翌日。森川家旧宅にて。次郎は父の貞則と一緒に朝食を食べていた。「次郎、今日からお前はもう会社に行かなくていい」「どうして?」次郎が眉を寄せて尋ねた。彼はここ数日、大金を使って建築材を調達し、遊園地が完成すれば晋太郎に打撃を与えると思っていた。そんな彼に手を引けだと?できるわけがない!彼は、まだ晋太郎が苦しんでいる顔が見れていない、このまま手を引いたら悔しすぎる!だが貞則は、息子を守る為に嘘をつかなければならなかった。「お前は会社の運営に多大な損失をもたらした」「会社の管理層が、お前に意見を持つ者が多い」「それだけの理由で俺に出社するなというのか?」次郎は信じられなかった。「遊園地が完成すれば、今の損失をすぐにでも補える!」「もう会社に行くなと言っておる!」貞則は怒ってきた。「何度言わせれば分かる?」「もしかして晋太郎のヤツが尋ねてきた?」「何であんたがこんなにも奴に脅かされてしまうんだよ!」「俺が奴に脅かされると?」「兎に角、お前はやるべき仕事に戻り、会社の方は他のヤツに任せるがいい!」「父さん、俺にもやらなければならないことがあるんだ!」「どうしても会社に行くなら、クビにされても知らんぞ?」貞則は本気で怒り、そして立ち上がってディナールームを出た。次郎は力いっぱいで拳を握った。晋太郎の奴が邪魔をしているに違いない!彼を除けば、他のヤツが思い当たらない!一旦このプロジェクトが止められたら、晋太郎の苦しんで狂えそうな面が見れなくなるじゃないか!晋太郎が苦しめられ心臓が狂いそうになり、それを見たら自分が気持ちよくて血が滾り出すような表情、彼は絶対見逃したくない!必ずや晋太郎に、自分の母が死んだシーンを繰返して思い出させる!ここまで考えると、次郎は立ち上がり、曇った顔で森川家を出てMK社に向った。午前9時、MK社にて。晋太郎が事務所に着いたばかりで、次郎が入ってきた。「晋、お前は一体何を恐れているのか?」「こんなにも急いで父さんに俺を会社から追い出すなんて!」次郎が蛇のような陰湿な目つきで尋ねた。次郎を見て、晋太郎の顔は凍るかのように冷たくなった。「出ていけ」「出ていくのはお前の方だろ?」次郎は晋太郎に怒鳴って
次郎は打ち倒され、晋太郎は立て続けに彼の顔を殴った。その勢いは、まるで次郎を殴り殺すかのようだった。秘書達は皆驚いて、秘書長が慌てて肇に電話をかけた。しかし中の次郎はまだ高笑いが止まらず、狂ったかのように叫び続けていた。「晋太郎、できるものなら俺を殺して見せろ!」「馬の骨が!お前はその母とも馬の骨だ!」「......」次郎が血塗れに殴られた頃、肇は駆け込んできた。肇は慌てて晋太郎を抑えて止めた。「晋様!もう止めてください!」「どけ!」晋太郎は血迷った目で肇を見て、冷たい声で怒鳴った。「晋様、ご冷静に!」「こいつはわざと言った、どうか落ち着いて!」「彼を殺したところで、何のメリットもありません!」肇は必死に晋太郎の腰を掴んで手を離そうとしなかった。晋太郎は漸く手を止め、瞳の中の怒りは肇の話で段々と苦しみへと変わった。彼は歯を食いしばり、鋭い目つきで半殺しにされた次郎を見つめた。「セキュリティにこいつを放り出させろ!」晋太郎は怒りを抑えながら命令した。「任せてください」「晋様、どうか落ち着いて!」晋太郎を離し、肇は直ちにセキュリティを呼んだ。そしてすぐ、意識不明になりかけた次郎が担ぎだされていった。10分も経たないうちに。そのことは貞則の耳に届いた。彼は慌てて病院に向かいながら晋太郎に電話をかけた。すぐ、電話が繋がった。「チクショー!」貞則は怒鳴った。「お前は一体どこまでやれば気が済む?」「次郎のことをバラされたくなければ、取引をしないか?」晋太郎は赤く腫れた手の甲を見て、冷たい声で言った。……30分後。貞則は晋太郎の事務所に現れた。「お前、自分が社長だから俺と株の相談ができると思うなよ!」「どうやら次郎はあんたにとって、そこまで重要でもなさそうだ」晋太郎はゆっくりと見上げて言った。「次郎のことで俺を抑えようとするな」「30%の株など、ふざけるな!」「欲張りにもほどがある!」「無理か」「ならば午後にでもMK社として記者会見を開こうか」「貴様、いい加減にしろ!」貞則は怒りで思わず体が震えた。「できるかどうか、見てみるがいい」晋太郎は貞則に警告した。「株主総会を開き、お前をMKから追い出す
