明日香は教室の最後列に腰を下ろしていた。前方の席にいる圭一が、時折こちらを振り返っては、軽く声をかけてくる。そのとき、不意に携帯が震えた。新着メッセージの通知だった。明日香は何気なく画面を開いたが、目に飛び込んできた内容を見た瞬間、体中の血が一気に凍りつくのを感じた。指先がわななき始める。差出人は見覚えのない番号。表示された写真には、ホテルのベッドに上半身裸で横たわる男性が写っていた。片手を額に添えたその姿は、あまりにも生々しく、そして親密さを想起させた。画像の隅に記された日付は、去年の正月過ぎ――つい最近の出来事だ。耳元に、あのときの樹の声が甦る。「どこに行くか、聞かないの?」「すぐ戻るよ。三日くらいかな」「明日香、何を見てるの?そんなに夢中になって」圭一の声が現実に引き戻した、その瞬間――彼女の手から携帯が滑り落ち、床に鈍い音を立てて着地した。明日香は慌てて拾おうと身をかがめたが、胸の奥に巨大な石を押し込まれたかのような苦しさがこみ上げ、息が詰まった。画面を他人に見られるのが、恐ろしくて仕方なかった。幸いにもバッテリーが外れ、画面は黒く沈黙していた。周囲からは好奇の視線が集まり始める。明日香がここまで取り乱す姿は、誰の目にも珍しく映った。圭一は成彦の視線に気づき、慌てたように口を開いた。「俺、何か驚かせるようなことした?」成彦は無言で明日香を見つめ、「携帯、壊れてないか?」と穏やかに声をかけた。明日香は、かすかに震える指で端末を拾い上げ、小声で答える。「大丈夫。壊れてない......」けれど、実際には画面の隅にひびが入り、端末の角も微かに歪んでいた。彼女には時間が必要だった。この現実を受け入れ、整理するための――静かな、長い時間が。差出人は誰?なぜ、こんなものを今さら送ってきたの?明後日には大事な試験が控えている。こんなことで心を乱されている場合ではない。けれど、思考は凧の糸が切れたように宙を舞い、もはや自分では収拾がつけられなかった。樹が、自分を裏切るなんて。信じたくない。信じられない。彼女は震える指先で電源ボタンをぐっと押し、画面が完全に暗くなるまで指を離さなかった。再び点ける勇気は、どこにも残っていなかった。そこへ珠子が歩み寄ってくる。明日香の横顔を見た瞬間、その異
明日香が湯気の立つ鶏スープを一口ずつ静かに飲んでいる間、樹は彼女のそばにずっと付き添っていた。車中で交わされたあの会話に、二人とも二度と触れることはなかった。それでいい。今は、ただこのままで。「美味しいか?」樹が声をかけた。「まあまあね」明日香は湯飲みをそっと置き、静かに立ち上がった。「私、先に部屋に戻って課題するわ......早く休んで。おやすみ」「おやすみ」明日香が階段を上っていく後ろ姿を、樹はじっと見送った。指先でライターを弄びながら、どこか思案するような瞳で、その場に座り続ける。田中はそっと近づき、探るように声をかけた。「若様......明日香さんと、何かあったのでしょうか?」樹は脚を組み替え、背もたれに深く身を預けた。「記者の件で、彼女が対応を頼んできた。でも断った。僕の返しは、冷たかったかもしれない。けど......僕たちの関係は、別に人目を忍ぶようなものじゃない」田中は少し黙ってから、静かに言葉を選んだ。「お嬢様は、まだ注目されることに慣れていらっしゃらないのだと思います。私の知る限り、彼女はいつも一人で行動し、人との接触を避けて生きてこられた......そんな印象です。ましてや芸能記者たちが四六時中彼女の生活を覗き込もうとする今、不安になるのも当然でしょう」「......」「ただ――」田中は、少し声を低くしながら続けた。「いずれ明日香さんが本当に藤崎家にお嫁入りなさるのであれば、避けては通れない道でもあります......今のうちから、少しずつ慣れていただくのが、よろしいかと存じます」明日香が卒業すれば、いずれは藤崎夫人になる。この先、彼女はもっと多くの報道と向き合わなければならない。逃げれば逃げるほど、影は濃くなる。癖になるのだ。樹が納得したのを見て、田中はさらに言葉を続けた。「今日、蓉子様がまでお越しになられ、明日香さんに『おしるこが食べたい』とおっしゃっていました」樹の口元に、微かに笑みのようなものが浮かんだ。「僕でさえ、明日香を台所に立たせるのは惜しいのに......おばあ様は本当に、人使いが荒いな」その夜、明日香は課題を終え、英単語を数ページ読み上げてから眠りについた。翌朝。樹がスーツのボタンを留めながら階下に降りると、食卓には見慣れた小さ
