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信号が青に変わっても、私は振り返らない
信号が青に変わっても、私は振り返らない
Author: 四方八方

第 1 話

Author: 四方八方
その夜11時、千明は私が泊まっているホテルにやって来た。

7年間、私たちはずっとスマホの位置情報を共有したままだった。彼から逃げるというのに、居場所を隠すことさえ忘れていた。

ドアを開けると、彼はカーペットの上に裸足で立つ私を見て、すぐに眉をひそめた。

「スリッパは?」

私が答えないでいると、彼は返事も待たずに体を滑り込ませ、持っていた袋をテーブルに置いた。

胃薬、メイク落としシート、着替えのパジャマ。それに、駅の南口にある、毎日行列ができる店のモンブラン。スリッパまで、私がいつも履いているものと同じ型だった。

彼は胃薬の箱を開け、白湯を注いだコップと一緒に差し出した。

「車の登録名、直したよ。これからは『奥様』でも『女王さま』でも、好きな名前に変えればいい。これでいいだろ?」

私は受け取らなかった。

彼はしばらく私を見下ろしてから、ふっと笑った。

「前はすぐ機嫌を直してくれたのに、最近は手がかかるな」

千明は、そういう人だった。

この7年間、胃が痛いときは空腹のまま薬を飲んではいけないことも、慣れない場所では眠れなくなりやすいことも覚えていた。

私が「大丈夫」と一言言うだけで、どれほど怒っているかまで察することができた。

この世に、彼以上に私をわかってくれる人はいない――そう思うことさえあった。

そのとき、彼のスマホが鳴った。

咲実からだった。

彼は私の目の前で電話に出た。

「どうした?」

電話の向こうから、泣きそうな声が聞こえた。

「コインがいなくなったの......ベランダの網戸がいつの間にか開いてて、同じ階を全部捜したけど見つからないの......」

千明の顔から、気楽な表情が一瞬で消えた。彼は上着をつかんだ。

胸が沈む。

「行くの?」

「あの子は怖がりだ。外に出たままじゃ、今夜を無事に越せるかどうかもわからない」

「でも、来たばかりじゃない」

「戻ってこないわけじゃないだろ」

彼は私の前まで来ると、頬を軽くつまんだ。

「いい子にして薬を飲んでて。見つかったらすぐ戻ってくるから」

私は道を譲らなかった。

「今日いなくなったのが、私のネコだったら?」

千明は一瞬きょとんとし、くだらない質問を聞いたとでもいうような顔になった。

「そんなわけないだろ。脱走防止フェンスを付けたのは俺だし、毎日、窓とドアの戸締まりも確認してる」

彼は私を見下ろし、なだめるような口調で続けた。

「早智(さち)、わかってるだろ?俺は咲実よりずっとお前のことを気にかけてるって」

彼はそれが当然だと思っているようだった。

目の前でドアが閉まった。

午前1時7分、咲実がSNSに投稿した。

道端にしゃがみ込み、見つかったネコを抱いている。泣きはらした目は真っ赤だった。その後ろに千明が立ち、彼の上着が咲実の肩に掛けられていた。

添えられた言葉は一つだけ。

【よかった。どんなに遅い時間でも、来てくれる人がいる】

コメント欄には、こんな質問があった。

【彼氏?】

咲実は答えなかった。否定もしなかった。

その12分前、千明から私にメッセージが届いていた。

【ネコは見つかった。もう遅いから彼女を送っていく。先に寝てて】

私はテーブルの上で形の崩れたモンブランを見つめた。

急に、可笑しくてたまらなかった。

彼は私を愛していないわけじゃない。

ただ、私が離れていくはずはないと信じ切っているのだ。

だからケーキは後で食べればいい。薬は自分で飲めばいい。私だって、いつまでも待っていられる。

翌朝、チェックアウトする前に、私は一口も食べていないケーキをテーブルに残していった。

――

母の命日、千明は朝早く迎えに来た。

車のドアを開けると、後部座席に白い菊と、母が生前好きだった店の栗まんじゅうが置いてあった。私は思わず手を止めた。

千明が私のシートベルトを締める。

「俺が忘れると思った?」

鼻の奥がつんとした。

この7年間、彼は母の命日に一度も欠かさず付き添ってくれた。

車が道の半ばまで来たところで、咲実から電話がかかってきた。彼は一度目の着信を切ったが、すぐにまた鳴る。

私は顔をそむけた。

「出ていいよ」

「いや」

彼は私の手を握った。

「今日は誰よりもお前を優先するから」

私は何も言わず、そっと彼の手を握り返した。

山のふもとに着き、私は彼に道端で待っていてもらって、一人で線香を買いに行った。

十数分後に戻ると、車が消えていた。

風の吹きつける道端で3度電話をかけ、ようやく彼が出た。向こうからは、せわしない車のクラクションが聞こえる。

「悪い、戻るのが少し遅くなる」

私は紙袋を強く握った。

「どこに行ったの?」

