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闇の果て、無期の別れ

闇の果て、無期の別れ

By:  くまちゃんは必ず輝くCompleted
Language: Japanese
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結婚の翌日、二人は早くも離婚届受理証明書を手にした。神崎雪乃(かんざき ゆきの)の五年間の献身が換えたものは、高遠怜司(たかとお れいじ) の隣で微笑む別の女の姿だけだった。 雪乃がミントアレルギーだと知ると、怜司はミントの香水を全身に浴びる。 怜司の友人に階段から突き落とされ、重傷を負い意識不明に。目覚めた雪乃に対し、怜司は薄ら笑いを浮かべ、警察に通報しないのなら願いを一つ叶えてやると言った。 地震が起きた時、かつて雪乃を深く愛したはずの男は別の女の手を引いて逃げ出し、雪乃一人が死を待つことになった。 こうなっては、彼女は去るしかない。

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Chapter 1

第1話

結婚の翌日、二人は早くも離婚届受理証明書を手にした。神崎雪乃(かんざき ゆきの)の五年間の献身が得えたものは、高遠怜司(たかとお れいじ) の隣で微笑む別の女の姿だけだった。

雪乃がミントアレルギーだと知ると、怜司はミントの香水を全身に浴びた。

怜司の友人に階段から突き落とされ、重傷を負い意識不明。目覚めた雪乃に対し、怜司は薄笑いを浮かべ、警察に通報しないのなら願いを一つ叶えてやると言った。

地震が起きた時、かつて雪乃を深く愛したはずの男は別の女の手を引いて逃げ出し、雪乃一人が死を待つことになった。

こうなっては、彼女は去るしかない。

……

怜司と雪乃は結婚式の翌日、すべての家族に隠れて離婚届受理証明書を手にした。

新婚の夜、怜司はセクシーなバニーガールの格好をした雪乃を冷たく突き放した。「お前は必死になって俺に嫁いだが、一体何の目的がある!」

怜司は雪乃を寄せ付けなかった。

雪乃がただ穏やかに話し合おうとするだけで、怜司は火がついたように怒り出した。

雪乃がミントアレルギーだと知ると、怜司は意地の悪い笑みを浮かべ、家政婦に全ての料理にミントを入れるよう命じた。

怜司の寝室、書斎、バスルーム、果ては香水に至るまで、雪乃にとっては命取りとなるミントの香りで満たされた。

ある使用人が見かねて、恐る恐る注意した。「旦那様、奥様は重度のミントアレルギーで……毎日抗アレルギー薬を飲み、夜も眠れていないご様子です……」

怜司は不機嫌に眉をひそめ、持っていたファイルをその使用人に向かって思い切り投げつけた。「いつからお前が俺に説教するようになった!」

使用人の額は切れて血が流れ、翌日には解雇された。

それ以来、使用人たちは口を閉ざし、誰も怜司に逆らおうとはしなくなった。

雪乃は何度も自分に言い聞かせた。怜司は交通事故で記憶を失い、二人のことをすべて忘れてしまっただけなのだと。怜司がしていることはすべてわざとではないのだと。

しかし結婚五年目、九百錠目のアレルギー薬を飲んだ時、山積みになった薬の空シートを見て、雪乃はふとこんな生活に嫌気が差した。

朝の三時に起きて一緒に日の出を見つめ、二人でペアリングを作り、海外の新聞のトップを一緒に飾った。そんな怜司はもうあの交通事故で死んでしまったのだ。

怜司が雪乃を不快がらせるためにミントの香水を手につける時、雪乃はいつも過去のことを思い出す。怜司が初めて雪乃に高価な国外のミントアイスクリームを食べさせてくれた時、彼女は全身に発疹が出て病院に救急搬送され、怜司が目を真っ赤にして心配してくれたことを。

怜司は心から痛ましそうな目で、点滴を受ける雪乃に付き添った。「ごめん、雪乃。君がミントアレルギーだなんて知らなかった。これからは二度とこんなミスはしないよ」

雪乃が高遠家を出ようとした時、普段の外出と変わらず、何も持たなかった。

屋敷の門を出る前に、スマホが鳴った。

雪乃は仕方なく門の両側で赤く点滅する監視カメラを見上げ、電話に出た。「弦蔵おじいさん」

電話の向こうから、怜司の祖父である高遠弦蔵(たかとお げんぞう)の申し訳なさそうな声が聞こえた。「雪乃、また怜司と口喧嘩かね?」

雪乃は乾いた笑いを浮かべた。

口喧嘩?

