あの子たちは私と同じようにとっても強い子たちだわ」彼女は当時たった8歳で幼く、妹を養う力はなかった。唯月姉妹は彼女よりも少しはマシだった。少なくとも両親が亡くなった時に賠償金が支払われ、クズな親戚たちに大部分を持っていかれはしたが、村役所が二千万を二人のために残してあげていたのだ。当時、唯月は15歳で、なんとか妹の面倒を見て養うことができた。姫華は母親に唯花は姉にとても良くしていると言っていた。神崎夫人は、彼女たち姉妹
「私は食欲がないわ」「丸一日、何も飲み食いしていないのに、食欲が出ないのか。私がどれほど心配しているかわかるかい?子供たちだって心配しているんだよ。次男だって君が気落ちしているのを心配して、わざわざ帰ってきたというのに」彼ら神崎家には三人の子供がいる。長男は大人で落ち着いていて、次男は家にじっとしているような性格ではなく自由人だ。一番下は大切に可愛がってきた愛娘だ。以前、毎日のように結城理仁の周りを衛星みたいに付き纏っていた。ここ最近はそれをせず落ち着いている。「ダイエットしてるとでも思ってちょうだい」神崎夫人はベッドに横たわり「私は寝るわ」とひとこと言った。神崎航は彼女の好きにさせるしかなかった。彼女が食べたくないと言うのだから、彼も彼女に食べるよう強制することはできない。彼女は昔からずっと一度決めたらそれを貫く性格だから。娘は彼女に似ていた。長年理仁を想い慕っていて、みんながいくら忠告しても姫華は絶対に諦めなかった。それが超えられない壁にぶつかって、しぶしぶ考えを変えるしかなかった。その夜はそれ以上の会話はなかった。翌日、天はまた小雨を大地に降らせた。もともと少し冷える朝が、雨のせいで余計に冷え込んで寒かった。理仁は先に目を覚ました。隣に寝ている女性は夜中過ぎからぐっと冷え込んでくると、無意識に彼の懐に潜り込み、本当に彼で暖を取っていた。頭を下に向け、まだ自分の体にぴったりとくっついている可愛い妖精を見つめ、理仁の顔はほころんだ。目を開くと真っ先に自分の好きな女性がすぐ傍にいるというのは、こんなに甘く、幸せなことだったのか。唯花を数分間そのまま見つめ続け、理仁はようやく優しく彼女の体を自分から離した。そして、彼女を起こしてしまわないように、音を立てないで、そっとベッドをおりた。窓のほうまで行き、カーテンを開き外の空模様を確認した。雨が降っているので、空は曇りで暗かった。朝のジョギングに出かけるには、あいにくの天気だ。暫くそこに立ったままで、彼は後ろを振り返り窓から離れた。十分後、彼は部屋から出てそのままキッチンへと向かい、一分も経たずにそこからまた出て来た。ベランダに行くと七瀬に電話をかけた。七瀬が電話に出ると、低い声で指示を出した。「七瀬、ホテルに行って三人分の朝食を買ってきて
姫華は唯花たちが引っ越し作業を終えてから、ようやく自分がそんなに面白いことを逃したのだと知ったのだった。だから彼女は明凛と唯花に不満を持っていた。明凛は唯花に姫華にも教えるよう言ったが、唯花が彼女はお嬢様だから家をめちゃくちゃにするという乱暴なシーンは見せたくないと思い姫華には伝えなかったのだ。確かに姫華は名家の令嬢であるが、神崎姫華だぞ。神崎姫華は星城の上流社会ではあまり評判が良くない。他人が彼女のことを横暴でわがまま、理屈が通じないというくらいなのだから、そんな彼女が家を壊すくらいのシーンで音を上げるとでも?逆に、彼女自身も機嫌が悪い時にはハチャメチャなことをしでかすというのに。「姉がもらうべき分はしっかりと財産分与させました。ただ内装費に関しては佐々木家が拒否したので、私たちが人を雇ってその内装を全て剥がしたんです」詩乃はそれを聞いて「それはそうすべきよ。どうして佐々木家においしい思いをさせる必要なんてあるかしら」と唯花たちの行動を当たり前だと言った。そして最後にまた残念そうにこう言った。