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春ぬく、届かない陽だまりへ

春ぬく、届かない陽だまりへ

By:  むぎこCompleted
Language: Japanese
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結婚式を目前に控えたある日、京藤文彦(きょうとう ふみひこ)は新人インターンとの夜の密会をスクープ記事に掲載された。 逆上した朝日陽子(あさひ ようこ)は、気分転換に飛行機で旅立ったが、飛行途中、機体は突然、激しい乱気流に襲われる。 着陸するまで不安でならなかった彼女は、足が地につくが早いか、すぐさま両親に電話をかけた。 だが、応答はなく、聞こえてきたのは空き番号の通知音だけ。電話を切り、画面を確認した彼女は、表示された日付が5年後となっていることに気がついた。

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Chapter 1

第1話

結婚式直前、京藤文彦(きょうとう ふみひこ)は新人インターンとの夜の密会をスクープされた。

逆上した朝日陽子(あさひ ようこ)は、気分転換に飛行機で旅立った。しかし、なんと5年後の世界に来てしまったのだ。

彼女はまず両親に電話をかけたが、その番号はもう使われていなかった。次に開いたノートパソコンには【当該IDは死亡により抹消されました】という通知画面――それを見た瞬間、足元がぐらついた。

俯くたびに、涙が雫となってスマホに落ちる。すると、その衝撃でスリープ画面が光りだした。映り込んだのは、文彦とのウェディングフォトだ。

ようやく状況を飲み込んだ陽子は、慌てて画面ロックを解除し、文彦への通話ボタンを押す。

受話器からは発信音だけが響く。彼女は息を殺してその音を数え続く。

すると、次の瞬間。聞き慣れた声が耳の奥に響いた。「もしもし?」

張り詰めていた心が一気に緩み、困惑と悔しさが堰を切ったように溢れ出る。「あなた、何かおかしいことが起きてる……怖い……今、迎えに来てくれる?」

文彦は一瞬の沈黙の後、それから冷静に答える。「わかった」

……

懐かしいオフィスにたどり着いて、初めて陽子は安心感を得た。彼女は文彦に駆け寄り、その胸に顔を埋めて声を詰まらせた。

しばらくして、文彦は眉をひそめて彼女を離した。

「タイムスリップした、だと?」

陽子が慌ててうなずくと、彼はため息混じりに笑った。

「相変わらずだな、でたらめを平気で言うのは。五年前に逃げ出したくせに、今度はとんでもない言い訳を持って来やがって」

「私の言うこと、信じないの?」ついこの間まで一緒に結婚写真に収まっていたというのに、今目の前の男は見知らぬ他人のように冷たかった。

「どう信じろというんだ?

