로그인水戸家の屋敷に午後の陽光が差し込み、彫刻の施された窓枠を通して室内を柔らかく照らしていた。本来なら心まで温まるような光景のはずだった。それなのに奈穂は、背筋を冷たいものが這い上がるような感覚を拭えなかった。自らを「清乃」と名乗るこの女は、人の心を操る術をあまりにも熟知していた。亡き母と見分けがつかないほど似た顔だけではない。健司にお茶を淹れる湯の温度も、ハンカチを差し出す手の角度も、まるで実験室で幾度も再現を重ねて作り上げた精巧な模型のように、一分の狂いもなかった。「奈穂、何を考えているの?お茶が冷めてしまうわ」女性の綿のように優しい声が、張り詰めた奈穂の心を包み込む。彼女は今、奈穂の隣に座り、白く細い指でその長い髪をそっと撫でていた。その仕草はあまりにも自然で、この十数年という空白など最初から存在しなかったかのようだった。「……何でもないわ」奈穂は目を伏せ、瞳に宿る迷いを隠す。「ただ、この数日の陽射しが……現実じゃないみたいに感じるだけ」向かいでは健司が二人を見つめていた。「母娘」が寄り添うその光景に、彼の目は何度も潤んでいる。彼はもう完全に、この「よく似た存在」が紡ぎ出した幻想の中に沈んでいた。それどころか、彼女が水戸家に長く住めるよう部屋まで用意しようと考え始めていた。「こんなにお天気がいいんだもの。明日は海に行かない?」女が穏やかに提案する。その瞳には無邪気な憧れが宿っていた。「昔……私は海を見るのが一番好きだったの。どこまでも続く青を眺めていると、どんな悩みも全部流されていく気がして」奈穂の鼓動が一拍止まる。――罠だ。致命的な餌だ。頭では分かっている。それでも、その母と同じ顔に純粋な期待を浮かべられると、拒絶の言葉だけがどうしても出てこなかった。「……分かった」奈穂は小さく頷いた。……出航は翌朝に決まった。正修から電話がかかってきたとき、奈穂はすでに港の桟橋に立っていた。海風が濃緑色のワンピースの裾を揺らし、いつもの胃の痙攣がまた鈍く疼き始める。「奈穂」電話の向こうから聞こえる正修の声はいつになく重い。焦燥を押し殺しているのが伝わってきた。「嫌な予感がする。秦家の資金の流れが、不自然なほどきれいなんだ。秦烈生が保釈されてからの足取りも、まだ完全に
だが、その女性が肩に落ちた一枚の花びらをそっと払い落とした瞬間――奈穂の喉元まで込み上げていた「お引き取りください」という言葉は、どうしても口にできなかった。それは、自分が十数年間失ってきた母のぬくもりだった。心の奥深くに埋め続け、正修でさえ決して触れようとしなかった、誰にも踏み込ませない場所。……三十分後、正修が水戸家の本家に到着した。リビングに足を踏み入れた瞬間、彼の表情は一気に凍りつく。見知らぬ女性がソファに腰掛け、割れてしまった急須の破片を、健司の手元から一つひとつ丁寧に拾い集めていた。奈穂はその傍らに座っていたが、その視線はどこか虚ろだった。正修の顔から血の気が消えた。彼は迷うことなく奈穂のもとに歩み寄り、その冷え切った指先を大きな手でしっかりと包み込んだ。全身からにじみ出る冷気のような威圧感に、リビングの空気が一瞬で張り詰める。「奈穂」低く名を呼ぶその声には、隠しようのない警戒が滲んでいた。奈穂ははっと我に返る。顔を上げたその瞳には、今にも壊れそうな葛藤が映っていた。「正修……あの人の顔を見て」「見ている」正修は目を細め、鋭い視線を女性に向けた。「だが俺は、死んだ人間は生き返らないことも知っている。秦烈生が保釈された直後だ。こんな手口……あまりにも安っぽい」その言葉に女性は怯えたように肩をすくめ、恐る恐る健司に視線を向けた。「九条社長」健司が立ち上がる。その声には、これまで見せたことのない強さが宿っていた。「言葉を慎んでいただきたい。彼女が清乃本人でなくても構わない。俺にとっては、神様が与えてくれた最後の慰めなんだ。これほど似ている人を家に招き、お茶を出すことすら許されないというのか?」正修は短く鼻で笑った。「慰め、ですか。おじさんは商売の世界で、何十年も生き抜いてきたんですよね?いつから『神様から与えられた偶然』なんてものを信じるようになったんです?」奈穂は二人の間に立ちながら、割れるような頭痛を堪えていた。奈穂は女性に目を向ける。女性は無意識のうちに、指先で湯呑みの縁をなぞっていた。――それは考え事をするとき、母がいつもしていた癖だ。「正修……もうやめて」奈穂は震える指先に力を込めながら、彼の手を握り返した。「あなたの言いたいことは分か
