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仇敵の妻〜私を救い出した夫は黒幕〜

仇敵の妻〜私を救い出した夫は黒幕〜

By:  方円Completed
Language: Japanese
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我が家が取り潰しに遭った日、死罪を待つ身から高官へと成り上がった幼馴染の塗景(とけい)は、皇帝から賜った死罪を免じる証を手に、皇宮の正殿の長い階段を一段一段、膝をついたまま登り、私・沈卿雲(しんけいうん)を妻に迎えたいと懇願した。 結婚初夜、私たちは寝所で、一晩に何度も重なり合った。 だが、わずか数ヶ月後のこと。身重の体で彼にお茶を届けに行くと、塗景と側近のこんな会話を耳にしてしまった。 「塗様。沈家に、かつてご一族百名余りを無残に殺されたというのに…… 一族の仇を討ち果たしたのち、なぜ仇の娘など救い出し、あろうことか妻に迎えたのですか?」 「復讐のためだ。なぜ俺だけが恨みを背負い、生きた心地もしない地獄を味わわねばならない? 沈卿雲にも、俺と同じ地獄を歩ませる。生きていれば不幸になり、死ぬことも許されない苦しみの中でな」 胸が張り裂けるほどの絶望のなか、私はひどく病弱な息子を産み落とした。 塗景は冷ややかな目で私を見下ろした。 「沈家の血を引く人間とは、どいつもこいつも出来損ないだな。 お前と同じように」 それから6年間。塗景を殺して息子の塗書陽(としょよう)を連れ去ろうと、132回も企てた。 しかし、そのすべてが失敗に終わった。 そしてあの日。塗書陽がうっかり檀木の箱を落として壊してしまった。罰として祠堂(しどう・先祖を祀る部屋)の冷たい床に跪かされたあの子は、意識を失ってしまった。 私はまたしても毒入りの酒を用意し、狂ったように復讐しようとした。 その時、側室の祁絮(きじょ)が塗景の腕の中で甘く笑う声が聞こえた。 「景さん、卿雲さんが命懸けで産んだ子供を、景さんが自分の手で殺したと知ったらどうかしら? 6年間、私たちの子の面倒を見させていたと知ったら、狂ってしまうんじゃないかしら?」

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Chapter 1

第1話

我が家が取り潰しに遭った日、死罪を待つ身から高官へと成り上がった幼馴染の塗景(とけい)は、皇帝から賜った死罪を免じる証を手に、皇宮の正殿の長い階段を一段一段、膝をついたまま登り、私・沈卿雲(しんけいうん)を妻に迎えたいと懇願した。

結婚初夜、私たちは寝所で、一晩に何度も重なり合った。

だが、わずか数ヶ月後のこと。身重の体で彼にお茶を届けに行くと、塗景と側近のこんな会話を耳にしてしまった。

「塗様。沈家に、かつてご一族百名余りを無残に殺されたというのに……

一族の仇を討ち果たしたのち、なぜ仇の娘など救い出し、あろうことか妻に迎えたのですか?」

「復讐のためだ。なぜ俺だけが恨みを背負い、生きた心地もしない地獄を味わわねばならない?

沈卿雲にも、俺と同じ地獄を歩ませる。生きていれば不幸になり、死ぬことも許されない苦しみの中でな」

胸が張り裂けるほどの絶望のなか、私はひどく病弱な息子を産み落とした。

塗景は冷ややかな目で私を見下ろした。

「沈家の血を引く人間とは、どいつもこいつも出来損ないだな。

お前と同じように」

それから6年間。塗景を殺して息子の塗書陽(としょよう)を連れ去ろうと、132回も企てた。

しかし、そのすべてが失敗に終わった。

そしてあの日。塗書陽がうっかり檀木の箱を落として壊してしまった。罰として祠堂(しどう・先祖を祀る部屋)の冷たい床に跪かされたあの子は、意識を失ってしまった。

私はまたしても毒入りの酒を用意し、狂ったように復讐しようとした。

その時、側室の祁絮(きじょ)が塗景の腕の中で甘く笑う声が聞こえた。

「景さん、卿雲さんが命懸けで産んだ子供を、景さんが自分の手で殺したと知ったらどうかしら?