「もし伯母さんが知っていれば、あなた達の家族として、大勢で彼らのところまで押しかけて内装費を意地でも出させてあげたものを。これは正当な権利よ」この時、唯花はふいに姫華の性格は完全に母親譲りなのだと悟った。「唯花ちゃん、もうちょっとしたらお店を閉めて私たちと一緒に神崎家に帰りましょう。家族みんなで食事をするの。そうだ、あなたの旦那さんはお時間があるのかしら?彼も一緒にいらっしゃいよ」唯花は「夫は今日出張に行ったばかりなんです。たぶん暫くの間帰ってきません。彼が帰ってきたら、一緒に詩乃伯母さんのお宅にお邪魔します」と返事した。「出張に行ってらっしゃるのね。なら、彼が帰って来てからお会いしましょう」詩乃はすぐに姪の夫に会えなくても特に気にしていなかった。彼女にとって、二人の姪のほうが重要だったからだ。今、彼女は姪を見つけることができて、姪二人にはこの神崎詩乃という後ろ盾もできた。ちょうど唯花に代わってその夫が頼りになる人物なのか見極めることができよう。「あなたのお姉さんは五時半にお仕事が終わるのよね?」「ええ」神崎夫人は時間を見て言った。「お姉さんはどこで働いていらっしゃるの?」「東グループです」神崎夫人は「そ
姫華は父親である神崎航と一緒に母親を気にかけていたので、理紗が忘れずにこの鑑定結果を持ってきたのだった。唯花は理紗から渡された鑑定結果を受け取って見た。彼女はその結果を見た後、少しの間沈黙してからそれをテーブルの上に置いた。「唯花ちゃん、あなたは私の姪よ。私のことは詩乃伯母さんって呼んでね」今世では妹と再会を果たすことはできなかったが、妹の娘である二人の姪を見つけることができただけでも、神崎詩乃(かんざき しの)にとっては一種の慰めになった。彼女は唯花の手をとり、自分のことを「詩乃伯母さん」と呼ばせた。「唯月ちゃんは?それから陽ちゃんも」神崎詩乃はもう一人の姪のことも忘れていなかった。「姉は昼にはここへは来ないんです。夕方五時半に退勤したら帰ってきますよ」唯花はそう説明して、明凛のほうを見た。明凛が陽を抱っこして近づいて来て、唯花が彼を抱っこした。「神崎おば様……」唯花がそう言うと、詩乃は言った。「唯花ちゃん、私のことは詩乃伯母さんって呼んでね。私はずっとあなた達を見つけられるのを夢見ていたのよ。ようやく見つけたんだから、そんな距離感のある言い方で呼ばれると寂しいわ」唯花は少し黙った後「詩乃伯母さん」と言い直した。DNA鑑定結果はもう出てきたのだ。彼女が神崎詩乃の血縁者であることが証明されたのだから、神崎夫人はまさに彼女の伯母にあたるのだ。本当にまるでドラマのようだ。詩乃は唯花に詩乃伯母さんと呼ばれて、目をまた赤くさせた。そして姫華がこの時急いで言った。「お母さんったら、もう泣かないで。陽ちゃんもいるのよ、お母さんが泣いたりしたら、陽ちゃんを驚かせちゃうでしょ」明凛と清水はみんなにお茶とフルーツを持ってやってきた。詩乃は陽を抱っこしたいと思っていたが、陽のほうはそれを嫌がり、背中を向けて唯花の首にしっかりと抱きついた。「陽ちゃん、こちらはおばあちゃんのお姉さんなのよ」詩乃は立ち上がって、陽をなだめようとした。「いらっしゃい、おばあちゃんが抱っこしてあげる、ね」しかし陽は彼女の手を振り払い「やだ、やだ、おばたんがいいの」と叫んだ。詩乃は陽が過剰な反応をしたのを見て、諦めるしかなかった。そして少し前の出来事を思い出し、彼女はまた容赦なくこう言った。「あの最低な一家が、陽ちゃんにショックを
