Share

第10話

Auteur: 豆々銀錠
それをタップした先に表示されたのは、黒木グループの記者会見の記事だった。啓司が、夏目グループの買収を完了したと発表している。

この記事が意味するのは、ただ一つ。この世から「夏目グループ」という会社が、完全に消滅したということだ……

記事には、啓司の写真が添えられていた。その端正な横顔は、自信に満ちあふれている。

写真の下には、無数のコメントが殺到していた。

「黒木啓司、マジでイケメン。こんな若さで社長とか、スペック高すぎ」

「残念ながら既婚者なんだよなー。相手って、あの夏目グループのお嬢様だろ?」

「政略結婚じゃん。三年前のニュース忘れた?結婚式当日に花嫁置いてけぼりにして帰ったってやつ……」

「……」

ネットの記憶とは、残酷なほど正確だ。

紗枝自身は忘れかけていたというのに。三年前の結婚式当日、啓司が自分を一人置き去りにし、怒りに顔を歪めて去っていった、あの日のことを。

彼女は、ただ無心で画面をスクロールし続けた。

この三年間、いつかこうなるだろうという予感はあった。

けれど、それがこんなにも早く訪れるとは、思ってもみなかったのだ。

……

一方その頃、啓司は実に満ち足りた日々を送っていた。

夏目グループを吸収し、積年の恨みを晴らしたのだ。

和彦が、満足げに口角を上げる。「三年前、夏目家にまんまと嵌められて結婚させられたが、ようやく因果応報ってやつだな」

そう言うと和彦は、デスクで黙々と作業を続ける啓司に問いかけた。「ところで啓司さん、あの耳の聞こえねぇ女は……この数日、あんたに泣きついてきたりしたか」

サインをしていた啓司の手が、ぴたりと止まった。

どういうわけか、このところ周りの人間がやたらと紗枝の名を口にする。もう離婚するというのに、なぜいつまでもあの女に付きまとわれなければならないんだ?