五年前、お前が消えてから、俺たちの婚約は周りの笑いものになった。お前の両親は必死に探し回り、疲労運転で事故を起こして他界したんだぞ」

陽子は苦しげに目を閉じ、震える体を必死に堪えた。

ようやく声を取り戻して問うた。「それなら…あなたは、この五年間、私を探してくれたの?」

文彦の視線は冷ややかなまま、沈黙を貫いた。

その時、優しい女の声がドアの方から聞こえた。「文彦、差し入れだよ……」

陽子の体は一瞬で硬直し、血の気が引いていくのを感じた。

振り向く勇気もなかったが、背後から近づく足音がはっきりと聞こえた。

文彦は来た女性を優しく肩に抱き、口調を和らげて言った。「見ての通り、俺は結婚している。こちらが妻の京藤美優だ」

陽子の目に映ったのは、まさしく五年前、文彦と深夜に一緒にいるところをスクープされたあのインターンだった。

京藤美優(きょうとう みゆう)はルーズ感でオシャレな髪型に、上品な微笑みを浮かべて言った。「ごきげんよう」

陽子は足元が崩れるような衝撃を覚えた。

この一日で、彼女は両親を失い、そして愛する人をも失ってしまったのだ。

陽子はよろめくように振り返り、ふらふらと外へ歩き出した。

「陽子」

文彦の口調は相変わらず冷静だった。「お前、行く当てがあるわけでもないだろ。

……昔の情けだ。とりあえず俺の家に住みなさい。今後のことは追って考えよう」

美優が陽子の手を握り、優しく囁く。「ええ、何があったのか詳しい事情はわかりませんけど、お辛そうですね。

何かお困りでしたら、一度私たちについて来てくださいませんか」

胸の奥をえぐられるような鈍い痛みが陽子を襲った。

昔、文彦が「一緒に家に帰ろう」と言ったのは、二人の愛の巣だった。

今、彼が口にする「家」は、他の女との生活の場だ。

そうして陽子は地下駐車場へ連れて行かれた。

文彦が助手席のドアを開けると、陽子は無意識にそこへ座った。

少しだけ眉をひそめたが、文彦は何も言わず、代わりに美優を優しく後部座席に導いた。

手のひらに力を込め、自身の不行儀に気づいた陽子は、いたたまれない気持ちになった。

文彦の助手席は、確かに昔は彼女だけの専用席だった。

けれど今、美優こそが彼の妻なのだ。

エンジンがかかり、車内には陽子の好きだったジャズやビートではなく、穏やかなインストゥルメンタルが流れていた。

車は陽子の記憶にある通りの道を進み、ついに見覚えのある一軒家の前で停まった。

ここは、二人がこれから新婚生活を築くはずだった家。

室内から庭まで、すべてが陽子の好みで設計され、飾られていた場所。

今は、すっかり見知らぬ景色に変わっていた。

陽子は一階の客室に案内されたが、腰を下ろす間もなく使用人たちが入ってきた。

「朝日さんですよね。奥様がご妊娠中のため、危険物の有無を確認させていただきます」

「妊娠」という言葉が針のように陽子のこめかみを刺し、目の前が一瞬揺らめいた。

まさか子どもまで……?

