夜。 紀美子は病院に松沢を見舞いに行った。 エレベーターを降りたところで、医者と話をしている晋太郎に出くわすとは思っていなかった。 紀美子は反射的に身を翻そうとしたが、あの男の冷たい視線が既に彼女に向けられていた。 仕方なく、紀美子はそのまま進み、晋太郎とすれ違う際に軽く会釈をした。 「お嬢さん、少しお待ちください」 突然、晋太郎と話していた医者が流暢でない日本語で彼女を呼び止めた。 紀美子は立ち止まり、振り返って「何かご用でしょうか?」と尋ねた。 医者は前に出て、手にしていた報告書を紀美子に渡した。 「これは松沢初江さんの報告書です。それから、森川さんからの依頼で、再度の開頭手術を行えるかどうか相談したいとのことです」 紀美子は報告書を受け取り、中を見ると全てドイツ語で書かれていた。 これでは読めない。 紀美子は視線を上げ、晋太郎を見ると、彼は黒い瞳に少しの嘲笑を含ませ、興味深そうに彼女を見ていた。 これは故意だろうか? わざと彼女が読めない報告書を持たせ、彼に助けを求めさせるために? 紀美子はあえて彼には頼らず、直接医者に向かって言った。「読めませんから!大まかにどういう状況か教えてください。どうして再度開頭手術をする必要があるのですか?」 晋太郎の表情が一瞬で曇った。 彼女に自分から話しかけさせるのがそんなに難しいのか? 医者が話す内容と報告書に違いがあるかもしれないことを恐れないのか? 「本来なら、松沢さんが植物人間になるはずはないのです。CTにも異常はありません。 「だから、さらなる検査をして原因を探したいのです」医者は率直に言った。「リスクはどの程度ですか?」紀美子はさらに尋ねた。「松沢さんが目を覚ます可能性はありますか?」「リスクは確実にありますし、目を覚ますかどうかは保証できません」「保守的な治療は?」紀美子は再び尋ねた。「この長い時間、全く反応がないのを見ましたよね。「ですが入江さん、私はとても気になるのですが、彼女の開頭手術を誰が行ったのでしょうか?」医者はため息をついて言った。紀美子は一瞬言葉に詰まった。松沢さんの手術は悟が行った。悟が松沢を害するなんてあり得ない。松沢は彼にとても親切にしていたから。そんな考えが浮かんだ瞬間
「入江さん、あなた……」医者は重々しくため息をついた。「森川さんは松沢のことをとても心配していますから、あなたにあんな風に言われたら、誰だって悲しくなってしまいます」入江紀美子は相変わらず心配な顔をしているのを見て、医者はまた口を開いた。「松沢さんの病状は実に変わっています、どの外科医でもこんな手術を簡単にできるのに、通常ならこんな状況になるはずがありません。」紀美子は深く息を吸って、「ではもしそれが心理的な要素によるものだったら?」と尋ねた。医者は眉を寄せ、「その確率は極めて低いです」と答えた。イラついた紀美子は頷き、「分かりました。でも私はやはり保守治療をお願いしたいです」医者は相手が自分の意見を受け入れようとしないので、振り向いてその場を離れた。紀美子は松沢初江の病室に入り、真っ白な顔をしていた初江をみて暫く躊躇った。最後、彼女は塚原悟に電話をすることにした。暫くすると、悟は電話に出た。紀美子は休憩エリアに行って口を開いた。「悟さん、初江さんの手術はあなたが引き受けたの?」「私は執刀医ではなく、助手だった」悟は単刀直入に聞いた。「何かあったのか?」その答えを聞いた紀美子は、取り合えず安心した。「東恒病院の外国人の医者さんは初江さんにもう一度開頭手術を勧めているの」紀美子は言った。「君はどう思う?」と悟は聞き返した。