Mag-log in奈穂の左手はぎゅっと拳を握り締めた。ようやく固まりかけていた爪の隙間の血痂がたちまち裂け、真っ白なシーツの上に幾筋もの血の跡が擦りつけられる。――なるほど。地下に隠された秘密など、いつまでも覆い隠せるものではない。「影」は死者を利用して正統な後継者へと成り代わろうとし、九条正景は盤そのものをひっくり返し、資金を再び「海」に回収しようとしている。腹に一物を抱えた二人の狂人は、そろって水戸グループを最後の肉挽き機にしようとしているのだ。「熱は四十度近い。手も脚も傷口の組織が壊死しかけている。今すぐ病院でデブリードマンを受けろ」正修は一歩踏み出し、大きな手で彼女の左肩を強く押さえた。その声に妥協の余地は一切ない。「言うことを聞け。私立病院に行く。あちらは俺が片づける」奈穂は身を引かなかった。傷だらけの左手を持ち上げると、正修の手首を力いっぱい掴み、少しずつその手を自分の肩から押し退けていく。そして部屋の隅に置かれた、血の付いた黒い金庫に視線を向けた。「正修。今の私が病院のベッドに寝かされたところで、眠れると思う?」彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。声は酷く掠れていた。「父の顔をしたあのクズが、今この瞬間も水戸家の中枢に座り込んで、母が命を削って残したものを食い荒らしてる。この怒りを飲み込むくらいなら、私は道端で死んだほうがましよ」高熱で頬は病的なほど赤く染まっている。それでも、その瞳だけは恐ろしいほど鋭く輝いていた。「金庫を持っていって。車列には港に向かわなくていいと伝えて。引き返して、そのまま海峡大橋を渡る。本社に乗り込むんだ」奈穂は冷たく笑った。唇の端から、滲んだ血が細く流れる。「本社で最後の清算を待てば勝てると思ってるなら――素手でどうやってあいつの賭場を叩き潰すのか見せてあげる。攻めから包囲に切り替える。本社ビルで、全部まとめて決着をつけるわ」車内は墓場のような静寂に包まれた。聞こえるのは、防弾装甲に叩きつける豪雨の鈍い音だけ。正修は、ぴくりとも動かない彼女の右手を長いこと見つめ続けた。彼には分かっていた。この女には水戸家の血が流れている。一度覚悟を決めてしまえば、誰にも止められない。無理やり病院に閉じ込めたところで、彼女は生きながら自分自身を壊してしまうだけだ。
「データが一致した」安芸はモニターをこちらに向けた。その表情はひどく険しい。「奈穂。日記に書かれていた『クジラ』は、海上に隠された秘密基地や物理研究施設のことじゃない。これはランシア国のオフショア銀行の最深部に設けられた、匿名旧信託ファンドの基幹コードよ。十五年前の時点で、複数のオフショア諸島を経由して完全にマネーロンダリングされていた」安芸は画面に張り巡らされた複雑な越境資金ネットワークを指差し、声を潜めた。「この信託プールこそが九条正景の根幹なんだ。彼が持っている切り札も、私兵を雇う資金も、全部ここから出てる。今でも巨大な越境金融ネットワークを維持し続けてる」その瞬間、車内の空気が凍りついたようだった。正修は片手で金属製のライターを握り、カチ、カチ、と何度も蓋を弾いた。乾いた金属音が静まり返った車内に規則正しく響き、その音だけが妙に耳につき、誰の胸にも言いようのない不安を募らせた。奈穂は、画面に浮かぶ「クジラ」信託を示す幽霊のようなアイコンをじっと見つめる。ひび割れた唇は固く結ばれていた。――なるほど。地上では北斗が狂人を演じ、秦家は陰で状況を煽り立て、地下では父の顔を持つ替え玉が暗躍する。そのすべては、この本当の金融モンスターを隠すための煙幕だったのだ。奈穂がようやく一息つこうとした、その時だった。カウンターに置かれた暗号通信機が突然けたたましい警報音を上げた。赤いランプが、まるで血を滴らせるように激しく点滅する。二郎は受話ボタンを勢いよく叩く。次の瞬間、激しいノイズ混じりの君江の声が車内に飛び込んできた。「奈穂ちゃん!九条社長!あのクズが第二の仮面を脱ぎ捨てた!」電話の向こうで君江は喉を潰さんばかりに叫んでいる。背後では無数のキーボードを叩く音が入り乱れていた。「こっちの情報網から連絡が入った!あの偽の水戸健司は実験区域周辺の送電網を切断したあと、公海にも港にも逃げてない!あいつは海外信託のクロス認証まで通過した偽造の相続人資産清算書類を持って、堂々と水戸グループ本社に乗り込んだ!地下で騒ぎが起きてる隙に本性をむき出しにして、水戸グループの抜け殻を丸ごと飲み込むつもりだ!それだけじゃない!ここ三分間で、水戸グループの海外主要市場が正体不明の資金による大規模な空売り攻撃を受