五年前に花嫁となるはずだった自分は、今ではよそ者同然の扱いだ。

無反応の陽子に、使用人はためらいなくカバンに手を伸ばした。「失礼いたします」

掌に爪が食い込む痛みで、ようやく陽子は我に返った。

以前はここで女主人でありながら、今では危害を加えるかもしれない嫌疑すらかけられている。

顔を上げ、冷たく言い放った。「文彦の指示なの?」

「はい、旦那様のご指示で、奥様の安全を第一にと」

「それなら、本人に直接調べさせてください」

その言葉に使用人たちはたじろぎ、互いに顔を見合わせるとその場を離れた。

部屋に独り残され、押し寄せるのはまたしても見捨てられた感覚だった。

陽子はドアに背を凭せて座り込み、膝を抱えて泣きじゃくった。

涙で滲む視界の隅、床に落ちたカバンから航空券の切れ端が見えている。

泣き声が止み、それを手に取って確認した瞬間、鼓動が早まった――

日付欄には【7日後、2020年9月30日帰り】と明記されていた。
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第1話
結婚式直前、京藤文彦(きょうとう ふみひこ)は新人インターンとの夜の密会をスクープされた。逆上した朝日陽子(あさひ ようこ)は、気分転換に飛行機で旅立った。しかし、なんと5年後の世界に来てしまったのだ。彼女はまず両親に電話をかけたが、その番号はもう使われていなかった。次に開いたノートパソコンには【当該IDは死亡により抹消されました】という通知画面――それを見た瞬間、足元がぐらついた。俯くたびに、涙が雫となってスマホに落ちる。すると、その衝撃でスリープ画面が光りだした。映り込んだのは、文彦とのウェディングフォトだ。ようやく状況を飲み込んだ陽子は、慌てて画面ロックを解除し、文彦への通話ボタンを押す。受話器からは発信音だけが響く。彼女は息を殺してその音を数え続く。すると、次の瞬間。聞き慣れた声が耳の奥に響いた。「もしもし?」張り詰めていた心が一気に緩み、困惑と悔しさが堰を切ったように溢れ出る。「あなた、何かおかしいことが起きてる……怖い……今、迎えに来てくれる?」文彦は一瞬の沈黙の後、それから冷静に答える。「わかった」……懐かしいオフィスにたどり着いて、初めて陽子は安心感を得た。彼女は文彦に駆け寄り、その胸に顔を埋めて声を詰まらせた。しばらくして、文彦は眉をひそめて彼女を離した。「タイムスリップした、だと?」陽子が慌ててうなずくと、彼はため息混じりに笑った。「相変わらずだな、でたらめを平気で言うのは。五年前に逃げ出したくせに、今度はとんでもない言い訳を持って来やがって」「私の言うこと、信じないの?」ついこの間まで一緒に結婚写真に収まっていたというのに、今目の前の男は見知らぬ他人のように冷たかった。「どう信じろというんだ?五年前、お前が消えてから、俺たちの婚約は周りの笑いものになった。お前の両親は必死に探し回り、疲労運転で事故を起こして他界したんだぞ」陽子は苦しげに目を閉じ、震える体を必死に堪えた。ようやく声を取り戻して問うた。「それなら…あなたは、この五年間、私を探してくれたの?」文彦の視線は冷ややかなまま、沈黙を貫いた。その時、優しい女の声がドアの方から聞こえた。「文彦、差し入れだよ……」陽子の体は一瞬で硬直し、血の気が引いていくのを感じた。振り向く勇気もなかったが、背後から近づ
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第2話
