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第342話

Author: 無敵で一番カッコいい
明日香はふと視線を上げた先で、樹と目が合った。

その瞬間、なぜか胸の奥に小さな罪悪感が広がり、思わず視線を逸らしてしまった。

でも、それが何に対する後ろめたさなのか、自分でもはっきりとはわからなかった。彼を利用したことか、それとも、わざと隠していたことか。

そんな明日香に、樹は穏やかな声をかけた。

「病院では、ただの虫垂炎手術だって言ってた。大したことないって。だから、心配しなくていい。ゆっくり休んで、回復を――」

「虫垂炎手術じゃないの。子宮摘出よ」

その声はかすれ、けれどはっきりとした響きを持っていた。

明日香はうつむき、ベッドの端に身を寄せながら、長い髪に隠れた青ざめた顔を伏せた。

視線の先には、自分の両手が静かに布団の上に置かれていた。

「虫垂炎って言ったのは、お父さんを騙すため。でも、あなたには嘘をつきたくなかった」

その一言に、樹の胸の奥にずしりと重たいものが落ちた。

「お父さんに子どもを産めないって知られたら、高校も卒業できない。大学なんて、とても無理。たぶん、卒業したらどこかに売られてしまう」

明日香は震える声で、懸命に言葉を繋げた。そして、おそるおそる顔を上げ、樹を見つめる。

「そんなふうになりたくなくて、隠すしかなかったの」

既婚の中年男性にはすでに子どもがいる。だから明日香に求められるのは、「若さ」と「美しさ」だけ。子どもを産めるかどうかなんて、最初から価値に入っていない。

「そんな風に売られるくらいなら、何も知らせないほうがよかったの」

その言葉に、樹は深く息を吸い、明日香の冷えきった手をぐっと握りしめた。

「明日香。本当に愛し合ってる二人なら、子どもなんて関係ない」

その短く静かな言葉が、まるで刃のように心の奥へと差し込んできた。明日香の心臓が、一瞬止まったような感覚に襲われた。

ぽかんと目を瞬かせながら、彼女は微かに笑った。けれど、その目には苦しみの色がにじんでいた。

「慰めなんて、いいの。気にしない人なんて、いないわ。どれほど深い愛でもいつかは崩れる。

藤崎家に身を寄せたのは、あなたの力を借りて、脅威から逃げたかったから。ごめんなさい......騙すつもりなんて、本当になかったのに」

明日香の言葉に、樹はさらに強く手を握り返した。

「僕は君を守るよ。それが、僕の約束だから。あの日、気持ちを伝
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