6年間、私たちの子の面倒を見させていたと知ったら、狂ってしまうんじゃないかしら?」

扉の向こうで続いていた嘲りの声は途絶え、やがて聞こえてきたのは、情事の音だった。

私は全身の血が凍りつくような心地でその場に立ち尽くし、手にした毒入りの酒をただ呆然と見つめていた。

6年の間、何度も塗景を殺して逃げようと計画していたのに。

私の努力も、憎しみも、すべては滑稽な笑い話にすぎなかったのか?

私の子は、私の生きる希望は、もう6年も前に実の父親の手で殺されていたのだ。

卑猥な嬌声が窓から漏れ、耳に突き刺さる。

酒を入れた器を握りしめる手が、激しく震えていた。

カチャンという音とともに、部屋の前で、酒の器が砕け散った。

屋内の音がピタリと止まる。

部屋から出てきた二人は、どちらも衣服がだらしなく乱れた姿だった。

祁絮は私を見て、挑発的な笑みを浮かべた。

「卿雲さん、ここで何をしてるの?

まさか、景さんの気を引こうとでもしてるの?」

私は祁絮を無視して、後ろにいる塗景を見つめた。

塗景はいつだって、人前では高潔なふりをしている。

私を見つけたその目元には、濃い嘲りが浮かんでいた。

あふれんばかりの殺意に任せ、袖に隠した刃物を塗景に向けた。

しかし一瞬のうちに、彼は刃物を奪い、それを私の喉元へ突きつけた。

またこれだ。いつもと同じ、私は塗景を殺したいと願い、復讐を望んできたのに。

一度だって成功した試しはない。

塗景の言う通り、私は良く生きることも、いっそ死ぬこともできない。

視線が絡み合い、二人とも無意識に目をそらす。

お互いを見る目つきは、まるで汚物を見るかのように。

あまりにも惨めで、息が詰まるような瞬間だった。

塗景は私を突き飛ばすと、祁絮の腰を抱いて鼻で笑った。

「子供ひとりの躾すらできないくせに、のこのこ騒ぎを起こしに来るとはな」

そう言うと、塗景は砕けた器の残骸に一瞥を投げた。

「書陽の命乞いにでも来たのか?

沈卿雲。お前は人に物を頼む時の『態度』というものを、誰からも教わらなかったのか?」

どんな態度で頼めばいい?今まで塗景を殺そうとして、返り討ちにあう時と同じように?

塗景が求めるままに縋りつけというの?

