江口は、その深い瞳から何かを読み取ろうとした。だが、遼一の目には何ひとつ映っていなかった。ただその虚ろな深淵に引き込まれるような感覚と、胸に広がる鈍い痛みだけが、確かに残った。「やきもち?」遼一はそっけなく顔をそらし、水の入ったグラスをテーブルに置くと、ポケットから絹のハンカチを取り出した。指先をぬぐうようにゆっくりと拭き、それを無造作にテーブルへ放り投げる。江口は唇の端を歪めて笑った。「ええ。好きになった男に選んでもらえないんだから、そりゃ、妬くでしょう?」遼一は彼女を一瞥し、冷たい声音で吐き捨てた。「長年付き合って、それだけか。残念だが、俺は『きれいなもの』しか好きじゃない」その一言に、江口の目が一瞬だけ痛みに染まる。古い傷が再びこじ開けられ、血が滲むような感覚。そう、彼女はもう「きれい」ではない。そして、彼にふさわしくもない。「そんな目で見るな、気持ち悪い」皮肉にも、その言葉はかつて明日香が遼一に向けて言ったものだった。今、それを自分の口から発している遼一自身が、一瞬だけ滑稽に思えた。明日香が藤崎家に入ったからといって、彼女を取り戻せない理由にはならない。方法なら、いくらでもある。その沈黙を破るように、江口が静かに笑った。「遼一......忘れないで。私たちは結局、同じ穴のムジナ。あなたがどれだけ珠子を守ろうと、彼女があなたの過去を知ったら、まだそばにいられると思う?それに明日香、もし彼女が、あなたが月島家に入り込んだ本当の理由を知ったら......藤崎家の力を使って、あなたをこの世から消そうとするんじゃないかしら?」遼一は視線を逸らすことなく、低く鋭い声で返した。「なら、どっちが先に死ぬか、賭けてみるか」週末、約束どおり、遼一は珠子と遊園地に出かけた。だが、二人のデートの様子は、遠くの闇に潜むカメラによって一枚残らず撮られ、康生のもとへ届けられた。書斎で写真を受け取った康生は、じっと一枚一枚に目を通し、やがて指先が震え始めた。胸が苦しく、息もまともにできない。江口が慌てて背を支え、椅子に座らせ、背中をさすった。「康生さん......遼一も大人です。幼なじみ同士なら、これくらい自然なことよ」「女の浅はかな口を挟むな。出て行け」冷たい声音が響き、江口は黙って書斎を
遼一は深く珠子を見つめていた。その瞳は、まるで底の見えない闇のようだった。覗き込もうとすればするほど、逆にその深さに引きずり込まれそうで、誰一人その奥を探ることはできなかった。珠子には、その視線がとても遠く感じられた。長く一緒にいるはずなのに、彼に近づいた気が一度もない。恋人同士なのに、彼は一度も自分に心を開いてくれたことがないように思えた。手をつなぐことはあっても、当たり前のキスひとつすら交わしたことがない。たびたび、彼女は自問した。自分が焦りすぎているだけなんじゃないか?遼一さんにとって、私はただの妹でしかないんじゃないか?彼の目は、今でも過去に縛られているように見えた。彼の過去、その中心にいたのは、誰だったのか。フロントで会計を済ませ、焼肉店を出た遼一は、今夜はガーデンレジデンスには戻らず、そのまま月島家へと向かった。車が南苑別荘の門前で止まると、珠子は明かりの灯る大邸宅を見つめながら、ふと問いかけた。「遼一さん、今夜は帰らないの?」珠子はずっとこの家を避けていた。康生の目に映る自分が、どこか無力で浅ましく感じられて、それが怖かった。「珠子は、この家が嫌いなのか?」「いいえ」珠子は小さく首を振った。だがその表情には、明らかに何か言いにくいことがあるのが滲んでいた。「何かあったのか?俺に言ってみろ」遼一の声は穏やかだったが、その目は珠子の内側まで見通すような鋭さを帯びていた。珠子は思わず視線を外し、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。「な、なんでもないよ......遼一さんの考えすぎ」言葉を早口でつなぎながら、彼女はつま先立ちになって遼一の頬にそっとキスをした。頬を赤らめて、照れ隠しのように笑いながら言った。「おやすみ、先に入るね」そのまま車のドアを開け、小走りで玄関へと向かう彼女の背中には、どこか罪悪感めいた影が滲んでいた。遼一はその温もりが残る頬を指で一度触れたが、その表情はほとんど無表情で、むしろ冷たかった。珠子がホールに駆け込むと、江口がまだ起きていた。「お帰り」だが珠子は答えず、足を止めることなく階段を駆け上がっていった。あの子が帰ってきたということは、あの人もまたこの家に戻ったのだろう。数分後、遼一も玄関をくぐり、冷気を纏ったまま家に入った。無言のままテ