「30%もの株なんて、寝言は寝てから言え!」貞則は椅子に腰を掛けた。「相談の余地もないなら、もうこれ以上話す必要はない」晋太郎は言った。「お前は一体どうしたい?」貞則は机を叩いた。「たとえお前を追い出しても、他のヤツをいくらでも育てられる!」「恐らく俺と同じ能力の人を育てたとしても、その頃にはMKは既に踏みつぶされていただろう」晋太郎はあざ笑いをした。「俺がMKを引き受けられないとでも思ってんのか?」「もう10年も会社にいないあんたなんて、どれだけ会社のことがわかるか?」「業界の動向、新商品の企画、開発、あんたには分かるのか?」貞則は言葉を詰まらせた。「次郎の名声がもたらした影響を含めて、MKがどこまでもつと思う?」問い詰められた貞則は、きつく拳を握ること以外、何も言い返せなかった。晋太郎にそう言われ、貞則はますます彼がMKに不可欠だと思ってきた。一旦彼を放したら、数年も経たないうちに、MKは絶対に飲み込まれるだろう。こう考えると、株どころか、自分の帝都での地位も奴に取って代わられるに違いない。しかし、自分が持っている株をヤツに譲渡すると、恐らく次郎はもう一生この会社を受け継げなくなる。その時、彼はもっと自分を眼中に置かないだろう。利害を目の前に、貞則は長らく沈黙した末、ようやく決心がついた。「分かった、30%の株をくれてやろう!」「だがもしお前が次郎に少しでも害をすれば、これらの株を全て撤回するからな!」「弁護士はもうすぐ来る、この場で株の譲渡を行おう」晋太郎は冷たく笑みを浮かべた。「お前、ずっと株のことを図っていたな!」「転ばぬ先の杖、あんたからの受け売りだ」昼頃。株譲渡の契約を結んだ貞則は、悔しくも一旦MKを離れるしかなかった。晋太郎は翔太に電話をかけようとした時、杉本肇が外から駆け込んできた。「晋様!A国から情報が届いています!」肇は慌てた声で報告した。「どうした?」「我々のファイアウォールが、昨夜また3重破られ、技術部はもう手に負えません。「副社長は、あなたが一度A国に重要な案件を疎開することを検討してきたらと勧めています」「出来損ない共が!」晋太郎の顔は凍てつくほど曇り切った。「腕の立つハッカーを探せ」「報酬
紀美子は申し訳なそうに娘の顔を撫でた。「ごめん、お母さんはさっき考え事をした」「あの人のことを考えていたの?」ゆみは柔らかい声で尋ねた。「あの人って、誰のこと?」紀美子はわざと聞き返してみた。「あのクズおやじのことだろう」隣の佑樹が代わりに答えた。紀美子は朦朧として、晋太郎が出ていってから、既に二日が経っていた。最近彼からは電話どころか、メッセージ一通も来なかった。まるで自分と一生会わないかのようだった。「そんなことないわ、お母さんは他のことを考えていたの」紀美子はため息をついた。「お母さんのうそつき!」ゆみはくちをすぼめた。「最近家にいる時、ずっと携帯を手放さなかったんでしょ!」「......」自分はそんなに分かりやすかったの......?「お母さん、何であのクズおやじのことが好きなの?」佑樹も口を合わせて尋ねた。紀美子はその感情をどう子供達に説明すればいいか戸惑った。「あ、そうだ、天もうすぐ暖かくなるし、お母さんが服を作ってあげようか?」紀美子は話を逸らそうとした。佑樹は呆れて母を見た。「話を逸らすのはよくないよ、お母さん」「逸らしてないよ」紀美子は誤魔化そうとした。「お母さんはただ、もっとあなたたちに気を使いたかっただけ」そう言ったそばから、ゆみが小さな手で紀美子の顔をすくった。「お母さん、何でいつも眉を顰めてるの?」「もし本当にお父さんに会いたいのなら、メッセージを送ればいいじゃん」ゆみは母に勧めた。「いや、彼はきっと最近忙しいから、邪魔したくないの」紀美子は首を振って答えた。彼には、もう説明してあげた。信用してくれない男の機嫌など、取る必要はない。ゆみは清らかな瞳をくるっと回した。お母さんが連絡しないのなら、お父さんに連絡させればいい!後で家に戻ったらすぐお父さんにメッセージを送ろう!こんなにもたもたするなんて。全然可愛くない!病院に到着した。紀美子は子供達を検査に連れていった。楠子が子供に手を出していないと言っているが、紀美子はやはり不安だった。彼女は自分の目で確かめない限り、安心できなかった。30分後。紀美子は子供達の検査レポートを医者に渡した。「入江さん、もう安心してい