地下空間の崩落は、あまりにも速かった。コンクリートの塊が地面に叩きつけられ、その衝撃が鼓膜を痺れさせる。正修は振り返ろうとはしなかった。片腕で奈穂を強く胸に抱き寄せ、自らの背中で降り注ぐ瓦礫を受け止めながら、排水口が完全に瓦礫で塞がれる寸前、わずかな隙間に身を投げ出し、彼女を抱えたまま転がり出る。途中で鉄骨が左肩を引っ掛けた。地下ですでに一度斬られていた傷口は、そのまま大きく裂け、鮮血が一気に溢れ出す。血は黒いロングコートへと染み込み、生地と皮膚をべったりと貼り付かせた。それでも正修は眉一つ動かさない。泥水と砕けたガラスが散乱する地面を踏みしめ、一心不乱に走り続けた。外では豪雨が降り荒れていた。暴風に乗った雨粒が容赦なく顔を打ちつけ、まるで刃物で切り裂かれるような痛みを与える。辺りは漆黒に沈み、見渡す限り広がっているのは、荒れ果てた草むらと放置されたコンテナだけだった。はるか遠くで赤のパトランプが雨の向こうに揺れ、その光だけが白々しく雨幕を照らしていた。正修は息も絶え絶えだった。一歩踏み出すたび、左肩の骨の隙間に針を突き刺されるような激痛が走る。それでも奈穂を抱く両腕だけは、決して緩まなかった。手の甲には太い青筋が一本一本浮き上がっていた。腕の中の奈穂は紙のように軽かった。彼女の体は異様なほど熱く、濡れた髪が首筋に張り付いている。力を失った右腕だけがだらりと垂れ下がり、黒く焼け焦げた傷口は雨水に濡れ、不気味な死の色を帯びていた。「社長!こちらです!」二郎が高出力ライトを振りながら、豪雨の中で必死に叫ぶ。その背後では、防弾仕様の大型救急車両が非常灯を灯して待機していた。正修は奈穂を抱えたまま車内に飛び込み、ドンッ――車のドアが勢いよく閉まり、激しい雨音はようやく車外に遮断された。車内は冷房が強く効き、鼻をつくほど濃い消毒薬の匂いに満ちている。防護服を着た医者たちが一斉に駆け寄った。服を切り裂く者。医療機器を接続する者。誰もが慌ただしく動き始める。二郎は、正修の体の半分が血で真っ赤に染まっているのを見て、支えようと手を伸ばした。だが正修は肘で二郎を払いのけた。「……彼女を診ろ」掠れ切った声だった。喉には砂でも詰まっているかのような苦しげ
「正景」正修が口を開いた。その声は、がらんとした部屋に反響し、どこか物悲しく、現実離れした響きを帯びていた。男の手がぴたりと止まる。そして、信じられないほどゆっくりと振り返った。その瞬間、奈穂は息をのんだ。そこにあったのは、長い歳月にすっかり風化し、面影すら判別できないほど老いさらばえた顔だった。だが、その瞳だけは違う。深く彫りのある眼差しは、正修とまったく同じ輪郭を宿していた。「来たか」男は驚くほど穏やかな声で言った。かすかな笑みさえ滲ませながら。「正修……背が伸びたな。父さんが正修を連れてランシア国に海を見に行った頃と、よく似ている」その言葉を聞いた瞬間、奈穂の右手がぎゅっと握り締められた。痛い。気を失いそうになるほどの激痛が、再び一気に押し寄せる。しかしその時、彼女の視線は男のテーブルの上に置かれた一枚の写真に吸い寄せられた。そこには若き日の健司と清乃。そして、赤ん坊を抱き、満面の笑みを浮かべる一人の男が写っていた。奈穂はその男を見つめ、心臓が大きく脈打つ。それは理屈ではなく、本能が拒絶するような生理的嫌悪感だった。男の眉や目元の輪郭は、今や車椅子の上で正気を失っている北斗と七割ほど似ていた。だが次の瞬間、背筋を氷のような悪寒が駆け上がる。違う。北斗は正修とほぼ同年代だ。十七年前なら、まだ子どもだったはず。写真の中で赤ん坊を抱き、自信に満ちた笑みを浮かべるこの男であるはずがない。では、この北斗によく似た男が、なぜ母の写真に写っているのか。彼はいったい、何者なのだろう。もし伊集院家の年長者であり、十七年前の時点ですでに正景と深い関係を築いていたのだとしたら――ここ数年にわたる北斗の水戸家への執着は、本当に北斗自身の意思だったのか。それとも、この地下深くに潜み続けてきた「影」が、二十年越しの巨大な棋局を動かしていただけなのか。時間の歪みが一気に現実を覆った。奈穂は勢いよく正修に顔を向ける。だが正修の視線は、その男には向けられていなかった。彼が凝視していたのは、ベビーベッドの下で紫色の光を断続的に放つ精密機器だった。「自爆プログラムが止まっていない」その時、奈穂の耳に再び、央介を名乗る男の声が響いた。しかし今度は周囲からではない
