明日香はブランコに腰かけたまま、ただ夜空を見上げていた。遼一も彼女の視線を追ったが、そこには何の星明かりもない、漆黒の空が広がっているだけだった。ここ数日は天候が冴えず、月も雲に隠れていた。胸の奥でわずかな異変を感じ、遼一はそっと歩み寄った。しかし、ブランコの少女はまるで気づかぬかのように微動だにしない。やがて明日香はゆっくりと立ち上がり、別荘の方へ歩き出した。遼一は一歩も離れず、その後を追った。室内に入ると、彼女はソファの前に座り込み、リモコンを手にテレビをつけた。映し出されたのは砂嵐ばかりの画面。その無意味な光景を、光を失った瞳でじっと見つめている。午前四時。明日香はようやくテレビを消し、靴を脱いでソファに身を横たえた。胸の上で両手を組み、そのまま静かに眠りへと落ちていく。ドアの外で煙草をくゆらせていた遼一は、吸いかけを足元で踏み消すと、眠る明日香をそっと抱き上げ、階段を上った。その瞬間、彼女の体が驚くほど軽いことに気づく。藤崎家でわずかにふっくらしたかと思えば、すでに元の痩せた輪郭に戻っていた。夜明けまで二時間以上。深い闇の中、遼一は明日香をベッドに寝かせた。彼女は無意識のうちにベッドの中央へ転がり込み、かすかな物音に一度まぶたを持ち上げたものの、すぐに再び夢の底へ沈んでいった。十五分ほど後、浴室から男が現れる。下半身には明日香が使っていたバスローブを無造作に巻き、濡れた体を拭きもせず歩み出てきた。小麦色の引き締まった体には余分な肉がなく、胸元には目を背けたくなるほど深い傷痕が刻まれている。明日香は睡眠薬のせいで深く眠り続けていた。ただ翌朝、目を覚ましたとき、ベッドの端にかけられたバスローブと、隣にまだ残る微かなぬくもりに気づく。昨夜、遼一が部屋に来たのだろうか?だが、ドアも窓も、バルコニーの扉までも、すべて鍵は掛けられていた。遼一に開けられるはずがない。壁をすり抜ける術でも持っていない限り。さらに奇妙なことに、散らかっていた部屋は隅々まで片付けられていた。ただし、自分が持ち込んだスナック菓子だけは跡形もなく消えている。昨日はほとんど何も口にしておらず、空腹は胃を締め付けるほどに強くなっていた。それでも階下には降りたくない。そう思うのは、自らを閉じ込めることがもう習慣になっていたか
遼一は一言も発せず、ただ振り返って静かに階下へと降りていった。一階に着くと、芳江に短く指示を与えた。「鶏スープを作っておいてくれ。明日香が目を覚ましたら、飲ませてやってほしい」「かしこまりました」芳江は恭しくうなずいた。そこへ珠子が駆け寄り、遼一の腕をぎゅっとつかんだ。「遼一さん、まだ私の質問に答えてくれてないわ。明日香は一体どうしたの?あの数学オリンピックのこと、まだ引きずっているのかしら?本当は、まだチャンスがあるのよ」「もういい。明日香のことは俺に任せろ」心がざわついていたところへ、耳元でしつこく問いかけられ、遼一のこめかみを鈍い痛みが突いた。珠子は呆然と立ち尽くし、潤んだ瞳に今にもこぼれそうな涙をためている。遼一は幼い頃から、彼女を一度も叱ったことがなかった。たとえ彼女が間違っていても、責めるような言葉を投げたことはない。「遼一さん......私、何か間違ったこと言った?怒らないで。私はただ、明日香のことが心配なだけなの」遼一は静かなまなざしで珠子を見据えた。「食事が終わったら、予習に戻れ。ウメにはアパートへ行かせた。これからは、俺が連れてくる時以外、ここに来る必要はない」そう言い置くと、遼一は階段を上がり始めた。珠子は慌てて後を追った。「どうして?どうしてここに来ちゃいけないの?私たち、何年も一緒にここで暮らしてきたじゃない。遼一さんのいる場所が、私の家なのよ。もうとっくに、そう思っているの。あのとき私が明日香の数学オリンピックの枠を奪ったからなの?そう思うなら......今回の二次試験、私は出ないようにするから」遼一は足を止め、振り返った。その瞳には、抑えきれぬ嫌悪の色が差していたが、彼はぎりぎりまで言葉を選んでいた。「珠子......もう三歳児じゃない。何もかも俺が面倒を見てやるべきじゃない。いつまでも子供のままでいるな。ここは月島家だ。佐倉家でも、白川家でもない。自分の立場をわきまえろ。これ以上、この手の話は二度と聞きたくない」傍らで芳江が、震える手を握りしめながらちらりと珠子を見やった。よくもまあ、そんなことを言えるわね。ここを自分の家だなんて......ただの養子でありながら、本物のお嬢様気取り。まったく節度というものがない。「遼一さん、私を放っておかないで!ねえ