「私は素人だから、あなたの意見が聞きたい」「彼達は君にこう勧めているなら、きっとそれなりの自信がある」悟は言った。「初江さんが早く目が覚めるといいな」紀美子「分かった、アドバイスありがとうね」「いいえ」電話を切って、紀美子は森川晋太郎に言った酷い話を思い出した。悟は執刀医ではないこと、彼はきっと知っていた。ならば彼女が言ったことは、確かに酷かった。暫く躊躇ってから、紀美子は晋太郎のメールアドレスを探し出して、一通のメッセージを編集した。「酷いことを言ってごめん、初江さんのことを心配してくれてありがとう」メッセージを送信してから、紀美子は何かが足りないと思って、また一言を追記した。「特に変な意味ではなく、単純に自分が酷いことを言ったから、謝りたいだけ」メッセージが届いた頃、晋太郎は車に乗ったばかりだった。2通目のメッセージを読んで、彼の
電話の向こう側にて。田中晴は電話を切ると、杉浦佳世子は一本の酒を彼の前にポンと置いた。明らかに酔っぱらった佳世子は聞いた。「晴、何電話してんのよ?まさか逃げようとか思っていないよね?」晴は無力に佳世子を見て、「まさか、俺はそんなことをする人間か?謝ると言ったからには必ず謝るって」「謝れば済むとでも思ってんの?」彼女はフンと蔑み、「あんたを殺してから謝ってみる?」「君はそれができると思ってるのか?人を殺したら刑務所に入れられるよ」「おや?!佳世ちゃん?」晴の話が終わった途端、1人の爽やかなタイプの男が目の前に来た。その人はせいぜい20代になったばかりのようで、かなり幼い顔をしていた。佳世子は晴の話をそのまま無視して、両目を光らせながら立ち上がって若い男性に話かけた。「あら、あんたもここにいたのね!ちょうどいいタイミング、一緒に飲もう!」佳世子は気前よく自分だけの知り合いを晴との飲み会に誘った。晴の表情は曇った。男は晴を見て、大きな声で佳世子に聞いた。「こちらの方は?」佳世子「あっ、ただのおっさんよ、すっごく酒が弱いし練習相手にもならないから、気にしなくていい」晴は思わず口を広げ、何で彼女におっさん呼ばわりされなきゃならないのだ??酒が弱い、だと?彼はただ彼女に気を使っていただけだ!それに、1人の男に声をかけた傍から、もう1人の男を飲みに誘った?彼1人じゃあ物足りないのか?晴はイラついてテーブルに置いていた酒をとり、自分のグラスに一杯を注ぎ、そして佳世子に言った。「佳世子」佳世子は振り向いて、「なに?」と聞いた。「酒を飲むんだろ?」晴は佳世子のグラスに乾杯して、「今日はどっちが先にくたばるのかみてみようじゃないか」藤河別荘にて。別荘に帰って、入江紀美子は子供達を寝かせてから自分の部屋に戻った。時間はまだ夜9時だったので、紀美子は息子に電話をかけた。その頃の森川念江は恐る恐るとリビングのカーペットに座っていた。お父さんは今日どうしたのだろう、急にパズルを買ってきて一緒にやろうと誘ってきた。別にパズルは嫌いではないし、お父さんと一緒に遊ぶのも嫌いじゃない。でもなぜかお父さんが怖い雰囲気をしていて、まるで誰かと喧嘩でもしたようだ。パズルを並べる時でも何だか