陽子の胸は高鳴っている。あと七日。たった七日で2020年に戻れる。すべてを元通りにできる。彼女は素早く立ち上がり、チケットを枕の下にしっかりと隠した。夜が深まっても、陽子の眠りは訪れなかった。目を閉じれば、文彦と美優が寄り添いながら安らかに眠る姿が浮かんでくる。のどが渇き、無意識にナイトテーブルへ手を伸ばした。以前なら文彦が毎晩、水を用意してくれていたものだった。今、そこには何もない。止むなくリビングまで水を汲みに行った。コップを満たして振り向くと、階段から足音が聞こえてきた。文彦は濃い紺色の部屋着姿で、顔には依然として表情がなかった。陽子のそばを通り過ぎる際、彼女には一瞥もくれない。そのまま彼女のことを無視した。「こんな時間に、まだ起きている?」陽子はコップを握りしめ、沈黙を破るように言った。「ああ」文彦は歩みを緩めることなく、「美優は妊娠初期で、夜中に空腹になるから、ミルクを温めに来た」と答えた。その言葉で、彼女の言いたいことはすべて喉元で止まった。陽子はうつむいてうなずき、「そう……私、部屋に戻るね」と呟いた。すると文彦が彼女を呼び止める。「待て。あのペンダント、返してほしい」彼はわずかに眉をひそめ、陽子の首元を指さした。陽子は一瞬、立ちすくんだ。そして、そのなめらかなペンダントを握った。これは京藤家に伝わる宝物で、文彦がプロポーズの日に、自ら彼女の首にかけてくれたものだ。「このペンダントで、永遠の絆を結ぼう」そう言った彼の声が、今も耳に残っている。なのに今……彼はそれを返せと言う。美優に渡すためだろうか。陽子は涙をこらえ、ペンダントを外してそばのダイニングテーブルに置いた。そして、自室へと戻って行った。部屋のドアを閉め、陽子は明かりもつけずに立ち尽くした。胸の奥が苦しく、喉元まで押し寄せる切なさ。彼は本当に美優を愛しているのね。闇に包まれながら、そっと手を下腹部に当てる。「じゃあ……この子はどうなるのだろう」妊娠がわかったあの日、文彦にどんな顔で伝えようかと胸を躍らせていた。そんなとき、彼らの密会写真が届いたのだった。仕事なのか、接待なのか。言ってくれれば、信じたのに。彼は何の説明もくれなかった。だから意地になって、あの飛行機に飛び乗った。時空を越え、
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第3話
陽子の目がわずかに揺らめく。それを読み取った文彦は、冷たい口調で言い放つ。「勘違いしないでくれ」「これは京藤家と朝日家の旧交によるものだ。勝手な期待を抱くな、それ以上に」「……ええ」陽子の声が詰まる。「わかった。ありがとう」部屋に戻り、わずかな荷物を見て陽子は呆然とする。あの日、勢いで飛行機に乗った。スーツケースに替えの衣服が二三枚しか押し込んでいない。墓参りにふさわしい服装など入っていなかった。突然、ノックの音が。「陽子さん、お邪魔しても?」陽子が答える前に、ドアは開けられた。美優が先頭に立ち、二人の使用人がコーディネートされた数着の服を手にしている。「お服が少なそうだったから、これ全部、文彦が私に用意してくれたものですが、まだ着ていないんです。ご両親のお墓参りなら、きちんとした服装が良いかと」陽子はうつむき、指をもじもじさせる。昔、文彦も同じように彼女を大切にしていた。お気に入りのブランドから新作が出ると、必ず彼女のサイズを揃え、クローゼットに並べてくれたものだ。無反応の陽子に、美優は使用人たちに服をクローゼットに掛けるよう合図する。「では、陽子さん自分で選んでね。文彦が待っていますので」彼女は突然照れくさそうな表情を浮かべ、少し誇るように付け加える。「文彦って不器用で、いつもネクタイを結べないです。私が結んであげないと出かけようとしないのです」足音が遠ざかる。陽子はクローゼットの服を見つめ、涙がにじんでくる。これが彼らの夫婦の日常なのか?それならなぜ、文彦との八年間の恋愛には、こんな甘美な瞬間が一度もなかったのだろう?陽子は結局、自分の持ってきた服を着ることにした。文彦から手配された車に乗ると、バックミラーに見覚えのある顔が映っている。「山田さん?」振り返った運転手の山田(やまだ)も驚いた様子で、「朝日さん?いつお戻りになったんです?」陽子は言葉に詰まる。タイムスリップのような不思議なことをどう説明すればよいのか。山田は懐かしそうに話し始めた。「実はね、朝日さんが婚約を破棄してから、旦那様は使用人を総替えにされたんです。俺だけは残してもらえましたが、朝日さんの話題は一切禁じられてましてね。それから半年後、奥様とご結婚になりました。お気遣いほどは、朝日さんへのそれ以上