「咲実の元彼が酔って、彼女の会社の前で待ち伏せしてる」

「今日は誰よりも私を優先するって言ってたのに?」

千明は一瞬黙った。

「......向こうは手を出してるんだ。殴られるのを黙って見てろっていうのか」

「通報は?」

「した。でも、着くまで時間がかかる」

胸の内が少しずつ冷えていく。

「それで、私をここに置いていったの?」

彼はとうとう苛立ったようだった。

「もう山のふもとまで送っただろ。墓参りは二人じゃなきゃできないわけでもないし、お前の母さんの墓も逃げたりはしないだろう」

風が吹き、抱えていた菊が揺れた。

電話の両側で、ふいに言葉が途絶える。

千明も、自分が何を言ったのか気づいたのだろう。すぐに声を和らげた。

「ごめん、口が滑った。そういう意味じゃない。先に行っててくれ。片づいたらすぐ戻る。ちゃんと夜に埋め合わせするから。な?」

彼が現れたのは、午後4時を過ぎてからだった。

シャツの襟元のボタンが一つ外れ、手の甲には擦り傷ができている。言いたいことは山ほどあったのに、血を見た途端、私は反射的に彼の手をつかんだ。

「どうしたの、この傷」

千明は口元を上げた。

「心配してくれるのか?じゃあ、今日のことはこれで水に流してくれ」

私が顔を上げると、彼はまた笑い、親指で私の手の甲を撫でた。

「わかった、水には流さなくていい。夜、気が済むまで怒ってくれ」

以前の彼なら、泣いていた私をいつの間にか笑わせることができた。

けれど、そのとき私の目に入ったのは、彼の手首に巻かれた組紐だった。細い紐に、小さな銀の玉が一つ付いている。

咲実が身に着けているのを見たことがあった。

私は手を離した。

「それ、何?」

千明は自分の手首を見た。

「彼女がどうしてもって結んだんだ。今日はけがをするかもしれないから、お守りになるって」

私は黙ったままだった。

彼は赤い紐を引っ張った。

「嫌なら外すよ」

「千明」

「ん?」

「今日は母の命日なの」

彼の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。

私は紐を見つめたまま言った。

「母の命日に、あなたは私を一人でお墓へ行かせて、別の女の人を守りに行った。

まさか、その人にもらったお守りを着けたまま、私と一緒に母のお墓に参るつもりだったの?それでいいと思う?」

千明は口を開きかけた。

私は後部座席から、すっかり冷めた栗まんじゅうの箱を取り上げた。

「帰って」

彼が眉をひそめる。

「またそれか?せっかく戻ってきたのに、これ以上どうしろっていうんだ?」

私は少し間を置いた。

「......そうだね。来てはくれたんだもんね。ごめんなさい。それ以上を望んだ私が悪かった」

その日、私は一人で石段を上り、山へ向かった。

背後から足音が聞こえることは、いつまでたってもなかった。

――

千明は3日間、咲実と連絡を取っていなかった。

少なくとも、私にはそう言っていた。

4日目の午後、彼の父親が突然胸の痛みを訴え、救急車で病院に運ばれた。

連絡を受けたとき、私は会議中だった。ノートパソコンを閉じることも忘れ、バッグをつかんで飛び出した。

救急外来に駆けつけると、千明が壁にもたれていた。顔色がひどく悪い。

私を見るなり、彼は何も言わず、強く抱きしめてきた。その腕には力がこもり、呼吸まで震えていた。

「早智......」

7年間で、彼がこれほど怯えているのを見たのは初めてだった。

私も彼を抱きしめる。

「ここにいるよ」

処置室のドアが開き、検査結果を手にした医師が出てきた。

「患者さんには冠動脈疾患の既往があります。以前のお薬手帳やカルテ、服薬履歴があれば見せていただけますか?今後の治療方針を確認しますので」

私もついていこうとすると、千明が肩を押さえた。

「お前はここで待ってて」

「私も一緒に行く」

「中では治療のリスクについても話す。聞いたら、お前はまた悪いほうに考えるだろ」

そう言った彼が、廊下の向こうに目を向けた。

咲実が診療記録の束を抱え、急いでこちらへ来る。

千明は早口で説明した。

「母さんが呼んだんだ。父さんの資料は前から彼女が預かってたから」

そして記録を受け取る。

「咲実、俺と一緒に来て。去年、薬を変えたときもそばにいただろ」

私は彼を見た。

「どうして彼女なの?」

千明は焦りで眉間にしわを寄せていた。

「父さんが何年にどんな検査を受けて、いつ薬が変わったか、彼女ならわかる」

「私も説明を聞けるよ」

「早智」

彼が振り向く。

「無理して意地を張るな」

「意地なんて張ってない。私だって覚えられる」

医師が先を急かしていた。

千明はとうとう苛立ちをあらわにした。

「何をだよ?父さんが中で横になってるんだ。お前はリスクの話を少し聞いただけで顔色をなくして、結局、俺がなだめることになる。お前が入ったって、泣くことぐらいしかできないだろ?少なくとも咲実は、何を質問すればいいかわかってる」

