小林は言葉に詰まった。「ゆみ、自然には自然の法則があるんだ。爺さんも万能じゃない。それに、わしは陰陽の稼業をしているんだ。それをちゃんとわきまえないといかん」「つまり、お爺さんにもわからないことがあるってこと?」小林は黙ってうなずいた。「ボディガードをずっと外に待機させ、何かあったらすぐに対応してくれるようにしてくれない?」膠着状態が続く中、紀美子は晋太郎に言った。「君もここに残るつもりか?」晋太郎は不機嫌そうに紀美子を見た。「ゆみが心配だから、ここに残って一緒にいる」紀美子はうなずいた。二人の意志を変えられず、晋太郎も諦めるしかなかった。夜10時半頃。リビングでビデオ会議を終えばかりの晋太郎は、窓の外から鈍い轟音が聞こえてきた。彼の目が鋭く光り、心の中で警報が鳴り響いた。彼は真っ暗な窓の外を見上げた。晋太郎だけでなく、階上の紀美子も外の物音が聞こえ、ベッドが微かに揺れ始めたのを感じた。紀美子は慌てて眠っているゆみを抱き上げた。靴を履く時間も惜しみ、素足でゆみを抱えて階下へ駆け下りた。角を曲がったところで、晋太郎も階上へ駆け上がってきて、二人はぶつかりそうになった。紀美子を見た時、彼は一瞬驚いた。彼女の純粋な目に溢れる恐怖が、彼の心を締め付けた。晋太郎は我に返り、慌てて娘を抱き上げた。「階下へ行け!ボディガードは準備できているから、いつでも出発できる!」「分かったわ……」紀美子は晋太郎について階下へ降りようとしたが、少し歩いたところで立ち止まった。「晋太郎!」紀美子は慌てて彼を呼び止めた。「小林さんはまだ階上にいる!先にゆみを車に乗せて、私は小林さんを呼んでくる!」晋太郎が返事をする間もなく、紀美子は再び階上へ駆け上がった。屋外の音がますます大きくなる中、晋太郎は歯を食いしばり、ゆみを抱えたまま階段を駆け下りて家を飛び出した。門の外で待機していたボディガードがすぐに迎えに来た。「森川社長、山崩れです!すぐに離れないと!」「子供を先に連れて行け!」晋太郎は腕の中のゆみをボディガードに渡し、厳しい声で命令した。「社長!」ボディガードは焦った声で警告した。「山崩れの勢いは半端じゃないんです!急がないと、家ごと押しつぶされます!」「黙れ
階上には、まだ紀美子の姿はなかった。後ろからは、ゆみの悲痛な泣き叫び声が聞こえ、目の前には今にも流れ落ちてきそうな土石流が迫っていた。本当に紀美子を置き去りにして逃げるのか?記憶の中、彼女が病院のベッドに横たわり、傷ついている姿が彼の心に鈍い痛みを引き起こした。紀美子を置き去りにするなんて、そんなこと……彼にはどうしてもできない!もしそうしてしまったら、間違いなく後悔することになる。晋太郎はボディガードの手を振り払い、階上へ駆け上がろうとした。彼の後ろにいたボディガードたちは互いに目を合わせ、晋太郎に続いて前に出た。晋太郎がそばに近づいてくると、ボディガードの一人は素早く彼の首筋に一撃を加えた。「申し訳ありません、社長!」一瞬、晋太郎の目の前が真っ暗になり、そのまま気絶して倒れ込んだ。ボディガードたちは手際よく彼を車に担ぎ込んだ。車の中のゆみは、気を失った晋太郎を見て恐怖に震えながら叫んだ。「お父さんに何をしたの?」「お嬢さん、社長は一時的に気を失っただけです。すぐに目を覚ますでしょう。これ以上ここにいるのは危険です!」「やだ、お母さんはまだ上にいる!」ゆみは狂ったように叫んだ。しかし、ボディガードは問答無用に車を発進させ、その場を離れた。一方、ボディガードたちが晋太郎たちを連れて去った直後、紀美子は足首を捻った小林を支えて部屋から出てきた。