数台の高級車が遠くからやって来て、星城高校の前を通り過ぎ、唯花の本屋の前に止まった。隣の高橋の店で暇だからおしゃべりをしていた結城おばあさんが、道のほうに目を向けると数台の高級車がやって来ていた。そしてすぐに顔をくるりと元の位置に戻し、わざと頭を低くした。あの数台の車から降りてきた人に見られないようにしたのだ。「唯花、唯花」姫華が車から降りて、唯花の名前を呼びながら店の中へと小走りに入ってきた。その時は隣の店でおしゃべりしていた結城おばあさんを全く気にも留めていなかった。その後ろの車から降りてきた神崎夫人の夫の神崎航がボロボロに泣いている妻を支えながら、娘の後ろに続いて店の中に入ってきた。理紗はボディーガードたちに入り口で待機するように伝え、それから彼女も店の中へと入ってきた。唯花は三分の一ほどビーズ細工のインコを作り終えたところで、姫華に呼ばれる声を聞き、その手を止めて姫華のほうへ視線を向けた。「姫華、来たのね。ご飯は食べた?もしまだなら……」その時、神崎夫人が夫に支えられて入ってきて、夫人が涙で顔を濡らしているのを見て、唯花は状況を理解した。神崎夫人はDNA鑑定の結果を手にしたのだ。神崎夫人のその顔を見れば、聞くまでもなく彼女と神崎夫人には血縁関係があるのだということがわかった。「唯花ちゃん――」神崎夫人は急ぎ足で、レジ台をぐるりを回って彼女のもとへとやって来て、唯花を懐に抱きしめ泣きながら言った。「伯母さんにもっと早く見つけさせてよ――」彼女はそれ以上他に言葉が出てこないらしく、ただ唯花を抱きしめて泣き続けた。唯花は彼女に慰める言葉をかけたかったが、自分もこの時何も言葉が出せなかった。「私の可哀想な妹――」神崎夫人は妹がすでに他界していることを思い、また大泣きした。唯花は彼女と一緒に涙を流した。明凛は陽を抱っこして清水と一緒に遠くからそれを見守っていた。陽は全くどういうことなのかわかっていない様子だった。姫華と理紗も目を真っ赤にさせていた。神崎航がやって来て、妻を唯花から離し、優しい声で慰めた。「泣かないで、姪っ子さんが見つかったんだ、良かったじゃないか。私たちは喜ぶべきだろう。そんなふうにずっと泣いてないで、ね」神崎夫人は夫に支えられて椅子に腰かけた。妹の不幸な境遇と、二人の
「内海のクソじじい、あんたはしっかり私から百二十万受け取っただろうが。現金であげただろう、あれは私がずっと貯めていたへそくりだったんだよ。あの金を受け取る時にあんたは唯花を説得してみせると豪語してたじゃないか。それがあんたは何もできずに、うちの息子はやっぱり唯月と離婚してしまったんだぞ。だからさっさと金を返すんだよ。じゃないと本気で警察に通報するわよ」佐々木母は内海じいさんがどうしても認めようとしないので、怒りで顔を真っ赤にさせていた。内海じいさんは冷たい顔で言った。「もし通報するってんなら、通報すりゃええだろ。俺がそんなことを怖がるとでも思ってんのか。俺はお前から金を受け取ってないし、もし受け取っていたとしてもそれが何だって言うんだ?それは唯月が結婚した時の結納金の補填だろう。うちの孫娘がお宅の息子と結婚する時に一円も出しゃあしなかったくせによ。結納金に代わって百万ちょいの補填だけで済んだんだぞ。お宅にも娘がいるだろ。その娘が結婚する時に一円も結納金を受け取らずにタダで娘を婿側に送ったのか?」佐々木母はそれを聞いて腹を立てて言った。「なにが結納金だ、お前は唯月を育ててきたのか?そうじゃないくせに結納金を受け取る資格があんたにあるとでも?彼らはもう離婚したってのに、馬鹿みたいにあんたらに結納金を今更補填してあげるわけないでしょうが。さっさと金を返すんだよ!」「金なんかねえ。命ならあるけどな。それでいいなら持って行くがいい」内海じいさんは、もはやこの世に何も恐れるものなど何もないといった様子で、佐々木母はあまりの怒りで彼に飛びかかって引き裂いてやりたいくらいだった。そこに英子が母親を引き留めた。「お母さん、あいつに触っちゃダメよ。あいつはあの年齢だし、床に寝転がりでもされちゃったら、私たちが責任を追及されちゃうわよ」「ああ、じいさんや、私はすごくきついよ。もう息もできないくらいさ。こいつらがここで大騒ぎしたせいで私まで気分が悪くなってきたみたいだ。死にそうだよ……」病床に寝ていたおばあさんが突然、気分が悪そうな様子で胸元を押さえて荒い呼吸をし始めた。内海じいさんはすぐにナースコールを押して、医者と看護師に来るように伝えた。そして、佐々木母たち三人に向って容赦なく言った。「もしうちのばあさんがお前らのせいで体調を悪化させた
