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灯の影、眠れぬ夜

灯の影、眠れぬ夜

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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大昭国(たいしょうこく)で最も皇帝に慈しまれた姫君が死んだ。 亡骸が見つかったのは、北方を守護する鎮守、鎮北王(ちんほくおう)こと蕭聿城(しょう いつせい)の屋敷の奥庭。 七日も前に降り積もった雪がようやく溶け、霜で覆われた亡骸が姿を現すまで、姫君の死に気づく者は誰もいなかった。 その亡骸は、大きく膨らんだ腹を片手で庇い、もう一方の手を庭の外へと必死に伸ばすかのような姿のまま、凍りついていた。 だが、その声なき声に応える者はいない。 姫君は、その身に宿した新たな命と共に、吹雪の中で生きながら凍え死んだのである。 意識が遠のいていく最中、趙婉寧(ちょう えんねい)の全身を苛んだのは、燃えるような後悔の念だった。 人の心を持たぬ、氷のように冷たいあの男を愛してはならなかった。 自ら苦しみの道を選ぶべきではなかったのだと。 結果、我が子まで巻き添えにしてしまった、この世の光を一目も見せてやることなく。 もし、来世というものがあるのなら、もう二度と、あの男には関わらない……

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Chapter 1

第1話

大昭国(たいしょうこく)で最も皇帝に慈しまれた姫君が死んだ。

亡骸が見つかったのは、北方を守護する鎮守、鎮北王(ちんほくおう)こと蕭聿城(しょう いつせい)の屋敷の奥庭。

七日も前に降り積もった雪がようやく溶け、霜で覆われた亡骸が姿を現すまで、姫君の死に気づく者は誰もいなかった。

その亡骸は、大きく膨らんだ腹を片手で庇い、もう一方の手を庭の外へと必死に伸ばすかのような姿のまま、凍りついていた。

だが、その声なき声に応える者はいない。

姫君は、その身に宿した新たな命と共に、吹雪の中で生きながら凍え死んだのである。

意識が遠のいていく最中、趙婉寧(ちょう えんねい)の全身を苛んだのは、燃えるような後悔の念だった。

もし、来世というものがあるのなら、もう二度と、あの男には関わらない……

……

「何を泣く。婉寧、これこそがそなたの望んだことだろう!」

趙婉寧は首を締め上げられる痛みで意識を取り戻した。

目を見開くと、自分が生まれ変わたのに気づいた。

鎮北王、蕭聿城が薬を盛られたあの日に。

前世で、婉寧は聿城を深く愛していた。

初めて出会ったのは、大昭国で三年に一度開かれる秋の狩り場であった。

父である皇帝と義兄弟の契りを交わした異姓の王、聿城が馬を駆って現れた。

高く結い上げた髪に玉の冠を戴き、武官の礼装が鍛え抜かれた腰の線を際立たせる。

その姿は、居並ぶ人々の中でも一際目を引く存在だった。

その後、刺客が皇帝を襲い、最も寵愛を受けていた末の姫君である婉寧を人質に取った。

その時、一矢で刺客を射抜き、婉寧をその腕で救い出したのが聿城だった。

墨染めの外套が婉寧の体を包み込み、同時に、少女の恋心をも全て奪い去った。

成人を迎えた年、姫君は九つ年上の鎮北王に想いを打ち明けた。

しかし、それまで婉寧を慈しんできた聿城は血相を変え、幼子の気まぐれに過ぎず、ただの思慕と恋慕の違いも分からぬと厳しく叱責した。

