LOGIN大学時代からの恋人で婚約者だった新進気鋭のIT社長・陽斗に、琴葉は資金調達パーティーの場で突然別れを告げられる。 彼が選んだのは、若さと美貌と家柄を持つ取引先の社長令嬢・莉愛。笑顔で過去の女にされた夜、琴葉は偶然、鷹宮グループの年下御曹司・玲央と出会う。 縁談を避けたい玲央から持ちかけられたのは、期間限定の“婚約契約”だった。
View Moreホテルのシャンデリアは、たぶん人を綺麗に見せるためにある。
天井から落ちる金色の光。磨き上げられた床。グラスを合わせる涼しい音。広い会場のあちこちで交わされる笑い声。 その全部が、陽斗をとても華やかに見せていた。 株式会社ノヴァリンク代表取締役、三枝陽斗。 大学時代からの恋人で、私の婚約者で、今日のパーティーの主役。 新規事業への大型出資が決まった記念の場だと聞いていた。だから私は少し気合いを入れていた。淡いベージュのワンピースに、母から借りた小さなパールのイヤリング。派手すぎず地味すぎず。陽斗の隣に立っても恥ずかしくないように。 今日の陽斗を、私はちゃんと祝うつもりだった。 大学のカフェテリアで「いつか自分の会社を作る」と言っていた彼を知っている。夜中に電話をかけてきて、資金繰りがどうとか採用がどうとか、眠気をこらえる私に向かって夢を語っていた彼も知っている。 あの頃の陽斗は、まだ何者でもなかった。 今は違う。 会場の中央に立つ陽斗は、たくさんの人に囲まれていた。細身の黒いスーツがよく似合っている。鋭い目元。自信のある立ち姿。誰かと握手を交わすたびに、彼の周りだけ光が強くなるようだった。 誇らしいと思った。 少し遠いとも思った。 それでも、私は彼の婚約者だ。 そう思っていた。 会場へ一歩入った時、最初に感じたのは華やかさではなく違和感だった。 受付の女性が私の名前を確認したあと、一瞬だけ目を泳がせた。すぐに笑顔に戻ったけれど、ほんのわずかな間があった。 その小さな引っかかりを、私は見ないふりをした。 こういう場所に慣れていないから気にしすぎているだけ。陽斗の仕事関係者ばかりの場で、私が少し浮いているだけ。そう自分に言い聞かせながら、グラスを運ぶスタッフの横を抜ける。 陽斗を探した。 すぐに見つかった。 彼は会場の奥で、数人の男性と話していた。笑顔はいつも通り柔らかい。相手の話を聞く時に少し首を傾ける癖も変わらない。 でも。 陽斗の隣には、私ではない女性がいた。 明るいブラウンの巻き髪に、淡いラベンダーのドレス。細い肩にかかったショールまで計算されたように上品で、笑うたびに周囲の視線が自然と集まる。 私は、その人を知らなかった。 知らない女性が、陽斗のすぐ隣で微笑んでいる。 その事実だけで胸の奥が冷えていく。 彼女は陽斗の話に合わせて小さく笑った。距離が近い。近すぎる。でも周囲の誰もそれを不思議に思っていないようだった。 むしろ、そこが当然の場所みたいに見える。 嫌な汗が背中ににじんだ。 私は会場の入口で足を止めた。 その時、陽斗が私に気づいた。 いつもの笑顔だった。 柔らかくて、落ち着いていて、誰から見ても感じのいい笑顔。 「琴葉。来てくれてありがとう」 その言い方があまりに普通だったから、一瞬、自分の方がおかしいのかと思った。 婚約者が別の女性を隣に置いていても。私に連絡のひとつもなく主役の隣を別の人に譲っていても。ここではそういうものなのかと、馬鹿みたいに考えた。 「陽斗。こちらの方は?」 私の声は自分で思ったより小さかった。 陽斗は困ったように眉を下げた。けれど笑顔は崩さない。周囲の目をきちんと意識した顔だった。 「ごめん。先に紹介するべきだったね。小鳥遊莉愛さんだ。