「口喧嘩するほど仲がいい」なんて言えるのはお互いが愛し合っているからこそだ。ここでは、雪乃に言葉を発する権利すらなかった。

「弦蔵おじいさん、私はもう努力しました……」

「いい子だ、もう少しだけ辛抱してくれんか。あの子は昔、お前と一緒になるためなら、この家と縁を切るのも厭わなかった。お前と地下室に一年も暮らし、おまけに敵の恨みを買って報復され、体まで壊してしまったんじゃ。

何も、お前の家柄のことを責めているわけではないんじゃ。ただ、もう少しだけ辛抱してほしいんだ。怜司は悪い子じゃない。いつかきっと、二人のことをすべて思い出してくれる」

雪乃は怜司の記憶が戻ることが非常に困難だと知っていた。

彼女はもう二十八歳だ。こんな実態のない結婚生活にこれ以上人生を食いつぶされるのは、もうごめんだった。

雪乃の今回の決意が固いことを感じ取ったのか、弦蔵は歯を食いしばり、魅力的な条件を提示した。「雪乃、あと一週間だけ待ってくれ。一週間経っても怜司の記憶が戻らなければ、二百億円をやろう。それでどこへなりと行くといい」

その日の夜、二百億円が雪乃の口座に振り込まれた。

後ろに続くゼロの列を数えながら、雪乃は結婚以来、初めて心からの笑顔を見せた。

雪乃は孤児だったが、努力して名門大学に入り、怜司と出会った。

怜司が雪乃にアプローチした時は、誰もが知る派手なものだった。

その頃の雪乃は目の前の御曹司を考えるまでもなく拒絶した。

彼女にとって、このような御曹司は遊び惚けているだけで、まともなことをする人間ではなかった。

だが、怜司は行動で自分が他の連中とは違うことを示した。

雪乃が海が見たいと言えば、怜司はプライベートジェットで海の上空に連れ出し、思う存分、自由な風を肌で感じさせてくれた。

雪乃が雪山に登りたいと言えば、怜司は十人ものガイドを雇い、万全の体制で彼女を頂上へと導いてくれた。

付き合い始めてからは、M国の雪原で固く手を繋いで互いの名前を雪に刻んだ。

海外でのキャンプファイヤーでは、互いにすべてを曝け出すように、夜が明けるまで語り合った。

怜司は雪乃を心から尊重していた。何度も腕の中で眠る夜があっても、彼は決して一線を越えなかった。

雪乃が「新婚の夜に、初めてあなたの人になりたいの」と言った、ただその一言を守るためだった。

雪乃と一緒になるため、怜司は家族との絶縁も厭わなかった。高遠家は怜司の全ての銀行口座を凍結し、各方面に手を回して彼が一切の仕事に就けないようにした。

その頃、怜司は雪乃と薄暗く狭い地下室で寄り添い、自責の涙を流し、必ず金を稼いでこの苦境から抜け出すと誓った。

二人は互いの温かい手を固く握りしめたまま、役所で婚姻届受理証明書を手にした。

シャッターが切られた瞬間、二人の最も真摯な笑顔が記録された。

その時、二人は心の中で必ず相手を幸せにすると誓った。

しかしその後、怜司は恨みを買って報復され、大型トラックにはねられ血の海に倒れ、全身を何ヶ所も骨折した。

怜司の母である高遠冴子(たかとお さえこ)は集中治療室の外で泣き崩れ、怜司が目覚めさえすれば、すぐ二人に盛大な結婚式を挙げさせると言った。

雪乃は役所で撮った記念写真を見つめた。指先で、そこに写る愛情に満ちた怜司の笑顔をそっとなぞると、胸の奥が鈍く痛んだ。

階下から突然、車のエンジン音が響いた。雪乃は涙を拭い、いつもと違い、部屋のドアに内側から鍵をかけた。

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第1話