私は鼻で笑い、無言で顔をそらした。

過去の6年と1ヶ月、そして16日の間に。私は塗景を132回殺そうとした。

しかし塗景はいつでも何一つ損なわれることなく私の前に立ち、無様な私を笑うのだ。

その後、塗景は私を暗い部屋へ引きずり込み、傷つくまでいたぶる。

なのに――その後でわざわざ最高級の塗り薬を取り寄せさせ、私が意識を失っている隙に、ひそかにその薬を塗ってくれる。
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第1話
我が家が取り潰しに遭った日、死罪を待つ身から高官へと成り上がった幼馴染の塗景(とけい)は、皇帝から賜った死罪を免じる証を手に、皇宮の正殿の長い階段を一段一段、膝をついたまま登り、私・沈卿雲(しんけいうん)を妻に迎えたいと懇願した。結婚初夜、私たちは寝所で、一晩に何度も重なり合った。だが、わずか数ヶ月後のこと。身重の体で彼にお茶を届けに行くと、塗景と側近のこんな会話を耳にしてしまった。「塗様。沈家に、かつてご一族百名余りを無残に殺されたというのに……一族の仇を討ち果たしたのち、なぜ仇の娘など救い出し、あろうことか妻に迎えたのですか?」「復讐のためだ。なぜ俺だけが恨みを背負い、生きた心地もしない地獄を味わわねばならない?沈卿雲にも、俺と同じ地獄を歩ませる。生きていれば不幸になり、死ぬことも許されない苦しみの中でな」胸が張り裂けるほどの絶望のなか、私はひどく病弱な息子を産み落とした。塗景は冷ややかな目で私を見下ろした。「沈家の血を引く人間とは、どいつもこいつも出来損ないだな。お前と同じように」それから6年間。塗景を殺して息子の塗書陽(としょよう)を連れ去ろうと、132回も企てた。しかし、そのすべてが失敗に終わった。そしてあの日。塗書陽がうっかり檀木の箱を落として壊してしまった。罰として祠堂(しどう・先祖を祀る部屋)の冷たい床に跪かされたあの子は、意識を失ってしまった。私はまたしても毒入りの酒を用意し、狂ったように復讐しようとした。その時、側室の祁絮(きじょ)が塗景の腕の中で甘く笑う声が聞こえた。「景さん、卿雲さんが命懸けで産んだ子供を、景さんが自分の手で殺したと知ったらどうかしら?6年間、私たちの子の面倒を見させていたと知ったら、狂ってしまうんじゃないかしら?」扉の向こうで続いていた嘲りの声は途絶え、やがて聞こえてきたのは、情事の音だった。私は全身の血が凍りつくような心地でその場に立ち尽くし、手にした毒入りの酒をただ呆然と見つめていた。6年の間、何度も塗景を殺して逃げようと計画していたのに。私の努力も、憎しみも、すべては滑稽な笑い話にすぎなかったのか?私の子は、私の生きる希望は、もう6年も前に実の父親の手で殺されていたのだ。卑猥な嬌声が窓から漏れ、耳に突き刺さる。酒を入れた器を
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第2話
最初は、私は歯を食いしばって塗景をにらみつけた。「塗景。いつか必ず、殺してやるわ」すると彼は、私の顎を強い力で掴み、無理やり自分の方を向かせた。「できるものならやってみろ。お前が俺を殺すのが先か、俺がお前を狂わせるのが先か」私たちは、そんなふうに6年間も傷つけ合ってきた。塗景は、私の父が皇帝の密命に従い、謀反の罪を着せて塗家を皆殺しにしたことを深く恨んでいた。そして私もまた、父の致し方ない立場など顧みず、すべての憎しみを沈家に押し付け、私を徹底的にいたぶり続ける塗景が憎かった。本当は、子供がいなければ、この6年間も耐えられなかった。私はもう疲れ果てていた。憎むことも、愛することも、すべてに疲れていた。眠れぬ夜が続くと、布団を抱えてぼんやりと空を見つめていた。死ぬことが、唯一の救いではないかと。けれど、私にはまだ幼い塗書陽を見捨てることなどできなかった。とうに枯れ果てた私の心は、あの子という細く儚い糸一本で、なんとか繋ぎ止められていたのだ。