「お母さん、お父さんに伝えておいて。西原家との縁談、受けるって」
電話の向こうから、即座に母、鶴田佐多子(つるだ さだこ)の激しい拒絶の声が飛んできた。
「だめよ!絶対に認めない!あんな病人に嫁ぐなんて!西原家が求めているのは紗也子なのに、どうしてあなたが身代わりにならなきゃいけないの!
早奈恵、思い詰めないで。お母さんが必ずなんとかしてあげるから」
鶴田早奈恵(つるだ さなえ)の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
「お母さんも、お父さんの性格は分かってるでしょ。お姉さんじゃなく、私を嫁がせると決めた以上、もう絶対に覆らないわ。それに、お父さんに認められていない子である私には、これくらいしか使い道がないんだから」
電話口で数秒の沈黙が流れ、やがて微かなすすり泣きが漏れてきた。
「早奈恵、お母さんが不甲斐ないばかりに……
でも、志樹さんのことがずっと好きだったんでしょう?彼と結婚すれば、お父さんもあんなに無理強いは……」
スマートフォンを握る手が、一瞬にして氷のように冷たくなり、爪が深く肉に食い込んだ。
笹井志樹(ささい もとき)。
その名前を聞くだけで、心がえぐられ、血が滴るような痛みを覚える。
「お母さん、彼とは何でもないの……」
これ以上言葉を重ねれば後悔しそうで、逃げるように通話を切った。
ホテル「観月閣」の十七階からは、凪ヶ崎(なぎがさき)市一の美しい夜景が広がっている。
この九十九回目のプロポーズに向けて、彼女は一ヶ月前から準備を進めてきた。
わざわざ休みを取り、南陬(なんすう)まで飛んで指輪を特注し、縁結びで最も名高い神社で祈祷までしてもらった。
だが、五時間待ちわびても、志樹は姿を見せなかった。
手元の指輪をぼんやりと見つめていると、スマートフォンの通知音が鳴った。
【鶴田さん、明日急ぎで使う書類があります。笹井社長に目を通していただき、サインを頂戴する必要があるので、お手数ですがお渡しいただけますか】
笹井グループのオフィスビルの下で、早奈恵はどこかから駆けつけてきた様子の、足早な志樹と鉢合わせた。
背筋はピンと伸びているものの、その表情には疲労の色が色濃く滲んでいる。
声をかけようとした矢先、彼が電話に出る姿が目に入った。氷のような横顔が途端に和らぎ、声色は信じられないほど優しい。
「紗也子、特製の薬膳キット、もう受け取ってきたよ。出来上がったらすぐに届けるからね」
早奈恵の目に、紙袋に印字された店の名前が飛び込んできた。隣町で最も有名な高級薬膳専門店だった。会社から数十キロも離れており、渋滞がなくても往復で三時間はかかったはずだ。
待ち合わせに現れなかったのは、姉である竹内紗也子(たけうち さやこ)のために薬膳を買いに行っていたからだったのだ。
だが、「姉」とは名ばかりである。
早奈恵の母から愛した夫を強奪して正妻に収まった女の娘・紗也子と、母の旧姓である「鶴田」を名乗って日陰者として生きてきた早奈恵。二人の間に、血の繋がり以外の家族の情など一ミリも存在しなかった。
呆然としていた早奈恵は、次の瞬間、志樹の声で現実に引き戻された。その声はすでにいつもの冷たさを取り戻していた。
「今日はずっと姿を見せなかったが、何をしていたんだ?」
早奈恵は顔を上げ、信じられないという目で彼を見つめた。
やがて、自嘲気味に唇の端を歪める。
紗也子のために休む間もなく奔走していたのなら、メッセージを見る暇などあるはずがない。
いや、見られていなくてよかった。
どうせ西原家へ嫁ぐと決まったのだから、これ以上、無様な姿を晒す必要はない。
早奈恵の弁解を待たず、志樹は言葉を継いだ。
「まあいい。大したことじゃない」
彼は手にしていた薬膳の包みを差し出した。
「中火から弱火で四十分煮込んでくれ。ずっと火加減を見ながら、鍋から目を離さないようにしてくれ」
