LOGIN犬猿の仲の財閥御曹司・天城泰輝と主任学芸員・神崎絵奈。謎の古代遺物に触れた瞬間、二人の感覚は強制的にリンクしてしまう。十メートル以上離れれば暴走する呪いを解くため、同居と危険な実験を重ねるうち、嫌悪のはずの感情まで熱く変わり始めて――。
View More天城財団美術館、地下二階。
恒温恒湿の機械が白いノイズを吐き続ける収蔵庫の修復室で、主任学芸員の神崎絵奈はラテックスの手袋を嵌めたまま、税関の特別通関を経て届いたばかりの桐箱を慎重に検めた。表面を赤い絹紐で封じられた遺物の正式名称は『合璧印(ごうへきいん)』。東洋の古代王朝が、最も密やかな閨房の秘儀に用いたとされる一対の白玉の印である。だが学会の闇では、まったく別の名で呼ばれる奇物だった。
男女の陰陽を交え、催淫の神経を極限まで研ぎ澄ませて帝室の夜を支配したという、伝説の房中術の遺物――。
「検収はまだ終わっていないのか」
静寂を割る声に、絵奈の眉間が鋭く寄った。振り返らずとも分かる。この傲慢で冷たい足音の主は、天城グループの有力な後継者であり、財団統括理事の天城泰輝だった。
乱れひとつないチャコールグレイのスリーピース。刃物のように削いだ顎の線と、人を見下ろす冷たい目をひらめかせ、彼は長い歩幅で部屋へ踏み入った。
「理事、密輸疑惑ルートの追跡と考古学的な真偽判定には最低でも三日は必要です。精密鑑定が要ると、何度も報告しています」
絵奈は黒縁眼鏡を直しながら、一歩も引かずに冷たく返した。
「来週の財団三十周年VIPガラ、メインテーブルに据える核の収蔵品だ。三日も悠長に刷毛を動かしている暇はない」
「真偽も確認していない遺物をパーティに出せません。問題が起きたら学芸室が説明することになります。その原則は変えられません」 「私の決裁と権限で承認した展示だ。一学芸員は遺物の表面の傷でも拾っていればいい。余計な説教はよせ」泰輝は作業台の端を指先で叩いた。絵奈の説明が終わるより先に、箱へ視線を移す。会うたび、二人のあいだではいつもこんなふうに張り詰めた火花が散った。
潔癖に近い完璧主義の統括理事と、規定と体面を命のように守るワーカホリックの主任キュレーター。入社初日からギャラリーの運営方針で事あるごとにぶつかり合う、天城財団公認の犬猿の仲だった。
泰輝は、絵奈が桐箱から取り出したばかりの遺物ケースへ、いきなり長い指を伸ばした。
「円筒アクリルから直接確認する。どけ」
「触らないでください! 表面の酸化防止処理がまだ終わっていません!」ケースを守ろうとする絵奈の手と、奪おうとする泰輝の手が空中で激しく絡んだ。その反動で蓋が開き、噛み合っていた一対の玉印が掌を離れ、冷たい大理石の床へ落ちる。
「ちっ」
「だめっ!」二人の体が反射的に遺物へ同時に覆い被さった。床にぶつかる寸前、泰輝の広く大きな掌が遺物の下端をかろうじて受け、その上を絵奈の指が包み込んだ。
――チャリン。
危うく受け止めた玉印が掌の中で傾く。遺物の上端に彫られた二匹の蛟龍の、鋭い角飾りが二人の指に引っかかった。
「くっ……」
「あっ……」同時に漏れた、押し殺した短い声。角の先端が絵奈の手袋を裂いて通り過ぎる。泰輝の右手人差し指と、絵奈の左手人差し指の内側が深く切れ、赤い雫が噴き上がった。
そして嘘のように、触れ合った傷口から流れ出た鮮血が、半透明の白玉に刻まれた陰陽の文様へするりと吸い込まれていった。渇ききった古代の獣が血を求めるように、遺物の表面は赤い滴を一瞬で飲み込んだ。
――ウン。
空気を震わせるごく弱い低周波とともに、指先の傷を通じて高圧電流のような微熱が、稲妻のように二人の心臓へ走り込んだ。
「……何をした」
泰輝は眉間を歪め、絵奈の手を苛立たしげに振り払った。絵奈も荒い息をつきながら、ひりひりと燃える指を胸元へ引き寄せる。指先から始まった奇妙な温もりは、背骨を伝って一気に降り、下腹の奥をねっとりくすぐった。
だが二人とも、遺物落下の事故による極度のアドレナリンのせいだと片づけた。
「……本体に外見上の破損はありません」
絵奈は震える呼吸をどうにか押さえ、作業台の引き出しから消毒ガーゼを出して傷を止めた。泰輝はポケットの絹ハンカチで自分の血を拭い、絵奈を殺気だって睨む。
