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あなたの裏表には、もう付き合わない

あなたの裏表には、もう付き合わない

By:  希美Completed
Language: Japanese
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身内の食事会があった時、夫・上野和彦(うえの かずひこ)の秘書・安藤玲奈(あんどう れいな)が、私・上野琴葉(うえの ことは)の座るはずの席に座っていた。 私は和彦に問いかけた。「彼女が私の座るべき席に座っているのに、何も思わないの?」 和彦は鬱陶しそうに言った。「遅れてきたお前が悪いんだろ。隣が空いてるだろ!座りたきゃ勝手に座れ。嫌ならさっさと消えろ」 私が何か言おうとしたその瞬間、彼の心の声が頭の中に流れ込んできた。 [琴葉、早く怒ってよ。 俺が必要だって、どうしても俺の隣がいいって言って。 俺を愛しているって証明してくれないと、不安で仕方ないんだ] 今回は、そんな和彦の期待に応えるのをやめた。 ただ静かにうつむき、指から結婚指輪を外した。 「私の居場所すら残されていないのなら、もうここに必要ないわね。離婚しよう」

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Chapter 1

第1話

身内の食事会があった時、夫・上野和彦(うえの かずひこ)の秘書・安藤玲奈(あんどう れいな)が、私・上野琴葉(うえの ことは)の座るはずの席に座っていた。

私は和彦に問いかけた。「彼女が私の座るべき席に座っているのに、何も思わないの?」

和彦は鬱陶しそうに言った。「遅れてきたお前が悪いんだろ。隣が空いてるだろ!座りたきゃ勝手に座れ。嫌ならさっさと消えろ」

私が何か言おうとしたその瞬間、彼の心の声が頭の中に流れ込んできた。

[琴葉、早く怒ってよ。

俺が必要だって、どうしても俺の隣がいいって言って。

俺を愛しているって証明してくれないと、不安で仕方ないんだ]

今回は、そんな和彦の期待に応えるのをやめた。

ただ静かにうつむき、指から結婚指輪を外した。

「私の居場所すら残されていないのなら、もうここに必要ないわね。離婚しよう」

カラン、と結婚指輪がテーブルに置かれ、軽い音が響いた。

和彦の顔から血の気が引いた。

それまでニヤニヤと様子を見ていた和彦の母親と父親も、一気に慌てだした。

6年間。

私はずっと、こんな日々を6年間も耐え続けてきたのだ。

和彦にひどい言葉をぶつけられても、彼の心の声を聞くたびに、私から折れて仲直りをしてしまっていた。

そんなことを繰り返すうちに、彼の家族もそれが当たり前だと思うようになっていた。

「和彦は素直じゃないから、何を言われても怒らない嫁じゃないとね」なんて笑い話にされる始末だった。

だから私が結婚指輪を外したのを見て、和彦の母親が慌ててすり寄ってきた。

「琴葉さん……どうしたの?今日は機嫌が悪いの?普段はそんなに細かいことを気にする子じゃないのに」

和彦の父親も厳しい顔をして言った。「今日はせっかくの身内だけの食事会だぞ。わがままで離婚を口にするなんて不謹慎だ。早く結婚指輪をはめるんだよ」

私は冷たく笑った。「これが身内だけの食事会だと言うなら、安藤さんはどうしてここにいるんですか?」

和彦の父親と母親はぐうの音も出なくなった。

和彦はガタッと勢いよく立ち上がり、歯を食いしばった。

「琴葉、いい加減にしろ!離婚したいならすればいい!今すぐここから出ていけ!恩知らずなお前なんて、ここには必要ない!」

いつもと変わらないトゲのある言葉。だが、その裏に隠された和彦の本心は違っていた。

[琴葉、どうして離婚なんて言うんだよ?俺を捨てるつもりなのか?一生愛してくれるって、そう言ったじゃないか?