階段を降りようとした時、隣の部屋から激しい衝突音が響いた。地面が揺れ、紀美子は階段から転げ落ちそうになった。何とか体勢を整えた彼女の青ざめた顔には冷や汗が滲んだ。「わしのことはいいから、先に降りなさい」小林は紀美子を軽く押した。「ダメです、小林さん!」紀美子は声を震わせて断った。「もう少し頑張ってください。車に乗れば安全です」紀美子は小林に反論する余地を与えず、二人は壁に寄りかかりながらできるだけ早く階段を降りた。しかし、一階に着いた時、開けっ放しのドアの外に車がないのに気づいて、紀美子の心は一瞬で冷え切った。晋太郎は……自分たちを置き去りにしたのか?「ゴォォォ——」後ろの山から、再び耳をつんざくような音が響き渡った。紀美子は窓の外を見て、体が鉛のように重くなり、動けなくなった。午前3時頃。
晋太郎はゆみの問いにどう答えるべきか迷った。紀美子が見つからず、彼の心は言いようのない悔しみに満ちた。彼は携帯でボディガードたちにすぐ村の状況を確認しろと指示した。そして、彼は部屋にいるボディガードにゆみを託し、自分も小林を探しにいくことにした。晋太郎はゆみの前にしゃがみ込んだ。「必ずお母さんを連れ戻してあげる。小林お爺さんさんもだ」彼はゆみの小さな手を握り、優しい声で言った。しかしゆみは首を捻り、晋太郎の視線を逸らした。晋太郎は無力にため息をつき、娘の手を離して客室を後にした。1時間後、晋太郎たちは村の近くに着いた。どんよりとした空からはまだ雨が振っていたが、昨夜のような激しい雨ではなかった。見渡す限り、村の作物はすべて水に浸かり、家屋はバラバラに崩れていた。小林の家まではまだ距離があるが、車はがれきの中を進めず、晋太郎たちは車を降りて歩いて向かうしかなかった。水の深さは足首まであり、茶色くて様々な浮遊物が浮かんでいる汚水を見て、晋太郎は顔を曇らせたがそのまま水の中に足を踏み入れた。「社長!」ボディガードが言った。「車の中にいてください。ここは汚いです」晋太郎は冷たい目で彼を見た。「これ以上ほざいたら、クビにしてやる」ボディガードはすぐに口を閉じた。20分ほどがれきの中を進み、ようやく小林の家に近づいてきた。障害物を片付けていたボディガードが突然足を止め、目の前に立っている古い家を見て叫んだ。「社長、小林さんの家がまだ残っています!」晋太郎は急に目を上げた。周りの家々はすべて崩れ去っていたが、小林の家だけが無傷で残っていた。彼は心臓の激しい鼓動を抑え、道を塞いでいるボディガードを押しのけ、水の中を足早に小林の家の前にたどり着いた。開け放たれた扉の中には、多くの村人たちがいた。小林もその中にいたが、紀美子の姿は見当たらなかった。庭にいた村人たちや小林は突然に現れた晋太郎を見つめた。「小林さん、紀美子は?」彼はまっすぐ前に進み、小林に尋ねた。「紀美子は二階にいる。村人の救助で疲れ果てていたから、休ませておいた」晋太郎はうなずき、階段を上がっていった。紀美子が寝ている部屋の前まで来ると、晋太郎はドアをノックした。「どなたですか?」すぐに