森川晋太郎の鷹のような鋭い目つきを浴びながら、森川念江は緊張して携帯を握り緊め、「どんな質問?」と聞いた。「例えば佑樹とゆみの話とか」入江紀美子は少し戸惑った、なぜ息子の反応が遅いのか?声も低くて、いつもの嬉しそうな口調で彼女と喋っていなかった。念江は心の中で「ドキン」として、「いいえ、お母さん」紀美子「そっか、ならいいわ。これは私達の秘密、お母さんは念江くんならきっと秘密を守ってくれると信じてるから」その話を聞いた晋太郎は、再び携帯を念江に見せた。携帯画面に書かれた文字を読んで、念江の顔色が急に変わった。彼は震えた声で、「お、お母さん、いつになったらお父さんに祐樹くんとゆみちゃんの身の上を教えるの……」紀美子は眉を寄せた。違う、念江の情緒はおかしい!しかもいつも電話する時より質問が多い。紀美子はすぐに晋太郎を連想した。彼は念江の傍にいる可能性が高い!紀美子は冷静で答えた。「念江くん、たとえ佑樹とゆみがあなたと血縁関係がなくても、彼達はあなたの兄弟に変わりはないわ」母の返事を聞いて、念江はほっとした。幸い、お母さんはおかしいと気づいてくれた!念江「分かってるよ、お母さん」紀美子「それじゃ、電話を切るね」「うん、おやすみ、お母さん」携帯をしまい、念江は質問をされる準備が出来ていた。しかし不思議なのは、父から何も聞かれなかった。父に黙って母と連絡をとっていたことも怒られなかった。念江はこっそりと晋太郎を覗いたが、父の顔色は前より大分悪くなっていた。3日後。渡辺邸にて。狛村静恵は電話の着信音に起こされた。彼女はイラついて電話に出た。「誰よ、こんな朝っぱらから?!」相手は、「狛村さん、前頼まれた件に進展がありました。」と言った。その声を聞いた静恵はすぐに思い出した。彼女はMKの元同僚に頼んで、技術部で晋太郎が人探しをしていたことについて情報を探ってもらっていた。静恵は眠気を一掃して体を起こして、「どうだった?」と聞いた。「森川社長が探していた女は、どうやら社長と随分と関係が深いらしいです。あとで写真を携帯に送りますけど、約束してくれた報酬ですが……」「ちゃんと払うわよ、けどあなたも,その女は晋太郎さんとはどういう関係なのか、続けて探してもらうわ」
狛村静恵はドアを押し開け、携帯を持ってまだベッドに座っていた渡辺野碩の傍にきた。彼女は指で写真の中の女性を指して、「お爺様はこの女性をご存知ですか?」と尋ねた。野碩は携帯を手に取り、目を細めて写真を細かく確認した。彼は一目を見て考え込んだ。「見覚えがある、だが具体的にどこで見たのかは思い出せん」静恵「晋太郎さんと関係のある人で、彼の書斎の引き出しの中で見たことがあります」「なるほど」野碩はもう暫く写真を見て、そして首を振って答えた。「わしは思い出せん、静恵ちゃん」静恵は焦ってきて、更に野碩に頼んだ。「もう少しちゃんと見てください。もしかして晋太郎さんの親戚か何かかな?」「静恵ちゃんよ、彼は人探しをしているのは分かるが、なぜお前まで焦っているのだ?」野碩はそれ以上見ても分からないと思い、携帯を静恵に返した。静恵「私も彼のことを思っていますから、彼の代わりに焦っています」野碩「あいつのことには、一切かかわってほしくない。わしはもう少し休んでるから、君は出ていい」静恵の眼底に一瞬イラつきが浮かんだ。このクソジジイが、思い出せないなら見おぼえがあるなんて言うな!期待して損した!人は年をとると使い物にならなくなる!やはり自分で探さないと!藤河別荘にて。入江紀美子は子供達を学校に送ろうとしたら、白川友里子に止められた。「行かないで」友里子は乞うような眼差しで紀美子を見て、彼女の手を掴んで放そうとしなかった。紀美子は戸惑った、友里子はこれまでずっと大丈夫だったのに、今日はなぜ行かせてくれないのだろう?彼女は少し離れていたところの秋山先生を見た。秋山先生は近くに来て、「白川さんは最近ただ後ろの庭で散歩していただけだから、恐らく外に出たいと思っているかもしれません。たまには環境を変えて気晴らしをすれば体の回復の役に立つかもしれません」と言った。紀美子は仕方なく、友里子を慰めた。「友里子さん、外に連れていってもいいけど、ちゃんと私のいうことを聞いて、大人しく私の傍にいてくれる?」友里子は「本当にいいの?」と目が光った。入江ゆみは友里子の足を抱え、小さな頭をあげて言った。「おばさん、お母さんが外に連れて行ってくれるって、よかったね!お母さんはね、忙しすぎて滅多に私とお兄ちゃんを外に