「ない」

啓司は、冷たく吐き捨てるように答えた。

和彦は目を丸くした。夏目家の一大事だというのに、あの女はよく平気でいられるな、と。

「マジかよ。案外、吹っ切れたりしてんのか?」

和彦は、さらに続ける。

「聞いた話じゃ、今ごろ夏目の親子が躍起になってあの女を探してるらしいぜ。一体どこに隠れてるんだか」

ぺらぺらと話し続ける和彦に、啓司は苛立ちを隠しもせず、眉を顰めた。

「出ていけ」

一瞬、和彦は虚を突かれた顔をした。

啓司の纏う空気が、明らかに怒気を含んでいる。それに気づくと、彼は何も言わずに社長室を後にした。

和彦が去った途端、啓司は無意識のうちにスマートフォンを手に取っていた。

画面には、やはり紗枝からの着信もメッセージも、一件たりとも入っていない。

本当に、彼女は連絡してこなかったのだ。

ドアの外で、和彦は一抹の不安を覚えていた。親友として、今の啓司の様子はどうにもおかしい。

表面上はいつもと変わらないように見える。だが、紗枝の話題が出るたび、啓司は途端に不機嫌になるのだ。

和彦は廊下を進みながら、アシスタントに電話をかけた。

「夏目紗枝の居場所は突き止められたか」

「はい。川西にある安宿にいることが分かりました」

アシスタントに場所を送らせると、和彦はコートを掴み、目的地へと車を走らせた。

啓司と葵の仲を三年以上も邪魔しやがって。今さら離婚に同意したからといって、このまま簡単に許してやるものか。

外は、しとしとと雨が降っていた。

紗枝はボランティアを終え、薬をもらうために病院へ寄り、それから傘を差してホテルへと歩いていた。人通りはまばらだ。

一台の車を走らせながら、和彦は紗枝の華奢な後ろ姿に視線を留めていた。

こんなところで出くわすとは思わなかったが、好都合だ。彼はわざとスピードを上げ、紗枝のすぐ横を通り過ぎた。

ばしゃん、と音を立て、水たまりの水が一瞬にして紗枝の全身に跳ねかかる。

紗枝が、虚ろな視線をそちらへ向けた。

バックミラー越しにその視線を受け、和彦はなぜか背筋に冷たいものが走った。

紗枝は、それが和彦の車だとすぐに分かった。贅沢なチャコールグレーのブガッティ。

彼女は黙って視線を外し、彼に気づかなかったふりをした。

だが、和彦のほうはそれで終わりにする気はなかった。車を減速させ、しつこく彼女の後ろにつける。

「おい、つんぼ。偉くなったもんだな、俺様を見ても挨拶なしかよ」

「前はもっと可愛く尻尾振ってたじゃねえか。俺様に媚び売るのが好きだったんだろぉ?」

彼の侮辱を耳にしても、紗枝の心は不思議なほど凪いでいた。

啓司のことが好きだったから、紗枝は彼の周りの人間すべてに気に入られようと必死だった。友人の和彦も、その一人だ。

初めのうちは、自分が和彦にどれほど嫌われているかを知らず、精一杯彼に尽くしていたのだ。

いつかきっと、啓司の家族や友人たちも自分のことを受け入れてくれるはずだと、そう信じて。

けれど、そんな願いはあまりに甘すぎた。

あるパーティーで、和彦は紗枝に容赦なく言い放った。自分は葵の味方なのだと。

葵の肩を持つために、彼は上流階級の男が保つべき見栄も体裁もかなぐり捨て、紗枝を「この泥棒猫が!」と罵り、恥知らずとなじった。

そして挙句の果てには、彼女をプールに突き落とし、そのまま見殺しにしたのだ。

それ以来、紗枝は和彦を徹底的に避けるようになった。

紗枝が何の反応も示さないことに、和彦は車を停めた。ドアを開けて降り立つと、長い脚で数歩のうちに彼女の目の前に立ちはだかり、その腕をぐっと掴んだ。

顔つきを険しくして、和彦は吐き捨てる。

「今回はどんな手を使うつもりだ」

腕に食い込む指の力に顔を歪めながら、紗枝は彼を見上げた。

「……何のことか、分かりません」

その手を振りほどこうとすると、和彦は汚物でも払うかのように腕を振り払った。

「汚ねぇ手で俺に触んじゃねえよ!」

紗枝は数歩よろめくと、バランスを崩し、「どん」と鈍い音を立ててアスファルトに強く体を打ち付けた。

和彦は、その場に立ち尽くす。信じられない、といった顔だ。

こいつ、当たり屋まがいのことまで覚えやがったのか?

軽く押しただけだろうが。なんで転ぶんだよ?

周囲の視線がこちらに集まってくるのを感じ、和彦は居心地悪そうに車へ戻ると、去り際に警告を投げつけた。

「夏目紗枝、自分が障害者だからって、葵をいじめていいと思うなよ。あの子はあんたとは違う。苦労してやっとここまで来たんだ。啓司さんとあの子の邪魔だけは、もう二度とするな」