唯花は笑って言った。「姫華が言ってたの、九条さんって情報一家らしいわ。彼と一緒にいたら、ありとあらゆる噂話が聞けるわよ。あなたって一番こういうのに興味があるでしょ。九条さんってまさにあなたのために生まれてきたみたいな人だわ、あなた達二人とってもお似合いだと思うけど」明凛「……」彼女が彼氏を探しているのは、結婚したいからなのか、それとも噂話を聞くためなのか。「そういえば、お姉さんの元旦那のあの一家がまた来たって?」明凛は急いで話題を変えた。親友に自分の噂話など提供したくないのだ。「お姉ちゃんと佐々木のクソ野郎が離婚して、お姉ちゃんがあの家から出て行ったでしょ。あいつらは待ってましたと言わんばかりに引っ越して来ようとしてたわけ。だけど、今は部屋を借りるかホテル暮らしするか、はたまた実家に帰るしかなくなったでしょ。あの一家は絶対市内で年越ししたいと思ってるはずよ。実家には帰らないでしょうね」佐々木一家は絶対に実家のご近所たちに、年越しは市内でするんだと言いふらしていたはずだ。だから、住む家がなくとも、彼ら一家は部屋を借りるまでしてでも、市内で正月を迎えようとするに決まっている。唯花は幽体離脱でもして佐々木家に向かい、彼らの様子を見てみたいくらいだった。「あの人たち、家の内装がなくなってめちゃくちゃになった部屋を見て、きっと大喜びして失神したことでしょうね」唯花はハハハと大笑いした。「そりゃそうね」唯花が今どんな状況なのか興味を持っている佐々木家はというと、この時、すでに内海じいさんがいる病院までやって来ていた。内海ばあさんは術後回復はなかなか順調で、もう少しすれば退院して家で休養できるのだった。佐々木母は娘とその婿を連れて病室に勢いよく入っていった。佐々木父は来たくなかったので、ホテルに残って三人の孫たちを見ていた。ただ佐々木父は恥をかきたくなかったのだ。「このクソじじい」佐々木母は病室に勢いよく入って来ると、大声でそう叫んだ。内海じいさんは彼女が娘とその婿を連れて入ってきたのを見て、不機嫌そうに眉をしかめた。彼の息子や孫たちはどこに行ったのだ?誰もこの狂ったクソババアを止めに入りやしないじゃないか。「これは親戚の佐々木さんじゃないですか、うちのばあさんはまだ病気なんで、静かにしてもら
「そうね、姫華にも彼女のプライドっていうものがあるんだもの。神崎家の娘は条件も整ってるから結婚に悩む必要もないし」神崎夫人は娘のことをやはりよく理解しているのだった。姫華が諦めると言えば、必ず諦めるのだから。その時、外から車の音が聞こえてきた。理紗が立ち上がり、外のほうへと歩いていき言った。「きっと姫華ちゃんが帰ってきたんです」彼女が外に出ると、やはり義妹が帰ってきたのだった。姫華は車を降りて義姉のほうへとやって来ると、キラキラと輝く笑顔を見せて言った。「お義姉さん、お母さんはまだ家にいる?」義妹が輝くような笑顔を送ってきたので、それを見た理紗は心がとても痛んだ。彼女は義妹がつらい気持ちを吐き出すために、このように無理して笑うより、泣いたほうが良いと考えていた。姫華がこんな笑顔を見せるたびに、彼女の心が傷ついているというのは明らかだからだ。ああ。自分を愛してくれない男を好きになってしまうのは、こんなにもつらいことなのだ。その相手が結婚したばかりだと知ったら、その苦しみはもっと深くなるだろう。「お義母さんは家にいるわよ。姫華ちゃん、あなた大丈夫?」「お義姉さんったら、そんなふうに見える?心配しないで、私は大丈夫だから。ただ過去と決別してきただけよ」姫華はもう吹っ切れたような言い方だったが、それでもあまり理仁のことについては話したくなかった。