晋太郎の話を聞いて、紀美子の怒りと失望が次第に薄れていった。彼女は晋太郎が昨夜の状況をこんなに真剣に説明してくれるとは思わなかった。以前の彼だったら、面倒くさがって何も話してくれなかっただろう。それが今は……「どうしてそれらを教えてくれたの?」紀美子は彼を不思議そうに見つめ、試すように尋ねた。晋太郎も一瞬戸惑った。自分は紀美子に対して感情を持っていないのに、なぜこんなに慌てて説明したのだろうか?彼女との間には、一体どんな過去があったのか?「俺はただ、誤解されたくないだけだ」しばらく沈黙した後、晋太郎は気を取り直して言った。紀美子は目を伏せ、再び失望が浮かんだ。「そうなのね、あんたはただ自分のことを証明したかっただけで、私を心配してくれたわけじゃないんだ……」彼女は低い声でつぶやいた。彼女の言葉は、晋太郎にはよく聞こえなかった。「ゆみが待っている。小林さんと一緒にホテルに行こう」彼は話題を変えた。「分かった、少し準備するから、下で待ってて」紀美子は淡く返事した。10分後、紀美子は階下で小林を見つけた。「小林さん、ゆみが心配してるから、一緒に会いに行きましょう」紀美子は勧めた。小林は首を振った。「いや、村人たちが行き場を失っている。わしが家を離れたら、彼らは外で寝ることになってしまう」紀美子がぎっしりと座っている村人たちを見て何か言おうとした時、晋太郎が先に口を開いた。「村人たちの食事と宿は俺が手配する」晋太郎は言った。「今の村はこんな状態だ。物資が届くまで待つより、俺と一緒に離れた方がいい。ボディガードに車を手配させて、送迎させるから」紀美子は晋太郎が自分の考えと同じことを言ったことに驚いた。彼女が手を差し伸べたのは、村人たちがいつもゆみに優しくしてくれたと聞いたからだ。しかし、何も知らない晋太郎がここまで村人たちを助けようとするのは、本当に意外だった。彼は決して情に厚い人間ではなかったからだ。残りの村人たちを集め、晋太郎はボディガードにバスを手配させた。同時に、町の宿泊施設と食事の手配も整えた。出発の準備をしている時、晋太郎はしばらく紀美子を見つめた。「外の水は汚い。俺が君を背負って出る」それを聞いて、紀美子の耳が少し熱くな
ホテルに着くと、晋太郎は先にシャワーを浴びた。紀美子と小林はゆみと話をしていて、晋太郎が出てくると、小林は口を開いた。「晋太郎さん、今回の村人たちの救助の恩は、わしたちには返しきれない。実は政府も援助してくれるはずで、お主がこんなにお金を使う必要はなかったかもな」晋太郎は髪を拭きながら、小林をソファに座らせた。「正直に言うと、俺がそうしたのはゆみがここにいる間、誰かに面倒を見てやってもらいたいからだ」小林はうなずいて理解を示した。「小林さん、あなたが占いができるなら、一つ占ってもらえないか?」小林は晋太郎が占いを頼んでくるのに驚いた。「どんなことかな?」小林が尋ねた。「塚原悟という男を知っているか?」小林は深く彼を見つめた。「はて、一体何のことかな」「その男は俺の仇だ。彼の結末がどうなるか、占ってもらいたい」晋太郎は説明した。「彼の結末は、もうお主の手の中にあるのではないか?」晋太郎は眉をひそめ、小林の言葉をじっくりと考えた。「お主が何を気にしているかは分かっておる。お主は今は記憶が戻っておらず、何をするにも落ち着かない状態だろう」小林は晋太郎の心の焦りをズバリと言い当てた。「その通りだ」晋太郎は言った。「だからこそ、こんな質問をしたのだ」「お主の能力は計り知れん。その人にどこまでやるかは、お主次第だ」そう言って、小林は水を一口飲んでから話をつづけた。「何もしなくても、悪事を働いた者は自業自得。怨みはいつまでも続くものだ。復讐というのは、わしから見れば、ただ心のバランスを取るためのものに過ぎん」「あんな野郎に俺が手を下す必要はない。ただ、奴がやったことに対する代償を払わせるだけだ」「お主はもう決心しているようだな。ならば、その通りに進めばいいだろう」しばらくして、小林は自分の部屋に帰った。彼が去るとすぐに、田中晴から電話がかかってきた。「晋太郎、大丈夫か?村が大雨で土砂崩れがあったって聞いたけど」電話を取ると、晴は焦った声で尋ねた。「問題ないが、帰りは数日遅れる」晋太郎は寝室のドアを眺めた。「それならいい。娘と将来の奥さんと一緒にゆっくりしてくれ。MKには俺がいるから、何かあればすぐに連絡する」「誰が将来の奥さんだ?」晋太郎の顔