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第4話
陽子は呆然とする。まさか、自分の妊娠が賭けの対象になっていたなんて。返事をする間もなく、文彦が彼女の手首をつかむ。「陽子、本当に図々しい女だな。五年前に婚約を破棄しておきながら、今度は他人の子を孕んで俺を頼るとは……養父探しでもしてるつもりか?」冷えた声には、嘲りが滲んでいる。「狂ったふりをしてるが、俺が既婚者だとは思わなかったんだろう?何の目的で戻って来たか知らないが、美優や子を傷つけようとするなら」文彦は一拍置き、視線をさらに鋭くした。「決して許さない」その不信に満ちた眼差しを受け、陽子は必死で涙をこらえる。「もし……この子があなたの子どもだと言ったら?」パシッ!美優の手からカップが落ち、床の上で粉々に砕け散った。彼女の目には、うっすらと涙がにじんでいる。文彦はすぐに陽子の手を放し、美優のもとへ駆け寄った。「大丈夫か?どこか怪我は?」美優が小さく首を横に振ると、文彦は安堵の息をつき、そっと彼女を抱き上げた。陽子に向けられた視線は、氷のように冷たかった。「正気か?俺とお前は五年も会っていない。子供ができるわけないだろ?それとも、俺がそんなに簡単に騙されると思ってるのか?これ以上、妻との関係を壊そうとするなら……容赦しない」美優は悔しそうに文彦の首に顔を埋める。「陽子さんを責めないで。追い詰められたからそう言うんだとわかってる。あなたのこと信じてるから」その言葉に、文彦の表情がふっとやわらぎ、彼はためらうことなく美優を抱いたまま、階上へと消えていく。使用人たちは、割れたグラスを片付けながら、ひそひそと噂話を始めた。「ねえ、あの人、本当に頭がおかしいんじゃない?旦那様は結婚以来、一度も外泊したことないし、どんなに仕事が忙しくても必ず奥様と食事をとるって、彼女に子どもができるわけないでしょう」「ドラマ見過ぎよ。誰の子かもわからないのに、旦那様の子だって言い張るなんて。奥様の座を狙ってるか、お金目当てかどっちかね」夕食の時間になっても、二人は現れない。使用人たちは一列に並び、まるで監視する陽子の食事を見張っている。訝しげな視線を向ける陽子に、一人の使用人がかしこまって言った。「奥様のお気持ちをお察しして、本日から朝日さんとは同席されないことになりました。さらに、奥様とお子様への不測
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第5話
駆けつけた使用人たちが彼女の異変に気づき声をかける。「朝日さん、どうなさったのですか?」陽子は床に倒れ、青ざめた顔で苦しみながら、使用人のズボンの裾をつかむ。「文彦を、呼んで……」使用人が急いで二階へ駆け上がったが、すぐに慌てた様子で戻ってきた。「旦那様は……『演技はやめろ、もう何も信じない』と、おっしゃって……」その言葉に、陽子の胸を鋭い痛みが貫く。体の痛みさえ霞むほど、心の底から冷え切っていく。ふと、夕食のスープに入っていたアスパラガスを思い出す。彼女は昔からアスパラガスを食べると腹痛を起こす体質だった。以前は文彦が細かく使用人に指示していたが、今この家の女主人は美優だ。彼女の体質を知る者はいない。「お湯を……一杯だけ……」陽子は喘ぎながら懇願する。使用人が温かいお湯を差し出すと、陽子は少しずつ飲んだ。胃に流れ込むぬくもりに、痛みがわずかに和らぐ。ソファの傍らで夜明けを待つ間、冷や汗で濡れた服が体温で乾き、痛みは徐々に引いていった。翌朝、ぐったりと疲れ果て、足元もふらつく。それでもお腹の子を案じ、一人で病院へ向かおうとする。玄関で文彦と出会う。「どこへ」「……病院です」陽子の声はかすかだ。「その子って、そんなに大事なのか?」彼の嘲りを含んだ声が響く。「その男は誰だ?俺を捨ててまで付き合った男の子を孕んで、今さら俺を頼るとはな」陽子の胸の中で、悲しみと悔しさが少しずつ静まっていく。彼女は振り返り、文彦をまっすぐ見つめた。