彼女は親しそうに義姉の手を引っ張って言った。「お義姉さん、さあ、中に入りましょうよ」姫華が帰って来ると、神崎夫人はさらに居ても立ってもいられなくなった。それで、神崎夫人は家族に付き添われて、鑑定機関へと赴いた。神崎夫人がとても緊張しているのと比べて、唯花のほうはとても落ち着いていた。彼女はレジの後ろでハンドメイドをしていた。陽と一緒に遊ぶおばあさんと清水をちらりと見て、明凛に言った。「うちの理仁さんは出張に行ったわ。ここ数日なにか面白いことがあって、私も参加できそうなら一声かけてよね」最近嫌なことが多すぎて、日々は張り詰めた空気に包まれていた。だから親友と一緒に遊んで、気分を上げる必要があるのだ。その時は姉と陽の二人も一緒に連れ出そう。明凛は笑って言った。「それなら、ショッピングか、美味しい物を食べるか、唯花が好きなことって他に何があるかしら?社交界のパ
それを聞いて姫華は笑った。笑ってはいたが、手で瞳に滲んだ涙を拭きとり顔をそむけて遠くの方を見つめていた。そして少ししてから、ようやくまた顔を理仁のほうへと向けて、落ち着いた表情になりまた笑って言った。「理仁、あなたからそんな言葉が聞けて、それだけでもよかったわ。何年もあなたに片思いしてた甲斐があったっていうものよ」彼女はおおらかにも理仁のほうへ手を差し出し、理仁も同じようにして彼女と握手を交わした。「理仁、奥さんと年を取るまで、いつまでも幸せでいてちょうだいね」「ありがとう、神崎さん」「あなた達が結婚式を挙げるなら、私も参加させてもらえたら嬉しいわ」理仁は手を引っ込め、優しく言った。「良い日取りを決めて、結婚式を挙げる時は、神崎社長と、君に招待状を送るよ」「じゃ、あなた達をお祝いできる日を楽しみにしているわね」姫華は笑って言った。「結城社長は忙しいでしょうから、貴重な時間の邪魔はもうしないわ。さようなら」彼女は理仁に手を振り、背中を向けて彼女のスポーツカーに乗り、すぐに結城グループの前から去っていった。さようなら、はじめて深く愛した人。今後は二度と彼女がここに現れることはない。彼女は傷を癒したら、また新たに自分の人生を歩んでいくのだ。理仁が車に戻ると、運転手は急いで車を出した。運転手はこの二人がまた揉めるのかと思っていたが、まさか神崎家の令嬢が祝福を送りに来るとは思わなかった。神崎お嬢様は正直に人を愛し、また憎み、そしてすぐに決断してスカッと自分の気持に区切りがつけられる性格の持ち主なのだ。運転手にしろ、ボディーガードたちにしろ、みんな神崎姫華への考えを改めた。少なくとも、彼女が引き続き彼に纏わりつくことはなくなったのだ。姫華は唯花のところに行こうと考えていたのだが、行く途中でまた考えを変えた。彼女は家に帰って母親と一緒にDNA鑑定機関に赴き、その結果を取りに行かなければならない。それで、姫華はUターンできるところで引き返し、家へとルート変更して車を走らせていった。家に到着した時には、すでに午前九時過ぎだった。神崎夫人は早く出かけて結果を知りたがっていたが、夫に「まだ早いだろう。そんなに焦らないで。結果が出るのは出るんだから、誰もそれを取って行ったりなんかしないって」と繰り返し諭して
電話を切った後、理仁は七瀬に指示を出した。「俺がいない間、しっかりと妻の警護にあたってくれ」「若旦那様、ご安心ください。私がしっかり若奥様をお守りしますので」若奥様はもともと強いお方だ。そんな彼女を警護する仕事なら楽勝だ。さらにさらに、ボーナスが倍に!七瀬はそれを考えただけで顔がほころんだ。これこそ若奥様とお近づきになる最大のメリットなのだ!「もし妻が何か困って助けが必要な時には、ばあちゃんに言えば解決方法を指示してくれるだろう。それか、辰巳に相談してくれてもいい」「若旦那様、ご安心を。若奥様が何かお困りになられたら、おばあ様がすぐにおわかりになることでしょう」おばあさんはもはや、神的存在だ。