登入正修は今、歩く時も片腕をただ力なくズボンの脇へ垂らしているだけだった。歩行時に無意識に行われる代償動作すら見られなかった。それでも、右手だけは驚くほど安定していた。厚手の陶器製の大きな椀を、右手だけでしっかりと支えている。中にはまだ湯気の立つ鶏雑炊が入っており、表面には細く切られた錦糸卵がいくつか浮かんでいた。廊下からベッド脇まで、十数メートル。その距離を歩いてきたというのに、その椀の中身は一滴たりともこぼれていなかった。「出ていけ」正修は安芸の方を一瞥することもなく、ただベッドの上の奈穂だけを見つめていた。「はいはい、分かったわよ。私はここでお邪魔虫になるつもりはないから。主治医としてここまで頑張ってきたのに、最後はこんな扱いなんてね。私、前世で何か悪いことでもしたのかしら」安芸は白い目を向けながらぶつぶつ文句を言い、削り損ねたリンゴを掴むと、大股でふらふらしながら病室を出ていった。背後で病室の扉が「カチャン」と閉まる。すると世界は一気に静まり返り、互いの呼吸音さえはっきり聞こえるほどになった。正修はベッド脇に置かれていた簡素な丸椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。その動きは少し鈍かった。一つ動くたび、背中の服の生地が、傷跡になった皮膚を擦る。その感触は、血と肉にまみれたあの夜々を嫌でも思い起こさせた。「少し食べろ」彼は厚手の陶器の椀をベッド脇のテーブルへ置き、右手でスプーンを取り、鶏雑炊の中をゆっくりとかき混ぜた。奈穂は、彼の襟元をじっと見つめていた。そこには、極めて小さな糸のほつれがいくつかあった。彼女はただまっすぐそこを見つめ続ける。そして頭の中に、場違いな考えがふと浮かんだ。――この男は、かつて服に一つでも皺があれば、執事にその場で捨てさせていた九条家の若き当主だった。それなのに今では、京市の陽射しの下で、黙々と雑炊を用意してくれている。「正修」奈穂が突然口を開いた。「あなたの左手がもう力を入れられないなら、これから街中で誰かに囲まれた時、銃だってまともに構えられないのね」彼女は慣れない左手で、布団の下にある空になった右袖に触れた。「俺の右手はまだ残ってる。使い物にならないわけじゃない」正修は雑炊を一匙すくい上げた。そして少し不器用な手つきで口元へ近
その赤いシステムエラーコードの一列が、最後に一度だけ明滅した。そして、すべての電子信号と共に、完全に西郊の工場地下に埋められた鉄の中へと沈んでいった。……奈穂が再び目を開けた時、視界に広がったのは、混じり気のない真っ白な世界だった。空気の中に、塩気を含んだ海水の臭いはない。鼻を刺す硝煙の臭いも、錆びた鉄の臭いもない。残っているのは、病院特有の、何度も薄められた消毒液とアルコールの匂いだけだった。窓の外から差し込む陽射しは穏やかだった。二重の防音ガラスを通り抜けた光が、ベッドの足元に敷かれた真っ白なシーツに降り注ぎ、そこには小さな金色の埃が幾重もの輪を描くように舞っていた。京市の初夏は、ランシア国よりもずっと澄んでいた。「目が覚めたの?動かないで。抗炎症剤の点滴を刺したばかりだわ」安芸の声は、まるで粗い紙やすりの上を何度も転がしたように掠れていた。目には濃い血走りが浮かんでいる。彼女は手にリンゴを持って皮を剥いていたが、フルーツナイフの刃先は、震える手によって空中で歪んだ軌跡を描いた。そして手の震えのせいで、厚みのある果肉を皮ごと大きく削ぎ落としてしまい、ステンレスの皿の上に落ちる。「カン」鈍い音が病室に響いた。奈穂は何も言わなかった。ただ、頑なに視線を自分の右側に向けた。高熱はもう下がっていた。半月近く彼女を苦しめ、頭の奥の神経をすべて引きちぎられるのではないかと思うほどだった幻痛はこの瞬間、奇跡のように消えていた。消えても当然だ。なぜなら、その腕はもう存在しないのだから。高圧電流によって焼き尽くされ、そのうえ旧工場の大型機械の歯車に巻き込まれて完全に粉砕された手首から先だけでなく、壊死した前腕組織の大部分も、半月前に行われた大手術によって切除され、最終的には肘から下を失う結果となった。今の右袖の中は空っぽだった。そこには何重にも清潔な白いガーゼが巻かれているだけ。まるで枯れた木の枝のように、淡い青色の入院着と布団の横に、不自然なほど静かに置かれていた。片腕と引き換えに、秦家を内陸から完全に消し去った。健司が十五年前に犯した資金洗浄の罪を、公式に完全な形で晴らした。奈穂は心の中で、その代償を静かに計算した。――ふん、計算できない。損だったのか、得だ