翌日、鎮北王は皇帝に願い出て、北疆(ほっきょう)の地へと発つことを決めてしまった。

当時の婉寧もまた頑固で、皇居の門前で丸一日跪き続け、娘を溺愛する皇帝の心を動かし、ついに北疆へ向かう許しを得たのだった。

北疆に着いてすぐ、鎮北王邸の者たちは皆、婉寧に恭しく接した。

だが、屋敷で一ヶ月過ごしても、聿城に一度も会うことは叶わなかった。

そこで婉寧は、きらびやかな衣を脱ぎ捨て、質素な木綿の服をまとい、一介の民として北鎮軍に加わり、薬師となった。

軍に身を置いて三年目のこと。

聿城が軍内部の裏切りによって薬を盛られた。

婉寧は自ら主帥の天幕へ進み、その身をもって彼の薬を解いた。

翌朝、二人が衣を乱した姿でいるところを、彼の幼馴染であった女将軍、姜浅吟(きょう せんぎん)に目撃されてしまった。

浅吟は深く傷つき、目に涙を浮かべたまま馬で陣営を飛び出していった。

不運にも、浅吟は道中で敵軍の待ち伏せに遭い、絶壁まで追い詰められると、進むべき道を失い崖から身を投げた。

この日を境に、聿城はまるで別人のようになった。

彼は軍の者たちと共に浅吟の墓を立て、彼女に将軍としての追号を贈り、その後、皇帝に婉寧を娶る許しを請うた。

婚姻を認める勅命が北疆に届く頃、婉寧姫に関する噂が大昭中に広まっていた。

恥知らずにも皇帝の義兄弟を誘惑し、卑劣な手段で薬を盛ったのだと。

大昭一の女将軍であった浅吟を死に追いやっただけでなく、皇帝の権威を盾に、聿城に無理やり自分を娶らせたと。

婚儀の日、婉寧の腹はすでに膨らみ始めていた。

この間、彼女は腹の子を育むことだけに専念し、外界の噂に耳を貸すことなく、ただひたすらに嫁入り衣装の刺繍をしていた。

そして婚儀の日に初めて知ったのだ、聿城が、心の底から自分を憎んでいることを。

その日以降、大昭から、かつての寵愛された姫君の姿は消えた。

在るのはただ、鎮北王邸の奥に閉じ込められ、日夜虐げられる婉寧の姿だけだった。

嫁いでからの三年間で、婉寧は三人の子を失った。

最初の子は、生まれて三ヶ月も経たずに奥庭で亡くなった。

屋敷の薬師は、薬を用いて身ごもったがゆえに、たとえ無事に育ったとしても、おそらくは知恵遅れの子になっただろうと言った。

二人目の子は、妊娠四ヶ月で流産した。

その日は浅吟の命日で、婉寧は浅吟に供えた酒を誤ってこぼしてしまった。

その罰として、屋敷の女中たちに押さえつけられ、位牌の前で三日間も跪かされた。床は、流れた血で赤く染まっていた。

最後の子は、すでに八か月になっていた。

だが、北疆は百年ぶりの大雪に見舞われ、屋敷の他の建物は皆、前もって補強されていたにもかかわらず、彼女の離れだけが何の備えもされていなかった。

雪は一晩中降り続き、翌朝には北の地は晴れ渡っていた。

北疆の民は雪への備えに慣れていたため、都に大きな被害はなかった。

しかし、婉寧とその腹にいた子は、吹雪の中に完全に埋もれてしまった。

死後、魂となって宙を漂っていた婉寧は、聿城が死から戻った浅吟を、その腕に強く抱きしめる姿を見た。

屋敷の者たちも心から喜び、王様が願い続けた結果、天がその想いを聞き届け、ついに愛する人を返してくださったのだと噂し合った。

雪に埋もれて死んだ婉寧は、ただ二人の仲を裂いた邪魔者でしかなかった。

誰一人、気に留める者はいない。

死んでせいせいした。

天が憐れんだのか、婉寧が軍で三年間多くの命を救ったことを見ていてくれたのか、彼女は聿城が薬を盛られたあの日に、再び生を受けたのだ!

