明一は口を滑らせた瞬間に後悔したが、一度大口を叩いた以上、引き下がるわけにもいかない。そこで、彼は景之をこっそりと啓司の住む家の側門へ、静かな小道を通って連れて行った。到着すると、明一は緊張しながらも得意げな顔をして言った。「見たか?これが僕のおじさんの家だ」景之は東側の部屋に目を向けた。豪華な内装が施されており、柱は金絲楠木(きんしなんぼく)でできていた。すると、突然景之は腹を押さえた。「ああ、腹が痛い。トイレに行かなきゃ」そう言い終わるや否や、明一が反応する前に、景之は東の部屋に向かって走り出した。「そっちに行っちゃダメだ!そこはおじさんの部屋だ!」と明一は慌てて叫んだが、ちょうどその時、家政婦が出てきた。家政婦は明一を見て、少し咎めるように言った。「明一坊ちゃん、どうしてここにいらっしゃるのですか?黒木社長は子供が好きではないんです。早くお帰りください。さもないと、私が彼に知らせますよ」明一は景之の姿が見えなくなったことに焦り、家政婦が本当に啓司に電話をかけるのを恐れて慌てて逃げ出した。去り際に、彼は舌を出して家政婦に向かって言った。「覚えておけよ。俺が大きくなったら、お前なんか辞めさせてやる!」家政婦は軽蔑的な笑みを浮かべた。「この子が大きくなる頃には、私はとっくに辞めているよ」彼女は掃除を続けるために戻っていったが、とある子供がすでに啓司の寝室に忍び込んでいることに気づかなかった。啓司の住んでいる部屋は、彼の性格を反映するかのように、冷たい色で統一され、完璧に整えられていた。景之は部屋に入ると、ろくでなしの父親やその偽物に関する証拠を探し始めた。しかし、結局何も見つけられなかった。彼が部屋を出ようとしたその時、階下から足音が聞こえてきた。景之は急いで、クローゼットの後ろに隠れた。足音は次第に近づいてきて、景之は男がスリッパを履いて部屋に入ろうとしているのを目にした。彼は思わず口を押さえた。部屋に戻ってきた拓司は、部屋を見渡し、テーブルの上に置かれた本の位置が少しずれていることに気づいた。彼は状況を理解したようで、目線をクローゼットの端に向けた。そこから、小さな手が少し見えていた。拓司はその手を見て、一歩後退し、部屋に入らず、ドアを閉めてから家政婦に言った。「30
「唯おばさん、またノックしないで入ってきたの?」景之は頬を膨らませて怒った表情をしていた。「あ、ごめんね、また忘れちゃった」唯は近づいて、「景ちゃん、君が約束してくれたこと、まだ覚えてる?」景之はため息をついて言った。「もちろん覚えてるよ。君の息子になって、前の彼氏に復讐することだろ?僕、復讐は得意なんだ。もし必要なら、君に新しい旦那さんを探して、僕に新しいパパを見つけてあげるよ」唯は目を大きく見開いて彼を見つめた。「本当に?」景之は、唯おばさんが本気にしているとは思わなかったが、自分のおばさんの幸せのため、胸を叩いて宣言した。「もちろんさ、その人は君の前の彼氏より絶対にいい人だよ」「それにはいくらかかるの?」唯は真剣に尋ねた。彼女は、実言よりもハンサムな男性を見つけるには、それなりの費用がかかるだろうと考えていた。まさか景之がこんなに若くして、そそんなルートを持っているなんて、驚きだ。「その心配はいらないよ。さ、もう寝よう。おやすみなさい」景之は布団をかぶって寝たふりをした。唯はため息をつき、「おばさんの幸せは全部君にかかってるのよ。彼ら、来週結婚しちゃうんだからね」彼女はブツブツ言いながら部屋を出て行った。彼女が出て行った後、景之は少し悩み始めた。彼も唯おばさんから、実言がとてもハンサムだと聞いていたが、実際に彼を見たことはなかった。唯おばさんのことだから、あまり期待しすぎない方がいいかもしれない。どうやら、彼は時間を作って、じっくり探す必要がありそうだ。…桑鈴町。寒さが増す中、出雲おばさんの体調も日々悪化していった。紗枝にできることは、ただ彼女に寄り添うことだけだった。しかし出雲おばさんは彼女を心配し、この日突然こう言った。「紗枝、三丁目の餃子屋の餃子を食べたいわ」「分かったわ、すぐに出前を頼むね」紗枝はスマホを取り出した。しかし出雲おばさんは彼女を止めた。「紗枝、出前じゃ冷めてしまうわ。直接お店に行って買ってきてくれないかしら?」出雲おばさんは滅多に紗枝にお願いをしない。紗枝は何度もうなずき、「分かった。すぐに行ってくるわね」「必要なことがあれば、啓司に手伝ってもらいなさいね」彼女は遠慮なく言った。「ええ、分かってる」紗枝を送り出すと、出雲おばさんの顔から