「母さん......どこへ行ったの?私を置いていかないで......」遼一は、その光景を前に息を呑んだ。目の前にいるのは、まるで正気を失った明日香だった。男の影がゆっくりと彼女を覆い、歩み寄っていく。「地面に跪いて、何をしている。立て」「何しに来たの?母さんが逃げちゃったじゃない......」明日香は静かに、しかし冷ややかに言った。遼一は彼女の腕を掴み、強引に立たせた。「よく見ろ。この部屋にいるのは、お前と俺だけだ」「嘘つき!確かに見たの。母さんがたくさん話しかけてくれた......疲れたら連れ出してくれるって。全部あなたのせいよ!母さんを追い払った!どうして入ってきたの!」その叫びに、遼一は初めて胸の奥に鈍い痛みを覚えた。目的を遂げるために彼女を追い詰め、狂わせ、地獄に突き落としてきた。そのはずだった。こんな感情を抱くべきではない。ましてや、明日香のために心を乱すなどあってはならないことだ。これまで「荷物」を抱えて銃弾の中をくぐり抜け、死地から幾度も生還してきた。そのときでさえ、動じず、恐れず、冷徹でいられた。すべては目的のため、手段を選ばず、必要なものを奪い取ってきた。多くの人間を利用し、数え切れぬ計画を成し遂げ、そのすべてを余裕と計算でやり遂げてきた。だが、明日香だけは違った。無残に傷つけられた彼女の姿を前にすると、心の奥に微かな憐憫が芽生えた。これが後悔というものなのか、遼一には分からなかった。彼は彼女を抱き締め、肩に押し付けた。明日香が泣き叫び、狂ったようにもがくのを、そのまま受け止めた。平然と装い、何事もなかったように振る舞うより、今はその方がまだましだった。「放して!母さんを探しに行くの!放してよ!」拘束から逃れられないと悟った明日香は、突如彼の肩に噛みついた。遼一は微動だにせず、その感情の爆発を黙って受け入れる。明日香が全身の力を込めて噛みつくと、口内に鉄のような血の味が広がった。それでも遼一は、決して彼女を離そうとはしなかった。黒いシャツの下、温かな液体が滲み、鋭い痛みが走る。十数分の膠着の末、遼一は視線を落とし、静まり返った彼女に低く問う。「もう済んだか?」その瞳には、これまで見せたことのない色が宿っていた。明日香は彼を突き飛ばし、俯い
電話の相手に気を取られている隙をつき、聖蘭は屈辱に顔を紅く染めながら、慌てて腰のスカートを引き下ろした。涙を滲ませた美しい瞳で哲朗を睨みつけ、力任せに彼を押しのけると、そのままオフィスを飛び出した。哲朗は去っていく女の背をしばらく目で追い、やがて視線をデスクに戻した。タバコを一本取り出し、ライターで火をつけると、肺いっぱいに煙を吸い込み、体内で燻る炎を無理やり押さえ込んだ。「状況からして、薬物療法と心理療法だな。だが結局は本人次第だ。抜け出せるかどうかは彼女の心の力にかかっている。もしその気がなければ、どんな薬を飲ませても、どんな処置を施しても無意味だ。それで......お前は心が揺らいだのか?」哲朗の口元に、冷ややかな嘲笑が浮かんだ。返事を待つことなく、放埒な笑い声を上げた。「ふん、こんな日が来るのはわかっていたさ。遼一......忘れるな、お前の目的を。今さら手を引いたところで、もう遅い。十二年間も明日香に薬を飲ませ続けておいて、今さら優しくしたところで、彼女がお前を許すと思うか?お前がやってきたことを、俺が一々言い聞かせてやる必要があるか?一度放った矢は戻らない。お前はただ、闇の中を突き進むしかないんだ。さもなければ......彼女に喰い尽くされるぞ」通話が切れた。遼一は無言のまま、明日香の部屋の前へと足を運び、ドアをノックした。「明日香?」隙間から覗いた室内は、漆黒の闇に沈んでいた。灯りは消え、生活の気配はない。また、ひとりきりで部屋に籠もり、陽の光を拒んでいる。明日香は、ただ膝を抱え、部屋の隅でうずくまっていた。背後の壁は暗く沈み、彼女は何を考えているのか、自分でもわからない。床や机の上には無造作にスケッチが散らばっていた。キャンバスや画用紙に鉛筆で描かれたのは、ロングスカートを纏い、上品で優雅な雰囲気を漂わせる女性のシルエット。しかし、どの絵も顔の部分だけが空白のままだ。それは、夢の中で見た、母の姿だった。「明日香ちゃん......疲れたの?」暗闇の中、優しい声が耳元に響く。視線を上げると、微かな光の中、ベッドに腰掛ける女性の姿があった。その声は、紛れもなく母のものだった。明日香は闇の中に一筋の希望を見いだしたように、膝で床を進み、涙に濡れた瞳で女性を仰ぎ見た。「母さん。やっと来てくれた
