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第10話

Author: 豆々銀錠
それをタップした先に表示されたのは、黒木グループの記者会見の記事だった。啓司が、夏目グループの買収を完了したと発表している。

この記事が意味するのは、ただ一つ。この世から「夏目グループ」という会社が、完全に消滅したということだ……

記事には、啓司の写真が添えられていた。その端正な横顔は、自信に満ちあふれている。

写真の下には、無数のコメントが殺到していた。

「黒木啓司、マジでイケメン。こんな若さで社長とか、スペック高すぎ」

「残念ながら既婚者なんだよなー。相手って、あの夏目グループのお嬢様だろ?」

「政略結婚じゃん。三年前のニュース忘れた?結婚式当日に花嫁置いてけぼりにして帰ったってやつ……」

「……」

ネットの記憶とは、残酷なほど正確だ。

紗枝自身は忘れかけていたというのに。三年前の結婚式当日、啓司が自分を一人置き去りにし、怒りに顔を歪めて去っていった、あの日のことを。

彼女は、ただ無心で画面をスクロールし続けた。

この三年間、いつかこうなるだろうという予感はあった。

けれど、それがこんなにも早く訪れるとは、思ってもみなかったのだ。

……

一方その頃、啓司は実に満ち足りた日々を送っていた。

夏目グループを吸収し、積年の恨みを晴らしたのだ。

和彦が、満足げに口角を上げる。「三年前、夏目家にまんまと嵌められて結婚させられたが、ようやく因果応報ってやつだな」

そう言うと和彦は、デスクで黙々と作業を続ける啓司に問いかけた。「ところで啓司さん、あの耳の聞こえねぇ女は……この数日、あんたに泣きついてきたりしたか」

サインをしていた啓司の手が、ぴたりと止まった。

どういうわけか、このところ周りの人間がやたらと紗枝の名を口にする。もう離婚するというのに、なぜいつまでもあの女に付きまとわれなければならないんだ?