車で走り去った後、和彦は親切心から、紗枝の今の滞在先を夏目家の人間に教えてやった。

地面に打ち付けられた手と膝が擦りむけ、紗枝は痛みでしばらく起き上がることができなかった。

彼女には、どうしても理解できなかった。なぜ和彦は、これほどまでに物事の善悪が分からない人間になってしまったのだろう。

四年前、爆発寸前の車から、自分が和彦を命懸けで引きずり出した時のことを思い出す。

全身血まみれで目も見えない状態だった彼は、それでも穏やかな声で言ったのだ。

「ありがとう。このご恩は、必ず返すから」と。

これが、彼の言う「恩返し」だというのだろうか。

見返りなんて求めてもいなかった。けれど、まさか恩を仇で返されることになるなんて、夢にも思わなかった。

幸い、通りがかりの人が紗枝を助け起こしてくれた。

「お嬢さん、大丈夫?あの人、誰なの。警察呼ぶ?」

紗枝の耳はキーンと鳴り響き、彼らが何を言っているのかよく聞き取れない。

それでも自分を心配してくれているのだと直感で悟り、首を横に振った。

「大丈夫です、何でもありませんので。ありがとうございます……」

彼らに深々と頭を下げると、紗枝は片足を引きずりながらその場を去った。

遠ざかる彼女の後ろ姿を、人々は同情的な目で見送るしかなかった。

もっとも、たとえ紗枝にその声が聞こえていたとしても、きっと助けは断っていただろう。

澤村家は黒木家に何ら引けを取らない名家であり、その医療事業は世界中に展開している。

澤村家の長男として生まれた和彦は、啓司に心酔し医学に興味を示さなかっただけで、その気になればいつでも実家を継げる立場にあるのだ。

そんな相手に、今の自分は逆らえるはずもなかった。

ホテルに戻ると、紗枝はシャワーを浴び、傷口に薬を塗った。疲労困憊のまま、ベッドに倒れ込む。

今日の出来事で、啓司から離れる決意は、いっそう固いものになっていた。

次に目を覚ましたのは、空が白み始めた頃だった。

身を起こしてリビングへ向かうと、ドレスに身を包んだ母が、ソファに腰掛けているのが見えた。

「目が覚めた?本当に、探すのに手間をかけさせてくれるわねえ」

母の棘のある言葉に、紗枝の瞳から光が消える。

「お母さん……」

美希は、血の気を失い真っ白な顔をした娘を前にしても、気遣う素振り一つ見せない。

無言で紗枝の前まで歩み寄ると、その手を振り上げ、乾いた音を立てて娘の右頬を激しく打ち据えた。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Commentaires (1)
goodnovel comment avatar
増倉 育子
和彦の恩知らずは読んでて腹立たしさしか感じません...️ 放っておけば良いものを、何故無理やり絡んで来るのか...️ 部外者なのに、ホント腹が立って仕方がない...️
VOIR TOUS LES COMMENTAIRES

Latest chapter

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第1180話

    寝室で、啓司はベッドに横たわり、目を固く閉じていた。龍平が入ってきて、その姿をじっと見下ろす。かつて冷酷無比で、人の心を踏みにじることに何の躊躇もなかった甥が、今や愚鈍で、しかも盲目になっているなど、にわかには信じ難かった。彼は手を伸ばし、啓司の肩を乱暴に揺さぶった。「起きろ」啓司は無理やり起こされたかのように身じろぎし、目を擦った。「……誰だ」目を開けはしたものの、その瞳には焦点がなく、周囲の何ひとつ映っていないようだった。龍平は様子を探るように言葉をかける。「お前のおじさんだよ。おじさんの声、覚えていないのかい」「おじ……さん?」啓司は再び横になり、布団を引き上げて頭を覆った。「覚えてない」そのあまりにも子供じみた仕草に、龍平は確信した。かつて自分を震え上がらせたあの甥に、本当に何かが起きたのだ、と。状況を把握した瞬間、龍平の顔から慈悲の色は消え失せた。布団にくるまったままの啓司を冷然と見下ろし、吐き捨てるように言う。「ずっとそのままでいろ。そのほうが、お互いにとって都合がいい」たとえ啓司が病気じゃなかったとしても、龍平は戻ってくるつもりだった。長年、海外で積み上げてきたものがある。啓司に敵うはずがない。彼はそう信じて疑っていなかった。龍平が部屋を出た、その直後だった。物陰から牧野が姿を現し、低く吐き捨てた。「あの老いぼれ、大人しく海外にでも引っ込んでいればいいものを……今さら戻ってきやがって」その言葉に応じるように、啓司は静かに起き上がった。「お前が何とかしろ。あの男が海外に持っている会社と資産、すべて洗い出せ。そろそろ回収の時期だ」「かしこまりました」「最近の黒木グループの様子はどうだ」牧野は口元を歪め、にやりと笑った。「皆、拓司さんの結婚式に気を取られています。我々はすでに、黒木グループの主要な事業の多くを掌握しました。拓司さんが式を挙げる当日、その知らせが届くでしょう」啓司が満足げに頷くと、牧野はさらに続けた。「これだけ事業を奪われれば、たとえ青葉さんの後押しがあったとしても、拓司さんが黒木グループの社長として盤石な地位を築くのは難しいでしょうね」「古株の株主たちに連絡を入れろ。明日、直接会う」「承知しました」……翌日、紗枝は心音と電話