「友里子さん、上は人が多くてうるさいから、下に残ってね。秋山先生とボディーガードに周りを散策とかお菓子を買いにつれて行かせてあげるから、いい?」「うん」白川友里子は大人しくまた車に戻った。入江紀美子は秋山先生に、「先生、お願いね、必ず友里子さんを見ておいて、絶対見失ったりしないで」と念を押した。「任せて、入江さん」秋山先生は約束してから、ボディーガードと一緒に友里子を散歩に連れて行った。秋山先生はボディーガードに遠くまで行かせず、会社の近くで車を止めさせた。彼女は友里子を近くのコーヒーショップに連れていき、コーヒーを飲むことにした。友里子は店にあった美味しい物を殆ど一通り注文して、秋山先生に言われたレモン水も忘れずに注文した。もうすぐ11月なので、昼間の気温はそれほど暑くなく、太陽の光を浴びるのに最適だった。秋山先生は友里子を連れて店の外の席に座って紀美子を待っていた。しかし、彼女達から少し離れた所に、ハイヒールを履いた狛村静恵が車を降りた。静恵はボディーガードに待つように指示した時、横目で白い服を着た姿を見かけた。そして彼女が無意識に見てみると、相手が見えた瞬間、彼女はいきなり視線が凍った。あれは……森川晋太郎が探している人じゃない?!静恵は慌てて車に戻り、友里子の動きを見つめた。ボディーガードは疑惑して、「狛村さんは会社に行かないのですか?」と聞いた。静恵は彼を睨んで、「うるさいわ、指示がなければお前は黙って待ってればいい!」と不満に言った。ボディーガードは悔しそうに視線を戻した。静恵は指を噛んで、しっかりと友里子を見張った。そこはMK社の近くだが、晋太郎の部下はよくも自分たちが探している人はすぐ傍にいると気づかなかったのか??友里子の動きに合わせて、静恵は携帯でその画面の写真を撮った。静恵はその写真を晋太郎に送るかどうかで迷っていたうち、紀美子は電話をしながら彼女の車の前を通った。静恵は一瞬動きが止まり、紀美子が微笑んでコーヒーショップの前であの女性と会話するのが見えた。なぜ紀美子が晋太郎が探している人を知っているのか??晋太郎は彼女を探している、通常なら紀美子はそれを知っているはずだ。しかし明らかに晋太郎は自分が探している人は紀美子の傍にいるのを知らなかった
入江紀美子は少し困ったが、やはり息子には合わないと気づいた。入江佑樹は男の子で、しかも並みの子供より賢い。彼にとってこのような読み聞かせは面白くなかったのだろう。紀美子は入江ゆみの顔を撫でて言った。「ゆみちゃん、今日はここまでにしよう。今度は違うのを読んであげるから。時間ももう遅くなったし、明日まだ学校があるから、寝ようね」ゆみ「うん、分かった。お母さん、お休み。夜更かししちゃだめだよ」「うん、おやすみ」紀美子は電気を消し、子供達の寝室を出て部屋に戻った。白川友里子はもう自分1人で寝れるので、ここ数日紀美子と一緒に寝なかった。紀美子はベッドで横になり、横に置いていた携帯でニュースを見ようとした。携帯を立ち上げたら、森川晋太郎からのメッセージが目に映り込んだ。紀美子は少し戸惑い、彼はなぜ自分にメッセージを送ったのだろう。メッセージを開くと、露間朔也がセクシーな女の子を抱えている写真だった。紀美子は晋太郎に、これのどこが問題なのだろうか?