エイプリルフールの冗談だろ?俺が怒れば、いつだってすぐに抱きしめてくれたのに]

彼の裏表のある感情に付き合わされて、もう10年が経つ。

初めて会った頃、和彦は深刻な自閉症と感情障害を抱えていたのだから。

自分の感情を表現するのが苦手で、いつもトゲのある言葉で周りを攻撃していた。

だけど私は運良く、彼の心からの声が聞こえる人間だった。

「あっちへ行け」と言いながら、心の中では[行かないで、俺のそばにいて]と泣きそうになりながら私にすがっていた。

その弱さに胸が締め付けられ、私は少しずつ彼に歩み寄り、共にいるようになった。

出会ってから4年、結婚してからは6年が経つ。

私のおかげで和彦は心を閉ざすのをやめ、薬に頼らなくても普通の人と同じように生活できるようになった。

だけど、この6年間、彼は他の人には優しく接するようになったのに、私にだけは冷たく当たり、きつい言葉を浴びせ続けた。

私も何度も、悲しい思いをした。

それでも和彦の母親はいつもこう言っていた。「琴葉さん、和彦は心が繊細な人なのよ。あなたが折れてあげて。和彦、口が悪いだけで、心の中はあなたでいっぱいなんだから」

それに、和彦の本音も同じだったから、私はそれを信じ続けてきた。

――玲奈がやってくるまでは。

ロマンチックなことなど一度もしなかった和彦が、玲奈の誕生日には遊園地を丸ごと貸し切った。

私がずっと欲しがっていたアクセサリーを、彼はためらうことなく落札して玲奈にプレゼントした。

身内だけの食事会にすら、当たり前のように彼女を同席させるようになった。

心の中では何度も[愛してる。もっとヤキモチを焼いてくれ]と呟いていたけれど、私自身の本当の居場所が、他の人に理不尽に奪われていくのを見て、私はようやく、はっきりと気がついた。