最後の一言が落ち、廊下は数秒間、静まり返った。

咲実まで顔色を変える。

「千明、そんな言い方しなくても」

千明は目を閉じた。だが、医師はもう行くよう促している。

彼は「出てくるまで待っててくれ」とだけ言い残した。

ドアが閉まる。

私は長椅子に座り、処置室の入り口の上にともる赤いランプを見つめた。

不思議と、涙は出なかった。

1時間あまりして、彼の父親の容体は落ち着いた。

千明は出てくるなり私のところへ来て、目の前にしゃがんだ。

「怒ってるのか?」

私は答えなかった。

彼が私の手を握る。

「ごめん、さっきは気が動転して、考えずにしゃべった。俺の口が悪いのは知ってるだろ」

そう言いながら、ポケットからみかん味の飴を一つ取り出し、私の手のひらに載せた。

子どもの頃、私がいちばん好きだった銘柄だ。

「ほら、そんなに目を赤くするなよ」

彼は少し口元を緩めた。

「そんな顔してたら、まるで自分の父親が倒れたみたいに見えるぞ」

私が顔を上げると、千明の笑みが固まった。

今度こそ、本当に失言したと気づいたのだ。

「早智、俺は――」

私は手のひらを開いた。飴が一つ、そこに静かに載っている。

「私には飴を与えておけばいいって、ずっと子ども扱いしてたの?」

彼は呆然とした。

私は飴を彼の胸ポケットに戻した。

少し離れたところから、診療記録を抱えた咲実が声をかける。

「千明、おじさん、明日の朝、手術前に薬の確認をもう一度するって」

彼は反射的に振り向いた。

「わかった。診療記録は預かっておいて」

二人で何度もこんな場面を乗り越えてきたかのような、あまりにも自然なやり取りだった。

私はうつむき、飴の包み紙が食い込んでできた手のひらの赤い跡をこすった。

そして初めて、彼が振り返るのを待たずに立ち去った。

――

千明の父親が退院してから、彼は本当に変わろうとしているように見えた。

もう私に「お前にはできない」とは言わなくなった。家の契約で更新が必要なものがあれば、私を隣に座らせ、一つずつ手続きを教えてくれた。

父親の次の診察についても、日時と診療科、担当医の名前を送ってきた。

6年前に立ち上げた彼の外食チェーンが年次監査を受けるときには、書類をテーブルに広げて私に尋ねた。

「見てみる?」

私はわざと「見てもわからないよ」と答えた。

彼は椅子の背にもたれて笑う。

「わからなければ聞けばいい。もう子ども扱いしないようにするから」

咲実から電話が来ても、彼は距離を置くようになった。

その夜、彼女は胃が痛いと言い、電話越しの声は弱々しかった。

千明はスピーカーホンにして尋ねた。

「歩ける?」

「うん」

「なら、タクシーを呼んで病院に行って」

咲実はしばらく黙った。

「前はいつも付き添ってくれたのに」

千明は私をちらりと見た。

「前は俺の距離の取り方が間違ってた」

電話が切れると、彼は腕を伸ばして私を引き寄せた。

「これでいい?」

私は意地を張って答えた。

「私には関係ないでしょ」

「まったく」

彼は額を私の額にくっつけ、憎らしいくらい楽しそうに笑った。

「前は嫉妬して、俺に噛みつきそうな勢いだったのに。今度は物分かりのいい女のふりか?」

思わず彼を押すと、彼はその手を握り、ポケットから新しい鍵を取り出した。

「家の鍵を替えた。暗証番号はお前が決めて。咲実の指紋登録も消した。車の登録名からも『奥様』を消したよ」

急に鼻の奥がつんとした。

7年間は、7日間とは違う。

何度か傷ついたからといって、愛情を一刀両断に消せるわけじゃない。

その夜、私は本気で考えた。

これを最後に、もう一度だけ。

彼が本当にわかってくれたのなら、私たちは元に戻れるかもしれない。

