LOGIN柊馬はふと沈黙した。ただ浩之を見つめるだけで、答えもせず、反論もしなかった。二人の周囲の空気は凍りつきそうだった。浩之でさえ、彼の冷たそうな視線に思わず身震いした。柊馬の表情は淡々としていたが、全身から放たれる威圧感には、まるで今でも殺しにかかってくるような勢いがあった。浩之はすぐに咳払いを一つし、自分で場を取り繕った。「柊馬さん、妹は気が強いのは知っているでしょう。自分が間違ったことをしたと分かっていても、傷つけてしまったと分かっていても……やり直すのは非常に難儀で、自分自身を説得することさえできないんです。そんな時、誰かが先に仲直りのチャンスを用意し、互いに一歩引いたら、また状況が変わるかもしれませんよ?」「仲直りのチャンスを用意するって?つまり、俺が彼女にそばに戻ってくるよう懇願しろと?」浩之は非常に婉曲に言ったつもりだったが、柊馬は実に率直だった。その一言で、浩之はまたしても言葉に詰まった。「そういう意味じゃありません。ただ、夫婦の間には誤解が生まれるのもよくある事だろうと……」「俺は彼女にすでに懇願したことがあります」柊馬の声は微塵も揺るがず、まるで一切妥協しないように無感情だ。浩之が一瞬呆気にとられると、柊馬が続けた。「だが今は、彼女の意志を尊重しています。それに、仲直りのチャンスを用意するなんて、相手がその意思がないなら、いくら用意しても無駄でしょう」「……」柊馬は言い終えると立ち去ろうとした。浩之も我に返った。「柊馬さん、つまり、一花がそれを受け入れようと思ったら、君は……」「もし、など存在しない。俺は『もし』なんか受け入れない」柊馬は再び冷たく浩之の言葉を遮った。浩之はさらに呆然としていたが、まだ何か言おうとしたところを、後ろからの声に呼び止められた。一花だった。彼女はそれほど離れていない場所にいた。柊馬と浩之の会話はすべて聞こえていた。特に、柊馬の最後の一言。柊馬も一花の声を聞いたはずだったが、足を止めることはなかった。ただ湊だけが振り返り、遠くの一花と一瞬目が合った。二人の姿はすぐに見えなくなった。一花も非常に冷静を保っていた。浩之を呼び止めると、先に車へ乗り込んだ。浩之はぼんやりしながらも、慌てて後に続いた。「どうした、喧嘩でもしたのか?」
一花は少し落ち込んだ。「そんなに私に近づかれたくないなら、来なければよかったのに」柊馬は一花の表情を見て、思わず息を飲んだ。しばらく言葉を選んでいたが、やがて口を開くと、その声は淡々として、何の感情の起伏もなかった。「来たのは、君に今日が意図的であれ偶然であれ、これからは俺の前に現れないでほしいって伝えたかっただけだ。別れると決めたのなら、互いに干渉しないほうがいい。徹底的に、な」「……」一花の胸は一瞬で詰まり、複雑な感情が心の奥から込み上げてきたが、必死に押し殺した。徹底的にお互いに干渉しないって?でも……彼に会いたい。こっそり一目見ることさえ、許されなくなってしまったのか。一花がぼんやりとしている間に、柊馬はもう背を向けて去っていった。彼女は無意識に数歩追いかけ、口を開いて呼び止めようとした。だが、彼の言葉がまだ耳の奥に響いている。他の誰かの要求なら、何と言われようと無視できた。だが、その要求を口にしたのが柊馬だ。今の彼女が何よりも大切にし、触れることさえ惜しいと感じる男。彼の大きな背中が廊下の先に消えていくのを、一花は結局、呼び止めることができなかった。柊馬は廊下を抜けると、すぐに足を緩めた。彼は後ろを振り返った。一花が追ってきていないことはよく分かっていた。それでも、心の中のわずかな希望は、どうしても消え去ろうとしなかった。「社長!」湊の声が突然響いた。彼は途中で柊馬が消えていることに気づき、危うくその場で警察に連絡するところだった。「どこへ行かれたのですか。一声かけてくださればいいのに、私はもう……」柊馬の体調は今、非常に不安定で、医師は安静を勧めていた。本来、今日の会議に出席すること自体が無理だったのだ。「大丈夫だ」柊馬は淡々と言った。声にも表情にも、隠しきれない寂しさが滲んでいた。「社長……」湊は理由が分からなかった。「何かあったのですか?」彼は柊馬の視線の先を追ったが、何も見えなかった。「行こう」柊馬はそれ以上何も言わず、そのまま立ち去った。……浩之は車の中で長く待っていた。一花に電話をかけても、誰も出ない。不安になった彼は、急いで会場へ戻ると、正面から柊馬が湊を連れて出てくるのに出くわした。二人が正面から歩いてくるのに