結婚の翌日、二人は早くも離婚届受理証明書を手にした。神崎雪乃(かんざき ゆきの)の五年間の献身が得えたものは、高遠怜司(たかとお れいじ) の隣で微笑む別の女の姿だけだった。雪乃がミントアレルギーだと知ると、怜司はミントの香水を全身に浴びた。怜司の友人に階段から突き落とされ、重傷を負い意識不明。目覚めた雪乃に対し、怜司は薄笑いを浮かべ、警察に通報しないのなら願いを一つ叶えてやると言った。地震が起きた時、かつて雪乃を深く愛したはずの男は別の女の手を引いて逃げ出し、雪乃一人が死を待つことになった。こうなっては、彼女は去るしかない。……怜司と雪乃は結婚式の翌日、すべての家族に隠れて離婚届受理証明書を手にした。新婚の夜、怜司はセクシーなバニーガールの格好をした雪乃を冷たく突き放した。「お前は必死になって俺に嫁いだが、一体何の目的がある!」怜司は雪乃を寄せ付けなかった。雪乃がただ穏やかに話し合おうとするだけで、怜司は火がついたように怒り出した。雪乃がミントアレルギーだと知ると、怜司は意地の悪い笑みを浮かべ、家政婦に全ての料理にミントを入れるよう命じた。怜司の寝室、書斎、バスルーム、果ては香水に至るまで、雪乃にとっては命取りとなるミントの香りで満たされた。ある使用人が見かねて、恐る恐る注意した。「旦那様、奥様は重度のミントアレルギーで……毎日抗アレルギー薬を飲み、夜も眠れていないご様子です……」怜司は不機嫌に眉をひそめ、持っていたファイルをその使用人に向かって思い切り投げつけた。「いつからお前が俺に説教するようになった!」使用人の額は切れて血が流れ、翌日には解雇された。それ以来、使用人たちは口を閉ざし、誰も怜司に逆らおうとはしなくなった。雪乃は何度も自分に言い聞かせた。怜司は交通事故で記憶を失い、二人のことをすべて忘れてしまっただけなのだと。怜司がしていることはすべてわざとではないのだと。しかし結婚五年目、九百錠目のアレルギー薬を飲んだ時、山積みになった薬の空シートを見て、雪乃はふとこんな生活に嫌気が差した。朝の三時に起きて一緒に日の出を見つめ、二人でペアリングを作り、海外の新聞のトップを一緒に飾った。そんな怜司はもうあの交通事故で死んでしまったのだ。怜司が雪乃を不快がらせるためにミントの香水を手につけ
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第2話
雪乃は知っていた。怜司が最近、あの秘書の女にうつつを抜かしていることを。その女は大学を卒業したばかりだったが、怜司が競合他社から引き抜き、特別採用で入社させたのだ。彼女は若く、活発で、怜司に尽きることのない新鮮さをもたらしていた。その不穏な兆候に気づいた時、雪乃は必死にあらゆる手を尽くした。優しく諭し、脅し、金で誘い、果ては拉致を企ててまで、その女を強引に追い出そうとした。しかし、返ってきたのは怜司の報復だった。最も酷かった時は、怜司が包丁を雪乃の首筋に突きつけ、秘書の居場所を問い詰めた。鋭い刃先が雪乃の白く細い首筋を走り、そこには生々しい傷跡が刻まれた。その瞬間、雪乃の脳裏にかつて怜司が誓った言葉が蘇った。彼は言った。「自分が死んでも、雪乃の指一本傷つけない」と。その夜、雪乃は泣きながら怜司に問い詰めた。「あなたは、私を絶対に傷つけないと約束したじゃない」怜司は冷酷に笑った。「嘘をつくな。俺が死んでもお前にそんな言葉を言うはずがない。必死で俺に嫁いだのは、うちの金が目当てだろう?金ならくれてやる。だが、若葉が無事であるよう祈るんだな」首筋の傷がかさぶたになるまで、怜司からの謝罪の言葉は一言もなかった。階下の桜庭若葉(さくらば わかば)は周りを見渡した後、少し恥ずかしそうに怜司の胸に寄り添った。「雪乃、お留守?」怜司はちらりと視線を送り、玄関にあるハイヒールに目が留まると、そばに立つ使用人に尋ねた。「彼女は何階にいる?」使用人たちは顔を見合わせ、頷いて答えた。「雪乃様はお部屋に……」若葉はそれを聞くと、すぐに立ち上がって階段へ向かった。「バーベキューをたくさん買ってきたの。雪乃を呼びに行ってくるね」ドアを叩く音が響いた時、雪乃は海外行きの航空券を見ていた。二百億円を手に、どこへ移住するか、まだ決めかねていた。ノックの音を聞いても無視しようと思ったが、ドアの外の人間はなんと鍵を取り出し、内側からかけたはずのドアを開けた。暗かった部屋の照明がつけられ、眩しい光に雪乃は思わず手で顔を覆った。目の前の女は遠慮もなくベッドに腰掛けた。「雪乃、怜司とバーベキューを買ってきたの。一緒に食べない?」ふわりとミントの香りが漂い、雪乃は思わず鼻を押さえて後ずさった。「いいわ、お腹空いてないから……」