啓司は出雲おばさんの話を聞き終わると、すぐにキッチンから出て行った。出る途中で、「ドン」と音を立てて腕がキャビネットにぶつかり、並べてあった瓶や小物が床に散乱し、そのうちの一つが彼の手に直撃した。彼のきれいな手が、瞬く間に青黒く腫れた。啓司は気にも留めなかった。ここ数日で、彼はこの場所の配置をすべて覚えていたが、物の位置が変わることもある。外に出る際、何度かテーブルや椅子にぶつかりながらも、ようやく外に出た。外に出るとすぐに牧野に電話をかけて、車を出すよう頼んだ。牧野が来るのを待つ間、彼は初めて、普通の人と目の見えない人の違いがどれほど大きいかを痛感した。もし目が見えていれば、すぐに車を出して紗枝を探しに行けたのに、今は牧野を待つしかない。牧野が住んでいるところは、ここから車で五、六分ほどの距離にあった。彼は遠くから雪の中に立っている啓司を見て、紗枝に追い出されたのかと思い、急いで傘も持たずに駆け寄った。「社長、どうされたんですか?」電話ではただ急いで来るように言われただけで、理由は聞いていなかった。「3丁目にある餃子屋に向かってくれ」「かしこまりました」桑鈴町3丁目には唯一の餃子屋があり、いつも混んでいて並ばなければならないほどの人気だった。紗枝がそこに着くと、すぐに番号札を取って座席を見つけて腰を下ろした。しばらくすると、黒いコートを着た男性が彼女の前に立った。「紗枝」紗枝が顔を上げると、辰夫の魅惑的で美しい顔が目に入った。「辰夫、なんでここにいるの?」「君が出雲おばさんに電話して、この辺りの餃子が美味しいって教えてくれたんじゃなかったか?」と辰夫は尋ねた。紗枝は一瞬言葉に詰まった。どうやら出雲おばさんは餃子が食べたいわけではなく、自分と辰夫を引き合わせるためだったらしい。彼女も辰夫には本当のことを言わず、「そうだった、忘れてた」と言ってごまかし、「少し待って、私がご馳走するよ」と長い列を見て微笑んだ。「いいよ」辰夫は穏やかな表情で、すぐに頷いた彼もまた、出雲おばさんの意図を理解し、それに従うつもりだった。餃子屋の中は満席で、紗枝と辰夫は外の歩道沿いで待つことになった。紗枝は手を擦り合わせて寒さをしのぎながら、「昔からここは人が多かったけど、今
餃子屋の入口。紗枝は、辰夫の頬に触れていた手を慌てて引っ込め、「あれは子供の頃のことよ。あの頃は何もわかっていなかったから」と言った。幼い頃、彼女は男女の違いなんてまったく分かっていなかった。それに、当時の辰夫はぽっちゃりしていて自分より背も低かった。彼女は彼を弟のように思い、出雲おばさんが美味しいものを作ると、いつも辰夫にも持って行っていた。しかし今、目の前には自分よりも一つ頭が高く、凛々しい顔立ちの辰夫がいる。さらに、彼の周囲には堂々とした気高さが漂い、簡単に手出しできる雰囲気ではなかった、とても小娘が手で顔を冷やせるような雰囲気ではなくなっていた。辰夫の深い瞳には、紗枝が遠慮がちな態度を取っている姿が映り、その目にはわずかに寂しげな色が見えた。「実は、今でも僕の前では無理にしっかりする必要なんてないんだ」辰夫は幼い頃の冬、寒さに震える自分に、紗枝が密かに服や毛布、食べ物を持ってきて、いつも元気づけてくれたことを忘れていない。もし紗枝がいなかったら、誰かに殺されるどころか、飢えや寒さで命を落としていたかもしれない。