彼に否定できないのは、紀美子は確かに美しい。しかし、そんな容姿の女性は、他にいないわけではない。将来の妻?晋太郎は唇を歪ませて冷笑し、自分は彼女に対する気持ちはまだそこまで達していなかった。……三日後。空港はすでに運航を再開し、村も政府の支援の下で再建が始まった。小林の家は無事だったので、紀美子は安心してゆみを彼に預け、晋太郎と共に帝都への飛行機に乗った。五時間後、二人はようやく帝都に到着した。紀美子たちが空港を出ると、一つ見覚えのある人影が見えた。紀美子は一瞬驚き、すぐに声をかけた。「龍介さん?」紀美子の声を聞いて、晋太郎も彼女の視線を辿って龍介を見た。龍介は振り返り、紀美子に淡く微笑んだ。「やっと戻ってきたね」その一言で、晋太郎は思わず眉をひそめた。彼はわざわざ帝都まで迎えに来たのか?紀美子は龍介の前に歩み寄った。「龍介さん、どうしてここに?」龍介の視線は晋太郎の方をさりげなく掠めた。しかし、その視線は晋太郎の目には挑発的ものに映った。「私も帝都に着いたばかりで、一緒に食事でもと思ったんだけど、君の携帯が圏外だったんだ。それで佳世子さんに電話したら、君も昼に帝都に着く便だと聞いた。いきなり現れて驚かせたかい?」紀美子は慌てて首を振った。「そんなことないよ。龍介さんが来てくれるなんて、むしろ私がご飯を奢ってあげるべきだわ。ちょうど、食事がまだだし、一緒に行きましょう」そう言って、紀美子は晋太郎に意見を求めるように見た。晋太郎は反射的に断ろうとした。彼は龍介と別に親しくないし、一緒に食事をする必要はない。それに、ここ数日帝都を離れていたので、手元の仕事も山積みだった。しかし、紀美子と龍介が以前から親しく、さらには身体接触まであったのを思い出すと、口にしかけた拒否がなぜか「いいよ」に変わった。彼がその言葉を口にした瞬間、心には後悔がよぎった。自分は何を承諾したんだ?龍介は穏やかに笑って言った。「森川社長が私たちと一緒に食事をするなんて、思ってもいなかったよ」晋太郎は唇を歪ませた。「ただ飯食えるなら食べなきゃ損でしょ?」「さすがはMKの会長、ただ飯にありつけるとはね」龍介はわざと皮肉を込めて言った。「龍介さんだって同じでしょう」
「ありがとう、そんなに細かく気を使ってくれるなんて」紀美子は気まずそうに言った。「年下の女性に、少し気にかけるのは当然だよ」龍介はそう説明した。二人の会話を聞きながら、晋太郎は心の中で冷笑を繰り返していた。一緒に食事に来てよかった。そうでなければ、この二人がここまで話を進めて、次に何が起こるかわからなかっただろう。二人の関係がさらに発展するかもしれないと思うと、晋太郎の気持ちはまるでアリに蝕まれたかのようにざわめいた。手の届かない所の痒みが混ざった痛みが走り、どうしようもなかった。晋太郎から発せられる冷たいオーラを感じて、紀美子は慌てて話題を変えた。「龍介さん、今日帝都に来たのは何か重要な用事があるの?もし私に手伝えることがあれば、遠慮なく言ってね」「実は、丁度二件ほど頼みたいことがあるんだ」龍介は言った。「はい」「翔太さんが今、渡辺グループに戻ったと聞いたんだけど、渡辺グループには石油関連の産業がいくつかあってねだから森川社長に紹介してもらって欲しいんだ、協力できるか話したい」紀美子は驚いた。