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啓太が出て行って間もなく、外が急に騒がしくなった。何か大変なことが起きたみたいだ。何人かの看護師が慌てて入ってきて、有無を言わさず私を車椅子に乗せた。「どこへ連れて行くのですか?」「三浦さんが危篤です。最後に一目あなたに会いたいと。奥さん、どうか会いに行ってあげてください」「そんなはずないでしょう?」私はとっさに、嘘だと思った。だって、さっきまであんなに元気だった人が、死ぬなんてありえない。看護師は早口で説明した。「あなたのお姉さんが先ほど亡くなって、お母さんが錯乱して……果物ナイフで三浦さんを何度も刺したんです」救急処置室の中では、啓太が血まみれで横たわっていた。下腹部からの出血がひどく、どうやっても止まらないようだった。私が入ると、啓太はまっすぐに私を見つめ、血に濡れた手を差し伸べてきた。私は数秒ためらったけど、その手を握った。啓太の口からは血が溢れ、苦しそうに言った。「俺が死ねば、罪は償えるかな」私は頷いた。「臓器は全部、提供するつもりだ。だから……せめてもの償いだと思って、毎年墓参りに来てくれないか」私はまた、頷いた。啓太は満足そうに笑うと、手の力がゆっくりと抜けていった。二ヶ月後、私は勇太と一緒に啓太の墓参りに行った。啓太の心臓は、最終的に勇太に移植された。それがただの偶然だったのか、それとも啓太が指名したのかは分からない。勇太は墓石に花を供え、振り返って私に微笑んだ。「泉さんを見ると、心臓の鼓動が速くなるんですよ。三浦さんのせいなのか、俺自身のせいなのか分かりませんけどね。本当にずるい男ですよね。泉さんに一生、自分のことを忘れさせないつもりなんでしょう」私は墓誌に刻まれた啓太の名前を見つめた。この数ヶ月が、まるで人生の半分くらい長かったように感じた。これまでの愛も憎しみも、すべてが風に吹かれて消えていくようだった。その後、私と勇太は生涯にわたる友人になった。二人とも結婚はせず、年老いるまで支え合って生きていった。
啓太のそばに囚われて、私は生きる気力をすっかり失くし、もう目覚めたくないとさえ思っていた。昏睡状態は、啓太の束縛に抵抗する、私にとって唯一の方法だった。意識は宙をさまよいながら、私の体を前にどうすることもできずにいる啓太を、毎日見下ろしていた。啓太の顔は日増しにやつれてこわばっていき、医者たちに怒りをぶつけることしかできないみたい。いつ移植手術ができるのかと、何度も何度も問い詰めていた。「患者さんの容態が安定するまで待つしかありません。今手術をすれば、リスクが大きすぎます。最悪、手術台の上で亡くなる可能性も……」啓太はまたかんしゃくを起こして、「死」を連想させるような不吉な言葉を口にすることを、誰にも許さなかった。まるで、彼らがその言葉を口にしなければ、私が死なないみたいに。智子はそれを横で嬉しそうに聞いていた。「じゃあ、もう何日か様子を見よう。泉のせいで私まで危なくなったら困るもの。啓太、心配しないで。私は絶対に無事に手術室から戻ってくるから」かつて私に手術をしたあの医者は、智子とベッドに横たわる私を交互に見て、何か言いたそうにしていたけど、結局何も言わなかった。多分、これからすべてを奪われる私を、哀れに思ったんだろう。一週間後、私は手術室に運ばれた。麻酔を一本打たれて、意識は完全に途絶えた。少し意識が戻ってくると、手が痺れているのを感じた。でも、もう心臓をえぐられて死んだんじゃなかったの?なんでまだ感覚があるんだろう?ぼんやりと目を開けると、啓太がベッドのそばに座って、私の手を固く握りしめたまま眠っていた。私が少し身じろぎすると、啓太はすぐに目を覚ました。彼は私を見て、だんだん目を赤くしていく。「やっと……目が覚めたんだな。よかった、本当によかった」私は目を閉じて、啓太を見ないようにした。「泉、俺と智子が嘘をついて、法の裁きから逃れようとしたことを怒っているのか?智子を生かしておいたのは、お前があいつにやったものを、全部取り返すためだったんだ。俺だって、罪を償いたくないわけじゃない。ただ……」啓太はうつむいて、熱い雫が私の手の甲に落ちた。「ただ、お前の体が良くなるまでそばにいて、ちゃんと見届けたかったんだ。お前が元気になったら、自首しに行く」私は心の中で鼻で笑った。恥知らずな人間は、いつも罪