今世で、婉寧が望むことはただ一つ。

聿城と浅吟の二人を結ばせること。
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第1話
大昭国(たいしょうこく)で最も皇帝に慈しまれた姫君が死んだ。亡骸が見つかったのは、北方を守護する鎮守、鎮北王(ちんほくおう)こと蕭聿城(しょう いつせい)の屋敷の奥庭。七日も前に降り積もった雪がようやく溶け、霜で覆われた亡骸が姿を現すまで、姫君の死に気づく者は誰もいなかった。その亡骸は、大きく膨らんだ腹を片手で庇い、もう一方の手を庭の外へと必死に伸ばすかのような姿のまま、凍りついていた。だが、その声なき声に応える者はいない。姫君は、その身に宿した新たな命と共に、吹雪の中で生きながら凍え死んだのである。意識が遠のいていく最中、趙婉寧(ちょう えんねい)の全身を苛んだのは、燃えるような後悔の念だった。もし、来世というものがあるのなら、もう二度と、あの男には関わらない…………「何を泣く。婉寧、これこそがそなたの望んだことだろう!」趙婉寧は首を締め上げられる痛みで意識を取り戻した。目を見開くと、自分が生まれ変わたのに気づいた。鎮北王、蕭聿城が薬を盛られたあの日に。前世で、婉寧は聿城を深く愛していた。初めて出会ったのは、大昭国で三年に一度開かれる秋の狩り場であった。父である皇帝と義兄弟の契りを交わした異姓の王、聿城が馬を駆って現れた。高く結い上げた髪に玉の冠を戴き、武官の礼装が鍛え抜かれた腰の線を際立たせる。その姿は、居並ぶ人々の中でも一際目を引く存在だった。その後、刺客が皇帝を襲い、最も寵愛を受けていた末の姫君である婉寧を人質に取った。その時、一矢で刺客を射抜き、婉寧をその腕で救い出したのが聿城だった。墨染めの外套が婉寧の体を包み込み、同時に、少女の恋心をも全て奪い去った。成人を迎えた年、姫君は九つ年上の鎮北王に想いを打ち明けた。しかし、それまで婉寧を慈しんできた聿城は血相を変え、幼子の気まぐれに過ぎず、ただの思慕と恋慕の違いも分からぬと厳しく叱責した。翌日、鎮北王は皇帝に願い出て、北疆(ほっきょう)の地へと発つことを決めてしまった。当時の婉寧もまた頑固で、皇居の門前で丸一日跪き続け、娘を溺愛する皇帝の心を動かし、ついに北疆へ向かう許しを得たのだった。北疆に着いてすぐ、鎮北王邸の者たちは皆、婉寧に恭しく接した。だが、屋敷で一ヶ月過ごしても、聿城に一度も会うことは叶わなかっ
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第2話
服が聿城によって引き裂かれそうになるのを見て、婉寧は慌てて力を込めて彼を突き放し、素早く天幕から駆け出した。「寧女医(ねいじょい)、どうして出てきたのですか!聿城様の容態はどうなりました?」天幕の外を囲んでいたのは皆、蕭聿城の近衛兵だった。婉寧が出てくるのを見ると、一人残らず焦りの色を浮かべていた。「芳しくない。鍼では効果がなかった。すぐに姜副将(きょうふくしょう)を呼んできて!」婉寧は固く衣を掴んでいた。北の地の寒さが厳しく、厚着をしていたことだけが今の救いであった。「容態が悪いのに出てきてどうする?他人を呼びに行くなど、時間の無駄ではありませんか!」「万が一、聿城様の体に何かあれば、一軍医のそなたに責任が取れるのか?」体格の良い兵士たちが厳しい声で叱責するが、婉寧は一歩も動こうとしなかった。幸いにも、誰かが浅吟を呼びに行き、ほどなくして人を連れてきた。武人の装束に身を包んだ少女が馬から飛び降り、婉寧の前に立つ。彼女は訝しげに尋ねた。「寧女医、何のつもりだ?苦心して聿城の側仕えの軍医になったのは、王府に嫁ぎ、己の出世のためだろう?この機に乗じず、逆に私を呼びつけるとは、どういう意図だ?」風雪が重くのしかかり、婉寧はまるで死ぬ間際のあの日に再び身を置いているかのようだった。息もできぬほどの絶望が、彼女を襲う。指を固く握りしめ、婉寧は浅吟を見上げた。