それに、その写真を送ってきて何が言いたいかを聞いた。彼は朔也の私生活まで横から指摘するつもり?紀美子は晋太郎に返信した。「森川社長、ちょっとくだらないとは思いませんか?」返信のメッセージを読んだ晋太郎は、顔色が酷く変わった。彼は朔也の品行を彼女に注意しているのに、なぜ「くだらない」と言われたのか?晋太郎は怒りを帯びて携帯の画面をタップして返信した。「お前は男を探す時は気をつけるべきだと思わないのか?でないと体も金も騙し取られるぞ!」紀美子はあざ笑い、「私がどんな男と付き合おうが、あなたと関係ないでしょう?それに、あなたは人を見る目はあるの?確か前までは狛村静恵のような女とイチャイチャしてたよね?」晋太郎はメッセージを読んで、顔が真っ黒になり、「だが私は状況を把握してから正確な判断ができる!その写真を見せたのは、露間が言っていた母親の結婚式はただの口実に過ぎなかったことが言いたいだけだ!本当に結婚する人は、彼なのかもしれん!」朔也がセクシーガールと結婚する?それは有り得ない。朔也は結婚しない主義だ。朔也の母親が結婚することまで知っているとは、晋太郎はどれだけ暇なのだろうか。紀美子「結婚するのは彼であったとしても、何なの?私と彼との関
「あなたは自ら住み込んできたし、それに、会社は私一人だけのものじゃないわ」入江紀美子は笑いながら冗談交じりに言った。「なんて薄情な女なんだ!」露間朔也は言った。「そう言えば、最近会社はどうだ?」「うまく行ってるよ、あなたがいなくてもちゃんと回れてるし」紀美子は続けて冗談を言った。朔也「分かった分かったよ、改めて俺が君の中での位置の低さを言う必要はない!あのクズ男は最近君の所に訪ねてきてない?」「来たわよ!」紀美子は隠さずに言った。「つい8時頃にあなたが美人を抱えてる写真を送ってきたよ」「なんだと?!」朔也は吃驚した。「とうとうY国まで手を伸ばしてきたのか?!なら俺がこの前俺が君と付き合っていると見せかけたことは無駄だったのか?!」紀美子「???」それを聞いた紀美子は、この前朔也が晋太郎に言ったおかしな話を思い出した。「今度は何かをやろうとする前に私と相談してね、暴かれたらみんなが気まずくなるじゃない」紀美子は呆れて言った。朔也は笑顔で返事した。「ボスのご命令とあらば」紀美子は再び朔也に笑わせられた、「もういい、そろそろ寝るよ、あなたはそちらのことに専念しといて」翌日。紀美子は朝っぱらから塚原悟からの電話を受けた。「起きた?」悟は笑いながら聞いた。紀美子は目を揉みながら、辛うじて目を開けて時間を見た。まだ朝6時だった!何で悟はこんなに早い時間に電話をしてきた?紀美子「あなたの電話に起こされたけど、どうかしたの?」悟「差し支えなければ、ドアを開けてもらっていい?」紀美子は慌てて布団を開いて窓際に行った。カーテンを開くと、悟がきれいなバラの花束を持って下にいた。その花束は彼が着ていた薄色のコートととても似合っていた。「今降りるから」紀美子は急いで部屋を出た。下に降りてドアを開けて、紀美子は悟が持っていた花束をみて彼に聞いた。「花をくれるなんて、今日は何か特別な日かな?」悟は彼女を見つめ、冗談交じりに、「自分の誕生日を忘れるほど、相当忙しかったんだろうな」と言った。そう言って、彼は花束を紀美子に渡した。紀美子は今日は自分の誕生日だったのをすっかりと忘れていた。 口を開こうとしたら、彼女はふと花束の中にピンクダイアモンドのネックレスが入っていたのに気づいた。「ロベンズ
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言