元々狂ったように回転していた合金製の歯車が、突然噛み合って停止した。耳を刺すような金属の悲鳴が、工場内に響き渡る。高圧電流によるアーク放電が彼女の右腕を走り、凄まじい勢いで体中へ駆け巡った。奈穂の体は激しく痙攣した。それでも、彼女はただの一声も漏らさなかった。己の血肉を盾にして、彼女はその機械の怪物の動きを、三秒間も無理やり止めたのだ。「奈穂――!このクソ秦じじいがぁ!」正修は目を見開き、怒りに震えた。いつもなら死んだ水面のように冷静な彼の瞳は、この瞬間、完全に血の色へと染まっていた。まるで我が子を失った獣のような悲痛な咆哮を上げ、右脚で傭兵の拘束を力ずくで振りほどく。そして次の瞬間、彼の体は宙を舞い、黒い残像を引きながら一直線に飛び出した。短刀の刃が閃き、眩いほど鮮やかな血の線を描く。目の前を塞いでいた最後の傭兵は、頭部から肩まで、刀によって一刀両断された。正修は着地すると、床一面に広がる機械油と血の混じった液体を踏みしめ、その勢いのまま前へ踏み込んだ。右手が伸びる。そして、一瞬で和雄の首を掴んだ。五本の指が肉へ深く食い込み、力を込めすぎた関節からは、ぞっとするような軋む音が響く。内陸で半生にわたって権勢を振るってきた老人を、彼はその体を両腕ごと持ち上げ、機械油で汚れた大理石の床へ容赦なく叩きつけた。「ドンッ!」和雄の額が鉄製の作業台に激突した。次の瞬間、血が一気に噴き出し、悲鳴が工場内に響き渡る。「動くな!全員、その場から動くな!」工場の外では、しばし静まり返っていた鋭いサイレンが、突然、天地を覆うほど鳴り響いた。赤く点滅する強烈な光が、崩れた赤レンガの壁の隙間から差し込み、内部の惨状を無情に照らし出す。内陸で最も強権的な監督機関、国家安全機関、そして完全武装した特殊警察部隊が、ついに最後の瞬間に到着し、扉を突き破って突入した。秦家が裏で用意していた違法資金と、和雄がこの人生で築き上げたすべての財産はこの瞬間、京市から完全に排除された。だが、正修は突入してきた警察部隊を一度も振り返らなかった。彼の手に握られていた短刀が「ガシャン」と音を立てて床に落ちる。そして彼自身は、這うようにして制御盤の下に駆け寄った。過剰な負荷を受けた機械歯車が、低い破裂音を響か
弾丸が正修の耳の縁をかすめて飛び去り、焼けた皮膚を思わせる焦げ臭い匂いを残した。それでも彼は眉ひとつ動かさない。右手で弾倉を交換する動きはあまりにも速く、残像が見えるほどだった。奈穂は彼の背後に立ち、その瞳は氷水の中から引き抜いたばかりの鋼の刃のように冷え切っていた。この場所の空気には、長年放置された水戸グループ製薬の工業的な鉄錆と、腐ったカビの臭いが充満していた。だが、高熱による幻覚の中で、彼女はその生温かくまとわりつく血の臭いを嗅ぎながら、なぜか二年前のことを思い出していた。あの頃、彼女は何があっても水戸家本家にある内陸の屋敷の裏庭に、一本のキンモクセイの木を植えようとしていた。――ふん、死ぬ間際だっていうのに、こんなくだらないことを思い出すなんて。奈穂は心の中で自嘲気味に悪態をついた。「毒ガス排出弁を起動しろ!ここを完全に封鎖するんだ!」和雄は、高額で雇った傭兵たちが正修の片手による精密射撃の前に次々と倒れていく光景を目の当たりにし、完全に取り乱した。そして背後にいた執事へ向かって、狂ったように怒鳴りつけた。執事は顔中血まみれになりながら、這うようにして壁際にある錆だらけの制御盤へ向かった。そこは何年も前の水戸グループ旧工場の地下排気処理システムに繋がっている。その内部に封じ込められていたのは、かつて清乃が処分しきれなかった、未完成の神経毒ガスだった。「ガチャン!」重厚な機械の駆動軸が、低く鈍い衝撃音を響かせた。次の瞬間、耳をつんざく警報音が工場の天井全体に響き渡る。壁の四方に張り巡らされた高圧パイプが、耐えきれないような甲高い音を上げ始めた。そして、薄く不気味な緑色を帯びたガスが、ネジの隙間から大量に噴き出してくる。老教授は椅子の上で激しく咳き込み始め、もう限界が近かった。正修が短刀を手に駆け寄ろうとした瞬間、二人の捨て身の傭兵が体ごと飛びかかってきた。彼らは必死に正修の足にしがみつき、手にした拳銃を彼の腹部に押し当て、引き金を引こうとしている。「奈穂!」正修は大声で叫んだ。右手の短刀が横一線に閃き、次の瞬間、そのうち一人の首が切り裂かれた。だが、間に合わない。制御盤の主歯車はすでに狂ったように回転を始めていた。あと少しで、長さ五十センチにも及ぶ合金製のロ