その時、飯を食べていた晋太郎はゆみからのメッセージが届いた。ゆみのメッセージを読んで、彼は思わず笑みを浮かべた。しかし最後まで読むと、晋太郎は戸惑った。男の子?自分はいつ男から「男の子」になった?「俺に何を言ってほしい?」「何でもいいよ」「ゆみ、お母さんって、悟さんと仲が良かったのか?」晋太郎は暫く考えてからメッセージを返信した。ゆみは賢く、メッセージを読んだらすぐにきづいた。父は自分の話を誘い出そうとしている。「そうだよ、悟お父さんはお母さんにお世話をしていて、お母さんも悟お父さんにお世話をしているの」「お世話以外、他に何かあったのか?」お父さんは何故そんなことを聞いてるの?ゆみは暫く考えた。もしかしてお母さんと悟お父さんのやきもちをしてるの?彼女は、「やきもち」ということが分かっていた。しかも、やきもちをすればするほど、その人のことが好きだという。それは朔也おじさんが教えてくれたのだ。なら、お父さんに一杯やきもちをさせなきゃ!そうすれば、きっともっとお母さんのことが好きになってくれる!「もしかして、ゆみが見えないとところで、2人が手を繋いだり、抱っこをしたりするかもしれない?」「だってお母さんが食べ物がのどに詰まったら、悟お父さんはとても心配してたんだもん!」ゆみは電話のこたらで微笑みながら返信した。だが、向こうの晋太郎はその話で顔が真っ黒に曇った。手を繋ぐ?抱っこする?その文字が深く彼の心に刺さった。自分の女が他の男とあんなことをしていたと思うと、彼はまるで胸が塞がれたかのように息が詰まった。「分かった!」晋太郎はイラついて返信をした。「忘れずにお母さんの機嫌を取ってあげてね!」30分後。紀美子は佳世子の家の近くまできた。佳世子が怠そうに出てきて、紀美子の車に乗った。彼女の顔が少し赤く染まっているのを見て、紀美子は手を伸ばして確認した。暫く触ってみたら、紀美子は思わず眉を寄せた。「もしかして熱が出てるの?」「分からないよ、何だか頭が重くって」佳世子は力が抜けた声で答えた。「早く、病院へ!」紀美子は運転手に指示した。途中で、佳世子はずっと紀美子の肩に寄り添い、病院まで昏睡していた。病院に入り、
「もう、何処に行ってたんだよ?」晴は焦った声で尋ねた。「俺が家に帰ったら君がいなくて、何で出かけるのを言ってくれなかった?」「昨日言うのを忘れてたけど、今日は健診の日、紀美子を呼んで一緒にきた」「そか、分かった、後で迎えにいく」「ううん、大丈夫。これから紀美子とちょっとぶらぶらして帰るから」紀美子は不思議に佳世子を見た。「そろそろきるね、もうすぐ検査が始まるから」佳世子は晴にそういいながら、紀美子に目で合図を送った。「分かった、気をつけてね、俺は家で待ってる」「うん」「何で熱が出たことを教えてあげなかったの?」紀美子は尋ねた。「いいのよ。最近彼は神経を尖らせすぎてるの。何でも教えてあげたら、無駄に心配するから余計疲れるし」佳世子は腹を撫でながら、目に優しさが浮かんだ。「この子は将来、きっと晴みたいに優しくて責任のある人になれる」紀美子は手を佳世子の腹に当てながら言った。「ねえ、紀美子。もし女の子だったら、名前を何にする?男の子は?」佳世子は笑いながら意見を求めた。「まだまだ早いよ。それに、名前は晴に決めてもらわなきゃ」「彼はね、女の子だったら『美世』、男の子だったら『浦正』にすると言ってたのよ」佳世子はがっかりした顔で言った。「はっ?時代劇にも出てきそうな名前じゃん!」紀美子も思わずツッコミを入れた。「だからさ、子供の名前について彼と相談するのは間違ってるのよ!絶対嫌だ!」検査室の前にて。紀美子は朝一度きて、そして今また来た検査室を見て、少し変な気分になった。しかし何処が変なのかは自分もよく分からず、ただ不安が募るだけだった。佳世子が検査室に入り、紀美子はベンチに座って待っていた。20分経っても佳世子は出てこなかった。この時、彼女の携帯が鳴り出してきた。晋太郎からの電話だった。彼の怒りは鎮まったのか?紀美子は眉を寄せた。廊下の突き当りに行き、彼女は通話ボタンを押した。「もしもし?」「今どこだ?」晋太郎は尋ねた。「病院。佳世子の健診に付き合ってる」「君、ツバメの巣が好きか?」「まだそのことを気にしてるの?」紀美子は呆れて尋ねた。「違う!」晋太郎は強く否定した。「俺はただ君がそれが好きかどうか聞い