しかし紗枝は首を横に振り、「誰だってしっかりしないといけないのよ。子供っぽいと、嫌われやすいもの」と答えた。以前、彼女はまだ未熟で、しっかりしていなかったため、愛していない人と結婚し、見下される結果となった。辰夫は、かつて桑鈴町を離れる時に、どうして紗枝を連れて行かなかったのかと後悔し始めた。あるいは、彼女が結婚する前に戻ってきていれば......もっと早く会えて、啓司と結婚する前に見つけてたら、彼女もこんなに気を遣うことはなかったはずだ。そう考えながら、辰夫は紗枝に少し近づき、ふと口を開いた。「紗枝、僕たち......」一緒に、ならないか。その言葉を口にしようとした瞬間、遠くから冷たく馴染みのある声が響いた。「紗枝ちゃん」紗枝が声の方に目を向けると、啓司と牧野が少し離れた場所に立っていた。牧野は怒りに満ちた目でこちらを睨んでいる。啓司はまっすぐ紗枝の方に歩いてきて、視力がないはずなのに、彼女の手をしっかりと握りしめた。「紗枝ちゃん、餃子買うのにどれだけ時間かかってるんだよ?」「すごく心配してたんだよ」彼は見えていないはずなのに、あえて紗枝の隣に辰夫がいるこ
紗枝は啓司の腰をつねる手にさらに力を入れ、声を低くして言った。「黙っていれば、誰もあなたを口下手だなんて思わないわよ」啓司は痛みを感じていないかのように振る舞い、辰夫に向かって言った。「池田さん、申し訳ないが、今夜は妻と二人での夜を過ごす予定があるので、家に招待するのは控えさせてもらいます」夜の夫婦生活......辰夫の整った顔が少しこわばった。啓司がわざと自分を怒らせようとしているのは明らかだったが、それでも感情を抑えるのが難しかった。一方、牧野は最初、自分のボスが冷遇されるのではと心配していたが、今やっとほっとした。周りで並んでいた人たちは時折こちらを見ており、最初は紗枝と辰夫がカップルだと思っていたが、どうやら啓司こそが紗枝の夫だと気づいたようだった。紗枝はそんな周囲の奇妙な視線を感じながら、餃子を買った。紗枝は辰夫にご馳走すると約束したので、餃子を一つ買って渡した。「じゃあ、私は先に帰るね」「またね」辰夫は紗枝が立ち去るのをじっと見送った。......牧野が自分の車に乗ると、紗枝と啓司は紗枝の車に一緒に乗り込んだ。隣に置いた熱々の餃子が湯気を立てていたが、車内の空気は冷え切っていた。紗枝はすぐに車を発進させるのではなく、まず啓司がずっと自分の手を離さないことに気づき、その手を振り解いた。「どういうつもり?」と彼女は冷たい声で言った。啓司の手は解かれたが、彼は一言も返事をしなかった。その態度に紗枝はますます怒りが込み上げ、「なんで急に私を探しに来たの?誰があなたと夜を過ごすなんて言ったの?」と問い詰めた。しかし啓司は相変わらず口を閉ざし、美しい顔には抑制の色が浮かんでいた。「話しなさいよ!さっきはあんなにおしゃべりだったじゃないの!」と紗枝がさらに問い詰めたその瞬間、啓司は彼女を強引に自分の腕の中に引き寄せた。彼は紗枝をぎゅっと抱きしめ、彼女の頭を自分の胸元に押し付けて言った。「紗枝ちゃん、僕は今、すごく怒ってるから話したくない」紗枝は一瞬、呆然として彼を見上げた。理由もなく突然彼が現れ、辰夫の前であんな妙なことを言っておきながら、今さら怒っていると言うのだ。「何に怒ってるの?」啓司は喉を詰まらせ、「わかってるくせに」と答えた。病院で目覚めて以来、啓