今まで、自分に都合の良い嘘をついて、自分自身を騙し続けていただけだったのだと。

優しさがあるところにしか、愛は存在しないのだと。

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第1話
身内の食事会があった時、夫・上野和彦(うえの かずひこ)の秘書・安藤玲奈(あんどう れいな)が、私・上野琴葉(うえの ことは)の座るはずの席に座っていた。私は和彦に問いかけた。「彼女が私の座るべき席に座っているのに、何も思わないの?」和彦は鬱陶しそうに言った。「遅れてきたお前が悪いんだろ。隣が空いてるだろ!座りたきゃ勝手に座れ。嫌ならさっさと消えろ」私が何か言おうとしたその瞬間、彼の心の声が頭の中に流れ込んできた。[琴葉、早く怒ってよ。俺が必要だって、どうしても俺の隣がいいって言って。俺を愛しているって証明してくれないと、不安で仕方ないんだ]今回は、そんな和彦の期待に応えるのをやめた。ただ静かにうつむき、指から結婚指輪を外した。「私の居場所すら残されていないのなら、もうここに必要ないわね。離婚しよう」カラン、と結婚指輪がテーブルに置かれ、軽い音が響いた。和彦の顔から血の気が引いた。それまでニヤニヤと様子を見ていた和彦の母親と父親も、一気に慌てだした。6年間。私はずっと、こんな日々を6年間も耐え続けてきたのだ。和彦にひどい言葉をぶつけられても、彼の心の声を聞くたびに、私から折れて仲直りをしてしまっていた。そんなことを繰り返すうちに、彼の家族もそれが当たり前だと思うようになっていた。「和彦は素直じゃないから、何を言われても怒らない嫁じゃないとね」なんて笑い話にされる始末だった。だから私が結婚指輪を外したのを見て、和彦の母親が慌ててすり寄ってきた。「琴葉さん……どうしたの?今日は機嫌が悪いの?普段はそんなに細かいことを気にする子じゃないのに」和彦の父親も厳しい顔をして言った。「今日はせっかくの身内だけの食事会だぞ。わがままで離婚を口にするなんて不謹慎だ。早く結婚指輪をはめるんだよ」私は冷たく笑った。「これが身内だけの食事会だと言うなら、安藤さんはどうしてここにいるんですか?」和彦の父親と母親はぐうの音も出なくなった。和彦はガタッと勢いよく立ち上がり、歯を食いしばった。「琴葉、いい加減にしろ!離婚したいならすればいい!今すぐここから出ていけ!恩知らずなお前なんて、ここには必要ない!」いつもと変わらないトゲのある言葉。だが、その裏に隠された和彦の本心は違っていた。[琴葉、ど
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第2話
震える和彦の唇を、私はただ静かに見つめた。「わかった。今すぐ出ていくわ」和彦の両親が引き留めるのを無視して、私は玄関へと向かった。家を出ようとしたそのとき、私の手首が強引に掴まれた。[琴葉、本当に怒っちゃったの?怖いよ、俺を捨てるつもりなの?俺のそばからいなくなったら、俺、死んじゃうから!お願いだから、捨てないで!]流れ込んでくる彼の本音に、私は囲まれた。少し驚きながら振り返ると、和彦の目が真っ赤に潤んでいた。私の心は、かすかに揺らいだ。だけど、その次の瞬間に吐き捨てられた言葉は冷たかった。「出ていきたければ、その靴を置いていけ!それは俺がプレゼントしたものだ!」その瞬間、全身がこわばった。下を向き、何度も洗ってボロボロになった靴を見つめた。それは私たちが結婚したとき、和彦が買ってくれた靴だ。彼はただリビングに置いたままで、何も言わなかった。だけど彼の本当の思いは、寝室から筒抜けだった。[琴葉、気づいてくれたかな?早く俺に聞いてよ、わざわざお前のために選んだんだって言いたいのに。わざわざ仕立ててもらったんだから、早く褒めてよ!お前を世界でいちばん幸せな女にしてあげるんだ]この6年間、私はこの靴を宝物のように大切に履いてきた。和彦が贈ってくれたというだけでなく、そこには彼の深い愛情が込められていたのだ。それなのに……私は感情をなくしたように、その場にしゃがんでゆっくり靴を脱いだ。「わかった。返すわ」和彦の顔が、さらに怒りで歪む。だけど彼の目元は、悲しそうに赤くなっていた。和彦の母親が慌てて私たちの間に割って入った。「琴葉さん、あなたも和彦のあまのじゃくなところは分かっているじゃないの?本気で裸足で追い出すはずがないわ。ただの、彼なりの引き留め方なのよ」和彦の母親が言い終える前に、和彦は私が脱いだ靴を取り、暖炉の中に投げ込んだ。「お前が6年使い古したやつなんか、返されても汚くていらないんだよ」軽いその言葉は、胸の奥深くまで鋭く突き刺さった。火の粉をあげて燃え尽きていく靴を見ていたら、息ができないほど胸が苦しくなった。この6年間、私が大切に履いてきた靴は、和彦にとっては火をつけたらすぐに灰になるものだった。涙目になった私の顔を見て、和彦の心の