紀美子は考えていたところ、再び携帯が鳴った。今度は舞桜からの電話だ。紀美子は受信ボタンを押した。「舞桜」「き、紀美子さん!」舞桜は恐怖に満ちた声で言った。「庭にツバメの巣が山ほど積まれてる!」「山ほど積まれてるってどういうこと?」紀美子は驚きの表情で聞いた。「わからないよ!さっき買い物から帰ってきたら、いきなりすごくたくさんのツバメの巣が増えてたの!」舞桜は舌打ちをして言った。「すごくたくさんって、どれくらい?」紀美子は舞桜の驚きがどれほどのものか想像できなかった。「一目見ただけで、たぶん何十箱もあるよ!」「......」紀美子は言葉を失った。晋太郎がさっき何て言ってたか――全部食べるか。こんなにたくさんのツバメの巣、一晩で食べきるなんて絶対に無理だろう!この男は一体何を考えているの?「ボディーガードに全部倉庫に運ばせて、夜にはみんなで飲んでおこう」紀美子は頭を抱えながら言った。「わ、分かったわ、紀美子さん」紀美子は電話を切り、ため息をついて検査室に向かった。検査室の前に着くと、ドアが開いていて、紀美子は疑問を感じながらドアを押し開けて中を覗き込んだ。中には医者がいるだけで、佳世子の姿は見当たらなかった。紀美子は急いで聞いた。「先生、さっき検査を受けた妊婦さんはどこですか?」「杉浦佳世子という名前の患者さんですね?」医者は振り返って言った。「そうです。彼女はどうしてここにいないんですか?」紀美子はうなずいた。医者はため息をつき、机の上にあった報告書を紀美子に渡しながら言った。「さっきの患者さん、検査結果を見た後、すぐに帰ってしまいました」紀美子は医者から渡された報告書を見つめた。すると、顔色が急変した。報告書には目を刺すような三つの文字が記されていた──エイズ。紀美子は体中が震え、手が止まらなかった。こんなことがあるなんて......佳世子がこんな病気になるなんて、あり得ない!「若いのにこの病気にかかってしまって、彼女自身も壊れてしまったようです。あなたが早く探しに行って、慰めてあげてください」医者は続けて言った。紀美子は我に返り、顔色を失って廊下の両端を見渡した。消防通路が見えた瞬間、考える間もなくそちらへ向かって走り出した。そして最速のスピードで階段を
佳世子はぼんやりとした表情で紀美子の肩に顎を乗せて言った。「紀美子、知ってる?私が妊娠したことを知ったとき、怖かったの」「でも、晴に妊娠のことを話したとき、彼が無駄に優しく接してくれて、怖さが消えて、全身全霊でこの子を受け入れたの」「少しずつ、私と赤ちゃんは一体になった感じがして、切り離せない存在になった。そして、私は彼の到着を心から楽しみにしていた」「彼は私の子供で、血を分けた存在だから、誰かが彼を傷つけたら、私は死ぬ気で戦うと思う」「でも、まさかこんな病気にかかるなんて思わなかった」「どうすればいいの、この子は?どうしたらいいの......」「紀美子、医者が言ってた、もしこの子を産んだら、彼も病気にかかるって。彼は一生このウイルスを抱えて生きていかなきゃいけない。でも、もし中絶することにしたら、私は絶対にできない、どうしてもできない......」「それに外の人たちも、私がこんな病気にかかったことを知ったら、私を汚れた女だと思うだろう。でも、私は汚れた女なんかじゃない!私は、私は......」佳世子は全身を震わせ、苦しみに耐えながら泣き崩れた。紀美子も涙を流しながら言った。「そんなふうに自分を責めないで、あなたがどんな人かよくわかっている。私たちがなんとかこの病気を治す方法を探すから、きっと方法はあるはず」「佳世子、諦めないで、私たちがいるから」佳世子は紀美子の肩に寄りかかり、目を閉じた。彼女は紀美子に何も答えず、ただ紀美子の腕の中で涙を流し続けていた。内臓が引き裂かれるような痛みが続き、その痛みに頭の中ではただ一言が繰り返されていた。死にたい......紀美子は静かに佳世子を支えていた。どれくらいの時間が経ったのか、佳世子がやっと紀美子の腕から身を引いた。彼女は赤く腫れた目を半開きにし、かすれた声で言った。「帰って、屋上が寒いから」紀美子は彼女のその姿を見て心配し、彼女を一人で残しておくことが何が起こるのか想像もできなかった。彼女は強く佳世子の手を握りしめ、穏やかな声で言った。「一緒に帰りましょう、ね?」「いいえ」佳世子は冷たく言った。彼女は息を整えながら続けた。「この子を中絶しに行きなきゃ」紀美子はしばらく言葉を失った。もしこの子をそのまま産んでしまったら、その子はきっ
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言