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第3話
翌日、怜司の母、冴子から電話があった。冴子の声は不機嫌だった。「今夜六時、怜司を連れてこちらに来なさい」雪乃は「はい」と気のない返事をしたが、あの家に戻るなど、億劫でしかない。冴子と会う時はいつも、気まずい思いをするからだ。結婚した当初は、雪乃も冴子に歩み寄ろうと努力した。だが、冴子はそんな雪乃をまったく寄せ付けなかった。怜司は朝早くから若葉を連れて会社に行った。雪乃の連絡先はとっくに怜司によってブロックされている。若葉を守るため、怜司は会社の入り口に「神崎雪乃と犬、入るべからず」という立て看板を特注した。この一件により、雪乃は社交界の物笑いの種に成り下がった。今、雪乃が怜司に連絡を取る唯一の方法は会社に電話し、受付に取り次いでもらうことだけだった。紆余曲折の末、ようやく怜司が電話に出た。「要件を言え」一言だけだったが、雪乃には、それが怜司が情事に耽っている時特有の低い声だとわかった。「冴子さんが今夜、実家に来るようにって」言い終わった瞬間、電話は切れた。雪乃はスマホを持ったまま、通話していた時の姿勢で固まった。脳裏には先ほど通話中の数秒間に聞こえた音が制御不能に蘇る。若葉のか細い、喘ぐような声が不意に耳に飛び込んできた。この結婚生活の五年間、怜司の女は数え切れないほどいた。だが、彼は決して一線を越えず、本気になることもなかった。しかし今回は……雪乃は鈍い痛みが走る胸を押さえ、不快感を和らげようとした。すべての無念が、「もういい」という一言に変わった。実家へ向かう道中、雪乃は屋敷から百メートルほど離れた場所に車を停め、怜司を待った。夜の帳が下り、街灯が一つ、また一つと灯り始めた頃、ようやく怜司の車がやってきた。車の窓が下り、怜司の気品ある横顔が現れた。雪乃も彼女の車の窓を下ろし、何か言おうとしたが、怜司の助手席にまだ人が座っていることに気づいた。怜司はわざと見せつけるように隣の人に言った。「薬は塗ったか?」若葉は嬉しそうに笑い、もとより清純なその顔立ちが、いっそう可憐に映った。「塗りました。でも、医者が少なくとも半月はダメだって……」怜司は仕方なさそうに若葉の髪を撫で、その声は諦めと甘さを含んでいた。「俺のせいだな」雪乃はもちろん二人の会話の意味を理解
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第4話
後ろから執事の声がした。雪乃は驚き、同時に、先ほどまで賑やかだったダイニングルームも静まり返った。雪乃の姿を認めた瞬間、冴子の顔から笑みが凍りついた。不機嫌な視線を雪乃に注ぎながら、肩にかけたミンクのショールを、いかにも尊大に引き寄せた。「入ってこないの?」雪乃は重い足取りで中に入り、恐る恐る声をかけた。「お義母さん……」冴子はその呼び名を聞き、さらに顔を歪めた。「書斎に来なさい!」そばでは使用人が新しい椅子を追加しようとしていた。怜司が指先でテーブルを軽く叩き、ゆっくりと言った。「部外者のために、椅子を追加する必要がどこにある?」その言葉は、疑いようもなく、雪乃の面目を丸潰れにさせるものだった。顔が火照るのを感じながらも、雪乃は使用人に向かって無理に笑顔を作った。「結構だ。ありがとう」そう言って、雪乃は階上へと向かった。書斎の中、冴子は暗い顔で紫檀の椅子に座り、雪乃はその反対側に立っていた。「跪きなさい!」冴子の声には有無を言わせぬ響きがあった。もし以前の雪乃なら、きっと恐怖に足が震えていただろう。