留置場の重い鉄扉が背後でゆっくりと閉まり、耳障りな金属音が響き渡った。烈生はひんやりとした空気を深く吸い込む。久しく味わっていなかった「自由」の感覚が胸を刺し、鈍い痛みを残した。保釈されたとはいえ、それはあくまで一時的なものだ。秦家は自分を外に出すために、築き上げてきた人脈も、最後に残された名誉さえもほとんど使い果たした。烈生は理解していた。この門をくぐった瞬間から、自分はもう、かつての「秦家の長男」ではない。妹の音凛はいまだ拘置所の中にいる。そして自分は、「若菜を匿った」という、皮肉で滑稽な、それでいて愚かな情けに縛られた罪で、一度はその中へ足を踏み入れたのだった。「社長、お車をご用意しております」久々に再会した秘書が足早に駆け寄り、複雑な表情で頭を下げる。烈生はすぐには車へ向かわなかった。視線は道路の向こうにぼんやりとそびえる九条グループのビルに向けられる。脳裏から離れないのは、最後に奈穂が自分に向けた、あの冷え切った眼差しだった。嫌悪と距離感だけが宿った視線。「……奈穂」彼は小さくその名を呼ぶ。喉の奥に苦いものが込み上げた。奈穂を愛していた。だが、その想いは秦家の利益や音凛の狂気の前では、あまりにも安っぽく、滑稽だった。自分はかつて、「奈穂を守っている」つもりで若菜の行方を隠そうとした。その結果、自らの手で奈穂を遠ざける最後の一押しをしてしまったのだ。……水戸家の本家。庭では梅の花びらが一面に散り敷かれていた。奈穂はテラスで父と向かい合い、静かにお茶を飲んでいる。ここ数日は胃の痛みも少し落ち着いていた。それでも顔色はまだ優れず、深い緑色のシルクのワンピースが足首まで流れ落ち、その姿は風に揺れる寒蘭のように儚く見えた。「奈穂、秦音凛の件は、あまり気に病むな」健司は湯呑みを置き、年齢を感じさせる疲れた声で言う。「今回の件で秦家は大きな痛手を負った。秦烈生も保釈されたとはいえ、もう名ばかりの存在だ」奈穂は温かな湯呑みを指先でなぞりながら、ぼんやりと庭を眺めた。「分かってるわ、お父さん。私はただ……普通の生活を取り戻したいだけ」その時だった。屋敷の鉄門の外で、一人の女性が淡い色の番傘を差したまま静かに立ち止まった。その瞬間、空気が凍りついた。健司
「秦さん名義の地下オークション会場三か所は、昨夜すべて差し押さえられました」奈穂は淡々と告げた。「伊集院北斗は証拠を残しませんでした。でも、違法薬物の買い手や、秦さんの資金洗浄を請け負っていたブローカーたちは違います。彼らは取引記録をずいぶん残してくれていました。資金を何百件にも細かく分散すれば、誰にも気づかれないとでも思っていたのですか?先ほど秦さんが慌てて送金した残金は、ちょうど警察が用意した監視口座に振り込まれましたよ」音凛は奈穂を睨みつけた。歯を食いしばる音が静かな室内に響く。「水戸奈穂……よくも秦家の帳簿に手を出したわね」奈穂は冷たく笑った。その瞳には一片の情けもない。「秦さんが賀島若菜を使って地下駐車場で私を襲わせた、その瞬間から、私の中で『秦家』という名前は、ただの腐った泥になった。正修を愛しているからといって、彼を陥れ、罪まで着せようとする。そんな歪んだ愛なんて、吐き気がするだけよ」正修が一歩前に出て、奈穂の隣に立つ。その存在感は圧倒的だった。まるで目に見えない巨大な山が、音凛の前に立ちはだかるかのようだった。「秦音凛、君は欲張りすぎた」正修の声は静かだった。だが、一語一語が鋼のように重い。「九条グループを手に入れたい。地下ビジネスの莫大な利益も手放したくない。さらに水戸家の株式まで利用して、俺を縛ろうとした。この世に、絶対に破綻しない計略など存在しない」「九条正修!」ついに音凛は取り繕った優雅さを保てなくなり、鋭い叫び声を上げた。丁寧にまとめられていた髪が乱れ、肩に崩れ落ちた。「私が全部、誰のためにやったと思ってるの!?全部あなたのためだったじゃない!水戸奈穂に何ができるっていうの?その女はあなたの足を引っ張ることしかできない!私がいなかったら、あなたが今の地位を守れたと思う!?」「連れて行け」正修は音凛を見ることすらしなかった。わずかに手を振るだけだった。二人の警察官が前に出て、音凛の両腕を押さえる。――カチリ。冷たい手錠が、白い照明の下で鋭く光を放った。音凛は自分の手首を見つめる。その瞬間、全身から力が抜け落ちた。警察官に体を支えられながら崩れ落ち、それでも壊れた人形のように、「愛」という言葉だけを繰り返し呟いていた。音凛がオフィ