私はスマホの画面越しに、この茶番劇を楽しく見ていた。すると、勇太から電話があった。彼の声はなぜか弱々しく聞こえた。「他に何かしてほしいことはありますか?今回のご依頼の範囲内ですから、追加料金はなしですよ」私はやり残したことがないか、じっくり考えた。「はい。私が死んだら、遺骨を海に撒いてほしいです。啓太に縛られたくないですから。三浦家のお墓には入りたくないです」勇太は数秒、言葉を失っていたみたい。そして、低い声で言った。「それは保証できませんね。こっちが先に死ぬかもしれませんから」「どうしてですか?」変なことを言う人だ。私より先に死ぬなんて、どういうことだろう。「心臓病なんです。一日一日を、どうにか生き延びてるだけですよ」勇太の声は投げやりで、まるで明日のない人のようだった。私はため息をついた。「それなら、もうちょっと頑張って生きてくださいよ。私がいよいよダメになったら、心臓をあげますから」今の私でまともなのは、もう心臓くらいしかない。依頼を受けてくれたお礼だと思えば、ちょうどいい。電話の向こうは、長い間黙り込んでしまった。突然、病室のドアが開けられ、啓太が死人のような顔で入ってきた。私は急いで電話を切った。あんな暴露をした後だから、啓太はきっと逆上して、もう二度と顔も見せないと思っていた。でも啓太は、特に変わった様子もない。いつもみたいにベッドのそばにしゃがみ込んで、静かに言った。「俺に仕返しをすることで、お前の気が少しでも晴れるなら、俺は社会的に終わることになっても構わない」そう言いながら、啓太はいくつかのタッパーを私の前に並べた。そしてスプーンを取って、私に食べさせようとする。「何か食べよう。食べないと、体力がもたないよ」私は静かに首を横に振った。そして、真剣な口調で言った。「離婚届に、サインして。きれいさっぱりしてから、逝かせてほしいの。もうあなたを恨みたくもない。ばかばかしいから。すべてを、終わりにしてほしいの」人を恨むのって、すごく疲れる。この男はもう、私がそんなエネルギーを費やす価値もない。啓太は呆然と私を見ていた。彼は黙って綿棒を手に取り、水で湿らせてから、私の乾いた唇に当ててくれた。その目はだんだん赤くなっていった。「泉、きっと良くなる。だから、どうか全力で俺を憎んで、仕返しして
啓太は、私の冷たい言葉なんて気にも留めていないようだった。彼は私の手を取り、ポケットから指輪を出すと、私の薬指に無理やり押し込んだ。「バカだな、金に困ってるなら、どうして俺に言わないんだ?もう二度とこんな大事なものを売ったりするなよ、いいか?」と優しい声で言った。私は怒りをこらえながら、必死に体を起こす。点滴の針が刺さったままの腕も構わず、啓太が無理やりはめた指輪を引き抜き、力いっぱい投げつけた。「啓太、あなたと離婚するって言ってるの!聞こえないの?」手の甲に刺さっていた針から、血が逆流してくる。でも、もうそんな痛みには慣れっこだった。この何年もの間、ずっと全身の痛みを抱えて生きてきたんだから。この男が、私にとどめを刺すまでは。もう本当に痛くて死にそうで、いっそ死んだほうが楽になれるんじゃないかとさえ思うようになっていた。私は腕の点滴針を乱暴に引き抜くと、目の前の男を冷たく見つめた。そして、静かに問いかける。「ねえ、啓太。私が死んだら、解放してくれるの?」私の手の甲から滲む血を見て、啓太の瞳が揺れた。そして、歯を食いしばるように、重々しく言った。「二度とその言葉を口にするな。お前は長生きするんだ。お前が俺のもとを離れることは認めない」長生き、だなんて。そんなこと、ありえるはずがないのに。私は目を閉じ、啓太の顔をもう見たくなくて、そのまま横になった。しばらくして、啓太がドアを開けて出ていく音が聞こえると、私はすぐにスマホを取り出して電話をかけた。「今、正式に依頼します。あの証拠を、すべて公開してください」電話の向こうの男の声は、楽しそうに聞こえた。「わかりました。では、我々の勝利を祈りましょう」本当は、人生の最期をあのクズ男と悪女とのいざこざに費やしたくはなかった。私が死んだあとで、勇太に彼らが私を傷つけた証拠を公表してもらおうと思っていたのに。でも、啓太は悪霊みたいに私にまとわりついて離れない。私が死んだ後まで、啓太に「三浦夫人」として葬られるなんて、考えただけで悔しくてたまらない。その日の午後、【三浦グループ後継者、妻の子宮を摘出し初恋の人に贈る】という見出しのニュースが、またたく間に各メディアでトップ記事として報じられた。当時の手術記録、クズ男と悪女のラインのやりとり、そして私のカルテ。それ