そんな彼女の孫たちは神の掌の上で泳ぐしかない。理仁は祖母の能力を考え、それ以上は何も言わなかった。それから、理仁にある意外な出来事が起こった。暫くの間、会社の前に現れなかった神崎姫華がこの日また現れたのだ。彼女は自分の赤いスポーツカーに寄りかかっていて、理仁の専用車の列がゆっくりと近づいてくるのを見ていた。それを見て運転手が言った。「若旦那様、神崎お嬢様がまたいらっしゃったようです」理仁は少し黙って、運転手に言いつけた。「神崎さんの前で車を止めてくれ」それを聞いた運転手と七瀬はとても意外だった。確かに神崎家の令嬢と若奥様は仲のいい友人同士である。しかし、今まで若旦那様は一度も神崎家の令嬢には優しくしたことはなかった。少しだけ彼が優しくしているのは牧野家のお嬢さんだ。彼女は若旦那様と交友関係にあるからだ。それに、牧野家のお嬢さんは若奥様と一緒に本屋を経営している。理仁にそう指示されて、運転手は言われた通りにした。姫華はその時どうしようか迷っていた。以前と同じように死ぬ気で彼の車を妨害しようかと思っていたところ、理仁が乗ったあのロールスロイスのほうから彼女の前に止まってくれた。車のドアが開き、理仁が車から降りてきた。暫くの間会っていなかったが、彼は彼女の瞳には依然として超絶な美形に映っていた。姫華は暫くじいっと彼に見惚れていたが、すぐに自分自身にそれを止めるよう言い聞かせた。彼はすでに他の女性の夫なのだから。「結城社長、あまり警戒しないで、今日私がここに来たのは、あなたに付き纏うためじゃないから
顔をあげて彼を暫く見つめ、唯花は仕方なく彼の首に手を回し、自分のほうへ引き寄せて甘いキスを彼に捧げた。理仁は妻のほうからキスをしてもらい、上機嫌になって、片手でスーツケースを引き、もう片方の手で唯花の手を繋いで一緒に家を出ていった。おばあさんは一階でこの二人を待っていた。その時、おばあさんと一緒にいて話をしていたのは七瀬だった。唯月の引っ越しを手伝った時、唯花は七瀬も手伝いに来てくれたことに気づき、彼はきちんと報酬がもらえれば、どんな仕事でも請け負うと言っていた。そして、また唯花に会った時、七瀬はもうわたわたと焦ることはなかった。正当な理由をようやく見つけて堂々とできるという感じだ。「結城さん、内海さん、おはようございます」七瀬のほうから挨拶をしてきた。唯花はそれに微笑んで、ついでに「お名前は?あの日、すっかり名刺をいただくのを忘れていました」と言った。七瀬はその時、素早く主人である理仁のほうをちらりと確認し、彼の表情が変わらないのを見て何も恐れることなく彼女に答えた。「私は七瀬と申します」そして、ポケットから一枚の紙を取り出して唯花に渡し、申し訳なさそうに言った。「家に帰って名刺がもう切れていることに気づいたんです。まだ印刷しに行っていないので、携帯番号を紙に書いておきました」唯花は彼の電話番号が書かれた紙を受け取り、自分の横にいる夫に言った。「七瀬さんがどんな仕事でも受けてくれるらしいわ。今後自分でできないことは七瀬さんにお願いしようと思って」こう言って理仁がまたヤキモチを焼き始めるのを阻止しようとしたのだ。理仁は低い声で言った。「七瀬さんはとても頼りになるからね。何か力仕事があれば、彼に頼むといい」七瀬は素直に笑った。「はい、その通りです。きちんとお金をいただければ、どんな仕事だっていたしますよ。ところで、結城さん、出張ですか?」理仁は「ええ」とひとこと言った。「では、私はこれで」七瀬は夫婦二人に挨拶をしてからおばあさんに手を振り、自然にその場を離れた。今回、若旦那様は出張に半分のボディーガードしか連れて行かない。その中に七瀬は含まれておらず、ここに残って若奥様の護衛をするのだった。自分の主人の出張について行けないことを七瀬は少しも残念には思っていなかった。なぜなら、女主人にゴマすりで