今回の提携で、ずいぶん力を貸してくれた人なんだ」 小鳥遊。 その名字には覚えがあった。 陽斗がここ最近、何度も口にしていた大きな取引先の名前だ。小鳥遊ホールディングス。業界紙にも名前が出る企業で、陽斗はその会社とのつながりをずいぶん大事にしていた。 けれど、その関係者らしい女性がこんなふうに陽斗の隣に立っている理由までは、もちろん知らない。 莉愛さんは可憐に微笑んだ。 「はじめまして。小鳥遊莉愛です。琴葉さんのお話は、陽斗さんから伺っています」 私の名前を知っている。 なのに私は、彼女のことを何も知らなかった。結和ケアへ修正版資料を送ってから、二日が経った。 返事はまだない。 急かすつもりはない。 先方に現場責任者がいる以上、社内で確認する時間は必要だ。わかっている。わかっているけれど、メールボックスを開くたびに少しだけ指先に力が入る。 金曜日の午後。 打ち合わせ用の資料を直していると、新着メールの通知が出た。 差出人は、結和ケアパートナーズ。 件名は、修正版資料について。 私は一度だけ深く息を吸ってから、メールを開いた。『資料を拝見しました。見届け担当の考え方について、現場側でも具体的に確認したいとの意見が出ております。次回、運用担当者を含めて打ち合わせの機会をいただけますでしょうか』 承諾ではない。 合意でもない。 でも、次がある。 私は画面を見つめたまま、思わず肩の力を抜いた。「来た?」 隣から朱音の声がした。「来た」「いい方?」「たぶん。次回打ち合わせしたいって」「おお。試合開始の笛、二回目?」「延長戦の入口かも」「ずっと試合してるね、琴葉の企画」 本当にそうだ。 しかも相手は一人ではない。 社内、現場、外部事業者、利用者、家族。 どこか一つだけ見ていればいいわけではない。 でも、だからこそ前より少しだけ、企画が誰に向かっているのか見えてきた気がする。 部長へメールを転送すると、すぐに呼ばれた。「結和ケアさん、前向きだね」「はい。ただ、見届け担当についてかなり具体的に聞かれると思います」「だろうね。ここからは理念より運用だ」 部長は資料をめくりながら言った。「誰が担当するのか。どこまで追うのか。責任が重くなりすぎないか。現場からはそのあたりを突かれる」「はい」「でも、ここまで来たのは大きいよ。初回で終わってもおかしくなかっ
株式会社ノヴァリンクの会議室で、三枝陽斗は新規事業資料に目を通していた。 画面に映っているのは地域生活支援領域の市場分析。 高齢者向けサービス。 見守り。 買い物支援。 家族向け通知。 行政や地域事業者との連携。 どれも成長余地のある分野だった。 ノヴァリンクが得意とするのは、散らばった情報を一つの画面にまとめ、利用者と事業者を効率よくつなぐことだ。 うまく設計すれば、鷹宮グループのような大手とも戦える。 いや、戦わなければならない。「小鳥遊側の資料では、生活支援系の投資枠が来期かなり増える見込みです」 担当役員が説明する。「高齢者向けの地域連携サービスは、今後どこかが一気に取りに来るでしょう。特に大手不動産系、保険系、生活サービス系は動きが早い」「鷹宮は?」 陽斗が聞くと、役員は一瞬だけ資料をめくった。「鷹宮ライフデザインが、生活支援相談連携案という小規模な試験導入を検討しているようです」 陽斗の指が止まる。「小規模?」「はい。派手なプラットフォーム型ではなく、既存事業者との連携を重視した案のようです。提携候補に結和ケアパートナーズの名前があります」「結和ケアか」 地域密着型の会社だ。 規模は大きくないが、現場との関係が深い。 単純に買収できる相手ではない。 陽斗は画面を見つめた。 鷹宮ライフデザイン。 その名前には、どうしても別の記憶がついて回る。 朝比奈琴葉。 別れた婚約者。 長く隣にいた女。 自分の事情も、仕事の忙しさも、黙って理解してくれていた女。 そう思っていた。 けれど最近、その輪郭が少しずつ崩れている。「担当者は?」 自分でも、なぜ聞いたのかわからなかった。 役員が資料の端を確認する。