「体調はどうだ?」柊馬は突然そう聞いてきたが、一花にはその意味が分かった。彼は彼女に問いかけていると同時に、彼女の腹の中の小さな命にも問いかけているのだ。一花はうなずき、低い声で答えた。「元気よ」「三条さんが世話をしていると聞いた」「ええ……」「身内に世話をしてもらうのはいいことだ。今もつわりはあるのか?」「もうないわ。よく食べて、よく眠れてる」一花の言葉に、柊馬は思わず笑いそうになった。彼は彼女が少し大げさに言っていることは分かっていたが、嘘ではないことも分かっていた。彼は一花の産婦人科医と連絡を取り続けていたし、浩之が一花のために雇った専門のヘルパーからも、逐一報告を受けていた。彼のもとを離れてから、一花は睡眠が浅くなったくらいで、他はすべて順調で、食べる量も以前よりずっと増えていた。「本当に冷酷なやつだな」柊馬は低く鼻で笑った。その声はほとんど聞こえないほど小さかったが、一花にははっきりと聞こえた。彼女は反論せず、ただ彼に尋ねた。「それで、あなたは?」「俺も元気だ」柊馬は気軽に答えたが、言い終わるとすぐにすこし咳を漏らした。一花が視線を向けると、彼は素早く体を横に向けて隠した。必死に堪えているようだったが、それでも腰はわずかに曲がり、手が胃のあたりを押さえ、眉を深くひそめていた。「また痛むの?」一花は彼を支えようとしたが、柊馬はすぐにいつもの様子に戻り、一花の手を避けた。「もっと痛いことは経験済みだ。ただ、食事を抜いて、少し気分が悪いだけだ」柊馬は軽く流したが、一花は逆に緊張した。「薬は飲んでいないの?説明書に書いてあるでしょ、毎日食後に、決められた時間に……」「俺と縁を切りたいんじゃなかったのか?それなのに、俺が薬を飲むかどうか、なぜそこまで気にするんだ?」柊馬が即座にその言葉を遮った。一花は一瞬言葉に詰まった。「あなたは私の子どもの父親よ。あなたの体調を気遣うのは、当然のことだわ」「じゃあ、俺を気遣うのは、俺が子どもの父親だからか?それとも、君が最も愛する人だからか?」まさか柊馬がそんなことを聞いてくるとは思わず、一花は一瞬返答に窮した。彼は今、自分に恨み言の一つでも言いたいはずではないのか。どうして……一花は唇を引き結んだ。「柊
このような顔の上にすっぴんで、自分でも受け入れられないほどだった。トイレから出た瞬間、一人の姿がまっすぐに彼女へと向かってきた。一花は反射的に避けようとしたが、間に合わなかった。腕をぐっと掴まれ、体ごと相手の腕に支えられながら、あっという間に壁際へと押し付けられた。トイレの外の廊下の装飾は華やかだが、照明は薄暗い。彼女はしばらくしてようやく、目の前の男の顔をはっきりと見た。だが、視線よりも早く動いたのは体の反射本能だった。一花はほとんど一瞬で、その名を口にしていた。「柊馬」「来ていたなら、声をかければいいのに。それほど俺に会いたくなかったのか」彼の声がすぐに耳に落ちてきた。柊馬はわずかに身をかがめ、彼女を胸の中に閉じ込めるようにしていた。その声はかすれており、かすかな笑みを含んでいるようで、どこか冷たく、一花をからかっているようにも聞こえた。一花は顔を上げて彼の顔を見つめた。スタッフの言う通り、柊馬はひどくやつれ、両頬もわずかにへこんでいる。ここは灯りが足りず、正確な顔色までは見えないが、彼もまた何歳も老けたように、疲労の色が濃かった。だが、どんな姿であれ、柊馬はやはり人の目を奪うほどかっこいい。その瞳は海のように深く、見つめる者の心を乱す。「違うの……」一花は思わず口にしたが、すぐに視線をそらした。「ただ、あなたがいるとは知らなかっただけ」「俺がいるのを知らなかったら、あのフルーツは誰に贈ったんだ?」柊馬はそう言いながら、彼女の腕を離した。体はわずかに起こしたが、二人の距離は縮まったままだ。むしろ声はさらに低くなり、顔はより近づいた。聞こえているはずなのに、わざわざ一花の耳元で囁くのだ。一花の耳がむず痒くなり、首まで赤く染まっていくのが分かった。「……どうして私だって分かったの?」一花はまだとぼけるつもりだったが、柊馬に見破られた以上、素直に気になって尋ねた。柊馬の胸がわずかに呼吸に合わせて上下し、顔は耳元から唇へと移動した。「二度目に運ばれたフルーツ皿には、二、三種類のフルーツしかなかったが、全部俺の好物だ。あのスタッフが注いだ酒も、グラスは一つだけだった」一花の心は重く沈んだ。やはり、柊馬の鋭さは並ではない。フルーツ皿を頼む時、確かに柊馬の好みを選ん