2週間後のある午後、私は海辺の小さな町に身を落ち着けていた。結婚指輪を売って大金に換え、毎日おいしいものを食べたり、きれいな景色を眺めたりして過ごしていた。体のあちこちが時々痛む。自分がもう長くないことは分かっていたから、毎日を最後の一日のように過ごしていた。ビーチチェアに寝そべり、静かに波の音を聞く。これまでの27年間で、こんなに自由で心地いいと感じたことは一度もなかった。砂浜をこちらへ向かってくる人影があった。私の離婚を担当している弁護士の、栗原勇太(くりはら ゆうた)だ。業界での勇太のあだ名は「福の神」だ。お金さえ積めばどんな訴訟でも引き受けるらしく、事実、私の離婚を引き受けてくれたのも彼だけだった。この男は、見た目はいかにも遊び人という感じだ。女性よりも美しい顔立ちなのに、シャツのボタンはいつも上の二つが開いていて、胡散臭い弁護士のように見える。勇太はズボンのポケットに手を突っ込んだまま私を見て、静かに言った。「旦那さんに話は通しておきました。彼は離婚しないと。こっちが財産をすべて放棄しても、応じないそうです。今じゃ会社にも行かず、あなたを血眼になって探しています。彼をまくのに苦労しましたよ。どうやら、あなたは彼にとってかなり大切な人みたいですね」「ふん」と私は鼻で笑った。「啓太は演技がうまいだけです。本当は智子の出産が心配で、万が一の時のための保険として、私をそばに置きたいだけですよ。いつでも使えるスペアの臓器として」「これからどうするつもりですか?」「啓太がそう簡単にあきらめるとは思ってません。だから伝えてください。もし離婚に応じないなら、全部世間にぶちまけてやるって」「それでも同意しなかったら?」聞き慣れた冷たい声が背後からした。顔を覆っていた帽子をどけると、男の暗く、強い光を放つ漆黒の瞳が目に入った。2週間ぶりに見る啓太は、ひげも剃らず、服はしわくちゃで、まるでホームレスみたいにやつれていた。立ち上がって去ろうとすると、腕を掴まれた。啓太は苦しそうに言った。「一度だけでいい、許してくれないか?」啓太の手を振り払うと、また胸が痛み出した。数秒耐えて、どうにか呼吸を整えると、私は声を絞り出した。「啓太、お願いだからもう私を放して」2週間前、啓太のオフィスに私の診断書を送った。こんなにボロ
母は、智子の妊娠を祝って、智子の好物をテーブルいっぱいに並べた。智子が鼻をつまんで「食欲がない」と言うと、啓太は、私の世話をしてくれている家政婦を智子のもとに行かせよう、と提案した。智子は口の端を上げて笑い、私を指さした。「やっぱりやめておくわ。泉が嫌な顔をしているもの。私のせいで二人が気まずくなるなんて、嫌だから」母はすぐに眉をつり上げて私を叱った。「あなたは妊娠してるわけじゃないんだから、自分のことくらい自分でやれるでしょ。昔から自己中心的なんだから。少し頼みごとをすると、すぐに泣き言ばっかり」母が私を産んだのは、智子の病気を治すためのドナーを確保するためだった。母の目には、私は智子を治すための道具としか映っておらず、決して逆らってはいけない存在だった。もう母と言い争う気力もなくて、私はお箸を置いた。少し一人になりたくて昔の自分の部屋へ向かうと、そこはただの物置部屋に変わっていた。急に涙がこぼれてきて、乱暴にそれを拭った。智子が部屋に入ってきた。「啓太に当たり散らしてるの?自分の立場をわきまえたらどう。私と彼の長年の絆に、あなたが入る隙なんてないのよ」その勝ち誇った口ぶりは、まるで本妻が愛人を叱りつけているかのようだった。私は鼻で笑った。「それなら、どうして啓太と結婚しないの?」智子の口元の笑みは、さらに深くなった。「手に入らないからこそ、価値があるの。啓太にはずっと私のことを想っていてほしいの。そうすれば、彼は永遠に私の味方でいてくれるでしょ」私は何も言えず、ぼんやりと智子のお腹を見つめ、気づけばそっと手を触れていた。智子はさらに勝ち誇ったように笑い、私の耳元で囁いた。「うらやましい?残念だけど、あなたはもう二度と子供を産めないわ。だって、あなたの子宮は、私のお腹の中にあるんだもの。子宮がなくなると、大変らしいじゃない?一生ホルモン剤を飲み続けないといけないし、副作用もひどいんだって。私が啓太にそう言ったらね、彼、私がそんな辛い思いをするのは耐えられないって、すぐに助けてくれるって言ってくれたのよ。だから、啓太はあなたと結婚して、うまく言いくるめてきたの。そうそう、私の体はもともと弱いから、いざという時のために、あなたを健康に育てておかないとって言ってたわ。私に感謝すべきよ。あなたなんて、私のための『器』