秦家は、資金経路が九条グループによって音もなく遮断されたことに気づいた瞬間、最後の偽装をかなぐり捨てた。そして、常識では考えられない手段に打って出た。かつて最も致命的な罪の根源となったものを、再び奪い取ろうとした。「行くぞ」正修は、傷の手当てをする時間すら惜しんだ。車のドアを乱暴に開ける。エンジンが凄まじい唸り声を上げた瞬間、車体は狂ったような勢いで、水戸家本家とは逆方向へ向かって走り出した。一方、安芸が奈穂の右手の黒ずんだ壊死斑を、ようやくヨードチンキで処置し終えたその時。本家の警報システムが、突然赤い光を放って鳴り響いた。正修から送られてきた、老教授が拉致されている動画。そのデータは一文字の欠落もなく、奈穂が常に携帯していたタブレット端末へ届いていた。「奈穂!正気なの!?まともに歩くことすらできない体で、死にに行くつもりなの!?」安芸は、点滴の管を引き抜き、片手でベッドの下から9ミリ口径のグロックを取り出した奈穂を見て、怒りのあまり手にしていたピンセットまで投げ捨てた。「正修は九条家の祖霊殿で家法を受けた。今の彼の左手は、もう銃すら持ち上げられない」奈穂の顔色は幽霊のように青白かった。損傷した右腕を引きずりながら、左手だけでマガジンを装填し、「カチャリ」と初弾を送り込んだ。「秦家は、母が残したあの薬毒の母体を使って、私たち全員をここに縛りつけるつもりなの。私が行かなければ……今日、彼は西郊で死ぬ」セダンが唸り声を上げながら、西郊の廃棄製薬工場の鉄門を突き破った時、雨はちょうど止んだばかりだった。正修は右手に銃を握り、車から飛び降りる。そして振り返った瞬間、四十度近い高熱を抱えた奈穂が、車から降りてくる姿が目に入った。二人は一瞬だけ視線を交わす。そして、並んで前へ進んだ。工場の大門は、正修が一蹴りで蹴り破った。「ドォン!」凄まじい轟音とともに、埃と小さな虫が空中に舞い上がる。懐中電灯の白い光が、瞬時に内部の闇を切り裂いた。広大な工場の中央には、何台もの廃棄された蒸気機械設備が並んでいた。まるで、死んでもなお目を閉じることを拒んだ鋼鉄の棺のようだった。一番奥の朱塗りの椅子には、和雄が座っていた。手には杖を握り、顔には滴り落ちそうなほど険しい表情を浮かべている。
大広間の空気は、完全に死んだような静寂に包まれた。数秒後、腕の半分ほどもある太さで、逆棘のついた油を染み込ませた鞭が、鋭い風切り音を響かせながら、正修のむき出しの背中へ容赦なく振り下ろされた。「バシッ!」肉が裂ける生々しい音が、午前二時半の激しい雨音の中で、異様なほどはっきりと響いた。正修の体が大きく揺らぐ。だが両手は、朱塗りの供物台を血が滲むほど強く掴んでいた。手の甲に浮き出た青筋は、今にも弾け飛びそうなほど張り詰めている。それでも、彼は一言も声を漏らさなかった。まぶたすら動かさず、ただ香炉の中で燃え尽きかけた一本の香を、ひたすら見つめ続けていた。午前三時。内陸銀行の清算システムが、予定通り閉鎖された。鞭が血を滴らせながら十九度目に正修の背へ振り下ろされた時、最上座に座る辰男は、ついに力なく手を振った。「……やれ。金融監督局と各大手銀行へ連絡しろ。秦家が用意したあの数件のつなぎ融資は、今夜一切、資金を動かさせるな」午前四時。ようやく豪雨は止んだ。京市の空には、重苦しい鉛色が広がっていた。空気には、雨によって掘り返された土の生臭い匂いが満ちている。祖霊殿の大門が、再び開かれた。正修は、自分の足でそこから出てきた。白いシャツは再び体に羽織っていたが、背中から流れ出た血によって完全に染まり、裂けた肉に張り付いている。一歩歩くたび、骨まで響くような激痛が走った。顔色は死人のように青白い。それでも、口元には、病的とも言える冷笑が浮かんでいた。――後方を守る壁は、奈穂のために築いた。「社長!」門の外で待っていた二郎は、正修のその姿を見た瞬間、目を赤くした。医療ケースを抱えたまま、転がるように駆け寄ってくる。しかし二郎が正修を支えようと手を伸ばすより先に、彼の懐にある九条グループ当主専用の特殊暗号化スマートフォンが、突然鋭く異常な警報音を鳴らした。二郎が慌てて画面を見る。次の瞬間、彼の体は雷に打たれたかのように固まった。顔色は、祖霊殿に並ぶ死者の位牌よりも白くなっていた。「社長……大変です」二郎の手は震え、スマートフォンをまともに握れないほどだった。彼は画面を正修の目の前へ突き出す。そこに映っていたのは、たった今送信されたばかりの、宛先だけが指定された匿名動画