「貴女が早く入らなければ、中の御方は本当に危うくなる」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、天幕の中から苦痛を堪えるうめき声が聞こえてきた。浅吟は顔色を変え、鞭で婉寧を打ち払うと、すぐに幕を上げて天幕の中へと入っていった。まもなく、天幕の中から服が引き裂かれる音が聞こえてきた。聞く者の顔を赤らめさせるような音だ。男の低い唸り声と女の甲高い声に混じって、物が地に落ちる大きな音が響く。二人の激しさが窺えた。その愉悦の声は、まるで軒先から落ちる氷柱のように、婉寧の胸に突き刺さり、血肉を抉るかのようだった。「しかし、我らの王も随分と猛々しいな。この声を聞け……やれやれ」「中に入ったのが姜副将で幸いだったな。もし寧女医が残っていたら、あの細い体では、担ぎ出される頃には息もなかっただろう。そうなれば、高貴も何もない」「……」耳元で
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第3話
「ようございました、姫様、ようやくお心が決まりましたのですね!」素月は、自分が守り育ててきた姫が今の姿までやつれているのを見て、胸が張り裂ける思いで、その目にも涙を浮かべた。「陛下はとうの昔から、鎮北王は姫に相応しいお方ではないと仰せでした。姫様が意地を張らなければ、このような苦労をなさることもなかったものを。ですが幸い、姫様がお気づきになるのが早かった。都にお戻りになれば、陛下が自ら姫様のために良き婿君をお選びくださいます。さすれば都では陛下が後ろ盾となり、二度と姫様に指一本触れさせはしませぬ」その言葉に、婉寧の赤く腫れた目から再び涙が溢れ出た。前世で北疆に来る前、父である皇帝も同じように自分を諭した。だが、自分は聞く耳を持たず、宮門の前で跪いてまで恩典を乞い、北疆へとやって来て一生を無駄にした。死ぬまで、父の顔を二度と見ることはなかった。婉寧は固く拳を握りしめ、笑みを作った。「私がこれまで物分りの悪い娘であった。父上にご心配をおかけしたが、二度とはない」これより先、二度と聿城に執着することはない。もはや、その気力すら残ってはいない……薬舗を出た後、婉寧は再び馬車に乗って陣営に戻った。彼女の軍営での身分は正式に登録されているため、このまま素月と共に都に帰るわけにはいかない。北疆を離れるにしても、手元の仕事を全て片付け、負傷者への処置をきちんと済ませる必要があった。それに加え、辺境に関する重要な知らせを父に届けねばならぬ。婉寧が信頼できるのは素月だけである。そのため、筆を執って書状を一つしたため、素月に直ちに都へ持ち帰るよう命じた。あとは、もう少し待つだけでいい。自分を愛してくれる人が、迎えに来てくれるのを……家に、連れ帰ってくれるのを。もうすぐここを去れるのだと思うと、婉寧の心は少し軽くなり、ようやくかすかな笑みがこぼれた。しかし、天幕の幕を上げて中に入った途端、中に座っていた男と鉢合わせになった。聿城は中衣を一枚羽織っただけで、腹部にある一筋の傷跡を晒していた。視線を上に移せば、そこには数え切れぬ程の刻まれた痕があった。前世で聿城に幾度となく辱められた婉寧は、それが何であるかを当然知っていた。彼女の顔から笑みが凍りつき、素早く視線を逸らす。「なぜ、そなたが私の天幕
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第4話
