Mag-log in紗枝はすぐに錦子の意図を察し、感極まったように頭を下げた。「本当にありがとうございます。あなたにご迷惑をかけた分は、すべて私が個人的に補填します」「いいのよ。そんなことしなくて」錦子は静かに微笑み、紅い唇をゆるめた。「あなたが将来、采配を振るう立場になったとき、そのときにまた、私と手を組んでくれればそれでいいわ」錦子は、紗枝という人物が実直で、信頼できると確信した。錦子にとって、両社の提携は損どころかむしろ利益が大きく、他の会社と組むよりもずっと実入りが良かったのだ。「ええ、もちろん」紗枝は遠慮なく、力強く頷いた。まさか保護者会が、自分の抱えていた最大の悩みを解決するきっかけになるとは思ってもみなかった。紗枝は胸の奥から安堵の息を吐き、久しぶりに肩の力が抜けるのを感じた。まずは家に戻って逸之の様子を見てから、あの荘園へ行き、啓司を見舞おう――そう心に決めた。そのころ家では、逸之が景之からの調査報告を受け、荘園が拓司の私有財産であることをすでに知っていた。「お兄ちゃん、ママがあんなふうにしてるの、あんまり良くないと思う。でも、もしママが拓司さんと一緒になりたいなら、僕は応援するよ」頬杖をついたまま、彼は真剣な顔で続けた。「でも、拓司さんってもう昭子さんと婚約してるんでしょ?ママにちゃんとした籍をあげられるのかな。それに昭子さんのお腹には拓司さんの子がいるんだよ。きっと僕たちのこと、本当の息子だなんて思ってくれないよね。でも……ママの幸せのためなら、我慢できると思う」景之は呆れたように額に手を当てた。弟の節操のなさには毎度のことながら頭が痛くなる。さっきまで「クズ親父が可哀想だ」などと言っていたのに、今度は拓司を「義理の父親」として受け入れる気になっている。「考えすぎだよ。ママがあの人と一緒になるなんて、絶対にない」「どうして絶対ないって言えるの?」逸之は首をかしげた。彼の中では、拓司と啓司は顔立ちも似ていて、能力も大差なく、そのうえ拓司のほうが優しそうに見える。女の人って、優しい男の人が好きなんじゃないの?「じゃあ訊くけど、ママにとって、僕たちと拓司さんと、どっちが大事だと思う?」「もちろん、僕たちだよ!」「だったらそういうことだ。ママは僕たちに義理の父親を作ったりしない。
絵理は家に残してきた子供のことが気になり、席を立つ二人のあとに続いた。「私も、子供の様子を見に帰らなきゃ」三人が連れ立って立ち上がると、他の母親たちの中にもそれに倣う者が数人現れた。残ったのは、どう見ても夢美に取り入ろうとする面々ばかりだ。夢美はその空気を愉しむように受け止め、あえて何気ない口調でこう漏らした。「うちの昂司がね、もうすぐ黒木グループの本社に戻ることになったの」「本当ですか?どんな役職に就かれるんですか?」一人の母親が身を乗り出して尋ねる。夢美は微笑を浮かべ、わざと答えを曖昧にした。「そうね……きっと、低い役職ではないはずよ」「それはおめでたいですね!ぜひ、旦那様が本社にお戻りになったら、私たちにもご縁をつないでいただけませんか?」相手は探るように機嫌を取ったが、夢美は軽く受け流すだけで、返事をすることもなかった。その一部始終を、直子は黙って観察していた。帰り際、すぐさま紗枝に報告するつもりである。彼女の心には確信があった。たとえ紗枝が啓司と離婚したとしても、夢美より不幸な暮らしを送ることは決してないだろう、と。直子は改めて、紗枝と本当の友人になる決意を固めた。今度こそ自分の見る目に狂いはないと信じて。外に出ると、紗枝と錦子は絵理を先に見送った。運転手を待つ間、錦子が堪えきれずに切り出す。「ねえ紗枝、最近ちょっとした噂を聞いたの。あなた、黒木家の啓司様と離婚したって本当?」紗枝は隠すことなく、静かに頷いた。「ええ、離婚したわ」「どうしてそんなことに?景ちゃんも逸ちゃんもいるし、お腹には赤ちゃんまでいるのに?」錦子は信じられないというように眉をひそめた。紗枝が妊娠中にもかかわらず仕事を続けている理由が、その一言で腑に落ちた気がした。そして心の中で毒づく。啓司も結局、ろくな男じゃない。いや、この世の男なんて、たいていろくでもない。「その話は長くなるから、また時間がある時にゆっくり話すね」紗枝は穏やかにそう言った。啓司の現状を思えば、今は詳しく語らない方が賢明だと判断したのだ。たとえ今、錦子との関係が良好でも、万が一ということもある。「分かったわ」錦子はそれ以上追及せず、代わりに頼もしげに言った。「仕事で困ったことがあったら、私を頼って。今は大したことないかもしれ