「最初から信じる気がないなら、私のことはもう……あなたに関係ない」文彦の表情が、一瞬で暗く沈む。文彦は陽子の腕をつかみ、低く問い詰めた。「関係ない?陽子、よくそんなことが言えたな。八年も一緒にいたのに、結婚式の前日に逃げて、五年間も何の説明もなかった。後悔したことなんて、一度でもあるのか?ないだろう。むしろ、俺と美優が平穏に暮らしているところに現れて、全てを壊したのはお前だ!」陽子の目が怒りで赤らむ。彼女は腕を振りほどき、距離を取った。「説明したわ。信じてくださらなかったのは、あなたの方よ!確かに飛行機には乗った。でも、あのパパラッチが、あなたと美優さんの夜のデート写真を送ってこなければ、私、あんなふうに逃げたりしなかった!五年後に戻ったら、両親がもうい
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第6話
陽子は病院で「胎児は無事です」と告げられ、胸を撫で下ろした。廊下ですれ違う妊婦たちは、皆パートナーと寄り添い合っている。医師の言葉が耳に残る――「お顔の色があまり良くありませんね。妊娠中の体調変化は自然なことですが、少しマタニティブルーの傾向が見られます。この時期はご家族の支えが何より大切です。パートナーの方は……いらっしゃいませんか?お父様の存在もとても重要ですよ。お二人で散歩をしたり、ゆっくり話をしたりしてみてくださいね」陽子は静かに息を吸い込み、胸の奥の孤独を押し殺すように、自分を奮い立たせた。その瞬間、ふいにお腹の中で小さな動きを感じた。「……パパに、会いたいの?」文彦の声が胸の奥でよみがえる。「もしこの子が女の子なら、きっと君に似るだろう。それがいいな。男の子でも構わないよ。私たちの子なら、どちらでも愛せる」今、彼の視線は別の子に向いているのだろう。ナースステーションの方から、ひそひそと声が聞こえた。「写真、あの人でしょ?結婚から逃げたくせに、妊娠したら平然と元婚約者のもとに現れるなんて厚かましい」「ほんと、目の端のホクロまで同じ。知ってる?ご両親は彼女を探してる途中で事故にあったらしいよ」「まさか……じゃあ彼女が実質的に両親を殺したようなものじゃない」「殺した」という言葉が、鋭い刃のように陽子の胸を貫いた。陽子は慌ててスマホを取り出すと、自分の名前がトレンド入りしているのを目にした。【#朝日陽子 元婚約者に「妊娠押し掛け」 5年後の衝撃】見出しの下に掲載されたのは、彼女を特定できる写真。画面を埋め尽くすようにして更新される非難のコメントは、まさに濁流の如く、彼女という存在を飲み込まんとしていた。【恩知らずがよく生きてられるね】【いったい何で、二十年余りの育ての恩を捨てたんだ?】【元婚約者こそ災難だ、八年もあの女と!他人の幸せを見て悔しさで歯ぎしりしてるんだろう、よくもまあ図々しく現れたものだ】陽子は震える手で文彦に電話をかけた。最初に記事を流したのは、京藤グループの関連メディアだった。彼の指示がなければ、どうして自分の妊娠を知り得たというのか。「どうして、こんなことを……?」受話器の向こうからは、刃のように冷たい声が返ってきた。「言ったはずだ。美優を傷つけるなら許
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第7話
陽子は航空券を手に、出発しようとする。しかし玄関で、使用人に行く手を塞がれた。「申し訳ありませんが、旦那様のご指示で、奥様がお目覚めになるまで外出はご遠慮いただくことになっております」仕方なく自分で病院へ向かい、心を込めて作ったスープを手に取った。だが、病室の前では警備員に止められる。「奥様のお腹の赤ちゃんは無事でした。面会はお控えください」ガラス越しに見えたのは、青白い顔で眠る美優の姿だった。その傍らでは、文彦が一睡もしていないらしく、深いクマを刻んだ目で彼女を見守っていた。物音に気づいた文彦が顔をしかめ、病室から出てくる。彼は陽子の姿を認めると、表情を険しくした。「……何の用だ?」「お詫びです」陽子はランチジャーを差し出した。「必要ない」文彦は怒りを込めて言った。