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三か月後、故郷の菜の花畑。澪は白い麻のワンピースをまとい、髪には淡い黄色の野花を一輪差していた。ウェディングドレスも、招待客もいない。ただ、見渡すかぎり広がる黄金色が、風に揺れて波のようにきらめいている。まるで大地そのものが、二人にそっと祝福を贈っているみたいだった。陽向のスーツのポケットには、いちごキャンディーがぎっしり詰まっていた。緊張のあまり、あぜ道でつまずきそうになった陽向を見て、澪は笑いながら、涙をこぼした。「澪」陽向は彼女の傷だらけの手首をそっと握り、痛ましい傷跡に唇を落とす。「君は――」「いいよ」澪が言葉を遮り、つま先立ちになって陽向の額に自分の額を寄せた。「百回も生き死を繰り返すずっと前から、私はもう、あなたのものだったんだから」指輪はなかった。陽向は草の茎で小さな輪を編み、それを澪の薬指にはめた。「帰ったら、ちゃんとしたのを買うよ」「これが本物よ」澪は微笑みながら、陽向の手を自分の胸に当てた。遠くでは、かまどの煙が細く立ちのぼっていた。夕日が二人の影を長く伸ばし、やがてその影はひとつに溶け合っていった。……そして、海の向こう――アイスランド。知也は黒い砂浜に立っていた。夜空ではオーロラが、緑のベールのように静かに揺れている。「伝説ではね、オーロラはいちばん強い想いを連れ去ってくれるそうですよ」ガイドが笑いながらそう言った。知也は顔を上げ、その幻想的な光をただじっと見つめた。ふと、澪の声が脳裏をかすめる。「オーロラってさ、システムの転送エフェクトみたいだよね」結局、最後まで彼女の代わりにこのオーロラを見届けることになったのかもしれない。吹雪が強くなってきた。知也は静かに踵を返し、空港へ向かって歩き出した。背後には、新雪にすぐ埋もれていく足跡だけが残っていた。
窓の外に、黒い影が一つ、音もなく立っていた。知也はガラス越しにその光景を見つめていた。澪が陽向の腕の中で崩れ落ち、泣いている。痩せた肩が震え、風に揺れる枯れ葉のように儚かった。包帯の白さが目に刺さる――自分を傷つけてまで、もう二度と戻りたくないと訴えているようだった。拳を握りしめる。指の関節が白くなる。けれど、心の底から湧き上がってきたのは怒りではなかった。それは、息を詰まらせるような鈍い痛みだった。思い出す――雪の中、膝をつき、震える体で自分のそばに居続けた澪。高熱で意識を失うまで凍えながら、それでも離れようとしなかった。胃出血の時も、イチゴ飴を手に握らせて笑っていた。「薬を飲んだあと、これを食べると一番甘いの」そう言って。あの三年間、狂ったように探し回った。最後には仏の前で額が割れるほど頭を下げ、ただ神に返してくれと祈り続けた。かつて誓った。永遠に愛し、守り抜くと。だが今、自分は彼女を絶望へと突き落とした張本人になっている。「氷室社長、まだ続けますか?」背後で部下の低い声がした。知也は答えなかった。喉が締めつけられ、視界がぼやける。澪が顔を上げた。その視線は、窓の向こうにいる知也を貫く、まるで最初から誰もいない空間を見ているようだった。――なんて、馬鹿げている。冷酷で強引であれば、奪い返せると思っていた。けれど、ようやく分かった。本当の愛は、所有ではない。手放すことなんだと。「……すべての手配を撤回しろ」知也はエレベーターへ向かって歩き出した。しゃがれた声が、かすかに震える。「今すぐだ」ドアが閉まる瞬間、手の甲に何かが落ちた。一瞬、動きが止まる。頬に触れると濡れていた。泣いていた。自分が。……三日後。澪の容態は少しずつ落ち着きを取り戻していた。でも手首の傷跡は、まるで消えない戒めのように残っていた。陽向はほとんど眠らず、病室に付き添い続けた。ある明け方、悪夢から目覚めた澪がふと目を開けると、陽向が彼女の手を握ったまま、眉を寄せて眠っていた。目の下の隈が濃い。そっと、その眉間に指先を伸ばした瞬間、陽向のまぶたがゆっくりと開いた。「どうした?痛むのか?」掠れた声。澪は小さく首を振り、逆に問いかけた。「どうして……私を諦めないの?」陽向は黙ったまま、ポケットから