ほどなくして、隣のボックス席の扉が開かれた。スタッフがフルーツ盛り合わせとシャンパンを運んで、隣のテーブルに置くと、ソファで話し込む二人のグラスに酒を注ぎ始めた。部屋にいた外国人の男は何の違和感も覚えなかったが、柊馬はスタッフの動きに気づいた。スタッフの動作はどこかゆっくりしているように見えた。柊馬が視線を向けると、ちょうど相手と一瞬目が合った。柊馬は話すのを止め、向かいのテーブルに置かれたフルーツ皿に目をやった。ボックス席にはすでに酒も果物も十分に用意されていたはずだ。なぜ今になって、またこんなに運び込んでくるのか。「誰に頼まれて来た」突然、柊馬が低い声で問い出した。スタッフの手がわずかに震え、しばらくしてからうつむいて答えた。「伊集院社長、ただ会場側からフルーツとお酒をお届けに参りました」柊馬は言った。「もう十分に用意しただろう」「はい。ですが、お客様は特別なゲストですので、少し多めにお届けするようにと」スタッフの答えは、まずまずだ。柊馬は何も言わず、ただ彼の目をじっと見つめた。隣の外国人の男がスタッフに手を振り、笑いながら言った。「もういいよ。伊集院社長と話をしているところだ。邪魔をしないでくれ。ここにはもう十分ある」「かしこまりました」スタッフは言われるまま、すぐにグラスを置いた。彼は一礼し、去り際にもう一度柊馬を見たが、柊馬がまだ自分を見つめているのに気づき、すぐに出ていった。スタッフが去った直後、柊馬は何かを思いついたように立ち上がり、後を追って外へ出た。彼が戻ってくると、隣の男が興味深そうに尋ねた。「伊集院社長、何かありましたか?」「いえ、パーティーもそろそろ終わりですので、これで失礼します。本日はありがとうございました。今後、何かあればいつでも俺にご連絡ください」柊馬は言い終えると、男の社交辞令も待たずに、振り返らずにボックス席を後にした。彼が去った後、一花のほうにも物音が届いた。スタッフも先ほどボックス席で見た状況を、包み隠さず報告していた。柊馬と相手の会話の内容は聞こえなかったが、彼の顔色は確かに優れず、どこか疲れ切った様子だったという。顔色も青白かった。一花はそれを聞いて、心が締め付けられる思いだった。薬を飲んでいれば、今
「もし彼が気にしていなかったら?」浩之はさらに問いかけた。「私には、彼の心の中で、君こそが最も大切な存在だと思うが……」「でも、私自身が自分を許せないの」一花は低い声で言った。許しを得るのがどれほど難しいか、彼女は誰よりもよく分かっていた。たとえ柊馬が彼女を許したとしても、彼女には許しを請う資格などない。彼に二度と苦しみを味わわせたくなかった。彼と一緒にいてから、彼はずっと傷ついてばかりいた。「青空」のやつらは時限のかけられた爆弾のようなものだ。いつ再び現れてもおかしくない。彼がそばにいる限り、彼は必ず命を懸けて彼女を守ろうとする……彼女はもう、彼を失う恐怖に苛まれるのもごめんだった。浩之は一花を説得できないと分かると、一枚の招待状を机の上に置いた。「明日の夜、南関市でビジネスパーティーが開かれる。伊集院グループのチャリティーと協力するそうだ。伊集院さん本人も出席すると聞いた。西園寺グループも招待されてスピーチを行う予定だ。君の席は秘密裏に手配してある。行きたければ、見に行けばいい」浩之は言い終えると、立ち上がって去っていった。一花は手を伸ばし、その招待状に触れた。その瞳が、ふと深く沈んだ。……翌日の夜、南関市のビジネスパーティーの会場入口には、人の波が絶えなかった。一花は早めに到着し、秘密の通路から会場二階へと上がった。浩之が手配した席は目立たず、視野は良好で、最前列の重要ゲストの席も、ステージもはっきり見渡せた。柊馬のネームプレートはとっくに置かれていた。席は空いたままだが、一花は長い間、それを見つめていた。ふと、あのチャリティーパーティーのことを思い出した。彼は遠路はるばる駆けつけ、彼女の心を乱した。あの時、彼女はまだ孤立無援で、窮地に立たされて面子をつぶされそうになった。今となっては、彼女はもう一人で立ち向かえるようになった。誰の支えも必要ない。だが、ただ一つ……彼の存在だけは、今もなお心を揺さぶる。「伊集院社長、こちらです」ふと、ボックス席の外から微かな声が聞こえ、一花は少し驚いた。柊馬の席は最前列のはずではないか。どうしてボックス席に来るのだろう。足音が響いた後、一花はドアのところまで歩き、ドアの隙間から外を覗くと、一目で湊が見えた。柊馬の周りは護