明日香は、父から叱責されると覚悟していた。しかし予想に反し、家には父の姿はなかった。江口が妊娠したのだという。遼一の話では、すでに二ヶ月以上が経っており、康生はそれが自分の子であると疑うことなく信じていた。今、康生は江口を伴ってシンガポールへ療養に出かけており、この家には明日香ひとりが残されることとなった。この日々、康生は彼女の生死すら気に留めなかった。ほんのわずかに抱いていた期待も、その瞬間に跡形もなく崩れ去った。馴染み深く、それでいてどこかよそよそしい大広間へ足を踏み入れると、ウメが涙ぐみながら近寄ってきた。「明日香、この間は......外で、ずいぶん苦労したでしょうね」明日香は、冷ややかな視線を返した。もしこの人が本当に自分を案じ、子のように思ってくれていたのなら、なぜ、あの牛乳に薬を仕込んだのか。今さら心配そうな顔をして、何を気遣うふりをしているのか。......一体なぜ。ウメも遼一の側近のひとりだ。彼女の周りに、純粋な誠意で接してくれる人など、果たしているのだろうか。明日香はそっとウメの手を払いのけ、その眼差しはもはや赤の他人を見るように冷たかった。言葉を交わす気力すら湧いてこない。階段を上がる。かつては家族のように思っていた相手ですら裏切る。そう悟った瞬間、もう向き合うことはできなかった。遼一は外出前、芳江に明日香の世話を任せていた。今の彼女は情緒が不安定すぎると判断し、ウメは先にガーデンレジデンスへ行かせている。家に戻るや、明日香がまずしたのは、スナックやパンなど腹を満たせる食べ物を抱えて部屋にこもることだった。そして、誰かが入ってこないよう、ベッドサイドテーブルや椅子など動かせる家具すべてをドアに押し当てた。その行動も言葉も、常軌を逸していた。自分でもわかっている。こんなふうになりたくはない。狂気に飲まれてしまうのが怖くて、せめてこのやり方で自分を保とうとしていた。この空虚な場所から、抜け出したい。今の彼女を救える人は、もう誰もいない。救えるのは、自分だけだ。カーテンを引き切り、部屋を漆黒に沈めてようやく、わずかな安心が胸に宿った。食事の時間、芳江が料理を運び、階上でノックした。しかし返事はない。何度繰り返しても同じだった。この部屋は防音がよく、ノック
アパートは学校からほど近い場所にあり、ここ数日、彼女は一歩も外に出ていなかった。久方ぶりに活気あふれる街並みを目にすると、明日香の胸にほんの少しだけ明るさが差し込む。だが、携帯電話を失くしたことで、彼女は改めて気づいた。自分のことを案じ、連絡をくれる人間など、今の自分には一人もいないのだと。連絡を取り合える友人も身近にはおらず、彼女の世界は、誰よりも静まり返っていた。気がつけば、足は自然と、かつて淳也に連れてきてもらった馴染みの路地へと向かっていた。なぜここに来たのか、自分でもわからない。振り返り、そのまま立ち去ろうとしたとき、中から四、五十歳ほどの女性が洗面器を手に現れ、明日香の姿を見た瞬間、ぱっと表情を変えた。「あんた、見覚えがあるよ。淳也の友達だろ?」明日香は小さくうなずいた。「ちょうどいいわ。あの子が『預かってくれ』って言ってた物があるんだけど、こんなに日が経っても取りに来ないから......待ってな、今持ってくる」預かった物?一体なんだろう。前にここで食事をしたとき、店主には会ったが、この女将と顔を合わせた覚えはない。どうして自分を覚えていたのか、不思議に思いながら待っていると、女将は黒い箱に淡いピンクのリボンを結んだ贈り物を手に戻ってきた。「淳也が行く前に、あんたに渡せって言ってたんだよ。もう来ないんじゃないかって思ってた」「行くって......どこに?」「お母さんを連れて、ロシアで治療を受けるってさ。長いこと帰ってこないだろうって......知らなかったの?」明日香は、初めてその事実を知った。「ありがとうございます」「そんな、かしこまらなくていいよ」ちょうどそのとき、店の奥から客の声が飛んだ。「女将さん、麺おかわり!」「はい、すぐ!」箱の中身が気になった明日香は、公園へと足を向けた。ベンチに腰を下ろし、膝の上に箱を置いた。そっとリボンを解き、蓋を開けると、中には淡いピンク色の毛糸で編まれた手袋が入っていた。タグもなく、きっと手作りなのだろう。もしかして、あの優しい澪さんが編んでくれたのだろうか。それは、二度の人生を通じて、彼女が受け取った中で最も温もりを感じる贈り物だった。胸の奥に小さな波紋が広がった。淳也との約束を守れなかった。それだけ