「明日午前九時までに一次状態鑑定レポートを書いて、執務室へ直接持ってこい。一分でも遅れたら、今度の企画展の総括から神崎の名前は永久に消す」
氷のような警告を投げると、泰輝は振り返りもせず収蔵庫の鉄扉を強く閉めて出ていった。密閉された収蔵庫に一人残された絵奈は、胸を撫で下ろして息を整え、作業台の上の玉印をぼんやり見下ろす。
二人の血痕は、遺物の表面から跡形もなく吸い尽くされていた。妙なことに、スカートの下、太腿の内側の筋がつっぱるように締まっていく、見知らぬ熱い緊張が容易には収まらなかった。
午後八時、広尾のペントハウス。殺伐としたオフィスバトルを終えて戻った室内には、息が詰まる薄氷の緊張が漂っていた。泰輝のひどいスクワット報復のせいで、絵奈は午後中ずっと太腿が重く締まる筋肉痛に耐えていた。泰輝も、絵奈が退勤直前に書類をステープラーで綴じるたび指先を抓むささやかな反撃のせいで、帰宅してからも神経が逆立っていた。「先に洗います」絵奈がゲストルームの扉を開け、そっけなく吐き捨てた。ソファに腰を下ろし、タブレットで海外支社の報告を繰っていた泰輝が、冷たく顔を上げる。「覚書第二条は忘れたか。始める前に、互いが平気か確認すると決めたはずだ。今すぐ、とだけ投げて入るつもりか」「一日中汗をかいて埃をかぶって、シャワーまで決裁が要るんですか。十五分で終わらせます。構わないでください」返事も待たず、浴室の扉を強く閉めて鍵をかけた。昼に受けたスクワットの屈辱を思えば、どんな配慮もしたくなかった。汗に濡れたブラウスとスカートを脱ぎ捨て、シャワーブースへ入る。温かい湯が落ち、重たかった肩と太腿の筋を柔らかく弛める。ボディスポンジに薔薇のボディウォッシュをたっぷり出し、豊かな泡を立てた。白い柔らかい泡を、首筋と鎖骨、胸、そして太腿の内側の内密な肌へ滑らせるように擦り始める。泰輝はリビングの全面ガラスの向こうの夜景を背に座り、タブレットへ視線を固定していた。だが昼のスクワットの後遺症で下半身はまだ鈍い疲労に浸り、絵奈との気の張り合いで神経は逆立つだけ逆立っていた。『十五分で終わらせる、だと』時計を確認する。十五分という言葉を覚えておき、タブレットへ目を戻した。ブースから水が落ちる音が、リビングまで微かに響いている。雑念を払い、英文契約の条項を読もうとした。だがまさにその瞬間、リビングの冷たい空気が一瞬で蒸発するように、全身へ熱く湿った熱が押し寄せた。ソファに座っていた泰輝の手から、タブレットが床へ乱暴に落ちる。――ドン。「……くッ!?」押し殺した猛烈な嘆きが漏れた。いきなり全身の感覚神経が、煮えたぎる湯にどっぷり浸か
昼を過ぎた午後一時、美術館地下一階の特別企画展示室。絵奈は作業用ガウンを着て、大型油彩の設置位置を確認していた。傍らのドセントたちも動線を眺め、作業を見守る。「三番壁面のルネサンス、左へ二センチだけ動かしてください。水平も一緒に。私が上がってワイヤーの張力を見ます」二メートルのアルミ梯子を慎重に登った。午前の氷缶テロのあと、泰輝が応接室を飛び出し給湯室を襲ったときには、すでに絵奈はいなかった。咳払いとともに伝わってきた冷たい殺気を思い出し、絵奈は心の中で快哉を叫んだ。『傲慢な財閥三世なら何でも許される? 私を下女扱いして』梯子の頂上で両手を伸ばし、重い額縁を支えていたまさにその瞬間。壁一枚を隔てた地下一階VIP専用フィットネス。展示室との距離は七メートルほど。ジャージ姿の天城泰輝が巨大なスクワットラックの前に一人で立っていた。肩の上には鉄のオリンピックバー、両脇には巨大なプレートがびっしり。総重量百四十キロ。「神崎絵奈。よくも俺のズボンに紅茶を零させたな」口角が殺伐とした弧を描き、残酷に上がる。「その体で、代償を骨の髄まで味わえ」深く息を吸い、百四十キロの鉄塊を背負ったまま深くフルスクワットで沈み込んだ。大腿四頭筋と臀筋、ハムストリングが裂けるほどぴんと収縮し、下半身全体に途方もない荷重がのしかかる。その殺人的な筋肉の悲鳴が、そのまま絵奈の体へ直撃弾のように飛び込む。――ドン。「あ、あっ……!?」梯子の上で額縁を掴んでいた絵奈の口から、裂ける悲鳴が漏れた。一秒の前触れもない。いきなり両太腿に巨大な鉄塊を載せて押し潰すような猛烈な荷重が、骨盤と膝関節を容赦なく折った。脚の筋が一斉に麻痺し、小刻みに震え始める。「神崎さん!?」「梯子が揺れてます! 気をつけて!」下にいたドセントたちが梯子を支え、驚愕の声を上げた。だが絵奈に答える余裕はない。下腹と太腿の内側が引き裂かれるようなひどい筋肉痛が嵐のように押し寄せる。一、二、三……。泰輝