記者会見の騒ぎがようやく落ち着き、陽向の心理カウンセリングセンターが再び扉を開いた。謝罪に訪れる患者が後を絶たず、マスコミの論調も疑惑から称賛へと変わっていった。すべてが順調に回り始めたように見えた。けれど、澪の胸の奥にはずっと引っかかるものがあった。知也が最後に闇へと消えていったあの背中。それが今も、落ちてきそうな刃物のように心に浮かんでいる。……ある曇り空の午後。澪が一人でカルテを整理していると、チャイムが鳴った。顔を上げると、白衣姿の男が二人、入り口に立っていた。険しい顔つきだ。「雨宮澪さんですね?」片方の男が書類を差し出した。「精神保健福祉法に基づき、同行していただきます。強制的な治療が必要と判断されました」澪の指先が一気に冷たくなった。書類に目を落とすと『転生者精神障害診断書』だった。有名な精神科病院の朱印が押されている。診断結果が、針のように胸に突き刺さった。重度の妄想性障害および自殺傾向。即時入院を推奨。続く説明文が、ナイフのように澪の心を抉った。患者は長期間にわたり「システムミッション」「転生世界」といった架空の設定に没入し、現実との区別がつかない状態。現実の人間関係を「救済」「崩壊値」といった妄想物語へと歪曲し、自身が「九十九回死亡した」と確信している。また、自傷行為を「システムからの罰」と位置づけ、自己傷害を正当化している。澪の呼吸が止まった。この診断書は、自分の全ての記憶を否定している。もしシステムが幻覚だというなら、じゃあ知也は誰?確かに彼の体温に触れた。雪の中で泣き崩れる姿を見た。それどころか、スタンガンで、お腹の子を殺された。「氷室知也はこの世界に存在しない!あなたたちは――」顔を上げると、医師は冷たい声で遮った。「雨宮さん、あなたの言う氷室知也は、氷室グループの代表取締役ですよ。彼はあなたのことなど知りません。三年前、あなたが統合失調症で初めて入院されたとき、病室のテレビで流れていた彼のインタビューをミッションのヒントだと思い込んでいたんです」澪は雷に打たれたように固まった。「嘘よ!こんなの捏造だ!」後ずさる足が震える。「私は病気なんかじゃない!」「ご協力ください」もう一人が前に出てきた。有無を言わせぬ口調。「さもなくば、強制的な措置を取ります」澪の呼吸
一週間後、ある有名メディアが突然ニュースを流した。【衝撃!人気心理カウンセラーの瀬川陽向が規則違反の治療に関与、患者が自殺未遂!】記事には、ぼやけた監視カメラの映像が添えられていた。画面の中で、若い女性がビルの屋上から身を投げ、消防マットに落ちて救われていた。そして、その映像の片隅に、確かに陽向の姿が映っていた。報道によれば、その女性は陽向の患者で、誤った心理介入によって精神が崩壊し、最終的に自殺を図ったという。ニュースが出るや否や、世論は騒然となった。陽向の心理カウンセリングセンターの入り口は、あっという間に記者で埋め尽くされた。フラッシュの光が眩しすぎて、目を開けていられないほどだった。「瀬川先生、患者の自殺行為について、どう説明されますか?」「治療方法に重大な問題があったと認めますか?」陽向は入り口に立っていた。表情は平静だった。けれど、けれど澪には、張りつめた肩の下に怒りを必死に押し込めているのが分かった。「この件は、きちんと調べる」陽向は低い声でそれだけを答えると、すぐに澪の手を引いて室内へ戻り、ドアに鍵をかけた。澪はパソコン画面に溢れる誹謗のニュースを見つめ、指がわずかに震えた。「……これ、本当じゃないわよね?」小さな声で問うと、陽向は静かに首を振った。その目には、怒りと疲労の両方が滲んでいた。「あの女性には確かに会った。でも彼女は重度の広場恐怖症で、窓際に立つことさえできなかった。飛び降りなんて、あり得ない」澪の胸の奥が、ずしりと重くなった。「……氷室知也だ」拳を握りしめる。爪が掌に食い込むほど強く。澪は知っていた。あの世界で、知也がどんなやり方で世論を操り、競争相手を次々と破滅させてきたかを。「彼が全部、仕組んだのよ……」やがて、ネット上に「さらなる被害者」の告発が次々と現れた。陽向が催眠を悪用して患者を操っていた、と書き立てる者。さらには治療の録音と称する音声データをアップする者まで現れた。それらの内容は文脈を無視して切り取られ、まるで陽向が患者を自殺へ誘導しているかのように聞こえた。センターの電話は鳴り止まず、予約はすべてキャンセルされ、入り口には卵を投げつける者まで現れた。ガラス窓が砕け散り、床一面に破片が飛び散る。澪は散らかり放題のオフィスの真ん中に立ち尽くし、黙々と