夜更け。紗枝は出雲おばさんの世話をしてから、自分の部屋で横になった。眠りに入って間もなく、背後から突然誰かに抱きしめられた。「紗枝ちゃん」啓司がいつの間にか部屋に入ってきて、一方の腕で彼女をしっかりと抱きしめ、もう一方の手を彼女の下腹部に添えた。「啓司、あなた何してるの!?」記憶を失っても、相変わらず夜中に人の部屋に忍び込む癖は直っていないらしい。啓司は最初、彼女に触れるつもりはなかった。しかも妊娠初期だから尚更控えるべきだと分かっていた。だが今日、紗枝が密かに辰夫に会っていたことや、牧野から聞いた話を思い出すと、彼の唇は彼女の耳元に落ちた。熱い吐息が紗枝の首筋をくすぐり、彼女は思わず震えた。「啓司、やめて!」言い終わると、彼女は隣の部屋で眠っている出雲おばさんに気づかれないように、口元を押さえた。部屋には灯りがなく、啓司は裸のままで現れたらしい。雪の反射する薄明かりの中で、彼のたくましい上半身がうっすらと見えていた。「すぐに…ここから出て行って」彼女は恐怖で声が震えた。啓司は彼女の耳元で低く囁いた。「もし君が望むなら、こっそり僕にだけ伝えて。誰か他の男を頼るのは許さない」「早く行って!」紗枝は布団をしっかりと身体に巻きつけ、中に縮こまった。啓司が部屋を出て行く際、紗枝は彼の腰に自分がつねった青黒い痕がまだ残っているのを目にした。以前は、啓司が記憶喪失で視力も失っていることから、彼女は彼を簡単に扱えると思っていたが、今になって啓司が失った記憶によって、かえって彼が手に負えない存在になっていると感じた。記憶を失う前の啓司は、どれほど反骨精神が強く、いつも他人を見下ろしているような、施しを与えるような態度だったか。でも、記憶を失った今の彼は、まるで図々しい別人みたいだ。啓司がまた戻ってくるのを防ぐため、紗枝は寝る前にドアに鍵をかけ、さらにタンスでドアを塞いだ。一晩中、彼の言葉が頭から離れず、ろくに眠れなかった。ようやく眠りに落ちた時、紗枝は夢の中で、大海に漂う小舟のように波に流される自分を見た。目が覚めると、額には冷や汗が滲んでいた。スマホを手に取ると、もう10時だった。幸いにも、出雲おばさんは最近毎朝遅く起きる習慣になっていた。紗枝が起き上がろうとしたとき、辰夫からメッ
紗枝は家を出る前に、啓司をたっぷり叱りつけた。今の啓司は、彼女にどれだけ言われても怒ることはなく、ただ黒曜石のような目で無邪気に見つめ返してくるだけだった。彼が目が見えないと分かっていても、紗枝はどこか落ち着かなかった。病院内にて。逸之は、兄から父が今家に住んでいて、数日前に事故に遭って視力を失い、他人に身分を奪われたことを聞いた。「自業自得だよ」と逸之は怒りを込めて言った。一方、隅で電話をしていた景之も、「そうだね、まさに因果応報だ」と同意した。「でも、僕たちの手でやり返せなかったのはちょっと残念だけどね」と逸之はため息をついた。彼はふと何かを思いつき、すぐに兄に伝えた。「お兄ちゃん、今日、辰夫おじさんとママが一緒に僕を見舞いに来てくれるんだ。二人をくっつけるのって、どう思う?」辰夫おじさんがママにどれだけ良くしてくれていたか、国外にいた時から兄弟二人はよく分かっていた。辰夫おじさんには啓司のような過去の恋人もおらず、しかもママとは幼なじみ。最も相応しい相手だと思っていた。逸之は、出雲おばあちゃんも辰夫が気に入っていることを知っていた。一方の景之は少し考え込んだ後、「でも、ママはどう思ってるのかな?」と尋ねた。「ママも辰夫おじさんが好きに決まってるよ。ただ、恥ずかしがってるだけさ。今日は僕が二人の気持ちをはっきりさせてあげる」と逸之は自信満々に返事をした。「わかった」と兄も承諾した電話を切った後、逸之は病室のベッドで退屈そうに横になり、紗枝と辰夫が来るのを待っていた。昼頃。辰夫と紗枝が続けて病室に現れると、逸之はすぐに甘えた声を出した。「ママ、どうして逸ちゃんを家に連れて帰ってくれないの?一人でここにいると、ママやお兄ちゃん、それにおばあちゃんにも会えなくて寂しいよ......」紗枝は、うるうるした瞳で見つめてくる逸之に心を締め付けられ、胸が痛むようだった。「ごめんね、逸ちゃん」医師によると、逸之はまだ年が小さいので、入院して常に観察していた方が、手術に備えて病状を安定させやすいと言われていた。逸之は母親に抱きつき、「ママ、今日は辰夫おじさんと一緒に外で遊びたい」と頼んだ。紗枝は彼を断りきれず、辰夫に目を向けた。「辰夫、今日の午後、予定はない?」「ないよ。逸ちゃんと