オフィスにはアロマディフューザーから淡いモミの香りが漂っていた。だが、その香りさえも、室内を覆う張り詰めた緊張を和らげることはできなかった。奈穂はモニターに映し出された複雑な株式保有構造図を見つめながら、親指と人差し指の間を強くつねる。襲ってくる眩暈と疲労を、無理やり意識の外へ押しやろうとしていた。取調室での北斗の叫びには決定的な証拠こそなかった。それでも、その言葉は一つの鍵となり、秦家を調べるための扉を完全に開いたのだった。「調査結果が出た」正修がドアを開けて入ってくる。シャツの袖は肘までまくられ、いつも乱れのない髪もわずかに崩れていた。目の下には隠しきれない疲労の影が落ちている。彼は印刷した資料を奈穂に差し出し、低く冷たい声で言った。「伊集院北斗は嘘をついていなかった。秦音凛は海外に極めて秘匿性の高い資金ルートを持っている。秦グループ名義の慈善基金を二つ利用し、ランシア国で違法薬物の越境取引を行っていた。その資金は最後に、賀島若菜がすでに閉鎖した海外口座を経由し、美術品オークションのプレミアム代金として資金洗浄されている」奈穂は資料を受け取ると、並ぶ数字に鋭い視線を走らせた。「……なるほど」冷たい笑みが口元に浮かぶ。その笑みには嫌悪が滲んでいた。「賀島若菜みたいな没落した元令嬢が、どうして裏社会の殺し屋を雇えるほどの資金を持っていたのか不思議だった。そういうことだったのね。秦音凛は九条グループを潰したいだけじゃない。違法薬物で稼いだ金で、ああいう命知らずの連中まで抱えていた」正修は彼女の後ろに回ると、ごく自然に肩に手を置いた。今の奈穂にとって、その温もりだけが心を支える唯一の拠り所だった。「秦音凛は自分を過信しすぎた」正修は画面を見つめながら静かに言う。「使い捨ての番号と海外のマネーロンダリングを使えば、痕跡は消せると思っていた。だが、どんな取引にも必ず相手がいる。取引が存在する以上、痕跡は必ず残る」奈穂は顔を上げた。その瞳には強い意志が宿っていた。「この前北斗が自供したって情報を流したことで、彼女は今頃、完全に動揺しているんじゃない?」「警察の監視によれば、三十分前、秦音凛の個人口座で不自然な資金移動が確認された。殺し屋への残金を急いで送金し、賀島若菜と
取調官は手を止めることなく記録を取り続けながら尋ねた。「違法薬物の供給ルートは?誰が国際輸送を手引きした?」北斗は一瞬口をつぐみ、身を乗り出す。手錠の鎖が金属製の椅子を擦り、不快な音が取調室に響いた。「……君たち、捕まえる相手を間違えてる。たかが伊集院家に、海外の違法ルートを自由に動かせる力があると思うか?」彼は声を落とし、どこか復讐めいた悔しさを滲ませながら続けた。「本当に九条グループを潰そうとしていたのは、俺じゃない」取調室の外で見守っていた奈穂は息をのみ、掌に食い込んだ指先が白くなる。「秦音凛だ」その名を口にした瞬間、北斗は奥歯をきしませた。「秦家のお嬢様だよ。あの女は九条正修を愛しすぎて、ほとんど狂ってた。なのに、奈穂があいつの隣にいるのを見ていることしかできなかった。手に入らない愛は、やがて憎しみに変わるんだ」取調官は眉をひそめた。「秦音凛だという証拠は?書類、送金記録、通話の録音――何でもいいです」北斗の笑みがぴたりと止まる。彼はテーブルをじっと見つめたまま、長い沈黙の末、喉の奥から絶望を絞り出すように叫んだ。「……ない!」勢いよくテーブルを叩く。「秦音凛って女は毒蛇みたいに狡猾なんだ!連絡は毎回使い捨ての番号。金も全部、海外のマネーロンダリング経由。文字は一切残さない!俺だって……最後には俺一人を切り捨てるつもりだったなんて、思ってもみなかった!」北斗はゆっくりと顔を上げ、防犯カメラを睨みつける。まるで画面の向こうにいる奈穂に宣戦布告するように。「奈穂!本当に君たちを殺そうとしてる奴は、まだ外でのうのうと生きてる!秦音凛だ!秦音凛なんだよ!ハハハハハッ!」……取調室を出ると、朝の冷たい空気が胸いっぱいに流れ込み、混乱していた奈穂の思考をわずかに落ち着かせた。肩に掛けられたスーツを握り締めながら、彼女の瞳に嫌悪の色が濃く浮かぶ。「やっぱり、彼女だった。北斗本人が認めた。こんな陰で糸を引くような、腐ったやり方をするのは……秦音凛以外に考えられない」隣に立つ正修は拳を固く握り締め、その指の関節は白く変色していた。「秦音凛は、この数年で京市に盤石な地位を築いている。伊集院北斗の証言だけでは足りない。物証がない以上、警察でさえ事情聴取に踏み切れないだろう」「賀島若