「二度と美優を傷つけるようなことはさせない――」「陽子さん?」美優が弱々しい声で呼びかける。「入ってきてください」文彦は一瞬ためらい、仕方なく道を空けた。陽子は病室に入り、穏やかな声で言った。「あの時は言い過ぎました。あなた方の生活に干渉するべきではありませんでした」そう言いながら保温ジャーの蓋を開けた瞬間、文彦が素早くその手首を掴んだ。「また、何か企んでいるのか?」「陽子さんは、私を傷つけたりしないよ」美優が優しく口を挟んだ。「ちょうどお腹も空いていたところだし……ねえ、少しだけ二人にしてもらえない?」文彦はしばらく沈黙した後、しぶしぶ背を向け、病室を後にした。陽子は苦しさを押し殺し、かつて自分の夫を奪った女に一匙ずつスープを運ぶ。美優は静かに飲み込み、唇の端に意味ありげな笑みを浮かべた。「ねえ、今『お腹が痛い』って言ったらどうなると思う?文彦はきっと、あなたがスープに何か入れたって疑うわね。五年前、あの写真をパパラッチに撮らせたのは私。あなたが逆上して出ていくに違いないって、賭けてたの。まさか当たったわ。……あの夜、私たちに何があったか知りたい?」「もうどうでもいい」陽子は静かにスプーンを置き、落ち着いた声で言う。「私は行くわ。あなたたちの幸せを祈ってる」美優の笑みがすっと消える。「遅いのよ。邪魔するなって言ったのに、あなたは来た。五年も消えていたくせに……私がどれだけ彼の心の中で自分の居場所を作ろうとしてき
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第8話
陽子は傷口が裂けるのも構わず、さっと航空券を拾い上げ、胸元に押し当てて隠した。「見間違いです」文彦の視線は、激しい反抗で傷口が再び開き、血がにじみ出ている陽子の腕に釘付けだ。警備員に支えられ、廊下を歩く陽子。床に滴り落ちる血のしずくが、文彦の瞳に一瞬の揺らぎを映した。手当てを終えると、陽子は迷いなく産婦人科へ向かう。「先生、お願いです。中絶手術をしてください。できるだけ早く……」妊娠初期であるため、薬物による処置が可能だと医師から告げられる。陽子は静かに、しかし確かにうなずいた。屋敷に戻り、彼女はベッドの縁に座ると、ためらうことなく中絶薬を飲み干した。やがて眠りの中で、美優が冷たい刃を手に、彼女の腹部を突き刺す夢を見る。痛みはあまりに鮮明で、骨の髄まで焼きつくようだ。もがけばもがくほど、赤が広がり、世界が血の海に染まっていく。そして、暗闇の奥から、巨大な手が伸びてきた。それは、文彦の手だった。文彦は怒りに震えながら、陽子をベッドから引き起こした。「警告したはずだ。それとも、どんな結果になっても構わないのか?」陽子がぼんやりした視界を必死に凝らすと、文彦が突きつけたスマホの画面に、美優からのメッセージが表示されていた。【文彦へ。このメッセージが届く頃、私はここにいません。陽子さんは、両親を失った彼女にはもうあなたを失うわけにはいかないと言いました。たとえ未練があっても、私が去らなければ私たちの子どもを無事に産ませないとまで言うのです。この五年間、あなたからいただいた幸せは一生の宝物です。そろそろ……あなたを陽子さんにお返しします】「そんなこと、私は一言も……」「ならば、なぜ彼女は体調が不安定なのに出て行くんだ!?」文彦の掌が、陽子の傷口を強く握りつぶす。紗布から鮮血がにじみ、赤い染みが広がっていった。痛みに陽子は息を呑むが、虚ろな目でまっすぐ見つめ返す。「本当に、言ってないの」文彦は、陽子が美優を追い詰めたと確信している。だが彼には気づかない。陽子の腿のあいだを伝う鮮血――それが、彼らの子どもそのものだったということに。文彦は陽子を地下室へ押し込み、歯を食いしばって言い放つ。「美優を見つけるまで、ここから一歩も出るな。もし彼女に何かあったら、お前も同罪だ」そして近くの使用人に向かって命じる
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第9話