三人は雪の中を歩き、まるで本物の家族のようだった。紗枝は辰夫に手を引かれているせいか、手のひらにじんわり汗をかいていた。ようやくレストランに到着し、食事を始める前に、辰夫もようやく彼女の手を離した。逸之は二人に少しでも二人きりの時間を作ろうと、店員に頼んでトイレに案内してもらった。彼が席を外すと、紗枝はすかさず謝罪した。「ごめんなさいね。逸ちゃんは父親の愛情を感じたことがないから、あんなふうに言っちゃって......」まだ結婚もしていない辰夫に他人の父親役をさせることなど、普通なら喜ばしいことではない。しかし辰夫はまったく気にしていなかった。「いや、僕はむしろ嬉しいよ」それを聞いて紗枝は少し安心した。逸之の話題が一段落すると、辰夫は昨日のことを思い出して言った。「啓司が君の家にいること、どうして教えてくれなかった?」その一言を口に出した瞬間、自分に聞く資格があるのかと少し後悔した。紗枝はあまり深く考えず、離婚を望んで自ら浮気を装い啓司に離婚を求めたことや、綾子に脅迫されたことについて話し始めた。「浮気相手って誰のこと?」と辰夫は彼女の話に引っかかりを感じた。紗枝は耳まで赤くなり、恥ずかしそうに答えた。「特定の名前は出していないの。でも啓司はそれがあなたと思っていたの」彼女は前に置いた手を少し握り、掌をぎゅっと掴んだ。辰夫は思わず微笑み、グラスの水を一口飲みながら、目に光が浮かんでいた。「それなら、今日からはその役をしっかり務めようかな」紗枝は照れくさくなり、話題を変えるために立ち上がった。「逸ちゃん、トイレが長すぎるわね。探しに行ってくる」実は、逸之はずっと入口付近に隠れていて、二人が話をやめるのを待っていた。そして、まるで用を足したばかりかのように、タイミングよく戻ってきた。「パパ、ママ、戻ったよ!」彼が戻ったことで、その場の雰囲気も一層明るくなった。食事が終わると、逸之は紗枝と辰夫に頼んで、ゲームセンターに連れて行ってもらいたいと言った。ゲームセンターの中には多くのカップルや、子供を連れた親たちもいた。彼らが到着すると、逸之はすぐにカップル向けのイベントが目に入り、その賞品がとても大きなパンダのぬいぐるみであることに気づいた。「ママ、パパ、あれが欲しい!」と逸之が
雷七が逸之を迎えに行った帰りだった。逸ちゃんは二人に向かって大きく手を振り、こっそりと写真を撮った。そしてすぐに景之に送信。写真を受け取った景之は眉間にしわを寄せた。「くそっ」あいつ、こんなに早くママを落としたのか?逸之は更にメッセージを送る。「お兄ちゃん、これからはパパって呼ばないとだめだよ」「うるさい」景之は一言だけ返した。啓司なんか、絶対にパパなんて呼ばない!和彦は居間で水を飲みながら、景之の険しい表情が気になり、覗き込んでみた。途端に、喉に詰まった水を吹き出しそうになった。啓司さんが紗枝さんを背負っている?まさか、これには衝撃を受けた。あの黒木啓司が女性を背負うなんて。きっと鞄すら持ったことがないはずなのに。こっそり写真を撮ろうとした和彦だったが、指が滑って、仲間内のグループに送信してしまった。気付かぬうちに、啓司の親しい友人たちのグループは大騒ぎになっていた。祝福のメッセージが次々と届き、中には祝い金まで送る者も。「啓司さん、本当の愛を見つけましたね」かつて聴覚障害者を見下していた啓司が、なぜ今になって惹かれたのか。誰も理解できなかったが、皆、心からの祝福を送った。グループは瞬く間に祝福の言葉で溢れた。親友の花山院琉生もその投稿をじっと見つめていた。啓司は私事を公にすることを極端に嫌がる。和彦の行動を、啓司は知っているのだろうか。牡丹別荘に着くと、紗枝は急いで啓司の背中から降りた。逸之も車から降り、三人で歩いて帰ることにした。夜道を歩く三人の姿は、まるで幸せな家族のようだった。家に戻った啓司は、友人グループに大量のメッセージが届いていることに気づいた。