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第1179話

    夢美は龍平の言葉を聞き、すべて腑に落ちたようだった。「お義父さん、分かりました。これからは昂司と仲良くやっていきます。でも、まずは彼を見つけて、少しは身を慎むように言ってください」上流階級において、男女の結婚はほとんどが政略の産物であり、そこに真の愛情があるかと問われれば、ほぼ皆無と言ってよかった。龍平にも本妻はいたが、それでも外に愛人を囲っていたではないか。昂司は、家柄も後ろ盾もない女が産んだ子であり、その女と綾子とでは、比べるまでもなかった。「うむ、それならよい。すでに人をやって、彼を探させている」二人はまだ知らなかった。その時点で昂司が置かれていた状況が、ただ遊び歩いているなどという、生易しいものではなかったことを。深夜。人里離れた郊外。啓司は黒いレインコートを身にまとい、遠くから絶え間なく響く犬の吠え声に耳を澄ませていた。牧野はその一歩後ろをついて歩いている。今夜、啓司はわざわざ昂司のもとを訪れていた。「昂司は、一体何のためにこれほど多くの犬を飼っているんだ。本当に理解できないな」牧野は独り言のように呟いた。あれだけの数の犬が、今や昂司にとって悪夢そのものになっているだろう――そう思わずにはいられなかった。昂司はその時、猛犬たちに囲まれていた。全身は噛み傷だらけで、髪は乱れ、顔は泥にまみれている。手には木の棒を握りしめ、その姿は哀れとしか言いようがなかった。灯りが点いた瞬間、昂司は吠え声のする方を見やり、啓司の姿を認めた途端、腰が抜け、その場に崩れ落ちた。「啓司……早く、ここから出してくれ。本当に悪かった、謝るから……頼む、出してくれ……」鼻水を垂らし、涙をぼろぼろと流すその姿に、かつての貴公子然とした面影は微塵も残っていなかった。啓司は冷ややかに彼を見下ろした。「今ここから出してやったら、またすぐに外で人に噛みついて回るんだろう。さて、どうしたものかな」「もうしない……本当に怖いんだ……」昂司は心底怯えきっていた。この犬たちの中に閉じ込められ、陽の光も差さぬ暗闇で過ごす日々は、彼にとって一日が一年にも感じられるほどの苦痛だった。なぜあの時、ただの放蕩息子として収まっていなかったのか。なぜわざわざ啓司と争おうなどとしたのか。昂司は今、そのすべてを激しく後悔