その糸が切れたとき、ようやく分かった……塗景、あなたの勝ちよ。これが、あなたから私への一番ひどい仕打ちだったのね。私は静かに目を伏せ、毒薬が地面に広がっていくのを見つめた。塗景と争う気力さえ、もう残っていなかった。私は力なく両手を下げ、塗景が罵倒を予想して身構えるのをよそに、背を向けた。3日後は、両親の命日。その日、自分自身のために毒を用意してもいいかもしれない。ぼんやりした心持ちで自室へ戻ると、机の上に、作りかけの勾玉が置かれていた。手に取ってなでてみると、指先に確かな感触が残る。この一つ一つの筋を、私が自分で彫ったのだ。布でしっかりと包み、本棚のいちばん奥へ隠した。もともとは塗書陽への新年の贈り物として、何か月もかけて磨いてきたもの。今や、残るは最後の仕上げのみとなった。それなのに……切なさに胸が締め付けられ、私は自嘲しながら再び勾玉を取り出した。錐を手に取り、少しずつ穴をあけていく。なんだかんだと言っても、6年も一緒に暮らせば、母親としての情が残っているのだ。最後の贈り物だと思えばいい。この6年間の親子の縁に、終止符を打つのだ。翌日の夕暮れ、磨き上げた勾玉を塗書陽の腰につけてやった。塗書陽は一目見るな
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第3話
塗景は手を伸ばして私を止めようとしたが、後ろから祁絮に呼び止められた。「景さん……」「出て行け」その鋭い叱責が響いた時、私はすでに部屋を後にしていた。塗景の顔色はさらに険しくなり、その様子を見た祁絮は何も聞くことができなかった。祁絮は塗書陽を連れ、おずおずとその場を立ち去った。散らばる破片を見つめる冷徹な男はゆっくりとしゃがみ込み、破片を一つ拾って掌に強く握り締めた。背後にいた護衛が腑に落ちない様子で口を開いた。「塗様、なぜ奥様にあの時のことを……」「黙れ!」塗景は視線を落とし、赤くなった目元を隠した。「口出しはするな」戻ってきた私は、その言葉を耳にした。塗景が私に気づくと、一瞬だけ動揺の色が見えたが、すぐさま以前の私に対する冷酷な態度へ戻った。「何をしに戻ってきた?」私は何も答えず、床に散らばった砕けた勾玉を黙々と拾い集めた。しかし、最後の破片を拾おうとした時、塗景の方が早く、足で踏みつけた。塗景は冷笑を浮かべ、私の姿をじろじろと見下ろした。「なんだ。もうこの息子は気に入らないか?戻ってきて、また俺との間に子供が欲しいとでも?」塗景は嫌味な言葉を投げかけ、壊れた勾玉を足でさらにぐりぐりと踏みつけた。「だが今のお前の姿で……書陽の言った通りだ。本当に見苦しい」揺らめく灯火越しに、両手を後ろ手に組んで立ち尽くす、凍てついたような塗景の姿が見えた。その強く握られた背後の手から血がしたたり落ち、石床に小さな跡を作った。血だまりを見て一瞬呆然としたが、塗景の異変に心を砕く余裕など私にはない。あと2日で、私はここを離れ、塗景から去るのだから。塗景は依然として、砕けた勾玉を踏んだまま動こうとしなかった。私はついに口を開いた。「出ていかないの?」もちろん塗景とまた子供を作るつもりなどない。だがここは私の寝室だし、塗景がいると休めない。私のさらりとした言葉を聞き、塗景は虚を突かれたように一瞬動きを止めた。「沈卿雲、以前のように俺に歯向かう気力も失せたか?あっさり負けを認めるとは、お前らしくもないな」塗景は嘲るような表情で突然私の手首を掴み、無理やり目を合わせようとした。私は微笑みながら、彼の指を一本ずつ手首から引き剥がした。「本当に私ともう
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第4話