帰り道、千明は水を買うために車を降りた。彼のスマホは車載システムにつながったままで、かかってきた電話が自動でつながった。

スピーカーから男性の声が流れる。

「郡司さん、三上です。5年前に当事務所で作成された遺言書と、それに伴う財産管理の取り決めについて、今年の定期確認をさせていただきます。

現在も遺言執行者として登録されているのは小形咲実さんです。万一、郡司さんに何かあった場合、会社の株式、預金、その他の個人資産は、まず小形さんが確認と処理を行い、その後、遺言の内容に従って水島早智(みずしま さち)さんに引き渡す取り決めとなっています。こちらは変更なしでよろしいでしょうか」

ちょうどそのとき、千明が車のドアを開けた。

目が合う。

彼の顔色が一瞬で変わった。

電話の向こうから、再び声がした。

「郡司さん?」

千明は手を伸ばして通話を切った。

「早智、聞いてくれ、これは――」

私は彼を見つめた。

「私たちは7年前から付き合ってる。そしてあなたが遺言書を作ったのは5年前。最終的にあなたの財産を全部受け取るのは私。なのに、あなたの葬儀の手配をして、会社を管理して、財産に触れるのは、どうしてあの人なの?」

彼の喉が動いた。

「それは......」

車内が恐ろしいほど静かになった。

しばらくして、彼は低い声で言った。

「彼女のほうが、しっかりしてるって、あのときは思ってたから......」

その一言が、まっすぐ胸に落ちた。

冗談でもなければ、私のためだという言い訳もなかった。

私は手の中の鍵を強く握った。

「で?」

「あの頃は会社を立ち上げたばかりで、体調も悪かった。いつ何があるかわからないと、本気で思ってたんだ。俺が怪我しただけで、お前はあんなに泣いただろ。本当に死んだら、お前は立ち直れないと思って」

彼は私の手をつかんだ。

「遺言に書いた財産は、全部お前のものだよ。これは間違いない。咲実に会社や口座のことを先に整理してもらって、それからお前に渡すつもりだった。それだけだ」

私は彼を見つめた。突然、涙がこぼれた。

「つまり、あなたが死んだら、彼女が葬儀を取り仕切って、財産を調べて、何をいつ私に渡すかも、彼女が決めて。最後には、私がどう生きていけばいいかまで、あなたの代わりに教えてくれるというの?」

「教えるんじゃない」

「じゃあ、何?」

千明は問い詰められ、声を荒らげた。

「お前が耐えられないと思っただけなんだよ!もしものときのことを考えて手配したのに、それも間違いなのか?」

私は笑ってしまった。

「ねえ、もしかして私をものすごく愛してると思ってるの?生きてる間はあの人に私の代わりに家族の役目をさせて。死んだあとまで、彼女を私の後見人にするほど?」

彼は険しい顔になった。

「そんな言い方しなくても」

「じゃあ教えてよ!私はあなたの恋人なの?将来の妻なの?それとも、あなたとあの人が飼ってきたペットなの?!」

「早智!」

彼はとうとう怒鳴った。

「俺は、彼女のほうがお前より頼りになると思っただけだ!これの何が悪い?!」

怒鳴り声が途切れると、彼自身が固まった。

私の中に最後まで残っていた何かも、静かに消えた。

千明が私を抱き寄せようと手を伸ばす。

「違う、そういう意味じゃ――」

私は、さっきまで握りしめて熱くなっていた鍵を、そっと彼の手のひらに戻した。

「あなたはいつも、私がもう少し大人になったら、全部渡すって言ってたよね」

私は涙を拭った。

「千明。私、今日、大人になったよ」

彼の顔から、少しずつ血の気が引いていく。

「どういう意味だ?」

私は車のドアを開けた。夜風が一気に吹き込む。

「もう、あなたたち二人に面倒を見てもらう必要はないってこと」

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