婉寧は、軍営に来たばかりの頃に与えられた、あの小さな天幕に再び戻った。寝台一つの周りには、鼻を突く薬材の匂いが充満し、隅には洗濯を待つ血のついた包帯が積まれている。婉寧は、初めてこの天幕に来た時、どれほどここを嫌ったかを覚えていた。聿城に何度もねだって、ようやく主帥の天幕の隣に移ることができたのだ。今、再びここに戻ってきたが、心境は全く異なっていた。少なくとも、前世で死ぬ前に住んでいた場所に比べれば、ずっとましだ。吹雪の中で凍え死ぬことはないのだから。それから数日、婉寧は負傷者たちを他の者に引き継ぎ、毎日薬草採りの馬車について早朝に出ては夜遅くに戻り、ただひたすらに素月が都から迎えに来るのを待っていた。その数日、軍営はひどくにぎやかだった。婉寧がどこを歩いていても、聿城がいかに浅吟を慈しんでいるかという話が聞こえてきた。愛する人を一日も早く娶るため、聿城は最も近い吉日を選び、一月後には大婚の儀を執り行うという。そうは言っても、格式は少しも欠くことがあってはならぬ。姜家が浅吟のために用意した嫁入り道具が少ないと聞くと、聿城は特別に自らの蔵を開き、貴重な品々を姜家へ運び込み、浅吟の嫁入り道具とした。それに加えて聿城が贈った結納の品々を合わせると、この度の婚礼はまさに、世に二つとないほどの盛大なものと言えた。婉寧はただ静かにそれを聞いていた。時折、周りの者たちに合わせて相槌を打ち、王と王妃が末永く仲睦まじく、白髪になるまで添い遂げられますようにと、祝いの言葉を口にした。その日も、彼女はいつも通り早くから薬草採りの馬車について陣営を出ようとしていた。しかし、踏み台を踏んで馬車に乗り込もうとしたその時、手首に鋭い痛みが走った。聿城が彼女の細い手首を掴み、傍らへと引きずり下ろした。「ここ数日、我を避けているな?」「叔父様、そのようなことはおらぬ」婉寧は首を横に振った。聿城は黒く沈んだ瞳で彼女を見つめ、じりじりと追い詰める。婉寧が後ずさる場所もなくなった時、彼は冷たい声で口を開いた。「まだ無いと言うか?我が軍医でありながら、毎日薬草採りの馬車について早朝に出ては夜遅くに戻り、我を見ても挨拶しない。これが我を避けていると言わずして何だ?なぜだ?我が浅吟を娶るからか?」婉寧は慌てて
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第5話
燃え盛る炎の光が横顔を照らす中、婉寧は、聿城の顔に喜びの色はなく、むしろ一層険しさを増しているのを見た。自分が見間違えたのかと疑ったその時、聿城の氷のような声が突き刺さった。「芝居を続けろ!趙婉寧、よく覚えておけ。そなたがどのような手を使おうと、我が愛する者は浅吟たけだ!」怒りに満ちた声が婉寧の胸に重くのしかかり、息もできぬほどだった。その時、天幕の外から突然、急報がもたらされた。聿城の近衛兵が伝えたところによると、近くの村が蛮族の略奪に遭い、兵を率いて駆けつけた浅吟が、その中で包囲され、至急支援を必要としているという。それを聞くや否や、聿城の顔色が変わった。「すぐに薬箱を持って、我に続け!」彼は婉寧を一瞥すると、幕を上げて足早に去っていった。まるで、浅吟の身に何かあったらと、恐れるかのように。天幕の中の火はまだ消えていなかったが、婉寧の全身は、まるで雪の中に長時間いたかのように冷え切っていた。以前の聿城であれば、決して彼女を戦場に連れて行くことはなかった。たとえ戦が終わり、戦場を片付けるようなことであっても。一つの原因は自分の身分のためであり、もう一つは、自分が少なくとも彼の庇護の下で育った者だからだ。戦場に行って、不測の事態が起こらぬと誰が保証できよう。そのため、この三年間、自分はずっと軍営の中で、運び込まれてくる負傷者の手当てをしていた。聿城が自分を外に連れ出すのは、これが初めてだった。それは、ひとえに姜浅吟が傷を負い、すぐに治療を受けられぬことを恐れてのことだろう。婉寧は胸に込み上げる苦い思いを抑え、手際よく薬材を準備した。どうであれ、今の自分の身分は軍営の軍医だ。軍令は絶対である。最後の務めは、きちんと果たさなければならぬ。浅吟を案ずるあまり、聿城は先に兵を率いて村へ向かった。婉寧は、聿城の近衛兵と共に向かった。到着した時には、蛮族はすでに追い払われ、兵士たちは村人たちの事後処理を手伝っていた。婉寧は聿城の姿を探したが、見当たらないので、薬箱を提げて負傷者の手当てに向かった。しかし、一人の負傷者の手当ても終わらないうちに、呼びつけられた。浅吟が蛮族に切りつけられ、聿城がひどく動揺し、名指しで軍医を寄越せとのことだった。「早くしてください、寧女医。もし聿城