拓司は報告を聞くと、すぐに執事へ指示を出した。「兄さんの一挙手一投足を監視しろ。特に、紗枝と一緒にいる時の様子を見逃すな」執事が恭しく頷き、「紗枝様は、啓司様を散歩に連れ出したいと申し出ておられます」と付け加える。拓司は一瞬考え込み、やがて低く言った。「屋敷の門を出ない限りは、好きにさせてやれ」紗枝がいつ啓司に会いに来るかわからない状況で、変に反感を持たれたくなかったのだ。「かしこまりました」その頃、黒木グループでは月末が迫っていた。社の規定では、月間成績が最下位の部署は即座に解雇されることになっている。営業五課はこれまで群を抜く成果を上げてきたが、最近、帳簿の数字に不審な点が見つかっていた。この事実が上層部や株主に知られれば、営業五課は不正会計の疑いをかけられ、容赦なく切り捨てられるだろう。紗枝はすでに独自に調査を進めていた。特に、最近夢美や営業一課と密に接触している社員に注目していたが、決定的な証拠は得られず、行き詰まりを感じていた。そんな折、幼稚園のママグループのチャットに一通の通知が届く。【会長、最近集まってなかったから、子どもたちの近況を話すついでに食事でもどう?】保護者会の会長を務める紗枝は、他の母親たちとの関係も大切にしなければならない立場だった。【いいわ】と短く返信し、早めに仕事を切り上げて約束のレストランへ向かった。だが、そこに夢美の姿があるとは思ってもいなかった。ママたちは彼女のことを好ましく思っていなかったが、「黒木家の嫁」という肩書に遠慮して、媚びるように笑顔を見せていた。その様子に、絵理と錦子はあからさまな軽蔑の表情を浮かべる。直子はすでに紗枝の味方に立つことを決めており、夢美に関する醜聞をこっそり紗枝に漏らしていた。それは、もはや彼女が夢美と和解するつもりがないという宣言でもあった。「夢美さん、うちの子、この前あなたに言われた通りにしたんです。最近は毎日、明一くんと仲良く遊んでますよ」一人の母親が、離婚した紗枝に気を遣いながらも、あえて夢美を持ち上げるように言った。夢美は涼しい笑みを浮かべた。「うちの明一に友達がいないわけじゃないの。ただ、学校は遊ぶところじゃなくて、勉強するところよ。今は基礎を固める大事な時期だもの」「ええ、ええ、そうですよね
鈴は結局、口を閉ざした。もし綾子に啓司を傷つけたことが知られたなら、結婚どころか、この屋敷から即刻追い出されるのは明らかだった。紗枝はもはや鈴と口をきく気にもなれず、「今度から気をつけなさい。次はないわ。そのときは平手打ちでは済まないから」とだけ言い残し、自室へ戻って休むことにした。翌朝、目を覚ますと啓司はまだ眠っており、すでに医師が往診に来ていた。「啓司様の外傷は、ほとんど治癒しております。ただ……脳の神経損傷については、今後の回復は難しいでしょう」医師は深い溜息をつきながらそう告げた。その言葉に、紗枝の顔に陰りが差した。以前はただ視力を失っただけだったのに、今ではもう、何ひとつ理解できなくなってしまっている。かつては天賦の才に恵まれた男だったのに、今の彼の人生はあまりにも過酷だった。執事が医師を玄関まで見送ると、部屋には紗枝と啓司だけが残った。出勤の支度をしていた紗枝は、突然啓司に手首を掴まれ、反応する間もなく力強く抱き寄せられた。「いい匂い……ぎゅーってして」子どものような声音で、彼は呟いた。紗枝の目頭が一瞬にして熱くなる。「啓司、私のこと、覚えてる?紗枝よ」だが、啓司は紗枝の言葉を理解していないようだった。ただ安心しきったように、彼女を抱きしめたまま目を閉じる。「おうちに帰りたい。連れて帰ってくれる?」その一言に、紗枝の胸がぎゅっと締めつけられる。「家?どこに帰りたいの?」彼が言う「家」とは黒木家の本邸のことなのか、それともかつて二人が暮らした牡丹別荘のことなのか、紗枝にはわからなかった。啓司はさらに力を込めて抱きしめる。「痛い……家に帰りたい……」紗枝は彼の背中を優しく撫で、落ち着かせるように囁いた。「どこが痛いの?お薬、塗ってあげるね」その穏やかな声が届いたのか、啓司は素直に従い、静かに薬を塗らせた。彼の体に新しく増えた傷跡は、すべて屋敷の護衛によるものだった。紗枝には、それが護衛たちの独断なのか、それとも拓司の命令なのか、判断がつかなかった。一方、女中たちは、啓司が紗枝に大人しく薬を塗らせている様子を見て、驚きを隠せずにひそひそと話していた。「啓司様って、どれだけ奥様のことをお好きなんでしょうね。何もわからなくなってしまったのに、あんなに従順だなんて。私