遼一は、どこか陰を宿した眼差しで明日香を見つめた。「泊まっていかないのか?客室なら空いている」なぜ急にそんな目で見られるのか分からず、明日香はわずかに戸惑いながらも、静かに答えた。「いいえ......ご迷惑ですから」そう言い残して、彼女はふいに身を翻し、その場を走り去った。遼一の視線は、その細い背中を黙って追っていた。彼女の去っていく足音が遠ざかるたびに、彼の瞳の底はさらに深く沈んでゆくようだった。しばらく沈黙が流れた後、珠子がぽつりと呟いた。「遼一さん......気のせいかもしれないけど、明日香って、自分の家にいたくないみたい。まるで、ここが彼女にとって、何か怖い場所みたいに。でも、ここは彼女の家でしょう?」その頃、樹は車の助手席の脇に立ち、近づいてくる明日香に向かって両腕を広げていた。明日香はそのまま彼の腰に身を預けた。彼の体温が想像以上に冷たく、全身にしんしんと冷気が伝わってくる。グレーのスーツの上から羽織った黒いコートの肩には、きらきらと小さな水滴がいくつも散っていた。「濡れてる。どうして?」そう問いかける明日香の声に、樹は人差し指を優しく曲げて、彼女の頬をなぞった。指先が触れたその瞬間、彼の眼差しはどこか甘く、頼るようなものだった。「仕事が終わって迎えに来た時、ちょうど小雨が降っててな......帰ろうか」明日香はうなずいた。「うん」今日は樹が自分でハンドルを握っていた。助手席に腰を下ろした明日香は、ふとシートの位置に違和感を覚えた。何か、いつもと違う。そう、わずかに後ろへ下がっている気がしたのだ。樹が彼女のシートベルトを引き寄せながら尋ねた。「どうかしたか?」「ううん......ちょっとシートが後ろすぎただけ。調整するね」彼の表情が、ほんの少しだけ、曇った。「ああ......」アクセルを踏み込みながら、樹はぽつりと付け加えた。「今日のことは全部聞いてる。心配するな......もう二度と、あんなことは起こらない」明日香は指先でシートベルトの縁をそっと爪で引っかいた。「樹。今はまだ、私たちの関係をあまり知られたくないの。それに、あの雑誌の件も......」言いかけると、彼の口調が少し強くなった。「どうしてだ?誰かに何かされたのか?」ハンドルを握る彼
「うどん、できたわよ」ウメは台所から湯気の立つうどんを二つ丁寧に運び、そっと明日香の前に置いた。「青じそが苦手だって知ってるから、薬味は抜いておいたの」明日香は器に浮かぶネギをじっと見つめ、小さな声で呟いた。「私、ネギもダメなの、ウメさん」ウメは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑いながら自分の額をぽんと叩いた。「まぁ、この物覚えの悪さったら。しばらく帰ってこなかったから、すっかり忘れてたわ。ごめんなさいね、作り直してくるわ」明日香の胸に、言葉にできない寂しさがかすめた。以前のウメなら、彼女の好みを忘れることなど決してなかったのに。そんな些細な違和感が、妙に胸に残った。「大丈夫、自分で取るから」明日香はティッシュを一枚取り出し、テーブルの上に広げ、丁寧に箸でネギを一つひとつ摘み出し始めた。その場に、ふとした気まずさが漂った。やがて明日香が読んでいた本を閉じて振り返ると、遼一が箸を手に取り、無言で彼女の器の中のネギを取り除いていた。彼は視線を逸らすことなく、ぽつりと口を開いた。「相変わらず、わがままだな」そして続けて言う。「実は明日香は奥様と同じでね......奥様も、ネギが苦手だった」明日香は何も返さず、ただ黙って俯きながら、うどんを口に運んでいた。だが、どういうわけか、その味は記憶の中よりもずっと薄く、遠く感じられた。珠子は白玉ぜんざいを半分ほど食べたところで、ふいにスプーンを置いた。「遼一さん、甘すぎてもう無理。あなたのうどん、ちょっとちょうだい。私のは食べてくれていいから。そういえば、私たち三人でこうして一緒に食事するの、久しぶりね。懐かしいわ。昔は私と明日香が食べきれなかった分、いつも全部遼一さんに押しつけてたっけ。『食べ物を粗末にするな』って、よく叱られてたわよね」ウメが台所に片付けへ向かったため、リビングには三人だけが取り残された。珠子は遼一の器からうどんをすすったが、遼一は彼女の白玉ぜんざいには手をつけなかった。実のところ、彼も明日香と同じく、甘いものはあまり得意ではなかったのだ。明日香はうどんを半分ほど食べたところで、もうお腹がいっぱいになったと立ち上がり、厨房へ向かおうとした。「明日香、食べきれないなら、俺の器に移せばいい」遼一がそう言うと、明日香の手に、器を支え