龍介と協力したい人は数えきれないほどいるのに、なぜわざわざ兄と協力したいんだろう?それに、渡辺グループが石油関連の産業を持っているとしても、大量に購入する必要はない。その話は、どう考えても不自然過ぎていた。晋太郎は一目で龍介の意図を見抜いた。「女性を追い求めるために、わざわざ相手の家族にまで手を伸ばす人なんて初めて見た。何だそれ?自分だけでは力不足だから遠回りに攻略しようとしてるのか?」「森川社長がそう曲解するなら、私は何も言えないよ」龍介は軽く笑って説明した。「他に適切な理由があるのか?」晋太郎は反問した。「森川社長に説明する必要はないと思うが、どうしてもそう思うなら、否定もしない」「……」この二人は一体何を言っているんだろう?協力の話がどうして男女関係の話になっているんだ?それに、自分はもう龍介にはっきりと話したので、彼はもうそちらの考えは持っていないはずだ。晋太郎は一体何をしようとしているんだ?「ちょっと、人の考えを曲解しないでくれる?」紀美子は不機嫌そうに彼を見た。晋太郎は彼女を一瞥し、皮肉を込めて言った。「君はそんなに追い求められることが好
龍介と隣人になれることは、紀美子にとって当然嬉しいことだった。そうなれば、これから紗子ちゃんが遊びに来るのも便利になる。「別荘地の管理事務所に聞いてみるね」紀美子は龍介の頼みを引き受けた。「紗子ちゃんは帝都に転校してくるの?」紀美子が笑顔を見て、晋太郎は思わず横から口を出した。「彼の気持ちは全部顔に書いてあるのに、まだ気づかないのか?」「森川社長」佳世子が先に横から口を挟んできて、わざと興奮した口調で尋ねた。「あんただって龍介さんが紀美子のことが好きで、彼女を追い求めているとわかってますよね?」晋太郎は眉をひそめた。「俺は目が見えないとでも?」「それはよかった!」佳世子は両手で紀美子の肩を押さえ、彼女を龍介の方に押しやった。「森川社長も、紀美子と龍介さんが夫婦顔だと思ってるでしょ?」晋太郎の顔は明らかに曇った。彼の顔は緊張で冷気を放っていた。佳世子はさらに刺激を加えた。「森川社長、龍介さんの行動に気づいたなら、彼の人柄もわかってるでしょ?龍介さんはハンサムで、お金持ちで、性格も良く、何よりも人を気遣うのが上手なの!紀美子が彼と結婚すればきっと、とっても幸せになるよ!そう思わない?森川社長!私が言うなら、森川社長は三人の子供を連れて帰って、紀美子は龍介さんとの間に新しい子供を作ればいい!」そう言うと、佳世子は興奮して紀美子の手を握り、目を輝かせながら言った。「紀美子、龍介さんとの子供の顔立ちがどれだけ素敵か、楽しみだわ!」紀美子は一言も挟むことができず、佳世子の話を遮ることができなかった。佳世子の口が完全に止まった後、紀美子は彼女の手を握り、声を抑えて言った。「佳世子、そんなこと言わないで!」そう言いながら、紀美子はすでに曇り切った顔をした晋太郎を見た。彼女は説明したかったが、佳世子は彼女の手をしっかりと握り返した。次の瞬間、晋太郎は椅子から立ち上がった。「彼らがお似合いだというなら、俺は彼らが末永く幸せになることを祈るよ!」この言葉を残すと、晋太郎は個室を出て行った。ドアがバタンと閉まり、紀美子の心臓もそれに合わせてドキッとした。「あんた、今日はどうしたの?」彼女は困った目線で佳世子を見た。佳世子と龍介は目を合わせ、そうした理由を口にしなか
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く