早奈恵は黙ってそれを受け取り、一言も発さなかった。
志樹がいぶかしげに眉を寄せる。
早奈恵と姉は犬猿の仲であり、これまで紗也子が絡むと、彼女は常に激しく反発してきた。それなのに、今回はあまりにもすんなりと受け入れたからだ。
早奈恵がようやくわだかまりを捨てたのだと思い込み、口調が少しだけ柔らかくなる。
「紗也子はお前の姉だ。体調が悪い時は、妹として少しは労わってやるべきだろう」
早奈恵は反論しなかった。
どうせもうすぐ、彼の前から姿を消すのだ。最後のわずかな期間くらい、彼の言う通りにすればいい。
キッチンに立ち、ぐつぐつと音を立てる薬膳を煮込みながら、ふと志樹と初めて出会った時のことを思い出した。
陰鬱な空気を纏い、痩せ細った体つきでありながらも背筋はピンと伸びていて、その瞳だけがギラギラと光を放っていた。
彼は笹井家の存在を隠された愛人の子であり、学校では絶えずいじめの標的にされていた。
同じ傷の痛みを嗅ぎ取ったからだろうか。早奈恵の方から彼に近づいたのだ。
最初は、自分たちのような境遇の人間がどうやってこの界隈で生き延び、少しでも楽に過ごせるかを教えるつもりだった。
だが、志樹は人知れず、強い野心を抱いていた。
彼は笹井グループのトップの座を奪い取るつもりだった。
早奈恵は、馬鹿げた妄想だと思っていた。
しかし志樹は諦めず、何をするにもトップにこだわった。
同じ私生児でありながら、まったく違う生き方をする彼に早奈恵は目を奪われ、やがて愛するようになった。
何度も想いを伝えたが、彼の凍てついた心は動かなかった。
二人が世間から隠れるようにボロアパートへ転がり込んだ時、早奈恵が四百万円の貯金を差し出すと、志樹は目を真っ赤にして彼女をきつく抱きしめた。
「一生、絶対に早奈恵を裏切らない」
早奈恵も彼を抱きしめ返し、ようやく彼の心を溶かせたのだと思い、それからずっと彼を影から支え続けた。
十日前、志樹がとうとう笹井グループの社長の座に上り詰めるまでは。
その夜、彼は酷く酔っていた。
初めて早奈恵が触れるのを拒まず、唇が重なった瞬間、酒の勢いを借りて、長年心の奥底に秘めていた名前を口にした――
「紗也子」と。
早奈恵は逃げるように、その場を後にした。
志樹が自分のプロポーズに決して応えてくれなかったのは、心の中にずっと一番大切な人がいたからだった。
紗也子だ。
今や彼は凪ヶ崎市で最も力を持つ存在となり、堂々と彼女の隣に立つにふさわしい男となった。
自分という「彼女」気取りの女は、もうすぐ用済みとして捨てられる運命なのだ。
そう考えると、心臓の奥底から激しい痛みが波のように押し寄せた。
手に握りしめたペアリングが掌に深く食い込み、肌を突き破ってしまいそうなほど力を込めていた。
薬膳を志樹に手渡した後、早奈恵は背を向けて立ち去ろうとした。
「待て」
振り返ると、志樹が苛立たしげな顔をしていた。
「さっきメッセージを見たが、今日俺を呼び出したのは、またプロポーズのつもりじゃないだろうな?何度も言っているはずだ……」
「違うわ!」
早奈恵はひどく狼狽え、首を横に振っては両手をブンブンと振って否定した。
だがあろうことか、掌に隠していた小さなジュエリーケースが床に転がり落ちてしまった。
早奈恵の顔色が変わる。しゃがみ込む間もなく、志樹がそのケースを拾い上げるのを呆然と見つめるしかなかった。
「これは何だ?」
ジュエリーケースを開けられる前に、彼女は弾かれたように飛びついてそれを奪い返し、背中に隠した。
「何でもないわ。たいしたものじゃないの」
志樹も気にする様子はなく、薬膳を持って背を向け、歩き出した。
遠ざかる背中を見つめながら、早奈恵は胸の奥の苦い感情を飲み込んだ。
これでいい。
半月後には、自分は西原家に嫁ぐのだから。
別れの言葉など、もう必要ない。