音声を再生すると、祝福の言葉が次々と流れてきた。状況が呑み込めない啓司は、和彦に電話をかけた。和彦はその時になって、うっかり写真をグループに送信してしまったことに気付いた。今さら取り消すことはできない。「あの、ただみんなが啓司さんと奥様のことを祝福してるだけです」「突然、なぜだ?」「……」「話せ。何があった」重圧に耐えかねた和彦は、観念して話し出した。「お二人の写真を、グループに送ってしまったんです」「でも、私が撮ったんじゃありません。逸ちゃんが景ちゃんに送ったのを見て……」啓司の眉間に
啓司は紗枝がまた逃げ出すのではないかという直感から、差し出されたカードを受け取ろうとはしなかった。「もう使ったの。幼稚園の株式を買ったから。それに、他に使い道もないし……私、自分で稼いで使いたいの」紗枝が説明すると、啓司の表情が僅かに和らいだ。「お前の金はお前の金だ。俺が渡すのは、また別物」一呼吸置いて、啓司は続けた。「夫なら妻に資産を任せるのは当然だろう。俺がどれだけ持ってるか、知りたくないのか?」好奇心を抑えられない紗枝が尋ねる。「じゃあ、いくら?」啓司の唇が緩む。「数え切れないぐらい」なんて曖昧な答え。紗枝は呆れた表情を浮かべた。啓司は自然な仕草で紗枝を抱き寄せると、囁いた。「紗枝、近々プレゼントがある」「そんな……」思わず口にした断りの言葉。「断らせない」啓司の声が紗枝の言葉を遮った。紗枝は再び言葉を失った。結局、啓司の強引さに負けた紗枝は、デートに連れ出されることになった。まさか遊園地とは……妊婦の自分を遊園地に連れて行くなんて。この人のデート観は少し問題ありじゃない?最終的に、メリーゴーラウンドとジェットコースターに乗っただけで終わった。その夜、二人は映画を見に出かけた。都心の一等地にある映画館を完全貸し切りにしていたため、映画を楽しみにしていた客たちは、ショッピングモールの入り口で足止めを食らっていた。「昔はよく映画を見たがってたな。これからは毎週映画でもどうだ?」啓司が尋ねると、紗枝は首を振った。「家で見る方がいいんじゃない?外で見ても、あなたは映像が見えないし、音声だけでしょう。家なら音量も調節できるし、人目も気にならないわ」「ああ、お前の言う通りにしよう」素直な返事に、紗枝は薄暗い中で啓司の整った横顔を見つめた。思わず手を伸ばし、彼の顎に触れる。その瞬間、啓司は紗枝を強引に抱き寄せた。「や、やめて。監視カメラがあるわ」「全部外させてある。大丈夫だ」「ダメ!こういうの嫌」紗枝は必死で抵抗した。啓司は動きを止めた。「さっきは誘ってたんじゃ……」さっきの紗枝の仕草を誘いだと勘違いして、つい……牧野から、女性は恥ずかしがり屋だから、暗示的な表現をすることがあると聞いていたので。「誘ってなんかないわよ!何考えてるの?ここ外なのよ」紗枝は耳まで
紗枝は抵抗せず、天井を見つめながら、啓司に話しかけるような、独り言のような口調で続けた。「今でも分からないの。なぜあんなに私を憎んでいたのか……」「昔は、女の子が嫌いなのかと思ってた。冷血な人なんだって。でも今日見たの……」「病気で苦しいはずなのに、昭子にバッグを届けようとしてた。昭子が自分のことを嫌がってるって聞こえてたはずなのに、聞こえないふりをして……」「あんなに卑屈な様子、母らしくないわ」啓司は紗枝の手を強く握りしめた。「俺がいる」「もう怒ってないの?」紗枝は啓司の方を振り向いた。「相殺しないか?」啓司は問い返した。「相殺?」「俺が三年間冷たくした分と、お前が子供を連れて四、五年離れていた分。相殺して、やり直せないか?」啓司の声は静かに、しかし切実に響いた。紗枝は喉に込み上げるものを感じながら、啓司に向き直って抱きついた。突然の抱擁に啓司の体が強張る。やがてゆっくりと腕を回し、より強く紗枝を抱き寄せた。自制を効かせながら、紗枝の眉間に軽くキスを落とす。喉仏が微かに動いた。