あの頃は高遠家から追い出されること、怜司を失うことを恐れていたからだ。だが、今はもう怖くない。雪乃は初めて、冴子を真っ直ぐに見上げ、その瞳には屈しない光が宿っていた。「なぜ?」冴子は少し驚き、一瞬、気勢が弱まった。「よくも聞けたものね?この前、あなたが若葉ちゃんを拉致させたせいで、高遠家はスキャンダルに巻き込まれ、株価が下落した。もし若葉ちゃんが寛大にも事を荒立てず、自ら釈明して高遠会社の損失を下げようと努めてくれなければ、あなたは今頃、刑務所の中よ!高遠家の家法はよく知っているでしょう。手のひらを鞭で十回。二度と過ちを犯させないための戒めよ!」言うが早いか、雪乃の後ろから二人の使用人が現れ、雪乃を動けないように押さえつけた。使用人が雪乃の膝裏を強く蹴ると、雪乃は膝から崩れ落ち、床に跪いた。間髪を入れず、鞭が空を切る鋭い音が走った。一回目。手のひらは瞬く間に赤く腫れた。二回目。皮膚が破れ開いて、肉が裂けた。三回目。血が手首を伝って流れ落ちた。……十回目。両の手のひらは無惨に裂け、もはや血と肉が入り混じった塊のようだった。使用人が手を離すと、雪乃は痛みでその場に崩れ落ちた。灼け
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第5話
執事は頷いた。「はい。先ほど雪乃様が、冴子様から鞭打ち十回の罰を受けられました」十回……怜司はそれを聞いて驚愕し、思わず声が大きくなった。「十回?!」十回どころか、怜司は五回すら耐えられなかった。雪乃がそれを一言も発さずに十回も受けたというのか……若葉が慌てて前に出て、心を痛めているふりをした。「まあ、十回も。雪乃、きっと痛かったでしょうね…」そこで若葉は一瞬言葉を切り、続けた。「でも、さっき見た限りでは顔色も普通だったし、冴子さんも本気じゃなかったんじゃない?」「そうだ、冴子さんはなんで雪乃を罰したの?」執事は微笑んだ。「雪乃様が以前、若葉様を拉致させようとした件です」怜司の苛立っていた心はその言葉を聞いて瞬時に静まった。あの件は記者に嗅ぎつけられ、各社のトップニュースとなり、高遠会社の株価は下落し続けた。怜司は若葉の救出に奔走する一方で、記者会見での釈明にも追われていた。最終的に、若葉が自ら表に出てくれたおかげで、ようやく騒動は収束したのだ。そう思うと、怜司は若葉を連れてゆっくりとソファに戻った。「彼女のことは放っておけ。自業自得だ」執事が鞭を持って外へ向かうと、ちょうど雪乃の車のテールランプが暗い夜の闇に消えていくところだった。雪乃は車内に座り、窓を下ろすと冷たい風が吹き込んできた。ついさっき、雪乃はようやく未来の居住地を決めた。帰りたい。自分の家に。航空券を購入した後、車は家の前に着いた。家に戻ると、使用人が怜司の言いつけ通り、ミントのアロマを交換しているところだった。雪乃が帰宅したのに気づくと、使用人はぴたりと手を止めた。一人の使用人が雪乃の手の包帯から血が滲んでいるのに気づき、見かねたように声をかけた。「雪乃様、病院で手当てを……」冷たい風に当たったせいか、あるいは、この家が常に彼女を不快にさせるミントの香りに満ちているせいか。雪乃は吐き気がした。次の瞬間、雪乃はとっさに口元を押さえて花壇のそばへ駆け寄り、数回、激しくえずいた。こみ上げる咳と共に、涙と鼻水が一度に溢れ出た。使用人がティッシュを取りに踵を返した時、遠くから強い光が差し込んできた。雪乃は喘ぎながら振り返った。車がようやく停止し、若葉が降りてきた。手には薬の袋を提げていた。若葉は車を降りるなり雪
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第6話