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第6話
その一撃は凄まじく、婉寧は地面に叩きつけられた。彼女の顔はみるみるうちに赤く腫れ上がり、口の中には血の味が広がった。婉寧は震える手で自らの頬に触れた。その平手の跡に指が触れた瞬間、涙が堰を切ったように流れ落ちた。前世と今世を合わせても、聿城が彼女を殴ったのは、これが初めてだった。彼女が顔を上げても、何もはっきりと見えなかった。視界は涙でぼやけ、ただ、自分を見下ろす一つの影だけが見えた。「まさか、寧女医が婉寧姫だったとは?なぜ姫が北疆の軍営におられるのだ」「聞いた話では、婉寧姫はずっと鎮北王を狙っていたそうだ。王はもともと都で安穏と過ごしておられたのに、姫のせいで辺境に戻られたのだとか」「彼女が婉寧姫なら、王のことを叔父様と呼ばねばならぬのでは?こ、これはまさか……」「皇室の顔に泥を塗るものだ!」「……」四方八方から聞こえてくる噂話に、婉寧はふと、前世の婚礼にいるかのような錯覚に陥った。誰からの祝福もなく、ただ冷たい嘲笑と皮肉だけがあった。恥知らずにも鎮北王に薬を盛り、大きな腹を抱えて王府に嫁いだと。世の倫理も顧みず、父である皇帝の義兄弟に嫁ぐと言って聞かなかったと。蛇蝎のごとき心を持ち、卑劣な手段で蕭聿城の想い人を謀殺したと……前世と今世の記憶が次第に重なり合い、魔の囁きのように婉寧の頭の中で鳴り響く。そしてついに、無数の声はすべて聿城の怒声へと変わり、雷鳴のごとく、婉寧の脳内で炸裂した。「趙婉寧、浅吟に謝罪しろ!」婉寧は腕を支えに、地面から立ち上がった。その両目は真っ赤に充血していた。「なぜ私が謝らねばならぬ?」前世では、自分が過ちを犯した。だから無惨な死を遂げたことも受け入れよう。だが、今世で、自分は一体何を間違えたというのだ?なぜ謝罪などせねばならぬ!凍てつくような冷たい風が四方から吹きつけ、ただでさえ華奢な彼女の体を、さらに頼りなく揺らした。しかし、彼女は倒れなかった。まっすぐに聿城を見据え、その瞳には反抗な光が満ちていた。「私は、しておらぬこと、間違っておらぬことについて、謝罪はせぬ!」聿城は怒りを抑えきれなかった。「姫という身分を笠に着て人をいじめておきながら、まだ自分が正しいと申すか?」その言葉に、婉寧は思わず笑い声を漏らした。自分が姫の
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第7話
再び目覚めた時、婉寧は自分が鎮北王邸に寝かされていることに気づいた。寝台の傍らには、厳しい表情をした聿城が座っていた。彼女が目覚めたのを見て、彼はようやく安堵の息を漏らした。「ようやく目が覚めたか」婉寧は驚いた。彼が、自分が死ぬことを恐れていたとでもいうのか?しかし、考え直すと、すぐに納得がいった。自分は少なくとも姫である。もし北疆で死ねば、父に申し開きが立たないに違いない。「後で浅吟が来る。きちんと彼女に謝罪し、礼を言うのだ。これ以上、わがままを言うな。此度の件、そなたが浅吟をいじめ、皆の行程を遅らせなければ、雪崩に遭うこともなかった。浅吟が兵士たちの前でそなたのために情けを乞うてくれたおかげで、そなたの罰は免れたのだ。丁重に礼を言え。そなたが我に邪心を抱いていることは知っている。だが婉寧よ、そなたと我の身分は、世が許さぬ。我は、自分より九つも年下の娘を好むことなどあり得ん。そなたと我は、永遠に結ばれることはない!」婉寧は寝台に身をもたせ、心中に無数の思いが巡った。しかし結局、それは長いため息へと変わった。「百も承知、叔父様……」彼女は本当に、もう彼を好いてはいなかった。聿城が望んだ通り、浅吟がやって来ると、婉寧は弱った体を引きずって彼女に謝罪し、そして礼を述べた。彼が望むことなら、自分は全てその通りにした。軍営の方も、聿城からもう行かなくてよいと言われた。今や誰もが彼女の身分を知っている上、此度の雪崩で数名の兵士が命を落とし、その責めは皆、婉寧にあった。