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第1178話

    「そうですね。龍平さんが来れば、黒木グループはさらに混乱するでしょうし、そうなればIMグループが取って代わるのも、ずっと容易になります」と牧野は応じた。啓司は龍平の件についてそれ以上触れるのをやめ、話題を変えて尋ねた。「最近、世隆のほうの状況はどうだ?」「特に変わりはありません。せいぜい飲み食いして遊びほうけているのと、あとは太郎の訴訟対応くらいですね」と牧野が答えた。「何とかして、太郎を勝たせてくれ」「はい」実際、啓司がわざわざ手を回さずとも、牧野は太郎が勝つだろうと見ていた。調べを進める中で、太郎の背後には一貫して拓司の支援があると分かったからだ。拓司が何を企んでいるのかは判然としないが、太郎を全面的に後押しするばかりか、昭子を欺くことさえ厭わない様子だった。そのとき、ドアをノックする音がした。啓司は通話を切り、入ってきた人物を見て、紗枝だと分かった。紗枝は中に入ると、少し疲れた様子で腰を下ろした。「ああ、疲れた」ここ最近、彼女は数歩歩くだけで息が切れ、前の妊娠のときでさえ、これほど疲労を覚えることはなかった。啓司はそれを聞き、彼女の前へ歩み寄った。「揉んであげようか?」彼の手が伸びかけた瞬間、紗枝はすぐに制した。「いいえ、結構よ」紗枝は頬を赤らめ、椅子につかまって立ち上がった。「本当に大丈夫。今日はただ、あなたの顔を見に来ただけだから……もう帰るね」理由は自分でも分からないが、最近は啓司に会うたび、妙な気恥ずかしさを覚える。啓司の手は宙に浮いたまましばらく止まり、やがて静かに引っ込められた。「そんなに早く帰るのか?ほかに用事でも?」紗枝は少し考え、言い訳を探した。「拓司、もうすぐ結婚するでしょう?お義母さんから、いろいろ手伝ってあげてって言われたの」そう言い終えると、紗枝は足早にその場を後にした。啓司は去っていく背中を見送りながら、言葉にできない苛立ちを胸に覚えた。明後日は拓司の結婚式だというのに、天候は思わしくなく、雨が降り続いていた。早朝、冬馬はまた逸之と遊びたいと駄々をこね、昭惠がいくらなだめても耳を貸さなかった。見かねた青葉が口を出す。「子どもは誰だって友達と遊びたがるものよ。あそこまで行きたがっているなら、誰かに連れて行かせましょう」「でも……」昭

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第1177話

    「分かった。早く病院に行って」「ええ」万崎が去った後、拓司は疲れ切った様子でソファにへたり込み、指先でずきずきと痛む眉間を揉んでいた。昭子は彼が戻ってきたと知るや、いてもたってもいられずに尋ねてきた。「拓司、私の母と妹、黒木家にずいぶん長く滞在しているのに、一度もご挨拶に行ってないじゃない」拓司は声に応じて視線を向けた。「君がいるだろう。僕の代わりに、義母さんと妹の世話をしてくれればいい」彼が態度を和らげていると感じた昭子は、思わず嬉しくなり、慌てて彼の腕に抱きついた。「私は私、あなたはあなたよ。婿であるあなたが直接挨拶すれば、きっと母も喜ぶわ」「分かった。明日行こう」拓司がそう答えると、昭子は胸を弾ませた。彼が何でも自分の言う通りにしてくれるのを見て、昭子は思わず拓司のシャツのボタンに手を伸ばした。これほど長く一緒にいながら、まだ拓司にきちんと触れたことがなかった。かつて一度だけ、昭子が密かに薬を盛ったことがあったが、それもすぐに見破られてしまった。ボタンを一つ外した、その瞬間だった。昭子の手首を拓司が強く掴んでいた。「やめてくれ。君はまだ妊娠中だ」「もうすぐ三ヶ月になるわ。大丈夫よ」昭子はそう説明したが、拓司は低い声で言い切った。「子供のことでふざけるな。いいな?」そう言うと、彼は昭子の手を振り払い、部屋に戻ろうと立ち上がった。宙に取り残された昭子の手は、そのまま固まった。度重なる拒絶に、頭の中は混乱していく。彼女は視線を落とし、やがて堪えきれずに問い詰めた。「拓司……あなた、精神的な問題を抱えているんじゃないの?」精神的な問題でないとすれば、肉体的な問題なのだろうか。拓司はもともと体が弱く、以前は海外で治療を受けていた。もしかすると、今も何らかの異常を抱えているのではないか。昭子は拓司を愛していた。しかし、自分に幸せを与えられない男と結婚したいとは思えなかった。寄り添うことさえできない結婚生活など、望むはずもない。拓司の足がぴたりと止まり、彼は振り返って昭子を見た。「今、何て言った?」昭子は手をぎゅっと握りしめ、顔を上げて彼をまっすぐに見据えた。「私たち、もうすぐ結婚するのよ。もしあなたが身体的、あるいは精神的に何か問題を抱えているなら、正直に打ち明けてほし