空港に着くと、陽子は財布から現金をかき集めるように取り出し、運転手に押し塞ぐ。そのままターミナルへ駆け出した。飛行機の車輪がしまわれ、滑走路を走り出すとき、彼女の張り詰めていた身体はようやく力を抜いた。窓辺にもたれ、眼下に広がる白い雲海を見つめながら、涙が静かにこぼれた。あと数時間で、2020年に戻れる。今度こそ、あの写真に振り回されたり、両親を危険に晒したりしない。「待っていて、パパ、ママ」目を閉じ、心でつぶやいた。機体が雲の深みへと進むにつれ、急に眠気が襲い、陽子はゆっくりと眠りに落ちていった。その頃、病室で文彦の胸を、突然、鋭い痛みが貫いた。まるで胸の奥で何かがぷつりと切れたような、この世で一番大事なことを忘れてしまったような感覚に囚われた。「文彦?どうしたの?」美優の声で我に返る。文彦は首を振り、べッドサイドに置かれたみかんを手に取った。ひと房むき、そっと彼女の口元に運ぶ。美優はみかんを受け入れたが、突然目尻を赤らめた。文彦の手をそっと下ろし、うつむいてささやくように泣いた。「文彦、私……あなたの優しさに応える資格なんてないんだ……」ちょうどそこへ医師が入ってきた。「京藤さん、大丈夫、検査結果も正常です。明日には退院の手続きができます」文彦は顔をほころばせた。「良かったな、明日家に帰れる。約束する、俺の妻は君だけだ。陽子のことは……もう追い出す。一切関わるな」彼が知る由もない――陽子が、この時間を去ったことなど。美優は顔を上げ、優しげな微笑みを浮かべた。しかしその目の奥には、かすかな、冷たい光が揺らめいている。
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第10話
文彦は美優を連れて屋敷に戻り、使用人に昼食の準備を指示しようとした時、一階の客室を見てはっとした。陽子を地下室に閉じ込めたまま忘れていたのだ。緊張が走り、彼は地下室へ急いだ。それを見た使用人が、突然文彦の前にひざまずく。「申し訳ございません!昨日、朝日さんが必死に扉を叩かれる音が……あまりにも苦しそうで、思わず解錠してしまいました」「彼女は今どこだ?」文彦がその床を見つめると、顔色が一瞬で変わった。狭い空間には鉄臭い匂いが漂い、床タイルには乾ききった暗赤色の染みが大きく広がっている。「朝日さんは…流産されたようです」使用人はさらに深く頭を下げた。「お部屋のベッドも、地下室も、血で染まっておりまして。扉を開けると、彼女は狂ったように外へ駆け出し、止めることができませんでした……その後探しましたが、見つからず……」「流産……?」文彦の声は掠れた。閉所恐怖症の彼女を暗い地下室に閉じ込めたこと、哀願する彼女の眼差し――突然、激しい恐慌が胸を襲う。まさか自分のせいで、あの子を死なせたのだろうか?震える手でスマホを取り出し、陽子の番号を繰り返し押す。だが聞こえるのは繋がらない旨の通知音だけだ。「また同じだ!五年前に突然消えて、今もそうなのか!」しかし今まで無視してきた細部が、突然鮮明に思い出される。7日前、空港に部下を遣わして迎えに行かせたあの日、陽子が着ていた生成りのニットは、確かに五年前にパリで買った限定品だった。彼女が使っていたスマホも、五年前の機種だ。彼女の当時の戸惑いと不安に満ちた眼差しは、演技には見えなかった。もしかすると、彼女の言っていたことは真実だったのか?五年前に逆上して飛び立った飛行機が、本当に五年後の世界に着いたのだろうか?だが…そんなことがありえるだろうか。文彦は荒々しく頭を振り、馬鹿げた想像を振り払おうとしたが、胸が締めつけられるような痛みは消えなかった。あの日、陽子を地下室に閉じ込めた時の自分は鬼のようだった。彼女の涙が本当なら――もし彼女が本当に過去から来ていたのなら、命がけで目指していた場所はどこなのか?「陽子さんは、私のせいで……?」お腹を抱えた美優が文彦の腕にすがりつく。「私が彼女の居場所を奪ったからでしょうか……」だが文彦に彼女を気遣う余裕などなかった。頭を駆け巡るのは
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