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第3話
自宅へ戻ると、足の裏は小さな傷だらけだった。痛みの感覚もなく、消毒液で洗い流し、何気なく部屋を見渡した。温かみのあるこの部屋は、いつの間にか玲奈の私物で埋め尽くされていた。「琴葉、これは安藤さんからもらったウサギのぬいぐるみだから、毎日眺められるようにソファーに置いておいて」「琴葉、これは安藤さんが選んでくれたネクタイだ。どうだ、似合っているか?」「これは安藤さんがここに置くように言ったアロマだ。彼女と同じ香りがして落ち着くらしい」私が苛立つほど、彼の笑みは深くなった。私のやきもちを楽しんでいたのだ。まるで私が苦しむことだけが、愛の証だと思っているかのようだった。彼が口にする言い訳は、いつも同じだった。「琴葉、俺と安藤さんはただの上司と部下だ。あまりつまらない嫉妬をするなよ」繰り返される苦痛の中で、私は彼の望み通り、もう嫉妬もしなくなった。和彦の妻の座ですら、手放す決心がついたくらいに。傷口の手当てを済ませると、私は荷造りを始めて、手元に残った数少ない衣類を全てまとめた。そして部屋を去ろうとしたその時、和彦が戻ってきた。ひどく酒臭い体に、玲奈が寄り添うようにしている。私と目が合うと、彼は慌てて身を離し説明しようとしたが、足元にある荷物に気づいた瞬間、愕然とした。同時に、彼の心の中は怒号を上げていた。[琴葉、どうして荷物をまとめているんだ?本気で俺を捨てる気なのか?俺が悪かった。身内だけの食事会に安藤さんを同席させるべきじゃなかった。ただ、お前の気を引きたいだけだったんだ。行かないでくれ。お前に出て行ってほしくないんだ!]その顔を青ざめさせ、心の底からは必死の想いが漏れているというのに、口にした言葉はひときわ残酷なものだった。「琴葉、よく考えてから行動しろ。お前が出て行っても、代わりに俺を望む女はごまんといる。だが、俺に見放されたお前のような女を、他に誰が貰ってくれるって言うんだ?」そんな傲慢な言葉の数々に、私の中の小さな望みはすべて打ち砕かれた。私はただ力なく微笑んだ。「わかったわ。それなら、他の女性と結婚なさるといいわ」和彦は力任せに拳を握り、突然私の前で玲奈の腰を引き寄せた。「だったら、本当に安藤さんと結婚するからな。彼女は気立てもいいしお前よりずっと有能だ。
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第4話
両親が倒産したとき、母は家に代々伝わる宝石の腕輪を売り払ってしまった。そして、母が亡くなったとき、その腕輪は取り戻せないまま心残りとして残っていた。それを知った和彦は、あちこちに手を尽くして捜し回り、最終的に大金を払ってその腕輪を買い戻してくれたのだ。あのとき、私は感動のあまり声にならないほど泣いて、どうやって恩返しすればいいか分からないと伝えた。彼は穏やかに、だけど愛おしそうな目で私を見つめ、こう言った。「それなら、お前自身を俺にくれればいいんじゃない?琴葉、お前を俺の妻にしたい」腕輪を結婚指輪の代わりとして、彼は母が残した唯一の遺品を私の手首にはめてくれた。なのに今、彼はこう吐き捨てた。「あの腕輪をあげたのは、お前と結婚するためだった。離婚するっていうなら、もう俺の妻じゃないんだから、それを持っていこうなんて図々しい。まさか今の自分に、6億円もの価値があると思っているわけじゃないよね?」冷酷な言葉が、私のプライドを木っ端微塵に打ち砕いた。私はこみ上げる涙を必死にこらえた。「6億円は……何が何でも作って、あなたに返すわ……」「そんなものは必要ない!」和彦は激怒して私の言葉を遮った。「琴葉、俺が金のために言っていると思っているのか?この家を捨てたのはお前だ。だから腕輪も、俺の妻になってくれる人に譲ることにする」彼はその場にいた玲奈の手を強引に取り、その細い手首に腕輪をはめてしまった。まるで、6年前に私にプロポーズしたときと同じ手つきで。だが、玲奈は和彦の見えない角度で、私に向かって意地悪く口を動かした。[遺品なんて、本当に不吉だわ]瞬間、頭にカッと血が上り、私は腕輪を奪い返そうと彼女の元へ駆け寄った。「不吉だと思うなら、今すぐ私に返しなさい!」私が少し指先を触れただけで、玲奈は悲鳴を上げて派手に床へ倒れ込んだ。その衝撃で彼女の手首が冷たい床に叩きつけられ、腕輪は一瞬でバラバラに砕け散った。私の頭の中は真っ白になり、和彦もまた、何も言えず、激しく動揺しているようだった。玲奈は傷ついた肘より下を押さえながら、声にならないほど泣いた。「和彦さん、痛いよ……」我に返った和彦は、激昂して私を乱暴に突き飛ばした。「琴葉、お前はイカれてるのか!それはお前の母さんの唯一の遺品だぞ
