Mag-log in料理人の春菜は婚約者の翔太に裏切られ、婚約破棄をされた上で多額の借金を背負わされて、共同で経営していた店を追い出された。 けれど春菜は諦めない。卓越した料理の腕と経営センスで、倒産寸前の大衆食堂や閑古鳥が鳴く居酒屋、赤字のビストロを次々と大行列の超繁盛店へと変貌させていく。 一方、春菜を失った元婚約者の高級店は、味が落ちて没落の一途を辿っていた。 そんな中、IT企業社長・礼司が春菜の存在に気づいた。倒産寸前の店を復活させる手腕に「彼女を絶対に捕まえる」と執着し始めて……!? 何もかも失ったどん底から始まる、逆転グルメ・サクセスストーリー!
view more高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。
そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。
換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」
佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。
「はい、すぐに出せます!」
「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」
「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫ですか?」
「色? 見せて」
春菜は、アシスタントの若手スタッフが差し出したフライパンを覗き込んだ。
不安そうなスタッフを安心させるように微笑んでみせる。「これくらいなら許容範囲。でも次はもう少し早めに上げてくださいね。余熱で火が入るから」
「すみません、気をつけます」
スタッフたちの声が飛び交う中、副料理長である春菜は、3つのフライパンを同時に操りながら全体の進行を管理していた。
彼女の視線は手元の食材だけでなく、厨房全体の動きを的確に捉えている。指示を飛ばしつつ、手元の真鯛のポワレに白ワインを回しかける。
アルコールが飛ぶ一瞬の香りを確かめて、すぐに火から下ろした。その絶妙なタイミングに、周囲のスタッフから思わずため息が漏れる。
「さすが春菜さん。素晴らしいタイミングです」
「褒めても何も出ませんよ」
春菜は少し照れたように笑った。
と。
そこに、ホールスタッフが飛び込んできた。ひどく慌てた様子である。
「春菜さん! VIP席の九条様から特別オーダーが入りました!」
春菜はフライパンを保温スペースに移しながら、眉を寄せた。
「特別オーダー? コースのアレルギー変更なら事前に聞いてるけど。何か追加ですか?」
「違います。その、『私の舌を驚かせる、今まで食べたことのない一皿を出して』と」
その言葉を聞いて、春菜は作業の手を少しだけ止めた。
九条梨沙(くじょう・りさ)。九条不動産の社長令嬢であり、春菜の高校時代からの親友だ。 この店のオープン当初からひいきにしてくれている常連でもある。(また梨沙の気まぐれか。相変わらずね)
春菜は苦笑した。
梨沙は昔から無茶な要求をして、周りを振り回すところがある。 けれど親友の要求に応えるのは、料理人としての腕の見せ所でもあった。彼女を心から喜ばせたい。「分かりました。梨沙さんには15分ほどお時間をいただくように伝えて」
「えっ、受けるんですか? 今、オーダー詰まってますけど」
「大丈夫。他の料理は止めませんから。最高のものを出すから、ワインのおかわりでも勧めて繋いでおいて」
「はい! よろしくお願いします!」
ホールスタッフが足早にホールへ戻っていく。
春菜は頭の中で素早く冷蔵庫の在庫を検索し、食材を組み立てていった。
今まで食べたことのない一皿。
奇をてらうのではなく、極上の素材を最高の火入れで提供する。(今日入荷したばかりの伊勢海老、北海道産のホタテもある。それを使おう)
春菜はすぐに作るべき料理の構成を決めた。アシスタントに声をかける。
「田中くん、伊勢海老とホタテを出して。あとサフランと生クリーム、それからベルモット酒」
「了解です! 特別オーダーですね」
スタッフの田中が冷蔵庫から素早く食材を取り出してくる。
春菜は専用のまな板を取り出して、伊勢海老の殻を素早く剥いた。
包丁がまな板を叩く音が、規則正しいリズムを刻む。「田中くん、隣のコンロ空けてくださいね。エビの殻を炒めるから」
「はい、空けました!」
「ソースは甲殻類の出汁をベースに、サフランで香りと色をつけます」
頭の中で工程を確認しながら、鍋でエビの殻と香味野菜を炒め始める。
香ばしい匂いが立ち上ってきた。(それにしても、毎日よく回ってるよね、この店)
春菜は火加減を調整しながら、ふと思った。
礼司は春菜の方へ視線を向けた。「これで分かっただろう。君の抱えていた問題など、この程度のものでしかない。私がすべて排除すると言った意味が理解できたか」「は、はい」 礼司の言葉は冷酷な響きを含んでいたが、春菜にとってはこれ以上なく心強いものだった。 礼司の言葉は冷酷な響きを含んでいたが、春菜にとってはこれ以上なく心強いものだった。 彼は利益と合理性のために動いている。春菜の料理の腕と頭脳を自社のシステム開発に利用するため、障害となるものを権力で粉砕しただけだ。(ビジネスとしての冷静な判断よね。だからこそ、私は彼を信頼できる) 春菜はそう信じて疑わなかった。 だが礼司の眼差しには、単なる合理性だけでは説明のつかない熱が交ざっていた。 春菜を見つめる彼の瞳の奥には、彼女の料理に対する強い渇望と、彼女自身を自らの手元に置いておきたいという執着のような色が揺らめいている。 礼司自身もまだ明確な言葉にはしていない。 けれど彼は春菜の生み出す皿に完全に胃袋を掴まれ、その実務的な才覚に深く魅了されていた。 