雪乃は手の傷を庇いながら、怜司の決然とした眼差しを見た。彼が本気で自分を追い出そうとしているのがわかった。しかし、怜司はかつて雪乃の手を取り、一生雪乃を離さないと言った。その約束は、結局、雪乃一人を過去の思い出の中に独り取り残すだけのものだった。雪乃はうつむき、まだ血が滲む自分の傷口を見つめ、すべての屈辱と苦痛を飲み込み、淡々と頷いた。「出ていくわ。でも、今じゃない」二百億円を受け取った以上、何があっても約束は果たさなければならない。予想していたような騒ぎ立てる様子もなく、雪乃の落ち着き払った態度に、怜司の心は突然ざわついた。若葉が泣きそうな声で言った。「怜司、腕がすごく痛い。もしかして怪我したかも……」怜司はすぐに視線を落として確認した。若葉の腕は赤く腫れ、擦り傷もできており、彼は途端に心を痛めて眉をひそめた。「行くぞ。病院で精密検査だ」怜司が去った後、屋敷は再び静けさを取り戻した。雪乃は疲れ果てた様子で部屋に戻った。使用人がそばに立ち、彼女の手の包帯の交換を始めた。恐ろしい傷口が目の前に晒されると、使用人は息を飲んだ。「雪乃様、やはり病院で手当てを受けてください。これは……あまりにも酷すぎます!」雪乃はとうに痛みで麻痺していた。彼女は手の傷口をしばらく見つめ、やがて疲れたように頷いた。怜司と鉢合わせするのを避けるため、雪乃は遠くの病院を選んだ。傷口を洗っていると、後ろからからかうような声がした。「雪乃さん?」その言葉に続くように、後ろからどっと嘲笑が湧き上がった。どうやら相馬翔吾(そうま しょうご)一人ではないらしい。雪乃は振り返らず、医者の指示に従って傷口を洗い続けた。だが、翔吾はしつこく雪乃のそばにしゃがみ込んだ。「怜司がさっき、あなたが絶対病院に追って来るから追い返せって言ったんだ。俺たちは信じなかったがな。まさか本当に来たのか?正直、たまには俺たちを勝たせてくれてもいいんじゃないか?」ちょうどその時、傷口を洗い流していた水が止まった。雪乃は黙って床の空き瓶を拾い、注射室のある階段へ向かった。雪乃は翔吾たちを避けられると考えていたが、それは甘かった。翔吾は素早く回り込み、雪乃の行く手を塞いだ。「話しかけてるのが聞こえないのか?」雪乃が翔吾の横をすり抜けようとした瞬間
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第7話
怜司はさらに眉を寄せた。彼は動かず、自分が聞き間違えなかったかを確認しているようだった。雪乃はきっぱりと繰り返した。「警察を呼ぶ」怜司は今度ははっきりと聞き取った。彼は唇を固く結び、冷たい視線を向けた。「その必要はない。翔吾もわざとやったわけじゃない……」雪乃は目の前で他人を庇う男をじっと見つめた。「わざとじゃなければ、私は死んでもよかったと?」怜司は顎に手を当て、二秒ほど黙った後、ふっと笑った。「願いを一つ叶えてやる。仲間を刑務所に入れるわけにはいかないんでな」雪乃は心が微かに震え、布団の下で拳を固く握りしめた。以前の怜司なら、こんなことは言わなかった。雪乃はついに、今の怜司が自分を微塵も愛していないという事実を受け入れた。二人はそのまま睨み合った。やがて、雪乃が折れ、冷たい顔で要求を出した。「明日、オークションがある。それに付き合って」怜司は眉を上げた。「それだけ?」雪乃は鼻で笑った。「ただし、若葉は抜きで」怜司はあっさり承諾した。「いいだろう」怜司が去った後、雪乃はスマホの時間を確認した。予約した飛行機は明日の夜だ。翌日、オークション会場。雪乃は革張りのソファに腰掛け、給仕が運んできたフルーツの盛り合わせを、銀のフォークで口にしていた。オークションの最後を飾る目玉商品が披露された時、雪乃は視界の端に、見慣れた人影を捉えた。入り口のそばで、いかにも哀れを誘うような姿でたたずんでいた。怜司は入り口の若葉に気づいていないようだった。怜司の視線はオークションの最後を飾るその目玉商品に釘付けになっていた。カット、透明度、カラット、そのすべてが完璧の域に達しようかという、ピンクダイヤモンドのジュエリー一式である。雪乃はためらわずに札を上げた。他でもない、雪乃もそれが気に入ったからだ。数回の競り合いの末、価格は十四億円まで跳ね上がった。雪乃がさらに札を上げようとすると、怜司が自分の番号札を上げ、その声は、まるで退屈しているかのように散漫だった。「五十億!」会場はどよめき、好奇の視線が怜司に集まった。「高遠社長じゃないか。隣は奥さんか?」「らしいぞ。まさか奥さんにお金を出させたくなくて、愛のためにこんなに高い価格で?」「そりゃそうだろ。奥さん、ちょっとアレだけど、社長はまだ