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第5話
「和彦、私、血が出てるの……血が流れているの、お願い、早く病院に連れていって!痛い……お腹が、すごく痛いの……」嫌な予感に頭がどうにかなりそうだった。外に出たいのに、冷たい扉に固く閉ざされて出られない。和彦の声は、残酷なほど冷え切っていた。「琴葉、知り合って10年の付き合いだが、お前がここまで演技派だとは思わなかったよ。傷ついたのはどう見ても安藤さんの方だろ。ちょっと肩を押したくらいで、血が出たなんて騒ぐな。お前の生理は来週のはずだろう!」私は耐えきれずに泣き叫んだ。「そうよ!来週のはずなの!だから何で、血が出てるのか分からないのよ!」6年もの苦しい思いをして待ったけれど、私には確かめるのが怖かった。ただ、どうしても病院へ行かなければいけないことだけは分かっていた。「和彦、お願い、扉を開けて。お願いだから!本当に血が出ているのよ!」和彦が口を開く前に、奥から玲奈のすすり泣きが聞こえた。「奥様。私を突き飛ばしたことをうやむやにするために、そんな嘘を平気でつかれるんですか?和彦さんがちょっと触ったくらいで、出血するわけないじゃないですか?病院へ行くフリをして逃げる気ですよね。そうすれば、和彦さんから逃げ切って、壊した腕輪の6億円も返さずに済みますからね」玲奈がそう言い終えた瞬間。和彦の呼吸が荒くなった。[逃げる?お前が俺から逃げるだって?そんな平気な顔をして嘘までついて、そんなに俺から離れたいのか?絶対に嫌だ。どんな手を使ってでも、お前を一生閉じ込めてでも、失いたくないんだ]次の瞬間、和彦は突き放すように言った。「ここで頭を冷やしてろ。俺は安藤さんを病院へ連れていって手当をしてもらう」そのあと、私がどんなに泣き叫び、ドアを叩いても、和彦は耳を貸さなかった。やがて、表の重い扉がバタンと閉まる音が響いた。腹部が激しく差し込み、私はそのまま意識を失った。目を覚ました時には、もう腹部の痛みは消え去っていた。ただ、床に残された大量の血が、そこに新しい命があったかもしれない唯一の証拠だった。魂が抜けたように立ち上がると、パチリとドアの鍵が開く音が聞こえた。和彦がそのまま、倉庫の扉を開けたのだ。眩しい光にさらされて、私は目を細めた。和彦の瞳には、すがるような光がゆらゆら
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第6話
彼は半狂乱になって飛びついてくると、震える声で言った。「血……この血はどこから出たんだ?」「昨日、倒れたときに出た血よ」私は彼の手を振り払い、皮肉交じりに笑った。「あのとき言ったのに、私が嘘を言っているって決めつけたじゃない」和彦は一瞬で顔を青ざめさせた。「俺、俺は……知らなかったんだ……てっきり……」「てっきり私が、嘘をついてるとでも?」私は自嘲気味に笑った。出会ってから10年間、彼は玲奈の言うことなら何でも信じていた。それなのに私にだけは、不信感を抱き、勘繰りを入れてくる。ときどき不思議に思う。私のことを本気で心配しているのか、それとも憎んでいるのか。知らない人に対してだって、こんな態度は取らないだろう。幸いなことに、私はもうどうでもよくなっていた。「お風呂に入って、着替えてくるわ」和彦がハッとしながら、私の手首を掴んだ。私の冷淡な態度に、どう接していいか戸惑っているようだ。彼は目を真っ赤にした。「病院へ行こう」「行かない」私はその手を振り払った。「安心して。ただの生理よ。最近あまり眠れなかったから早まっただけ」和彦は唇を震わせたものの、ホッとしたような顔をした。「本当にただの生理なのか?」「嘘をつく必要が、どこにあるの?」血のほとんどはあの倉庫の床に染み込んでいた。服についている血はほんの少しだけだった。それならたしかに、生理のように見えるかもしれない。和彦はそれ以上気に留めなくなり、声を和らげた。「もう二度と、離婚なんて言葉を口にするなよ。お前が余計なことを言うから、頭にきて閉じ込めたんだ。俺だって本気でやったわけじゃない」いつもの、人のせいにしがちな口振りだった。私が離婚を言い出したせいで彼が逆上し、我を失ったと言いたげだった。しかし、どうして私がそう言ったのかについて、彼が考えることはなかった。私は軽く微笑むと、言い返すのも億劫になった。どうせ今日には、この街を出るのだから。そこから離婚届を送ればいい。彼が署名してくれさえすればいいのだから。「ええ」私が短くそう言うと、和彦は嬉しそうに目を輝かせた。彼は優しく微笑んだ。「琴葉、お前はそうやっておとなしくしててくれればいいんだ」私は階段の前で足を止めそうになったが、そのまま自分の部屋へと向かい