「これからは何かあったら、すぐに俺に言ってくれ。また突然いなくなるのは……」返事の代わりに、紗枝は顔を上げ、啓司の喉仏に唇を寄せた。その瞬間、啓司の理性は崩れ落ち、紗枝を押し倒した。......翌朝、朝食を済ませても両親が起きてこないことに、逸之は首を傾げた。声をかけようと部屋に向かおうとしたところを、家政婦に制された。「逸之ちゃま、お父様とお母様は昨夜遅くまでお休みになれなかったので、起こさない方が……」家政婦の部屋からは主寝室の明かりが見えるため、そう察していたのだ。「おばさん、母さんと父さん、昨日は一緒に寝たの?」逸之は小声で尋ねた。「ええ、主寝室の明かりだけでしたし、他のお部屋も使った形跡がありませんでした」昨夜は早く寝てしまい、両親を同じ部屋に寝かせるのを忘れていた逸之。でも両親が自然と同じ部屋で……まあ、毎日一緒に暮らしてるんだし、若い二人が……「おばさん、学校行ってきます!」逸之は嬉しそうな表情を浮かべながら手を振った。「いってらっしゃい」昼過ぎになってようやく目を覚ました紗枝は、昨夜のことを思い出して頬が熱くなった。何がそうさせたのか、啓司と話しているうちに、気付けば…
自分が愛だと思い込んでいたものの為に、本当に自分を愛してくれていた人を捨ててしまったことへの、深い後悔が。「あなた、私のことを恨んでいるでしょうね」涙を拭いながら、美希は呟いた。世隆は本当に忙しいのだ、昭子だって用事があるから付き添えないだけ——そう自分に言い聞かせた。ふと、スマートフォンを開いているうちに、古い家族グループを覗いていた。紗枝、太郎、自分、そして夫。四人家族のグループだ。そこには、夫が他界する直前に送ったメッセージが残されていた。「美希、娘の結婚式、このスーツで格好いいかな?」紗枝「お父さん、すっごくかっこいい!」美希「ダサすぎ」「じゃあ、別のにして驚かせるよ」これが、グループでの彼の最後の言葉となった。さらに上へとスクロールしているうちに、紗枝とのプライベートメッセージが開かれた。自分の命と引き換えに育ての恩を返した紗枝とのやり取りは、それ以来途絶えたままだった。スクロールしていくと、六年前の紗枝からのメッセージが目に入った。「お母さん、お誕生日おめでとう。今日買ったケーキ、食べた?」「お母さん、怒らないで。体に毒だよ。風邪引いてるみたいだから、梨の氷砂糖煮作ったの」「お母さん、離婚したい。もう人に頼らなくても大丈夫」「お母さん、私が働いて養うから。心配しないで」それらの温かなメッセージに対する自分の返信は、どれも冷たいものばかりだった。かつての紗枝からのメッセージを眺めながら、美希の脳裏には、幼い頃から今までの紗枝の姿が次々と浮かんでいった。母がバレリーナだと知った紗枝は、人一倍の努力を重ねた。ステージで踊る姿を見せて、母である自分を誇らしく思わせたいという一心で。今でも覚えている。舞台から降りてきた時の、血豆だらけの足を。あの旅行の時も。山で綺麗な花を見つけた自分が一言感心しただけで、紗枝は危険も顧みず摘みに行って、あわや足を折るところだった……数え切れないほどの思い出が押し寄せてきて、美希は慌ててスマートフォンの電源を切った。「あんな恩知らずのことなんて考えることないわ。所詮他人の子じも」「聴覚障害者なんて、何の才能も実績もない子が、どうして私の娘になれるっていうの?」独り言を呟く声が、空しく病室に響いた。布団に潜り込んでも、なかなか眠れない。