紗枝はそっとドアの隙間から室内を覗き込んだ。啓司はまだベッドに横たわり、目を閉じたままだった。息遣いは静かで、目を覚ましている気配はない。先ほどの声は、どうやら悪夢の中の叫びだったのだろう。安堵の息を吐き、紗枝は部屋に入った。乱れた布団を整えながら、わざと軽い調子でつぶやく。「こんな姿になっても、あなたに嫁ぎたいって言う女がまだいるなんて……本当に運のいい人ね」そう言って微笑むと、もう夜も更けていたため、部屋を出ようとした。だがその瞬間、手首を啓司の大きな手が強く掴んだ。紗枝の瞳が驚愕に見開かれる。「啓司……!」しかし、彼は再び力を緩め、その手は静かに落ちた。紗枝の胸に、かすかな落胆が走る。そっとその手を布団の中へ戻し、優しく囁いた。「……また明日、会いに来るわ」紗枝は踵を返し、自室へ戻ると、ようやく浅い眠りに落ちた。夜半。外の空は闇を増し、屋敷全体が静まり返っていた。紗枝は眠りの底で、誰かが自分の部屋に入ってくる気配を感じた。まぶたを開けようとしたが、疲労が重くのしかかり、なかなか意識が浮上しない。ようやく完全に目を開いたとき、部屋にはもう誰もいなかった。「……夢だったのかしら」小さく呟いたその瞬間、隣室――鈴の部屋から甲高い悲鳴が響いた。「きゃあっ!啓司さん、殺さないで!私、まだ死にたくない!」あれほど「死にたい」と口にしていた鈴ですら、いざ死を目前にすると恐怖するのだ。紗枝は反射的に飛び起き、廊下へ駆け出した。啓司が鈴の部屋のドアを力任せに蹴っている。中からは鈴の泣き叫ぶ声。「誰か助けて!」屋敷の使用人たちは二十四時間態勢で啓司を監視しているはずだったが、彼が屋敷の外へ出ない限り、誰も積極的に関わろうとはしない。ドアが鈍い音を立てるたび、紗枝の心臓も縮み上がった。もし啓司の体が衰えていなければ、ドアなどとっくに破壊されていたに違いない。ついに、乾いた破裂音とともにドアが吹き飛んだ。鈴は悲鳴を上げ、手近な物を掴んでは啓司に投げつける。その手には光る刃。「鈴、何をする気!?」紗枝の声が鋭く響いた。「見て分からないの?正当防衛よ!」鈴は叫び、刃を振り下ろした。視力を失った啓司の腕が切り裂かれ、鮮血が滲む。鈴は恐怖と憎悪をない
「こんな時間にお部屋へ行かれるのは、さすがに……」執事が紗枝の前に立ちはだかった。「どうして?何か都合が悪いの?」紗枝が眉をひそめる。「いえ……ただ、奥様のお身の安全が心配でして」執事は控えめに説明した。紗枝は静かにため息をつき、彼の脇をすり抜けた。「大丈夫。自分で気をつけますから」そう言い残して、足早に啓司の部屋へと向かった。執事は、彼が今目を覚ますはずがないと判断し、それ以上引き止めなかった。広々とした寝室では、啓司が静かに横たわっていた。目を固く閉じ、まるで深い眠りに落ちているようだが、その静けさには、どこか不穏な影があった。紗枝はドアを閉め、音を立てぬよう慎重にベッドのそばへと歩み寄った。「……啓司」呼びかけても、返事はなかった。紗枝はベッドの縁に腰を下ろし、そっと布団をめくった。すると、彼の体には無数の傷跡が刻まれていた。棒で殴られたような青あざと内出血。見るだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。部屋を見渡すと、棚の隅に救急箱が置かれていた。紗枝はそれを手に取り、無言のまま彼の傷口を丁寧に拭き始めた。彼女は知らなかった。向かいの部屋には監視カメラが設置され、すべての様子が見張られていることを。啓司の体はひどく汚れていた。紗枝は汗を滲ませながらも根気強く拭き続け、やっと清め終えたころには息が上がっていた。使用人たちが世話を怠ったのか、それとも彼に怯えて近づけなかったのか。胸の内に、言いようのない疑念が浮かんだ。体を拭き終えると、紗枝は清潔な服を見つけて着替えさせ、シーツも新しいものに替えた。布団を掛け直したそのとき、背後から冷ややかな声が落ちてきた。「そんなことしても無駄よ。すぐにまた汚れるんだから」振り向くと、階段の方から鈴がこちらを見下ろしていた。その顔には、あの日よりもさらに深い傷が増え、髪も乱れていた。紗枝はしばらく彼女を見つめ、それから静かに言った。「鈴、少し話しましょう」「……話?何を?」鈴は訝しげに眉を寄せた。紗枝は部屋の外に出て、背後でドアを静かに閉めた。「あなた、本当は啓司のことを愛していないでしょう」「そんなことない!私は小さいころから彼が好きだったのよ!」鈴は食い気味に叫んだ。「そんなに焦って否定しなくてもいいの