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第8話
若葉はハイヒールで一日中立ちっぱなしで、もう立っていられなかった。彼女は不満そうに怜司の腕を引いた。「社長……雪乃はきっともう逃げ出してるよ。そんなに心配しなくてもいいじゃない」怜司は虚ろな様子で頷いた。「だといいが」なぜ自分がここに留まっているのか、怜司自身にもわからなかった。弦蔵に責められるのが怖いからか?それとも、本当に雪乃の安否を心配しているのか……怜司にはわからなかった。救助活動二日目。スマホには今回の地震での死傷者状況が報じられたが、名前はなく、数字が並ぶだけだった。怜司は書斎に座り、何度もスマホのニュースを見返していた。だが、脳裏に浮かぶのは、昨日の朝、雪乃が最後に彼の名を呼んだ時の姿だった。怯え、恨み、そして諦め。わずか数秒の間に、雪乃はこれほど多くの感情を見せた。怜司は苛立ち、スマホを机に伏せた。書斎を出ると、使用人が怜司の言いつけ通り、彼が特別にオーダーした高濃度のミントの香水をあちこちに振りまいていた。鼻先をかすめたミントの清涼な香り。以前は心地よいと感じていたはずのそれが、今はひどく鼻をついた。突如、脳天を電流が貫くような衝撃が走り、神経が激しく疼いた。怜司は頭痛に耐えかねて自分の頭を叩いた。すると、いくつかの断片的な光景が記憶に蘇ったが、それらを掴まえようとする間もなく、すぐに消え去った。我に返ると、怜司は台所就寝前のホットミルクを準備している家政婦である小林清乃(こばやし きよの)に向かって叫んだ。「今日の朝食はまだか?」台所を片付けていた清乃は手を止め、しばらくして、ためらいがちに口を開いた。「旦那様の朝食はいつも奥様がご用意されていました。決して人任せにはなさいませんでした。お戻りになるのを待ってから……」その言葉に、怜司は明らかに体をこわばらせ、視線が一瞬、宙をさまよう。ややあって、彼はようやく声を取り戻した。「彼女が……ありえない。彼女がどうして俺の好みを知っている?」この数年、怜司の雪乃に対する態度は決して良いものとは言えなかった。怜司にとって、雪乃がこの五年間にしてきたことはすべて、金のために自分に取り入ろうとする行為に過ぎなかった。怜司が病院で目覚めた最初の日、見知らぬ女がベッドのそばに立ち、彼の手を握って泣いていた。その後、怜司の母親が終始不機嫌な顔で
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第9話
実家に戻ると、弦蔵が二通の離婚届受理証明書を手にしていた。怜司が部屋に入るなり、弦蔵はその二通の離婚届受理証明書を彼に向かって叩きつけた。「お前のしでかしたことを見てみろ!お前と雪乃のオークションでの動画が、何千万回と拡散されている!」「怜司、随分と偉くなったものだな!わしに隠れて離婚するとは!わしが雪乃に辛抱するよう頼んでいたというのに、お前は本当にわしの期待を裏切った!」怜司は弁解しようともせず、弦蔵の前にまっすぐ跪き、黙ってその怒りを受け止めた。怜司は潔く認めた。「結婚の翌日に、離婚届受理証明書を手にしました。隠していたのは、おじい様を怒らせるのが怖かったからです。俺にはずっと理解できませんでした。金のために嫁いできたような女を、なぜおじい様が受け入れたのか」弦蔵は激怒し、そばにあった茶器を床に叩きつけた。「理解できん?あの時、お前がどうしても彼女と一緒になると言って聞かなかったんだろうが。