奈穂は正修の腕の中にもたれかかっていた。右手の親指と人差し指の間の痛みはすでに麻痺し始めていたが、骨の髄から滲み出るような冷たさだけは、彼女の意識を無理やり現実へと引き戻していた。「正修、あのネフライトの指輪を取り出して」奈穂が低く言った。正修は足を止め、闇の中で正確に、砕けたあとに接着されたネフライトの指輪を探り当てた。それは岳男が奈穂に託したものであり、この一連の出来事の中で、九条家の旧い権力を象徴する唯一の証でもあった。「この指輪の中に何か入ってる」奈穂は左手を伸ばし、細かく走る亀裂を指先でなぞった。「昨日、車の中で気づいたの。重心のバランスがおかしい。左側が重くて、右側が軽い」正修は理由を尋ねなかった。彼は片手で腰の後ろからタクティカルナイフを抜き放つ。刃がかすかな誘導灯の光を受け、一瞬だけ鋭く閃いた。ネフライトを力任せに割ることはせず、奈穂が示した亀裂に沿って、刃先をそっと差し込み、軽く持ち上げる。――カチッ。指輪が二つに割れた。中から転がり出てきたのは、紙切れでもチップでもない。半透明の、ごく小さな鍵だった。金属とは思えない材質で、むしろ極限まで圧縮された生体樹脂のような質感をしている。「これは水戸家がランシア国に隠した『ゴースト・トラスト』の物理キー」奈穂はその鍵を見つめながら呟いた。その瞬間、胸に広がった冷気は四肢の隅々まで一気に駆け巡った。「おじい様は、最初から全部知っていた。この鍵を私に託したのは、生き延びさせるためじゃない。ここに来て、九条家と水戸家を縛り続けてきた最後の因縁と罪を、この手で断ち切らせるためだったの」「つまり、正景がずっと狙っていたのは、この鍵だったということか」正修は小さな鍵を強く握り締めた。その瞳に宿る殺意は、ついに抑えようもなく燃え上がる。「君の命を利用して罠を張ったのも、祖父にこれを差し出させるためだった」二人は通路の最奥へとたどり着いた。目の前に現れたのは、電子ロックが一切存在せず、純粋な機械式だけで開閉する巨大な青銅の扉だった。扉一面には大輪の梅の花が浮き彫りにされ、花びらは獣の顎のように口を開け、まるで光そのものを飲み込もうとしているかのようだった。その中央には、肉眼ではほとんど見えないほど小さな鍵穴が開いている。奈穂は
「染谷央介はもう死んでいる」正修は奈穂をさらに強く胸の中に引き寄せた。左肩から流れ出た血は、すでにシャツの半分を赤黒く染めている。それでも彼の瞳には、刃物のような凶暴な光が宿り、正面に立つ男を真っ直ぐ射抜いていた。「南郊の化学工場の地下だ。あの瓦礫の下に埋もれていた遺体……あれこそが、水戸清乃が残した最後の情けだった」「それは『染谷央介A』だ」向かいの男は自嘲するように小さく笑った。声はあまりにも平坦で、そこには一切の揺らぎがなかった。「この盤面では、名前なんてただの記号にすぎない。九条社長、どう思う?九条家長男のあの方が、ランシア国でこれほど長い年月身を潜めていられた理由を。それは、私のような存在が無数にいたからだ。異なる顔を持ちながら、同じ一つの頭脳を共有する『影』たちがね」奈穂の心臓が激しく脈打った。極度の怒りと肉体的な痛みによって、彼女の右手に突然、雷に打たれたかのような激痛が走る。「……っ」彼女は苦しげな呻き声を漏らし、体が反射的に後ろに反った。ずっと麻痺していた右手が、今はまるで血管の中を無数の灼けた針が這い回っているかのようだった。戻ってきた感覚は決して優しいものではない。それは、凄惨な責め苦そのものだった。「動くな」正修は彼女の異変に気づくと、すぐさま彼女の右手首を強く掴んだ。震える彼女を抑えるように、その手に力を込めた。「……あいつの手が震えている」奈穂は男の右手を睨みつけた。巧妙に隠してはいる。だが、「頭脳の共有」という言葉を口にした瞬間、男の右手の人差し指が無意識に高速で震えた。それは短期間で他人の行動パターンや思考回路を強制的に再現するために、長期間ある種の神経補助剤を投与された者に残る後遺症。そしてそれこそが、奈穂が「影の実験室」に関するあの破れた資料の中で見つけた、この暗闇に生きる替え玉たち唯一の生理的な弱点だった。「あなたは……三年前、水戸家に送り込まれたあの秘書?」奈穂の脳裏に、ある人物の姿が閃光のようによぎった。健司のそばにいた、存在感が極端に薄く、これまで一度も彼女の注意を引くことのなかった専属秘書。男の目の奥に、わずかな称賛の色が浮かんだ。それはまるで、賢い後輩を見る年長者のような眼差しだった。しかし、その視線は奈穂に強烈な吐き気を覚えさ