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第1176話

    紗枝は一瞬戸惑ったものの、すぐに小さく頷いた。「分かったわ。おめでとう」おめでとう?拓司の喉元が、急に詰まったように感じられた。彼はその場に立ち尽くし、しばらく言葉を失ったままだった。そのころ部屋では、逸之が、なかなか戻ってこない紗枝を気にして外へ出てきたところだった。ちょうどそこに、紗枝と、彼が少し苦手にしている拓司が並んでいるのが目に入る。「ママ」逸之は慌てて声を上げた。拓司に助けられたことはあったものの、やはりこの男性にはどこか怖さがあり、ママに危害を加えるのではないかと心配だったのだ。逸之の呼び声を聞いた紗枝は、まるで助け舟を得たかのように、手に持っていた開いた傘をすっと拓司に差し出した。「私、帰るわ」拓司は、まだ温もりの残る傘を握りしめたまま、紗枝の背中が視界から消えていくのを見つめていた。彼の知らぬところで、少し離れた場所には万崎も傘を差して立っていた。しかし、紗枝が拓司に傘を渡すのを見た瞬間、彼女は静かにその傘をたたんだ。拓司を困らせないように、万崎は何も見ていないふりをして踵を返し、その場を去った。時に、愛というものは本当に不思議だ。なぜ縁結びの神は、一本の赤い糸を、ただ二人だけに結びつけることができないのだろう。万崎は、これまでほとんど恋愛経験がなかった。だからこそ、心の奥底でずっと願い続けてきた――互いに想いを寄せ合い、自然に歩み寄れる相手と巡り会いたい、と。だが、その願いはあまりにも遠く、あまりにも叶いそうになかった。拓司の心の中には、常に紗枝がいた。海外で病気の治療を受けていたときでさえ、意識不明の中で呼び続けていた名前は「紗枝」だった。それは一度として変わらなかった。皮肉なことに、彼が長年深く愛してきたその人は、すでに別の男と結婚し、別の男を愛している。世の中は、なんと残酷なのだろう。万崎は傘をゴミ箱に捨て、雨に濡れながら帰路についた。明後日は、拓司と昭子の結婚式だった。昭子は拓司を探し出し、同じ部屋に泊まろうとした矢先、そこに万崎の姿を見つけた。「万崎さん、言ったでしょう?あなたはただの秘書にすぎないの。プライベートでは、自分の場所に戻るべきよ」万崎は雨に濡れたまま、簡単に着替えただけの姿で頭を下げた。「この数日、結婚式の準備でとても忙しく……

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第1175話

    万崎は、拓司が本を一冊手にしたまま、すでに三十分以上が過ぎているにもかかわらず、いまだ最初のページから先へ進んでいないことに気づいていた。「拓司様、先にお休みになられてはいかがですか」拓司ははっと我に返り、「いや、いい」と短く答えた。彼は本を閉じ、立ち上がった瞬間、強いめまいに襲われた。万崎は慌てて彼の身体を支えた。「拓司様……」万崎の瞳には、はっきりとした不安の色が宿っていた。彼女はよく分かっていた。拓司が昭子と結婚したくはないこと、しかしそれでも、そうせざるを得ない立場に追い込まれていることを。結局のところ、今の拓司が黒木グループの社長の座を揺るぎないものにするためには、昭子の存在しか頼れるものがないのだ。拓司の瞳は一瞬、深く沈み込んだが、やがて静かに落ち着きを取り戻した。彼は万崎を振り返り、穏やかな声で言った。「驚かせたね。心配をかけた」万崎は苦笑し、首を横に振った。「拓司様、もう慣れっこですよ」そして、目に涙を浮かべながら続けた。「拓司様、まだ間に合います。もし結婚したくないのでしたら、綾子様にそうお伝えください。きっと分かってくださいます。黒木グループの社長の座なんて、誰が就こうと構わないじゃありませんか。どうかご自分の身体を第一に、家でゆっくり休んでください。ね、いいでしょう?」拓司はそれを聞き、思わず微笑んだ。「ばかな子だな。世の中には、望まなくても背負わされるものがあるんだよ。どうして分からないんだい?それに、別に悲しいわけじゃない。結婚も、悪いものじゃないさ。誰だって、いつかは結婚する。君だって、そうだろう?」万崎は鼻をすすりながら、きっぱりと言った。「私は、絶対に結婚しません」好きな人と結ばれることもできず、まして自分を想ってくれる人と共に生きることもできない。そんな人生なら、結婚など一生しないだろう。「また、ばかなことを言って」拓司は困ったように笑い、ふと万崎に尋ねた。「……最近、紗枝は何をしている?」万崎は、拓司が以前から紗枝を気にかけていることを知っていた。そのため、密かに人を使い、彼女の動向を見守らせていたのだ。万崎は、紗枝が最近、昼間は子供の世話をし、夜になると啓司のもとを訪れているという話を、包み隠さず伝えた。「紗枝さんは、啓司