今行ったところで、良い顔をされるはずもない。軍営では、彼女に関する様々な聞くに堪えない噂まで広まり始めていた……婉寧は思ってもみなかった。生き返ってもなお、自分はまたしても悪評紛々たる結末を迎えることになるとは。彼女は今、ただ父が自分を責めないことだけを祈っていた……そして、素月が早く来てくれることを願っていた。早く、自分を家に連れ帰ってくれることを……しかし、婉寧はついに素月を待つことはできなかった。王邸で数日療養している間、屋敷は聿城と浅吟の婚礼の準備で忙しく、彼女にかまう者はいなかった。婉寧は気楽でよかった。しかし、庭を歩けるまでに回復した翌日、何者かに殴られ、気を失ってしまうとは思ってもみなかっ
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第8話
縄が断ち切られた瞬間、聿城は疾風のごとく駆け寄った!彼は手を伸ばし、彼女を崖の上へ引き上げようとした。だが、それでも一歩遅かった。衣が引き裂かれる音がその掌に響き、彼はただなすすべもなく見つめるしかなかった。目の前の華奢な影がまっすぐに墜ちていき、深淵へと消えるのを!まるで咲いたばかりの月下美人が、一瞬にして散るかのように。墨色の長い髪が冷たい風に舞い、やがて霧の立ち込める谷間へと消えていった。その姿が完全に消えた瞬間、聿城の胸に、心臓が止まった。その瞳に映るのは、ただ天を揺るがすほどの激情。慈しみ育ててきた少女が、こうして崖に身を葬ったのだ。もう二度と、自分の後ろについてきて、わざと大きな声で大胆にその名を呼ぶ姫はいぬ。自らの手で彼女を見捨てたのだ。自分の姫を。一瞬、聿城は後を追って飛び降りようという衝動に駆られた。「聿城!気は確かか?ここは万丈の深淵だ。私と、この腹の子を見捨てるのか?」背後から抱きしめる腕が、聿城の動きを制した。聿城は硬直したまま目を伏せ、哀れなほどに泣きじゃくる浅吟を見て、その心はようやくゆっくりと平静を取り戻した。彼は手を伸ばし、浅吟を腕の中へと抱き寄せ、嗄れた声で言った。「すまぬ……」浅吟は泣きじゃくり、聿城の腰に固くしがみついた。「分かっているのだ、聿城。婉寧姫は、そなたの元で育った御方。あのように逝ってしまわれては、そなたの御心が安まらぬのも、無理はない……」その言葉に、聿城の胸は再び痛んだ。そうだ……自分の屋敷で育った少女を、なぜこのような危険な目に遭わせ、かくも無惨な死に方をさせてしまったのか?万丈の深淵では、おそらく亡骸すら……聿城は目を閉じ、それ以上考えることをやめた。考えたくもなかった。しかし目を閉じれば、脳裏に浮かぶのは婉寧の、血の気の失せた白い横顔だった。その澄んだ黒い瞳と同じように、何の感情も浮かんでいなかったはずなのに。死ねと言われても後悔はないかのように、静かだったのに。それなのに、聿城はそこに尽きることのない怨嗟を見た。まるで崖の底から蔦が伸びてきて、ゆっくりと絡みつき、自分の心臓を締め上げて殺していくかのようだった。息もできぬほどの息苦しさに襲われる。彼が目を開くと、その瞳は血のように赤く染ま
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第9話
丸三日間、軍営のとある天幕から血の匂いが消えることはなかった。あの日、鎮北王府にいた者は皆、下仕えの者であれ、衛兵であれ、一人残らず聿城による過酷な尋問を受けた。だが、聿城は依然として答えを得られずにいた。この三日間、彼が熟睡できた夜は一度もなかった。目を閉じさえすれば、脳裏に浮かぶのは婉寧が崖から墜ちる光景と、あの何の感情も浮かばぬ静かな横顔だった。彼女はまだ、あれほど幼かった。大昭の姫君であったというのに……あっけなく、この世から消え去ってしまった。聿城は三年前、北疆で初めてあの少女を見かけた時の光景を思い出していた。都にいた頃と比べて、彼女は痩せ、肌も随分と日に焼けていた。その姿に、聿城は腹立たしいやら可笑しいやら、複雑な気持ちになったものだ。