力が少し緩んだその瞬間、明日香は彼を強く突き飛ばし、その場を離れようとした。だが遼一は、まるで瀕死のウサギを仕留める捕食者のように、長い腕で彼女を再び捕まえ、自分の懐へと引き戻した。「久しぶりだな。少し、ふっくらしたか」暗闇の中で彼の顔は見えなかった。だが、その含み笑いを想像するのは、あまりにも容易だった。「あなたに関係ないでしょ。別に、あなたの家のご飯を食べたわけじゃない」その瞬間、明日香の腰に回された手が、肉をぎゅっとつねり上げた。さらに首筋に触れたキスが、微かな電流のように全身を駆け巡った。実際、明日香は太ったわけではなかった。ただ少しだけ、体に丸みが戻っただけ、以前の骨ばった体ではなくなった。けれどその変化こそ、彼の指先には魅力として伝わっていた。「口が達者になったな。藤崎家に逃げ込めば、俺に触れられないと思ったか?」そう言いながら、遼一の手が胸元へと移動し、突然、強く掴まれた。「っ......!」明日香は痛みに思わずうめき、反射的にその手を掴んで押し返した。けれども力では到底敵わず、涙が滲みそうになる。「遼一、もう......やめて!」声が震える。それでも必死に言葉を絞り出した。「珠子に知られたくないんでしょ?彼女、まだ店の中にいるのよ」遼一はわずかに体を止めた。「怖くなったか?」「怖いわよ。あと、気持ち悪い。彼女がそこにいるのに、まだ私にこんなことするなんて......あなたの浮気癖、いつになったら治るの?珠子はあなたのことが本当に好きだし、あなたも彼女を選んだはずでしょ?だったら、傷つけるようなことは、もうしないで」一瞬、遼一の顔が見えた気がした。暗がりの中、その目が一瞬だけ揺らいだ。「そんなことが、お前の口から出るとはな」「私は彼女を傷つけたくない。それに、樹にも申し訳ない」明日香の声は硬く、決意に満ちていた。「もう、はっきり言ったわ。これで終わり......あなたも、珠子を裏切らないで」数秒の沈黙のあと、遼一はようやく手を離した。明日香は自分の服の乱れを整え、肩を震わせながら影の外へ出ると、背中越しに言い残した。「これが最後よ......もう、あなたに会うことはない」店内に戻ると、明日香は何事もなかったかのように席につき、辛くなさそうな料理を
夜、午後八時三十分。明日香は車の後部座席で膝を抱え、黙って窓の外を見つめていた。もっと遅く出てくればよかった。そうすれば、あの二人に出くわさずに済んだのに。今日は早めに帰宅して、たまった寝不足を少しでも解消しようと思っていた。それなのに校門を出た瞬間、遼一と珠子にばったり会ってしまった。二人は夜食を食べに行くところで、遼一の「断るなよ」という一言で、あれよという間に車に押し込まれてしまった。前の席では、どこで食べようか、週末はどこに出かけようかと、恋人同士のように楽しげな会話が続いていた。今の二人はもうそういう関係で、明日香はまるで無理やりカップルの世界に押し込まれたような、居場所のない感覚に包まれていた。「明日香、何食べたい?焼き肉?それともお魚?」珠子が笑顔で後ろを振り向く。「あ......」ぼんやりしていた明日香は、わずかに声を漏らし、薄く笑って返した。「どっちでもいいよ。あまりお腹空いてないし」「そう?でも久しぶりだよね、明日香とちゃんと話すの。放課後のスケジュール知らなかったら、きっと会えてなかった」珠子はちょっと考え込んだ後で言った。「じゃあ、焼き肉にしよう。焼き鳥も追加で!」明日香がふとバックミラーを見ると、遼一の視線とぶつかった。その深い眼差しに、思わず目をそらした。「うん」焼き鳥と聞いて、明日香の胸に微かな不安が走った。前に淳也と食べたとき、消化できなくてお腹を壊したことがあったのだ。やがて、三人は繁華街の一角にある、洒落た雰囲気のレストランに到着した。夜の賑わいはまだ衰えず、店内も活気に満ちていた。入ろうとしたその時、明日香のポケットが震えた。携帯を取り出した彼女は足を止め、先に入っていく二人を見送りながら、そっと唇を噛んでから電話に出た。珠子は遼一の腕に軽く触れながら、店員の案内を待っていたが、明日香が外で誰かと電話しているのに気づいた。「ねぇ、遼一さん、何が食べたい?」「なんでもいい。先に頼んでて。ちょっとタバコ吸ってくる」「うん、わかった」電話の相手は、やはり樹だった。彼はいつも通り、第一声で尋ねてくる。「いつ帰る?」「もうすぐ。今、外食中」「食べ終わったらすぐ戻れ。田中を二二時三十分に迎えに行かせる」「う