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第966話

    紗枝は、まさかこんな展開になるとは夢にも思っていなかった。エイリーともう少し話を続けたいと思っていたそのとき、ふと入口に夢美と鈴の姿があることに気づいた。鈴は夢美のために、必死にドアをノックしていた。紗枝は電話を切り、立ち上がってドアの方へ歩み寄った。「お義姉さん、昼間からオフィスのドアを閉め切ってどうしたの?人に知られたくないことでもあるの?」鈴は夢美の横に立ち、遠慮のない口調で言い放った。「あなたに何が分かるっていうの?ただ、礼儀知らずの野良猫や野良犬が入り込んでこないようにしてるだけよ」紗枝も負けじと、嫌味を込めて言い返す。罵り合うくらいなら、誰にだってで

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第953話

    紗枝がそう口にすると、また新たな迷いが胸に差し込んできた。「でも……もし見えなくなったら、子供たちの面倒をちゃんと見られるかどうか分からない……」言いながら、ふと啓司がすでに視力を失っていることを思い出し、彼が急に落ち込んでいるのだと気づく。そこで続けて言った。「でも、あなたは違うわ。たとえ今は見えなくても、多くの人よりはるかに優れていると思う。だから、あまり考えすぎないで」啓司は黙ってその声に耳を傾けていた。「うん……仕事に戻りなよ」彼は短く答える。「ええ」紗枝はそれでも心配が拭えず、いたずらっぽく言葉を添えた。「もう、変なこと考えないで。いい子にしててね」通

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第972話

    「じゃあ、あなたたちはこれからもダラダラ過ごすつもり?サボり続ける気なの?」紗枝は先ほど彼らが見せた怠惰な態度を指摘するように言い放った。先ほど強気に反論していた男たちでさえ、今は言葉を濁している。「お金を稼ぐのは、自分自身のためです。約束しましょう。十日以内に、私は必ず営業五課の課長になります。もし今月から本当に収入が欲しいなら、しっかり働くことです。私はあなたたちに何かを手伝ってほしいわけではありません。それぞれ自分の仕事をきちんと果たし、私に迷惑をかけなければ、それで十分です」そう告げると、紗枝は迷いなく部屋を後にした。残された一群の人々は呆然とし、しばし言葉を失った

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第955話

    人々はついに理解した。なぜ紗枝があれほど気前よく、惜しみなく振る舞えるのかを。彼女が配ったものは、どれも一流品であり、最高級の品々ばかりだったのだ。羨望の眼差しが一斉に注がれる中、紗枝は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。オフィスのざわめきがまだ冷めやらぬ頃、拓司が戻ってきた。彼のデスク前にも、ミルクティーや菓子が山のように置かれているのを見て、怪訝な顔をする。「これは……誰が置いたんだ?」万崎が即座に答えた。「先ほど外で話を耳にしました。どうやら啓司様が手配なさったようで、各部署に一斉に配られているようです」拓司の表情に微かな翳りが走る。啓司の名を聞いた

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status