「いい加減にして!」胸の内にふつふつと怒りが湧き上がる。私は塗書陽からその靴を乱暴に取り返した。「何怒っているんだ?」傍らに立つ塗景が、視線を伏せたままゆっくりと言った。「書陽はお前の息子だぞ。泣き出したらどうするんだ?」「私の息子?」私は冷笑した。「私の息子は、6年前に死んだはずでしょ?」塗景の顔がさっと強張り、動揺の色が隠しきれなくなる。彼は視線を逸らして、私を見ようともしなかった。「お前……なぜそれを?」「今更ね、塗景。一つだけ聞かせて。6年前、死んだはずの子をどこへやったの?」彼の瞳の奥に一瞬だけ苦痛の色が走ったが、すぐにまた元の冷たい表情へと戻った。崩れそうな私を見て、塗景はふっと笑う。「役に立たない出来損ないだったから、生まれてすぐに野ざらしにしてやったよ」塗景のあまりの非道さに、私はその場に呆然と立ち尽くした。静寂の中でようやく我に返った私は、迷いもなく塗景の頬を張り飛ばした。「あれはあなたの子供だったのよ!」「違う!」塗景は即座に言い返した。その時初めて、嘲りを捨てた塗景の目元がうっすらと赤くなった。「沈卿雲、あの子にはお前の血が流れているんだ。俺が認めるはずがない……死ぬまで、あの子はただの忌まわしい野良犬だ」一言一言が、鋭い刃のように耳に突き刺さる。それは、長年覆い隠されてきた醜悪な真実をすべて切り裂き、血まみれのまま私の目の前に突きつけてきた。互いに抱える憎しみは、死ぬまで消えないのだと突きつけられたようだった。子供は、この狂人の欲を満たすための道具に過ぎなかった。正気に戻れば、いつでも捨てられる捨て駒に……私はたまらず、声を上げて泣き出した。この6年分の屈辱を、すべて涙で洗い流そうとするかのように。どれほどの時間が過ぎたのだろう。塗景はもう立ち去ったのだと思うほど、長い時間が経っていた。だが彼はゆっくりとしゃがみ込み、私の手首を引き寄せて、真っ直ぐに視線を合わせてきた。「沈卿雲、俺を憎んでいるのか?だが今のお前の憎しみなど、あの頃の俺の万分の一にも及ばない」手を振りほどこうともがくが、どうすることもできない。やがて体の力が抜けていくとともに、心までもが完全に枯れ果てていくのを感じる。その瞬間、すべ
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第5話
ずっと昔、塗景は確かに私の耳元でそうささやいてくれた。それなのに、いつしか彼がこれほどまでに優しく甘い声色を向ける相手は、祁絮になってしまったのだ。私は自嘲気味に笑う。塗景の口から久々にこぼれ落ちた、そのあまりにも優しい声の響き。とうに枯れ果てたはずの私の心に、まだわずかな波紋を起こした。その瞬間、心の奥底にわざと封じ込めていた記憶が、再び波のように押し寄せてきた。雨の降る夜、道に迷った幼い私に、塗景は上着をかけてくれた。そして一歩、また一歩と、私を背負って深い山から連れ出してくれたのだ。塗景の背中に頬を寄せて聞く、あまりに速い鼓動。あれは彼のものだったのか、それとも私の鼓動だったのだろうか。婚姻を結んだ後でさえ、私たちには確かに、あたたかく幸せな日々があったというのに。塗景は店をいくつも回り、私の好きな菓子を作る職人を探してくれた。私が子供を授かったと知った日、塗景は心から喜んでくれた。金木犀を私の髪に飾り、愛を誓ってくれたこともあった。明け方の光の中で、塗景の目から涙がこぼれ落ちるのが見えた。彼は私を力強く抱きしめ、自分の体に埋め込むようにした。「卿雲、行かないでくれ……」酔った勢いで、彼はあの15歳の意地っ張りだった少年の身代わりになったかのように、泣き続けた。朝日が昇る頃、ようやく酔いもさめたようだった。意識がはっきりすると、彼は無言で私を見つめた。その瞳の奥にわずかに複雑な色が滲んでいた以外は、全くいつも通りだった。いつもの冷たい表情に戻っていた。先ほどまで泣きついていた男とは思えない。あれは夢だったのではないかと思うほどだった。塗景にひどいことを言われるのが怖くて、私は先に口を開いた。「酔いが醒めたのなら、さっさと私の目の前から消えて。ここに、あなたの居場所なんてないわ」目元の涙も乾かぬうちに突然言われ、塗景は動きを止めた。そして鼻で笑う。「消えろ、だと?沈卿雲、忘れたのか?この屋敷のすべては塗家のものだぞ」塗景は冷ややかな目を細める。「だから、俺はどこにだって行ける。消えるべきなのは、お前のほうだ」私は肯定も否定もせず、ただふっと笑った。「そう、じゃあ私が消えるわ」「沈卿雲!」塗景が急に顔を真っ赤にして、手首を力強く掴