自分が都の王府で、うまいものを食べさせ、何不自由なく育ててやったというのに。こともあろうに、命知らずにも自ら北疆まで来て苦労を味わうとは!少女が自分に抱いた戯れの思いを思うと、さらに腹が立ち、いっそ王府に放り出して勝手にさせておこうとさえ思った。だが、再び軍営で彼女の姿を見ることになるとは、予想もしていなかった。小猿のように腕白だった姫が、自分の前では何も恐れぬ様子だったくせに、軍営の軍医に叱責されると、声一つ上げられずにいた。どういうわけか、自分の前でだけは強情を張るのだ。相手にするのも億劫になり、いっそ放っておくことにした。軍営で少しは苦労を味わえば、姫君のことだ、屈辱に耐えかねて都に帰るだろうと考えたのだ。加えて、皇帝陛下から書状を受け取り、そこには姫の命の安全さえ保証すれば、あとはどのような苦労をさせても構わぬとだけ書かれてあった。それなら、自分はさらに潔く彼女を突き放した。だが、思いもよらなかった。都では薬を飲む苦さすら耐えられなかった姫が、軍営で三年間も耐え抜いたのだ。この三年間で、彼女は血の匂いを嗅いだだけで吐き戻し、おぞましい傷口を見ては恐ろしさで眠れなくなっていたのが、いつしか手際よく自分の傷の手当てをし、薬効を理解するまでに成長した。自分は、彼女が少しずつ変わっていく様を見ていたのだ。いっそ、この姫が北疆で一生を過ごすのも、悪くないかもしれないとさえ、思うようになっていた。いずれにせよ、叔父として、彼女
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第10話
聿城がただ予想だにしなかったのは、すでに三日が経過しているにもかかわらず、誰一人の口からも、いまだに僅かな情報すら得られていないということであった。かつて自ら育て上げた者たちが、これほどまでとは。精選して王府に配置した衛兵は、全員骨のある者ばかりだった。だが、その自ら育て上げた衛兵の中に、裏切り者がいたことまでは、さすがに予想できなかった。聿城は、此度は天幕の中へは入らなかった。ただ手を上げ、天幕の中から四人の男を引きずり出すよう命じた。蛮族どもがこっそり王府から人を攫い出せたからには、必ず手引きした者がいるはずだ。たとえ口の堅い者がいたとしても、他の所から必ずや手がかりは見つかる。この三日間、聿城はただ彼らに拷問を加えるのを眺めていただけではなかった。彼は人を遣わして、王府の者すべての人間関係を調べ上げ、最も疑わしい四人を引きずり出したのだ。あの日の当番によれば、ちょうど彼らがその刻に交代していた。そしてさらに偶然なことに、この四人の家では、賭博の借金を返済したか、あるいは無理をして布を買ったか……いずれも、ひどく困窮していたはずだった。目立たぬように振る舞ってはいたが、日々の暮らしのわずかな変化も、聿城が徹底的に証拠を探させた前には隠しきれなかった。四人は聿城の前に投げ出された時も、まだ弱々しく体を支え、歯を食いしばりながら何も知らぬ、ただ職務怠慢であったとだけ言い張った。「まだ口を割らぬか!」聿城は彼らの家族を全員連れてこさせた。全員が口を塞がれ、後ろ手に縛られて、彼らの前に引き据えられた。「そなたらが金を受け取ったのは、家族に良い暮らしをさせてやりたかったからであろう。だが、その金のために家族全員の命を失うことになったとして、それでもまだ価値があると思うか」聿城は赤く充血した目で彼らを見据え、その声はまるで周りの寒雪が染み込んだかのように冷たかった。彼の言葉が終わると、後ろに控えていた近衛兵が、跪く者たちの口に詰められた布を引き抜いた。途端に、泣き声が響き渡った。「父ちゃん!俺はまだ死にたくないよ。俺の命は妹を売ってやっと助かった命なんだって言ったじゃないか。死にたくないよ、うわぁぁぁ……」「息子よ!もう認めておくれ!お前が認めさえすれば、父ちゃんも母ちゃんも、弟たちも助
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