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第81話

Author: 錦織雫
会場はホテルの向かい側で、距離はさほど遠くはない。

翌日、紬が起きた時には体調はかなり良くなっていて、喉がナイフで切られるような痛みはなくなっていたが、それでも念のためにもう一度薬を飲んだ。

交流会の後には、レセプションが予定されている。

イベントは、15時から21時頃まで──

昼時、ドアベルが鳴った。

ドアを開けると、紬は意外にも目の前に立つ柊の姿を見て、驚いた。

「顔色がすごく悪いけど、どうした?」柊は紬を見るなり、眉をひそめた。彼女はまだ化粧をしておらず、唇の色も薄い。「具合が悪いのか?薬は飲んだか?病院に連れて行こうか?」

彼は、手を伸ばして紬の額に触れようとした。

紬は、彼の目に滲む純粋な心配の色を読み取った。

それでも一歩後ずさり、彼の視線を避けた。「何かご用?」

柊は松永グループの次期後継者であり、この種の会合に参加するのも珍しいことではない。

紬の、そのよそよそしい様子に、柊は眉間にしわを寄せ、長い間を置いてから、手にしていた箱を差し出した。「気に入るかどうか、見てみてくれ。今日のイベントは格式が高いから、君にもちゃんとしたアクセサリーが必要だと思
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