午前十一時、天城財団美術館二階のVIP応接室。統括理事・天城泰輝は、主要スポンサー企業の代表と海外パートナーの幹部四名とともに、ガラのスポンサード調整ミーティングを主宰していた。「今回の財団三十周年特別展は、アジア美術界でも類を見ないメガイベントになります。スポンサーブランディングも最高等級の礼遇で……」流麗な話術と冷たいカリスマで一座を完璧に圧していた。テーブル向かいのスイス系プライベートバンク日本支社長は、何度も頷き、感嘆を連発する。「さすが天城の次期当主だ。理事の卓越した審美眼と攻撃的な企画力なら、今回のガラは成功を確信できます」「恐縮です、支社長。今回のプロジェクトは単なる展示を超え、東西の古代芸術の精髄を社交界へ示す場になります」相手が頷くのを見て言葉を継いだ。口元の笑みと裏腹に、肩の力はなかなか抜けない。朝から絵奈と交わした言葉が、会議の最中にもふと浮かぶ。テーブルの上には英国王室御用達ブランドの高級磁器カップと、湯気を立てるアールグレイが置かれていた。***同じ時刻、応接室の真下。一階下の学芸室給湯室。絵奈はシンクの前に立ち、天井を険しく見上げていた。朝から一分単位で小言を浴びせ、罪人を監視するように傲慢に振る舞った泰輝の態度が頭を離れない。「自分が何様よ。準備は五分でしろ、息も慎重にしろ。人を何だと思ってるの」歯を噛み、冷蔵庫を開けた。視線が冷凍室の隅に置かれたアルミ缶コーヒーの一つに釘付けになる。白い霜がついた、カチカチに凍った缶。瞬間、絵奈の頭に稲妻のように悪魔じみた着想が走った。『事前承認なき刺激は禁止、だって?』缶を握った手を見下ろす。一瞬迷った指が、冷たい表面を再び包んだ。『大企業の後継者の体面がどれほど大したものか、見せてもらおうか』缶を手放さなかった。短い迷いを切り、薄いHラインスカートの裾をそっとまくり上げる。白く滑らかな太腿のいちばん内側、肌がいちばん柔く敏感な付け根あたりへ、凍りついた缶の冷たい底を一気に押し当てた。――チイイイッ。
日付を越えた、広尾の最高級ペントハウス。都心の騒音が完全に遮断された室内に漂うのは、窓を打つ冷たい夜風だけだった。複層階段の下、マスタールームとゲストルームの直線距離はおよそ六メートル。壁一枚を隔てた安全圏の内側だったが、絵奈はベッドに横たわり、一秒も目を閉じられなかった。「はあ……本当に頭がおかしくなりそう」綿の寝間着を首まで閉め、寝返りを打つ。先の解除試みの逆流反動で感度がさらにになった体は、些細な刺激にも過敏に反応した。さらに悍ましいのは、六メートル向こうの壁の内側から伝わってくる、泰輝の仄かな体温と呼吸の波動だった。彼がベッドの上で長い脚を伸ばし、シートを擦るたび、薄い綿のズボンが絵奈の太腿の内側を荒く掻くような錯覚がする。――するり、さわり。「んっ……」反射的に脚を閉じ、唇を噛んだ。まさにその刹那。――コン、コン。二つの部屋を隔てるコンクリートの向こうから、神経質なノックが響いた。「神崎」壁を伝ってきた声はひどく沈んでいた。「寝返りを打つな。大人しく寝ていろ。お前が脚をねじるたび、俺の太腿の内側に火がつく」絵奈は呆れて跳ね起き、壁へ食ってかかった。「寝相まで理事の許可が要るんですか。今、息まで慎重にしていますよ」「俺も動かない。少し我慢しろ。明日までに回す監査企画案が残っている」「その潔癖、本当に……」絵奈は枕に顔を埋め、荒い息をついた。互いの神経が一つに縛られているせいで、怒りも緊張も血管を伝ってリアルタイムで交換される。マットレスの柔らかささえ異質で、落ち着かない。天井を見上げ、掌で額を押さえた。普段なら静かなクラシックを流して一日の疲れを解くところだが、今はどんな些細な音も動きも慎重にならざるを得ない。壁の向こう、六メートル。その狭い間隔で泰輝が息を吸い、吐くたび、空気の圧力が自分の胸郭を軽く押しつけるような同期の残像がする。書類をめくり、ベッドで姿勢を変えるたび、スプリ