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第6話
塗景は慌てて解毒薬を私の口に押し込むが、溢れ出す黒い血は止まらない。「卿雲……卿雲、寝ちゃだめだ……卿雲、お願いだ。目を閉じるな」塗景の涙が私の頬にこぼれ、熱く肌を焼きつける。けれど、私の意識はどんどん薄れていった。あの日、梨の花が舞い散り、帝都の街全体が白く染まっていたのを覚えている。青い衣を纏い、髪を高く結い上げた一人の少年が、青石の敷かれた通りを馬で駆け抜けていった。その手にした長剣は、望月楼(ぼうげつろう)が景品として高く掲げていた酒を見事に奪い去った。驚く人々を背に、少年は風のように駆け抜けていった。馬上で微笑むその姿は、まさに絵になる光景だった。当時の塗景は、誰もが認める華のある少年だった。私の目の前に飛び降りると、彼は無邪気に笑った。「ほら!卿雲、俺が取ってきてやった酒だぞ!」その凛々しくも優しい笑顔を、私は忘れられない。その瞬間、頭の中はそれでいっぱいだった。これが、私が初めて塗景に恋をした瞬間。私は顔を赤くしてその酒を受け取り、家の裏庭にある梨の木の下に隠した。その夜、初恋に心弾ませていた私は、一睡もできなかった。庭で輝く静かな月を見つめれば、不意に幻を見た。月影さえも、塗景に見えてしまうほどに。一年に一度、星々が巡り合うというあの夜、私は勇気を出して塗景を誘い出した。塗景は門枠に寄りかかり、口に草をくわえてふざけた笑みを浮かべている。「お、卿雲から誘ってくれるとはね」彼は不意に顔を寄せた。その瞳の奥には、私を惑わすような熱い色が宿っていた。「俺は忙しいんだぞ?」私は照れ隠しに足を鳴らして、塗景の袖を引っ張った。「なら、行ってくれるの?」「ああ、もちろん!」彼はくすくすと笑みを漏らすと、私の頭を優しく撫で、その髪を一房、指に絡めては解くようにして、とりとめもなく弄んでいた。「卿雲のお誘いを断れるはずがないだろう?」今も覚えている。輝く花火の下で、塗景が髪飾りを買ってくれたことを。「卿雲、早く大人になってね」と、塗景は言った。私が「大人になってどうするの?」と聞き返すと、塗景は顔を真っ赤にして、懐から一つの腕輪を取り出し、私の手首にはめてくれた。「父と母が想いを通わせた時、これを贈ったんだってさ。卿雲、大きくなったら
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第7話
塗景が去る時、私を深く見つめた。その瞳には理解できない複雑な色が浮かんでいた。家に帰ると、父が部屋の前に立っていた。まるで10歳も老け込んだようだった。「塗景は行ったのか?」「はい」月日は流れ、私が成人すると縁談の話が持ち上がるようになった。だが、あの年、馬を駆り駆け抜けていった少年の後ろ姿だけは、どうしても私の心から消し去ることができなかった。それどころか、時が経つほどにその姿は、より色鮮やかに胸の奥で刻まれていくばかりだった。李家の息子との縁談が決まった日、私は梨の木の下から酒壺を掘り出した。独りで、泥酔するまで飲み干した。酔った勢いで李邸の前に走り込み、自分の縁談をめちゃくちゃにしてやった。人生で初めての、大きな反抗だった。両親はただ溜め息をつき、何も言わなかった。塗景と再会したあの日、私は家族が一人ずつ殺されていくのを目の当たりにし、泣き叫ぶことしかできなかった。最後は私と両親だけになった。その時、塗景は神様のように現れ、私を連れ去った。父は立派な身なりの塗景を見て、全てを察したようだった。父は声を詰まらせ、目に涙を溜めて言った。「全ての因縁に卿雲は何の関係もない。卿雲を妻にするのなら、どうか大切にしてやってくれ」父は私に視線を移し、「これからは、誰も憎んではいけない」と言った。当時の私は、その最期の言葉の意味を理解できなかった。