「ない」

啓司は、冷たく吐き捨てるように答えた。

和彦は目を丸くした。夏目家の一大事だというのに、あの女はよく平気でいられるな、と。

「マジかよ。案外、吹っ切れたりしてんのか?」

和彦は、さらに続ける。

「聞いた話じゃ、今ごろ夏目の親子が躍起になってあの女を探してるらしいぜ。一体どこに隠れてるんだか」

ぺらぺらと話し続ける和彦に、啓司は苛立ちを隠しもせず、眉を顰めた。

「出ていけ」

一瞬、和彦は虚を突かれた顔をした。

啓司の纏う空気が、明らかに怒気を含んでいる。それに気づくと、彼は何も言わずに社長室を後にした。

和彦が去った途端、啓司は無意識のうちにスマートフォンを手に取っていた。

画面には、やはり紗枝からの着信もメッセージも、一件たりとも入っていない。

本当に、彼女は連絡してこなかったのだ。

ドアの外で、和彦は一抹の不安を覚えていた。親友として、今の啓司の様子はどうにもおかしい。

表面上はいつもと変わらないように見える。だが、紗枝の話題が出るたび、啓司は途端に不機嫌になるのだ。

和彦は廊下を進みながら、アシスタントに電話をかけた。

「夏目紗枝の居場所は突き止められたか」

「はい。川西にある安宿にいることが分かりました」

アシスタントに場所を送らせると、和彦はコートを掴み、目的地へと車を走らせた。

啓司と葵の仲を三年以上も邪魔しやがって。今さら離婚に同意したからといって、このまま簡単に許してやるものか。

外は、しとしとと雨が降っていた。

紗枝はボランティアを終え、薬をもらうために病院へ寄り、それから傘を差してホテルへと歩いていた。人通りはまばらだ。

一台の車を走らせながら、和彦は紗枝の華奢な後ろ姿に視線を留めていた。

こんなところで出くわすとは思わなかったが、好都合だ。彼はわざとスピードを上げ、紗枝のすぐ横を通り過ぎた。

ばしゃん、と音を立て、水たまりの水が一瞬にして紗枝の全身に跳ねかかる。

紗枝が、虚ろな視線をそちらへ向けた。

バックミラー越しにその視線を受け、和彦はなぜか背筋に冷たいものが走った。

紗枝は、それが和彦の車だとすぐに分かった。贅沢なチャコールグレーのブガッティ。

彼女は黙って視線を外し、彼に気づかなかったふりをした。

だが、和彦のほうはそれで終わりにする気はなかった。車を減速させ、しつこく彼女の後ろにつける。

「おい、つんぼ。偉くなったもんだな、俺様を見ても挨拶なしかよ」

「前はもっと可愛く尻尾振ってたじゃねえか。俺様に媚び売るのが好きだったんだろぉ?」

彼の侮辱を耳にしても、紗枝の心は不思議なほど凪いでいた。

啓司のことが好きだったから、紗枝は彼の周りの人間すべてに気に入られようと必死だった。友人の和彦も、その一人だ。

初めのうちは、自分が和彦にどれほど嫌われているかを知らず、精一杯彼に尽くしていたのだ。

いつかきっと、啓司の家族や友人たちも自分のことを受け入れてくれるはずだと、そう信じて。

けれど、そんな願いはあまりに甘すぎた。

あるパーティーで、和彦は紗枝に容赦なく言い放った。自分は葵の味方なのだと。

葵の肩を持つために、彼は上流階級の男が保つべき見栄も体裁もかなぐり捨て、紗枝を「この泥棒猫が!」と罵り、恥知らずとなじった。

そして挙句の果てには、彼女をプールに突き落とし、そのまま見殺しにしたのだ。

それ以来、紗枝は和彦を徹底的に避けるようになった。

紗枝が何の反応も示さないことに、和彦は車を停めた。ドアを開けて降り立つと、長い脚で数歩のうちに彼女の目の前に立ちはだかり、その腕をぐっと掴んだ。

顔つきを険しくして、和彦は吐き捨てる。

「今回はどんな手を使うつもりだ」

腕に食い込む指の力に顔を歪めながら、紗枝は彼を見上げた。

「……何のことか、分かりません」

その手を振りほどこうとすると、和彦は汚物でも払うかのように腕を振り払った。

「汚ねぇ手で俺に触んじゃねえよ!」

紗枝は数歩よろめくと、バランスを崩し、「どん」と鈍い音を立ててアスファルトに強く体を打ち付けた。

和彦は、その場に立ち尽くす。信じられない、といった顔だ。

こいつ、当たり屋まがいのことまで覚えやがったのか?

軽く押しただけだろうが。なんで転ぶんだよ?

周囲の視線がこちらに集まってくるのを感じ、和彦は居心地悪そうに車へ戻ると、去り際に警告を投げつけた。

「夏目紗枝、自分が障害者だからって、葵をいじめていいと思うなよ。あの子はあんたとは違う。苦労してやっとここまで来たんだ。啓司さんとあの子の邪魔だけは、もう二度とするな」

車で走り去った後、和彦は親切心から、紗枝の今の滞在先を夏目家の人間に教えてやった。

地面に打ち付けられた手と膝が擦りむけ、紗枝は痛みでしばらく起き上がることができなかった。

彼女には、どうしても理解できなかった。なぜ和彦は、これほどまでに物事の善悪が分からない人間になってしまったのだろう。

四年前、爆発寸前の車から、自分が和彦を命懸けで引きずり出した時のことを思い出す。

全身血まみれで目も見えない状態だった彼は、それでも穏やかな声で言ったのだ。

「ありがとう。このご恩は、必ず返すから」と。

これが、彼の言う「恩返し」だというのだろうか。

見返りなんて求めてもいなかった。けれど、まさか恩を仇で返されることになるなんて、夢にも思わなかった。

幸い、通りがかりの人が紗枝を助け起こしてくれた。

「お嬢さん、大丈夫?あの人、誰なの。警察呼ぶ?」

紗枝の耳はキーンと鳴り響き、彼らが何を言っているのかよく聞き取れない。

それでも自分を心配してくれているのだと直感で悟り、首を横に振った。

「大丈夫です、何でもありませんので。ありがとうございます……」

彼らに深々と頭を下げると、紗枝は片足を引きずりながらその場を去った。

遠ざかる彼女の後ろ姿を、人々は同情的な目で見送るしかなかった。

もっとも、たとえ紗枝にその声が聞こえていたとしても、きっと助けは断っていただろう。

澤村家は黒木家に何ら引けを取らない名家であり、その医療事業は世界中に展開している。

澤村家の長男として生まれた和彦は、啓司に心酔し医学に興味を示さなかっただけで、その気になればいつでも実家を継げる立場にあるのだ。

そんな相手に、今の自分は逆らえるはずもなかった。

ホテルに戻ると、紗枝はシャワーを浴び、傷口に薬を塗った。疲労困憊のまま、ベッドに倒れ込む。

今日の出来事で、啓司から離れる決意は、いっそう固いものになっていた。

次に目を覚ましたのは、空が白み始めた頃だった。

身を起こしてリビングへ向かうと、ドレスに身を包んだ母が、ソファに腰掛けているのが見えた。

「目が覚めた?本当に、探すのに手間をかけさせてくれるわねえ」

母の棘のある言葉に、紗枝の瞳から光が消える。

「お母さん……」

美希は、血の気を失い真っ白な顔をした娘を前にしても、気遣う素振り一つ見せない。

無言で紗枝の前まで歩み寄ると、その手を振り上げ、乾いた音を立てて娘の右頬を激しく打ち据えた。

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Comments (1)
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増倉 育子
和彦の恩知らずは読んでて腹立たしさしか感じません...️ 放っておけば良いものを、何故無理やり絡んで来るのか...️ 部外者なのに、ホント腹が立って仕方がない...️
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