澪の体がその場で固まり、次の瞬間、指が無意識に陽向の袖をきつく掴んでいた。目の前の男の骨の髄まで知り尽くしていたはずの顔が、まるで見知らぬ他人みたいに、遠く感じられた。雨水が知也の髪先から滴り落ち、泥水と混じって頬を伝う。その色は、かつて澪が彼のために流した涙と同じだった。陽向は澪の震えに気づき、そっと彼女の手を握った。言葉はなかった。ただ、その掌に込められた温もりが答えだった。一歩前へ出て、陽向は澪の前に立った。その目は冷静で、けれど鋭かった。「どなたが知らないが、自重してもらえる?」知也の視線がようやく澪から外れ、陽向に落ちた。瞳が濁り、拳がぎしりと鳴った。「……お前は誰だ?」「彼女の婚約者だ」陽向の声は低く落ち着いていた。それだけで、知也の心臓が音を立ててひび割れた。「婚約者……?」知也が笑った。その笑いには、壊れた歯車のような軋みが混じっていた。「ありえない!澪は俺の妻だ!彼女は俺のもとに戻るために、九十九回も死んだんだ!どうして……どうして……!」声は次第に掠れ、やがて嗚咽に変わった。澪は深く息を吸い、陽向の背後から一歩踏み出した。知也を見る目は水面のように澄んでいて、そこにもう愛も憐れみもなかった。「氷室知也。私たちは、とっくに終わったの」「嫌だ……」知也は膝をつき、泥水が跳ねた。伸ばした手が澪の裾を掴もうとしたが、澪は静かに一歩引いた。知也の指先が宙に止まり、絶望がその目を満たした。「澪……俺が間違ってたのは分かってる。本当に分かってるんだ。毎日、毎日、後悔してる……」しゃがれた声が雨に溶け、ほとんど聞き取れなかった。涙が知也の頬を伝い、雨水と一緒に地面へ落ちた。「君を騙すべきじゃなかった……傷つけるべきじゃなかった……それに……自分の手で、俺たちの子どもを殺すべきじゃなかった……!」言葉の終わりに、彼の喉の奥から瀕死の獣のような嗚咽が漏れた。澪の指先がかすかに震えた。封じ込めていた記憶が、胸の奥で泡のように浮かび上がる。澪は目を閉じ、呼吸を整えた。「知也。過去はもう過去よ。私は今、ちゃんと幸せに生きてる。だから……私を解放して」「解放……?」知也はよろめきながら立ち上がった。「じゃあ誰が俺を解放してくれる?澪、分かるか?君がいなくなってから、俺はあらゆる方法で君を探した!財産を全
三ヶ月後、二人は共同で小さな心理カウンセリング事務所を開いた。陽向は専門的な治療を担当し、澪はその共感力で傷ついた心を癒やしていった。澪はいつも、患者が崩れそうになる前にちょうどいい温度の花茶を差し出した。子どもが泣き出したときは、ポケットからイチゴ飴を取り出した――それらはすべて、陽向があらかじめ準備していたものだった。けれど彼は、決して自分の功績を口にすることはなかった。……ある深夜、澪がファイルを整理していたとき、陽向のノートに一枚の紙が挟まっているのを見つけた。そこには、澪の好みがびっしりと記されていた。【胃が冷えやすい。冷たい飲み物は禁忌。雨の日は頭痛を起こしやすい。ペパーミントオイルを常備。画材はトンボ鉛筆限定。彼女はあの木製の軸が好きだから……】筆跡は整然としたものから乱雑なものまで混ざっていた。最後の行は何度も塗りつぶされ、かすかに「愛」という字の輪郭が浮かんでいた。澪の心臓が、一拍遅れて強く鳴った。……澪は事務所の倉庫でしゃがみ込み、古いファイルを整理していた。湿った空気が紙をわずかに波打たせていた。山積みのカルテが床に滑り落ち、その下から黒いノートが現れた。陽向が決して澪に触らせなかった、「患者のプライバシー記録」だった。けれど澪が拾い上げた瞬間、ノートは「ぱたん」と音を立てて開いた。そこには、びっしりと澪に関する記録が書かれていた。【5月3日 澪は今日、ご飯を半膳多く食べた。ご褒美:明日イチゴケーキを買う】【5月7日 彼女は悪夢を見た。対策:お茶にラベンダーオイルを加える】【5月15日 氷室の古い写真を37分見つめていた。提案:新しい猫カフェに連れていく】最後の行は、強く消され、また書き直されていた。【彼女にキスしたい。だめだ】澪の指先がその行の上で止まった。心臓が跳ね上がった。「医者のノートを盗み見たら、罰金だぞ」背後から陽向の声がして、その声にはわずかに焦りが滲んでいた。澪が振り返ると、陽向の白いシャツの袖口には絵の具がついていた。腕の中には、しおれた観葉植物――それは、澪が先週何気なく「好き」と言ったミントの草だった。今、陽向が大切そうに抱えている。葉にはまだ、雨粒が光っていた。「わ、私……」澪の耳たぶが熱くなった。「これがカルテだと思って……」