9ヶ月後、塗景の部屋の前で全ての真相を聞くまでは。私があたたかいと信じていたものは、最初からすべて偽りだったのだ。塗景こそが、皇帝に沈家が国を売ったと吹き込み、家を滅ぼした張本人だった。激しい衝撃で、私は書斎の入り口に倒れ込んだ。物音で書斎にいた塗景が出てきた。意識が遠のく中、彼が慌てて私を抱きかかえるのが見えた。口の中に無理やり薬を放り込まれ、耳元で必死に叫ぶ声が聞こえた。「卿雲、どうした?卿雲、怖がらせないでくれ……卿雲……沈卿雲!死んではいけない」……「沈卿雲、目を覚ませ。沈卿雲、俺を恨めば恨むほど、お前を生かしてやる」うるさい。本当にうるさい。塗景の言う通り、彼は私を死なせることすら許さないつもりらしい。記憶の中の声が現実と重なる。ふたたび目を開けると、いつかもわからない深夜だった。右手
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第8話
「目が覚めたのなら……もう行く」塗景は気まずさに耐えきれず、部屋をあとにした。だが、出ていく前に、一度だけ振り返った。「沈卿雲、もう二度と死のうなんてするな」私は背を向けたまま、言葉を返さなかった。塗景の見えないところで、私は静かに涙を流した。昏睡の数日間、走馬灯のように過去十数年の日々が蘇った。両家の仲睦まじい思い出、雪の降る日に聞いた悲痛な叫び声。初恋の喜びから、憎しみ合って傷つけ合う関係へ。春の梨の花を見上げていた頃から、老いて白髪になるまで……胸の奥をアリに食い尽くされるような苦しみが、心臓をえぐるようだった。塗景はずっと、沈家のせいで自分がすべてを失ったと信じ込んでいる。でも本当は、父は最後まで命令に従って公務を果たしただけなのだ。当時、父が背を向けたのは、友が絶望する姿を見たくなかったからだ。こっそりと涙をぬぐうためでもあった。当時の父には、何もできなかった。私の返事がないのを見て、塗景は小さくため息をついた。……塗景は庭で夜空を見上げた。半分もの時間、立ち尽くしたまま。ふと塗景は、1年前の家族と揉めて家出したことを思い出した。正確には家出というより、真夜中に塀を乗り越えて、沈卿雲の部屋の窓を叩いたのだ。沈卿雲を屋根へ連れ出し、二人で一晩中月を眺めた。その時に言いたかったことがあった。「お前こそが、俺の道を照らす唯一の明月だった」と。けれど、月もいつかは沈む運命にある。夜が明ける頃、冷たい露を浴びて、塗景は祁絮の部屋を訪ねた。彼は大金と数か所の土地の譲り状を祁絮に差し出した。「これだけあれば、お前と書陽の生活は一生安泰だ。山水の美しい地を見つけ、穏やかに暮らしてくれ」祁絮の心臓は、不意に力任せに鷲掴みにされたかのように激しく震えた。彼女はその場に崩れ落ちるように膝をつき、溢れ出る涙で視界を滲ませた。「景さん、急にどうして……」目の前の女を見つめる塗景の瞳には、複雑な色が浮かぶ。自分が苦境に立たされた時、祁絮は確かに支えてくれた。祁絮の望む通り、すべてを与えてきた。愛情、金、子供、権勢……何もかもを。だが、もはやこれまでだ。塗景はため息をついた。「お前がこれまでずっと、卿……沈卿雲に厳しく当たっていたことは
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第9話
「お母さん、死なないで、お願いだから……全部、僕が悪かったんだ……」塗書陽はしゃくり上げながら、これまで自分がした間違いをひとつずつ口にした。前はわがままで、祁絮ばかり好きだったと打ち明ける。でも、私がいなくなるなんて想像もしたことがなかったそうだ。塗書陽の純粋な瞳に涙が浮かび、私を真っ直ぐに見つめている。どこか、約束を求めているかのようだった。そんな彼を見つめながら、私は一瞬ぼんやりとした。もし、私の子が生きていたら。怒られたあとにこうやって謝りに来たかもしれない。それとも、あの子はもっと素直で賢い子だったのだろうか?胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。