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第7話
私は玄関へと向かい、靴を履こうとした。すると和彦は急に焦った様子で駆け寄り、ドアを塞いだ。「どこへ行くんだ?」昨日の離婚話や、荷物をまとめて出ていこうとしたことが、彼をひどく不安にさせたようだ。警戒する彼の目を見て、これ以上長引かせるのも面倒だった。私はとっさに言い訳をした。「会社よ。今日は外せない会議があるから、どうしても行かなきゃいけないの」「そうか……」和彦の険しい表情を少しだけ緩め、初めてこう提案した。「なら、俺が送るよ」私は断らなかった。会社に着いた後でタクシーに乗って空港に行けば、結果は同じなのだから。車に乗り込むと、和彦は玲奈の話題を切り出してきた。「安藤さんのこと、やっぱり嫌いなのか?」玲奈が和彦の前に現れたのは、1年前のことだった。その間、私は嫌いだと言葉にして何度も伝えてきた。だが、和彦はそのたびに、私のやきもちだと受け流してまともに聞いてくれなかった。今になって急に彼がそんな話を始めた意図も、何を望んでいるのかも、もう分からなかった。私は視線を窓の外にそらした。「別に嫌いじゃないわよ。むしろ、今は感謝しているくらい」和彦の顔色が変わった。彼は驚いて私を振り返ると、不安そうな声で尋ねた。「感謝って、なぜだ?」私は軽くこめかみを揉んだ。「あなたの側にいて面倒を見てくれたことよ。おかげで私はホッとしたわ」和彦の息が乱れた。彼はようやく状況を察したように、顔を強張らせ、無理やり笑顔を見せた。「琴葉、またやきもちを焼いてるんだな」あまりにも私が淡々としているせいで、彼は落ち着かないようだった。タイミングよく玲奈から電話が入り、和彦はちらりと私を見た。「これ、出るべきかな?」彼は意味深な笑みを浮かべ、さらに追い打ちをかける。「お前の手で切ってくれてもいいんだよ。そうすれば、もう安藤さんはクビにするから」私はためらうことなく、通話の応答ボタンを押した。「用事があるからかけてきたはずよ。何て言うか、聞いてあげて」和彦はきょとんとした。彼の目尻がかすかに赤くなり、心の中がざわついて、いたたまれなかった。スピーカーから、すぐに玲奈の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。「和彦さん、まだ腕が痛むの。友達に膿んでるかもしれないって言われちゃって……会いに来てくれな
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第8話
和彦はタクシーが走り去るのをただ見送るしかなかった。その手は固く握りしめられ、激しい感情が胸に渦巻いていた。しかし、どうしていいか分からず、このやるせなさをどう収めればいいのかも分からなかった。今までは、琴葉が何があっても和彦に尽くしてきた。どんなにひどい言葉で傷つけられても、彼の後ろを嬉しそうについて回り、絶対に離れようとしなかったのだ。だから、どう謝ればいいのか、どうやって許してもらえばいいのか、教えてくれる人は誰もいなかった。彼は反射的に、あの割れてしまった腕輪を思い浮かべた。あれをきれいに直してもらえば、琴葉は喜んでくれるのだろうか。琴葉が心を閉ざして自分を無視するのも、きっとあの腕輪のせいに違いない。そう思い至った和彦は、迷わず車をUターンさせて自宅へと引き返した。彼は床に這いつくばって部屋の隅々まで探し回り、ようやく腕輪の破片をすべて集めた。喜びが込み上げた瞬間、ふと鼻をつく生臭い血の匂いに気づいた。しかし、琴葉はもうここにはいない。それなのに、どうして血の匂いがするのだろうか。吸い寄せられるように、彼は開いたままの倉庫の扉へと目を向けた。そこへ近づくにつれて、血の匂いはますます濃くなっていく。胸の奥から、言いようのない不安がこみ上げてきた。彼は震える手で、ゆっくりとドアを押し開けた。床の上には、赤黒く固まった血痕が広がっていた。あまりの量に、頭の中が真っ白になる。「どういうことだ……」彼は目を見張り、がたがたと震え出した。「ただの生理じゃなかったのか?なんでこんなに血が出てるんだ、どうして?」彼は取り憑かれたようにスマホを掴むと、琴葉に説明をさせようと電話をかけた。しかし、返ってきたのは、「おかけになった電話は、ただいま電波の届かない場所に……」という機械的な音声だった。彼の顔から、一気に血の気が引いていく。何度かけ直しても、一度も呼び出し音すら鳴らない。この10年の間で、こんなことは一度だってなかった。琴葉はいつも自分のメッセージには即レスし、通知音も特別に設定して、少しでも対応が遅れないように気を張っていた。それは自分の持病が急に悪化するのを恐れていたからだけではない。彼に寂しい思いをさせたくなかったからだ。しかし今、こんなにも何度もかけているの
