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第5話

Auteur: 緋色の追憶
真奈美が退職届を提出してから3日後、職場の上司は真奈美の夫である翔太を呼び出したらしい。

青ざめた顔の翔太が、慌てて家に帰ってきた。リビングのソファに無表情で座る真奈美を見るなり、その目には驚きと怒り、さらには暗い感情など複雑な色を浮かべる。

「真奈美、一体どういうつもりだ?」

翔太はなんとか怒りを抑え、できるだけ冷静に尋ねた。「仕事辞めるのか?子供が死んだからか?でも、あれは事故だっただろ?お前が辛いのは分かる。でも、また……」

「子供のせいじゃないよ」

真奈美は翔太の言葉を遮る。その声は波一つない湖面のように静かだった。彼女はまっすぐに翔太を見つめていたが、その視線は彼を通り抜け、まるで何もない空間を見ているようだった。

「翔太、理由は分かっているでしょ?退職届に書いた理由だって、言葉通りの意味。もう芝居はやめて。疲れたの」

翔太は言葉を詰まらせた。目の前の女は長年連れ添った妻のはずなのに、まるで知らない人ように思えるのだ。

真奈美の瞳に宿る、氷のような静けさと揺るぎない決意は、翔太が用意していた言葉をすべて喉の奥に押しとどめた。

彼は気づいた。もはや「責任」や「償い」「お前のためだ」といった言葉では真奈美を言いくるめられないことを。それどころか、彼女の本当の感情にさえ触れることができなくなった。自分と真奈美との間には、分厚い氷の壁がそびえ立っていた。

「もしかして……泉から何か聞いたのか?」

最後の望みを託して、翔太は苦しげに尋ねた。

しかし、真奈美はその言葉を嘲笑うかのように、ほんの少しだけ口の端を上げた。「彼女が何か私に言わなければならないことでもあるの?あなたたちは、すべて抜かりなく準備したんでしょ?」

翔太の顔からさっと血の気が引き、その屈強な体が微かに揺れた。

リビングが息が詰まるような沈黙に包まれる。

それからの数日間、翔太は真奈美となんとか話をしようとしたが、彼女は一切応じずに、必要最低限の用事以外はゲストルームに篭り、出てくることはなかった。

この家は、彼女の滑稽だった過去数年間の人生を葬る墓場のように、静まり返っていた。

こんな状況でも、サプリメントや果物を手に、いかにも心配していますよといった表情の泉が、二度ほど家を訪れた。

「真奈美。身体は大事なんだから、いつまでも意地張ってないでさ……翔太との間に何か誤解でもあるんじゃない?翔太は口下手なだけで、真奈美のことを大切に想ってるのは本当なんだから……」

泉は二人の仲を取り持とうとする言葉を口にしながらも、その視線は時折、翔太に向けられていた。それも、何かを言いたげな、甘えるような眼差しで。

取り繕う気力さえ、もう残っていなかった真奈美は、ただ淡々と帰ってほしい旨を伝えた。

泉の芝居を見ていると、吐き気さえ覚えた。

週末、翔太は上司からの助言を受け入れたのか、あるいはこのままではいけないと思ったのか、気分転換に外出しようと真奈美を誘った。

「新しくできたお蕎麦屋さんに行こう。お前も前に行きたいって言ってただろ?」

翔太にしては珍しく、なんだか懇願するような響きがあった。

そばにいた泉も、すぐに話を合わせてくる。「そうだよ真奈美。ずっと家に閉じこもってるより、絶対外に出た方がいいよ。それに、あのお店、評判もいいし、お蕎麦だったら体に負担もないと思うしさ。私も一緒に行くよ。その方が賑やかで楽しいもんね!」

泉の態度は、親友を心から心配し、夫婦仲を取り持とうとする、気の利く友人そのものだった。

真奈美は本来行きたくなかった。だが、ふと思ったのだ。後悔しているように振る舞っている翔太と善人を演じている泉を、外の明るい日差しの下で見れば、今回のことを全てはっきりと受け止められるかもしれない、と。

そう思い、彼女は黙って頷いた。

三人で出かけるのは、なんとも気まずかった。

翔太が運転し、助手席には泉。真奈美は一人、後部座席に座った。

道中、泉が時々話題を作るが、翔太が短く答えるだけで、真奈美はずっと黙りながら、窓の外に流れる景色を見ていた。

蕎麦屋は、賑やかな商店街の近くにあった。

週末の午後ということもあり、道は車と人でごった返している。

車に鍵をかけた翔太は、真奈美に向かって歩いて行き、無意識に真奈美と腕を組もうとして手を伸ばしたが、彼女はさっと身をかわし、それを避けた。

翔太の伸ばされた手は宙で固まり、やがて力なく下ろされた。

三人は横断歩道の中ほどにある安全地帯まで来ると、反対側の車が途切れるのを待った。

真奈美は二人よりも少し後ろに立ち、うつろな目で周りの喧騒を眺めていたが、何を見ても心が動かなかった。

そして、翔太の後ろ姿を見つめる。彼の隣に立つ泉との、腕一本分もない、まるで何の隔たりもないかのような距離を。

その時だった。耳をつんざくような、鋭いタイヤの摩擦音が、突然鳴り響いた。

けたたましいエンジン音と共に、銀色のセダンがコントロールを失ったように道路脇から猛スピードで飛び出し、一直線に安全地帯に向かって突っ込んできたのだ。

人々が悲鳴を上げながら、一目散にその場から離れていく。

すべては一瞬の出来事だった。

しかし真奈美は、ただ牙を剥いて迫ってくる車を見ていることしかできなかった。

彼女の頭は真っ白になり、体は固まって、まったく動くことができない。

それとほとんど同時に、斜め前に立っていた翔太が、素早く動くのが見えた。

彼の反応は驚くほど速かった。だが、彼が守ろうと向かった人物は、恐怖に固まっていた真奈美ではなかった。

翔太はなんの躊躇いもなく、素早く腕を広げると、すぐ隣にいた泉を強く抱きしめ、車とは反対方向に転がる。

そして真奈美は……暴走する車の真正面に取り残されたのだった。

鋭いブレーキ音、衝突音、そして人々の悲鳴が一緒になって響き渡った。

しかし、真奈美も間一髪のところで、パニックになって逃げ惑う通行人の一人によって、横から強い力で突き飛ばされたのだった。

突き飛ばされた拍子に倒れ込んでしまい、後頭部を安全地帯の冷たく硬い縁石に強く打ちつけた。頭が激しい痛みに襲われる。

それと同時に、最後の最後で急ハンドルを切ったセダンが安全地帯の縁をかすめるようにして走り去っていった。その風圧で、頬もひりひりと痛んだ。

目の前の景色がぐるぐると回り、周りの騒がしい音も遠くなっていく。

意識が闇に沈む直前、真奈美のぼやけた視界に映った最後の光景。それは数メートル先で、翔太が泉をきつく抱きしめている姿だった。地面に倒れ込みながら、翔太は怯えたような、そして心底心配そうな顔で、泉の様子を窺っていた。

彼は、真奈美の方などちらりとさえ見なかった。

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