美希が一人で歩き出すと、後ろで介護士たちが小声で話し始めた。「可哀想に。あんな重い病気なのに、旦那さんも息子さんも来ないなんて。娘さんだってちょっと顔を出すだけで」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」「お金があっても、幸せとは限らないわねぇ」後ろの介護士たちの会話が耳に入り、先ほど病院の入り口で昭子が言っていた言葉が脳裏に蘇った。「何を勝手なことを!」突然、美希は激しい口調で言い放った。「私の夫がどれだけ私を愛しているか。息子だって仕事が忙しいだけよ。娘だって毎日私のことを心配して見舞いに来てくれる」「あなたたち、ただの妬みでしょう!」介護士たちは即座に口を閉ざし、それ以上何も言えなくなった。病室のベッドに横たわった美希の耳には、先ほどの昭子の嫌悪に満ちた言葉と、介護士たちの心無い噂話が繰り返し響いていた。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」プライドの高い美希が、娘の本心を認めるはずもなかった。それに、全ての望みをこの娘に託し、二度と踊らないという誓いさえ破り、夏目家の財産を鈴木家に譲るところまでしたのだ……美希は携帯を手に取り、世隆に電話をかけた。しばらくして、やっと通話が繋がった。「また何かあったのか?」苛立ちの混じった世隆の声。その語調に気付かない美希は尋ねた。「あなた、まだ仕事?いつ来てくれるの?一人は寂しいわ」「言っただろう?会社でトラブルがあって、今は本当に忙しいんだ。介護士も二人つけてやっただろう?暇なら彼女たちと話でもしていろ」美希が何か言いかけた時、世隆は一方的に電話を切った。かつての美しい妻が、今や病に侵された中年女性となった美希に、世隆はもはや一片の関心も示さなくなっていた。華やかな女性秘書が世隆の傍らで微笑んだ。「社長、そんなにお怒りにならないで」胸に手を当てて、なだめるように軽く叩く仕草に、世隆は秘書の手を掴んだ。「あの女が死んだら、君と結婚しようか?」二人の笑い声がオフィスに
太郎の言葉に、拓司は平静を保ったまま答えた。「紗枝さんの選択は、尊重すべきだ」今や太郎は、姉を拓司のもとに無理やりにでも連れて行きたい気持ちでいっぱいだった。「拓司さん、ご存じないでしょう。姉が啓司と結婚した時、あいつは義父の家を助けるどころか、逆に潰しにかかったんです。夏目家を破滅させたのは、あいつなんです」太郎には、夏目家の没落が自分に原因があるとは、今でも思えていなかった。かつて母親が黒木家に金を無心しに行ったことも、自分が会社と父の遺産を手放してしまったことも、すっかり忘れてしまっているようだった。「心配するな。これからは私がしっかりと支援しよう」拓司は静かに告げた。太郎は感極まった様子で大きく頷いた。きっと一流の実業家になって、自分を見下してきた連中を見返してやる――......一方、電話を切られた昭子は、激しい怒りに駆られていた。息子なのに母親の面倒も見ない太郎。なぜ娘の自分が世話をしなければならないのか。昭子は携帯を取り出し、父親の世隆に不満を漏らそうとした。しかし、昭子がバッグを忘れたのを気にした美希は、痛む体を押して追いかけてきていた。そして、昭子の言葉が耳に入った。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「あの人の財産がなければ、とっくに……」言葉の途中で振り返った昭子は、すぐ後ろに立ち尽くす美希の姿を目にした。慌てて電話を切り、作り笑いを浮かべる。「お母さん!どうして出てきちゃったの?まだ歩いちゃいけないって……」昭子は心配そうに駆け寄った。先ほどの嫌悪感など微塵も感じさせない表情で。美希は一瞬、自分の耳を疑った。だが何も言わず、ただバッグを差し出した。「昭子、バッグを忘れてたから」昭子は何の気兼ねもなく受け取った。「ありがとう、お母さん。じゃあ行くわね。お体に気をつけて、早く部屋に戻ってね」車に乗り込んだ昭子は、ほっと胸を撫で下ろした。聞かれてないはず……だって聞いていたら、母さんが黙っているはずがない。昭子は何食わぬ顔で運転手に出発を命じた。二人とも、近くに停めてある黒い車に見覚えのある人物が乗っているとは気付かなかった。後部座席
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