車内のフロントガラス越しに、なおもフラッシュが焚かれていた。記者たちが車を囲み、シャッター音と怒号が窓を叩く。だが車内は、それとは対照的に不自然なほど静かだった。珠子が、ミネラルウォーターのボトルをそっと差し出した。「明日香、顔色......すごく悪いけど、大丈夫?」その問いかけには、どこか遠慮と不安が滲んでいた。明日香はボトルを受け取ったが、キャップを開けることはなかった。「大丈夫」そう短く答えると、視線を窓の外へと逃がした。しばらく沈黙が続き、やがて彼女は小さくつぶやいた。「私たち、どこに行くの?」その問いに、珠子も戸惑った様子で、横の男に顔を向けた。「そうだね、遼一さん......どこに行くの?」ハンドルを握ったままの遼一は、バックミラー越しに明日香を見た。その視線には、かすかな探るような色があった。「明日香は......どこに戻りたい?」問いかけというより、試すような一言だった。明日香はボトルを静かに膝の上に置き、前方を見つめたまま答えた。「道端で降ろして。あとで、樹が迎えに来てくれるから」それは拒絶ではなく、ある種のけじめだった。だが遼一は、あっさりとそれを退けた。「一人で外にいるのは心配だ。まだ夜の9時前だし......まず南苑の別荘に戻ろう。他のことは、それからでいい」その言葉に、反論の余地はなかった。明日香は唇を結び、それ以上言葉を紡がなかった。助手席で珠子がスマホを見ている。その隣で、明日香もひっそりとスマホを開いた。【心配しないで、今は大丈夫】彼女は日和にそうメッセージを送った。すぐに返事が来る。【大丈夫ならよかった】続けて送られてきたのは、驚きと興奮の入り混じった言葉だった。【そうそう、今日あなたのお兄さん、すごくかっこよかったよ!記者たちに何か言ってたし、大勢の前であなたを連れ去ったの、あれ完全に映画だった!】明日香は眉をひそめた。【彼、何て言ったの?】【うまく説明できないけど......明日ネットニュース見てみて!】語尾には、困り顔のスタンプが添えられていた。車が南苑の別荘に到着したとき、庭先の灯がほんのりと揺れていた。この時間、康生は2階の書斎にいるか、あるいはまだ外か。明日香は、彼に会わないことを心
かつて、明日香と藤崎樹の関係は、同じ学校の生徒たちの間でも話題にすらならなかった。だが今、彼女の存在は否応なく視線を集めていた。以前は透明な空気のような存在だった明日香が、いまや藤崎樹の彼女として校内の空気すら変えている。樹が自分を気遣い、早く家に帰らせたいのだと知っていた。けれど、その特別扱いを求めてはいなかったし、自分のために元々決められていたルールを変える必要もない、というのは正直な気持ちだった。ただ静かに、残りの学期を過ごしたいだけだったのに。校門を出た瞬間、激しいフラッシュが、彼女の視界を焼いた。押し寄せる記者たち。カメラのシャッター音が重なり、まるで戦場のようにマイクが突きつけられる。「月島さん、藤崎グループの社長とはいつから交際を?」「昨夜、藤崎社長があなたを探して大騒ぎになったと聞きましたが、本当ですか?」「その夜、あなたはどこに?」質問の波が、怒涛のように押し寄せる。明日香の足がすくむ。肺に空気が入ってこない。喉が締め付けられ、声が出せなかった。珠子は人混みに押し流され、日和だけが彼女の前に立ちふさがった。「やめてください!これ以上近寄らないで!」必死に声を張り上げても、記者たちは遠慮なくカメラを構え続ける。「質問を答えていただけますか、月島さん!」「お願いします......!」そのとき――「みなさん!」鋭く、突き刺さるような男の声だった。その一声で、場の空気が一瞬にして凍りついた。明日香の顔は少し青ざめていた。彼女はこんな経験をしたことがなかった。樹も康生も、記者の取材を受けることはほとんどなかった。振り返る記者たちは、声の主のオーラに圧倒され、静かになって道を開けた。そして、その中心に立っていたのは、遼一だった。明日香はぼんやりと彼が近づいてくるのを見つめた。その姿は、どこか現実離れしていた。空気が歪んでいるような、時空が重なるような......まるで、長い間封印されていた前世の記憶が甦るかのようだった。あれは、遼一と結婚して2年目のことだった。外から見れば、誰もが羨む理想の夫婦。彼はパーティーにも自分を同伴させ、世間には微笑みを振りまいていた。誰もが明日香が「遼一の妻」であることを知っていた。だが、その裏で、明日香は知っ