記憶喪失どころの話ではない!もはや、お前は気が狂っとる!」冴子が不安そうにそばに立っていたが、怜司が叱責されるのを見て、思わずかばおうとした。「お父様、今日は大晦日です。どうか……」弦蔵の鋭い視線が冴子に向けられると、かばおうとした言葉は喉の奥に引っ込んだ。弦蔵は鼻を鳴らした。「わしに隠れて勝手に雪乃を折檻したこと、知らぬとでも思ったか!」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、そばにあった大型スクリーンがぱっと映像を映し出した。そこに映し出された映像を見て、冴子は顔色を変え、怯えたように弦蔵を見た。「お父様……」映像には、雪乃が書斎で鞭を十回打たれる様子が映し出されていた。使用人が容赦なく鞭を振り下ろし、雪乃が声を一つも上げない姿に、怜司の心は突然激しく動揺した。怜司は痛み出した胸を押さえ、一筋の冷たい涙が、彼の頬を伝った。手で触れてみて、ようやく気づいた。自分は今……雪乃のために涙を流したのか?なぜだ。理由はわからないし、理解もできない。後ろの扉が開かれ、護衛が若葉を連れて入ってきた。若葉は怜司の姿を見ると、こらえていた涙が溢れ出た。若葉はすぐに怜司のそばに駆け寄り、鞭で打たれて赤く腫れた両手を差し出して言った。「怜司、助けて……」怜司はそれを見て拳を握りしめ、毅然とした目で顔を
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第10話
その知らせを聞いた瞬間、怜司の声は突然詰まった。「場所を送れ……」怜司が救助隊から送られた住所に駆けつけると、遠くからすでに泣き叫ぶ声が聞こえてきた。三十数台の担架には、すべて白い布がかけられていた。作業員に案内され、彼は身元不明の担架の前に立った。作業員が布をめくると、布の下から現れたのは、頭部が原形を留めないほどに潰れた遺体だった。「頭部の損傷が激しく、お顔の判別は困難ですが、髪の色、手に握りしめられていた高級ブランドのバッグ、そしてショールは、元奥様が当日身につけていらしたものと一致します……所持品などから、暫定的に元奥様の神崎雪乃様と判断いたしました。もしご納得いただけない場合は、病院の鑑定結果をお待ちいただくことも可能ですが……」怜司は指の関節が白くなるほど固く拳を握りしめ、一瞬、声も出なかった。これが罪悪感なのか、後悔なのか、怜司にはわからなかった。もしあの時、彼が雪乃の手を引いて逃げていれば、こんな悲劇は避けられたのではないか……怜司の後ろにいた若葉はその光景を見て、嫌悪感に眉をひそめた。「怜司、これが雪乃とは限らないし、病院の鑑定結果を待とう?」怜司は若葉を無視し、顔を上げて作業員に言った。「病院の鑑定結果を待つ」帰り道、若葉は運転する怜司を不安そうに見つめた。「怜司、実家で私と結婚するって言ったこと、本当なの?」怜司は何か考え事をしているのか、前だけを見つめていた。若葉が焦れた頃になって、ようやく彼はゆっくりと答えた。「本当だ」言い終わった瞬間、ある大型トラックがコントロールを失い、彼らの車に向かって突っ込んできた。怜司はほとんど反射的に若葉の上に覆いかぶさり、衝撃のほとんどを、その身に受けた。車のフロントガラスは一瞬にして粉々に砕け散り、その破片が怜司の腕に食い込んだ。怜司の頭部も助手席のダッシュボードに激しく打ち付けられた。耳元で、若葉が悲鳴に近い声を上げた。怜司は若葉を安心させようと笑みを浮かべようとしたが、次の瞬間、完全に意識を失った。怜司は夢を見た。夢の中で、彼は大学時代に戻っていた。夢に現れたのは、雪乃のハートを射止めるため、あらゆる手を尽くしていたかつての自分。驚くほどに、それらは雪乃が語った思い出と寸分違わぬ光景だった。突然――耳障りな衝突音、雪乃の
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