私は何度もひどく咳き込んだ。「わかったから、もう遊びに行ってきなさい」「お母さん……」「外に行きなさい」塗書陽をどう扱えばいいのか、私にはわからなかった。彼は泣きながら駆け出していった。その背中を見送りながら、私はもう耐えきれず、激しく血を吐いた。……塗書陽が会いに来た翌日。塗景は、祁絮親子を無理やり馬車に乗せて追い出した。3日目。塗景は心身の不調を理由に、皇帝へと辞官の書を奏上した。まだ、26歳という若さなのに。4日目。塗景は長年仕えてきた忠実な護衛だけを残して、仕えていた下男下女たちをことごとく去らせた。5日目。塗景は自ら食籠を手に提げ、私の元へやってきた。椀の雑炊を丁寧に冷まし、熱さを確かめてから、私の口元へと運んできた。「食べろ」私は迷わずそれを払い除けた。「沈卿雲、いいから食べろ」塗景はもう一度、別の椀を差し出してくる。私は何の感情も浮かべずに彼を一瞥した。怒る気力さえ失った私を見て、塗景はふっと声を柔らかくした。「一緒に食べてくれ。これが最後だと約束するよ」本当なら塗景の頬を平手打ちして、叫びたい気分だった。どうしてなのかと。どうして私を助けて引き止めるのかと。6年も続いた執拗な苦しみ。塗景、まだ足りないの?けれど、私はもう疲れてしまった。本当に、疲れてしまったんだ……心が枯れ果て、怒りを感じるのさえ、もはや苦痛だった。私が食事を拒む姿を見て、塗景は長く沈黙した。その後、塗景は表情を複雑に変え、やがてあの不気味な笑みを浮かべた。そして、ゆっく
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第10話
しょっぱい涙が、大粒になってこぼれ落ちる。それでも、胸の内の痛みは少しも和らがなかった。「死んで当然だからだ。お前たち沈家の連中は、みんな死ぬべきなんだ……生まれつきの卑しい命が!ああ、そうだ。お前の息子もな」塗景は言葉を切った。目尻を赤く震わせ、途切れ途切れに言い放つ。それなのに一言残らず、くっきりと私の耳に突き刺さった。「あいつも……この手で押し殺したんだ。死んだ時、全身が真っ青になっていたな。知っているか……」「塗景、この、人でなし!」込み上げる憎しみに、私は正気を失った。塗景が何を言っているのかもう聞こえない。ただ、その口が動くのが見えた。まるで地獄から命を奪いに来た鬼のように。青ざめた顔に牙をむき、おぞましい姿だ。久方ぶりの激しい恨みが心を満たす。脳内に一つの声が響いた。殺せ……仇を取れ……みんなの代わりに、報復するんだ。私は迷わず、袖に隠していた刃物を塗景の胸に突き立てた。ここ6年で幾度も繰り返してきたように。一瞬の躊躇いもない。だが、いつもとは違った。塗景は避けなかった。というか、最初から避ける気がなかったのだ。刃物が体に入ると同時に肉を裂く音が響き、血が飛び散った。まさかの成功に、自分でも驚きで息を呑む。しかし塗景は、どこかほっとしたような表情だった。口から血を吐きながら、いつもの冷酷な笑みを浮かべる。6年と2ヶ月間演じ続けた笑み。慣れ親しんだものだろう。胸には激痛が走るはずなのに。塗景は目の前で活力を取り戻した私を見つめ、どこか密やかな喜びに包まれていた。目尻から涙が一滴零れたが、言葉だけは強気だった。「もっと力を込めろ、沈卿雲。俺が憎いんだろう?俺を殺せば、一族の仇が討てるぞ……」あまりの刺激に精神が麻痺していた私は、もう塗景の言葉など耳に入らなかった。塗景だってかつては、月の光のように私の人生を照らした存在だった。梨の木の下で、塗景のために埋めたあのお酒のことさえも、今はそんなことも忘れている。思い出されるのは、暗い部屋で何度も腕を締め上げられた痛みと苦しみ。沈家のみんなが、ことごとく塗景に殺された記憶だけが心を支配していた。あの日も、今日のように風が冷たかった。気がつくと、私は塗景に何度も
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