車を降りる時、玲央さんは小さな紙袋を差し出した。「これは?」「明日の朝食です」「……明日?」「帰宅後すぐに休めるように、朝の分も用意しました。重いものではありません。パンとスープ、果物です。不要なら無理に召し上がらなくて大丈夫です」 私は紙袋を見た。 黒い車。 夜の送迎。 温かいスープ。 そして翌朝の朝食。 ここまでくると、親切というより生活インフラである。「玲央さん。契約書に朝食の項目はありません」「ありませんね」「ありませんよね?」「はい。ですので、必要なければ次回から控えます」 違う。 そこではない。 控えるかどうかの問題にされると、こちらが朝食を要求している人みたいになる。「そういうことではなく……」「では、どういうことですか」 玲央さんは真面目な顔で聞いてくる。 困る。 こういう時の玲央さんは、こちらが言葉を探すまでちゃんと待つ。 待ってくれるのに、逃げ道は狭い。「……ありがたいです。でも、少し手厚すぎます」「手厚いですか」「はい。鷹宮基準ではわかりませんが、一般的にはかなり」 玲央さんは少し考えた。「では、次は事前に確認します」「次がある前提」「残業が二度とないなら、次はありません」「ありますね」「では、確認します」 負けた気がした。 私は紙袋を受け取る。 温かい食事と翌朝の朝食を前に、理屈だけで拒否できるほど私は強くない。「ありがとうございます」「どういたしまして。今日はもう、資料を開かないでください」「それも契約外です」「はい。お願いです」 お願い。 その言い方は反則だと思う。 命令
その日の仕事は思ったより長引いた。 会議が終わった後も、結和ケアへ出す資料の修正が残っていた。 見届け担当。 顔の見える責任。 主役を間違えない。 言葉にすると簡単なのに、資料へ落とし込むと途端に難しくなる。強く言いすぎれば押しつけになるし、弱くすれば何をしたいのかわからなくなる。 気づけばフロアの人はかなり減っていた。 朱音も帰り際に「無理しすぎないでよ」と言ってくれたけれど、私は「あと少し」と返した。 そのあと少しが、なぜいつも長いのか。 会社員七不思議に入れてほしい。 時計を見ると二十時半を過ぎていた。 そろそろ切り上げよう。 そう思った時、スマホが震えた。 玲央さんからだった。『今日、帰りは遅くなりそうですか』 私は画面を見て、少しだけ身構えた。 仕事の話。 でも、玲央さんはそこには手を出さないと約束している。 そう考えているうちに、続けてメッセージが届いた。『仕事の内容を聞くつもりはありません。ただ、遅くなるようなら帰宅手段と食事だけ確認させてください』 先回りされた。 私はしばらく画面を見つめてから、短く返した。『もう少しで出ます。食事はまだです』 送信してから、余計な情報まで出した気がした。 だが、すぐに返事が来る。『では、会社を出る時間を教えてください。迎えを出します』 迎え。 この人の迎えは、たぶん普通の迎えではない。『電車で帰れます』『帰れることはわかっています。ただ、この時間まで食事を取らずに資料を作っていた方を、そのまま帰すのは俺の判断として避けたいです』 俺の判断。 また出た。 契約書にはないけれど、玲央さんが真顔で持ち出す範囲だ。 私は少し迷った。 確かに、お腹は空いている。 疲れ