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第9話
「そんなのあり得ません……」和彦は驚き、動揺して目を泳がせた。「琴葉が支社に行くなんて、そんなはずがありません。ずっと俺のそばにいるって、ずいぶん前から約束してくれたんです。転勤を受け入れるわけがありません!琴葉があなたにそう言わせているんですか?すぐにここへ呼んで説明させてください。そうしないと、絶対に許しません!」受付の女性は、まるで頭がおかしい人を見るような冷ややかな目で彼を見つめた。「琴葉さんがあなたに教えなかったのも無理はありませんね。彼女の夫のくせに彼女の活躍を応援するどころか、説明がないと許さないなんて。彼女が何か悪いことでもしたんですか?」その真っ直ぐな言葉は、和彦の頬を叩きつけるように、甘い幻想を打ち砕いた。恥ずかしさとみじめさが込み上げる。顔がカッと熱くなった。そして、一つの恐ろしい予感が頭をよぎった。彼女の言っていることは、すべて本当なのではないか、と。和彦は、身内の食事会の前に琴葉がずっとうわの空だったことを、ふと思い出した。理由を尋ねたとき、彼女はこう言っていた。「食事会のときに話すね。そのときに相談させて」なのに、食事会の当日、彼は玲奈を連れて現れ、本来は妻が座るはずの席を奪ってしまったのだ。その結果、相談する余地さえ失われてしまった。だから琴葉は去ることを決め、この関係を終わらせることを選んだのだ。和彦は両目を赤くした。今になって、初めて激しい後悔が胸に押し寄せていた。「琴葉はどこに行ったんだ?今、どこにいる!」受付の女性は、事務的な笑みを浮かべた。「申し訳ありませんが、琴葉さんのプライベートに関することはお答えできません。ご主人なのでしたら、直接ご本人に聞いてはいかがですか?」和彦は頭の中が真っ白になった。そのとき、ちょうど和彦の母親から電話がかかってきた。言葉の端々から、驚きが隠しきれていなかった。「和彦……琴葉さんと何があったの?今さっき、郵送で書類が届いたのよ。琴葉さんからだって!」和彦は狂ったように会社を飛び出し、車を走らせて両親の家へと向かった。リビングに駆け込むと、両親がソファに座って黙り込んでいた。どちらもひどく暗い表情だ。和彦は一歩前ににじり寄った。「琴葉は何を送ってきたんだ?」和彦の母親は何かを言いかけ、ためらいながらもテ
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第10話
あれは和彦と琴葉の、初めての子どもだった。それが昨日、琴葉が必死で和彦にすがりつき、懇願していたあの時、もう、いなくなってしまった。あの時、和彦が少しでも琴葉を信じて、倉庫から病院へ連れて行ってくれていたら、あの子は助かったかもしれないのに。和彦は妊娠診断書を固く握りしめ、感情を抑えきれずに泣き崩れた。「琴葉……琴葉……」ずっと待ち望んでいた子ども。一番愛するはずだった我が子。それを自分の手で、絶望の中、流産させてしまったのだ。その妊娠診断書の裏には、琴葉の残した文字があった。【ーー私を解放して】それが、琴葉の願いだった。和彦と過ごしたこの長い10年間で、たった一度きりの、琴葉の願い。それからまもなく、別の街に引っ越した私のもとに、署名済みの離婚届が届いた。書類には一枚のメモが挟まれていて、日時と場所が書かれていた。【来月1日の午後、役所で離婚届を提出する】その文字の最後の方は少し滲んでいた。まるで涙がぽつりと、そこにこぼれ落ちたかのように。翌月の1日、私は役所へと向かった。そこには和彦が立っていた。黒いコートに身を包んだその顔は、酷く青ざめて見えた。目の下にはひどいクマがあり、私が去ってからまともに眠れていないのが一目で分かった。私の姿を見つけると、和彦の瞳に嬉しそうな色が走り、貪るように私を見つめた。私がそばにいた時よりも幸せそうにしているのを見て、辛そうにしながらも、なんとか笑みを作った。「久しぶり」私はうなずき、「久しぶりね」と返した。お互いに黙り込んでしまい、気まずくなった私は役所を指さした。「とりあえず、離婚届を出しましょう」和彦はぽかんとした後、視線を落として「分かった」と小さく答えた。その後、私たちは離婚届を提出した。他のよくある夫婦のような、激しい怒りや別れへの抵抗などはなかった。まるで、ちょっとした事務作業を片づけているだけのようだった。すべてが終わり、役所の外に出てから、私は空を見つめてそっと息を吐き出した。「琴葉」背後から、和彦に呼び止められた。振り返ると、差し出された手に腕輪があった。亡くなった母の遺品だ。この前、玲奈が嫌がらせで壊し、リビング中に散らばっていたあの腕輪だ。今はすっかり修復され、どう
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