樹は、誰の目にも藤崎家の完璧な後継者だった。彼の周囲には、財界の重鎮たちが恭しく集まり、ひとたび笑みを見せれば、美しい令嬢たちがこぞって視線を向けた。宴席の華やかさは頂点に達し、名門の娘たちは競うように杯を交わそうと近づいてきたが、それらはすべて千尋によって水際で遮られた。かつて、樹が事故で障害を負った時、そのニュースは瞬く間に街を駆け巡った。だが今や彼は再び立ち上がり、傷ひとつ見せぬ姿で社交界に戻ってきた。彼が「飲まない」と言えば、誰ひとりそれに逆らえない。そんな空気を、彼は自然にまとっていた。宴会は、午後9時終了の予定だった。だが、午後8時ちょうど、突如として会場全体が暗転した。ざわめく声が広がる中、次の瞬間、青いスポットライトがステージ中央を照らし出した。静寂の中、ピアノの前に現れたのは、青の限定ドレスを身にまとった一人の女性だった。指先が鍵盤に触れた瞬間、まるで潮が寄せては返すような旋律が響き始めた。ざわついていた会場が、一拍で息を呑み、静寂へと変わる。黒く長い髪が、深海の音に揺れるように揺れ、彼女の姿は、まるで伝説の人魚のようだった。観客席のあちこちから、ささやき声が漏れる。「あれは田崎家の娘じゃないか?この前、海外から帰ってきたらしい......久しぶりに見たけど、まさかあんなに綺麗になってるとは......海市で彼女に並ぶ美しさの女性は、ちょっと思い当たらないな」一曲が終わると、その女性――田崎茉莉(たさき まり)はドレスの裾を軽やかに持ち上げて一礼し、割れるような拍手が会場を包んだ。だが、ある者がふと気づいた。彼女の視線は、ある一点に注がれていた。その視線の先にいたのは、まさしく樹だった。すぐに千尋がスマホで調べ、耳打ちするように報告した。「高校時代の同級生のようです......ですが、樹様には、まったく記憶がありません」時間は、終了まであと30分。だが、誰の目にも明らかだった。田崎家の令嬢の眼差しは、偶然ではない。樹の表情には、冷たく近寄りがたい気配がにじんでいた。やがて茉莉はステージを降り、ゆっくりと一人の中年男性のもとへ歩み寄った。「お父様」その人物こそ、田崎泰明(たさき やすあき)。海市で確固たる地位を築く大商人にして、政界にも密かに影響力を持つ男であ
このままでは、淳也は集中力を欠くだけでなく、いずれ自分自身も巻き込まれてしまうだろう。図書館を出た明日香は、ふと立ち止まり、思わず考え込んだ。これから先、淳也はどこへ行くにも彩を連れて行くつもりなのだろうか?彼の胸の内は、相変わらずまるで霧に包まれているようだった。男の心は、海底の針のように掴みどころがない。樹がいなくても、明日香の生活は変わらなかった。「自宅・学校・趣味クラス」の単調なサイクルを、ただ静かに繰り返していた。放課のチャイムが鳴り、鞄をまとめて帰り支度をしていた時、珠子が近づいてきた。「明日香、今日の夜、時間ある?久しぶりに遼一さんと一緒にご飯食べない?私が料理するからさ、きっと気に入ると思うよ。最近ウメさんにも色々教わってるし!」明日香は微笑みながらやんわりと断った。「今日はこのあと授業があるの、ごめんね」「授業?特別クラス?」「うん」珠子は少し困惑したように眉を寄せた。「ねえ......どうして数学オリンピックのクラスに戻らないの?前はずっと頑張ってたじゃない」明日香が唇をきゅっと噛みしめ、答えようとしたその瞬間、遥がふらりと近づいてきて、珠子を見下ろすように笑った。「馬鹿って言われるのも当然よね。今日のテストで最下位だったのって誰だっけ?ああ、あなたよね。明日香が姉妹の情で席を譲ってくれたってのに、よくそんな質問できるわね」珠子はその嫌味にも動じず、ただ淡々と微笑むだけだった。明日香は鞄を肩に掛けながら、珠子を庇った。「私は特別クラスで一番になれるから行くの。誰かのために譲ったわけじゃない」「明日香も、やっぱり順位が気になるのね」遥がふっと笑みを浮かべた。その瞳にあった敵意がふっと和らいだ。教室にはまだ数人が残っていた。中でも目を引くのは、長身で無口、分厚いメガネをかけた男子――田崎成彦(たさき しげひこ)。帝雲学院の学年一位であり、明日香が最も超えたいと願うライバルだった。明日香は、成彦の方を見て静かに言った。「学年一位って肩書きも悪くないけど、私の目標は......それだけじゃない」彼女が目指すのは、もっと先。今年の数学オリンピックでの代表選出。そしてその先の世界。教室に残っていた6人は、皆数学オリンピッククラスの精鋭。帝雲学院のトップ