それは紛れもなく、恋心に似た感覚だった。 春菜は深く頭を下げた。重くのしかかっていた足枷が、音を立てて外れ落ちるのを感じる。 顔を上げると、礼司がわずかに口角を上げていた。「感謝は君の仕事で示してもらおう。借金問題は彼らに任せて、君は店の準備に入ってくれ。場所は銀座四丁目の路面店だ。明日、現地で厨房の設備を確認してもらう」「感謝は君の仕事で示してもらおう。借金問題は彼らに任せて、君は店の準備に入ってくれ。場所は銀座4丁目の路面店だ。明日、現地で場所を確認してもらう」「銀座4丁目、ですか」 春菜は思わず聞き返した。 高級店が立ち並ぶ一等地である。「プロトタイプ店舗の宣伝費と考えれば安いものだ。それに、内装も厨房機器もすべて最新のものを準備中だ。君の理想とするメニューを形にするために、必要なものは何でも要求しろ」 礼司は立ち上がり、タブレット端末を操作して画面を壁の
翔太をそそのかして実家を抵当に入れさせ、法律の専門知識を悪用して逃げ道のない罠を仕掛けた。 翔太は梨沙の悪意に気付かず、あるいは気付かないふりをして、彼女の財力と魅力に溺れて春菜を裏切った。 借金の書類を持ってきた時の梨沙の言葉が脳裏に浮かぶ。『春菜、例の資金繰りの書類、うちの法務に作らせておいたわよ。なるべくあなたに負担がかからないよう配慮したから、安心してサインしてちょうだい』 あの時はまだ、梨沙を親友だと信じていた。 梨沙はいかにも優しい笑みを浮かべて、春菜に笑いかけていたのに。 自分を完膚なきまでに叩き潰そうとした梨沙の底知れぬ悪意と、それに踊らされた翔太の浅はかさ。 その事実を突きつけられて、春菜は冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。唇が渇き、うまく言葉が出てこない。「あまりにも卑劣です。他人の人生をなんだと思っているんでしょうか」 若手弁護士が義憤に駆られたように声を上げた。「佐伯さん、安心してください。相手が法律の専門知識を利用してあなたを騙したのであれば、それは優越的地位の濫用にあたります。我々が必ず解決します」「解決、できるんですか。こんなにちゃんと私のサインと印鑑があるのに」 春菜が督促状の束を見つめると、女性弁護士が力強く頷いた。「可能です。相手の悪意が立証できれば、民法上の『錯誤無効』を主張できます。つまり、あなたが勘違いをしてサインしたため、この契約自体が無効であると突きつけるのです。我々が内容証明郵便を作成し、相手方に送付します」 年配弁護士もそれに続いた。「法廷に出るまでもない案件です。九条不動産のような大企業の社員が、このような詐欺的な契約の作成に関与したとなれば、深刻なコンプライアンス違反に問われます。それを盾に取れば、相手は一切の弁明ができません。債務は本来の持ち主である元婚約者の方へ差し戻されますし、あなたへの請求は完全にストップします」 彼らの流れるような説明を聞きながら、春菜はめまいに似た感覚を覚えた。(すごい……。私が何ヶ月
さらに店を追い出された後に届き始めた、見知らぬ金融業者からの督促状の束もある。 一体どうしてここまでのことになったのか、春菜では理解できなかった。 春菜はそれらの書類をテーブルの上に並べた。「こちらです。よろしくお願いします」 年配弁護士は契約書のコピーを手に取って、目を細めた。隣の若手と女性弁護士も身を乗り出して文面に視線を走らせる。 しばらくの間、パラパラと紙の擦れる音だけが室内に響いた。 春菜は手に汗を握りながら彼らの顔を見つめた。(御堂社長を疑うわけじゃないけど、本当に解決できるのかしら。やっぱり正式な書類だと分かって、どうしようもなくなるのでは)「なるほど……これは、非常に悪質ですね」 最初に口を開いたのは若手弁護士だった。彼は手元のタブレットで条文の一部を拡大表示しながら、年配弁護士を見た。「先生。第14条の特約部分、これ完全に素人を騙すためのトラップですよ。主債務と保証債務の範囲が、意図的に不明瞭にされています」「ええ。それに抵当権の実行条件も異常です。通常のテンプレートにはない言い回しが多用されていますね」 女性弁護士も同意するように頷いた。 春菜は彼らの会話についていけず、戸惑いながら口を挟む。「あの。トラップというのは、どういうことでしょうか」 年配弁護士が契約書をテーブルに置き、春菜に向き直った。「佐伯さん。この契約書は、一見すると一般的な連帯保証契約に見えます。しかし細かい特約条項を組み合わせることで、主債務者である元婚約者の方の、一ノ瀬翔太さんの返済義務が実質的に免除され、連帯保証人であるあなたに全額の請求がいく仕組みになっています」「え?」 春菜は目を見開いた。「翔太が私の実家を抵当に入れると決めたのは、2人の店を作るためでした。あの時は、彼も本気で夢を語っていました。それなのに、最初から私に借金を押し付けるつもりだったんでしょうか」 あの時の翔太と春菜は、心が通じ合っていたはずだったのに。
翌日の午前。春菜は都心のビジネス街にそびえ立つ、ガラス張りの高層ビルを見上げていた。 御堂ホールディングス本社ビルである。 陽光を反射する巨大な建造物は、周囲のビルと比べても強い存在感を放っていた。 春菜は手持ちの服の中で、一番見栄えのする白いブラウスと紺色のスカートを着てきた。 それでも足を踏み入れるのに勇気が要る。 自動ドアを抜けると、大理石の床が広がるエントランスホールがある。空調の効いた冷たい空気が肌を撫でた。「あの……佐伯春菜です。御堂社長に呼ばれて来ました」「佐伯様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」 受付で名前を告げると、すぐに専用のエレベーターへ案内された。 耳が詰まるほどの速度で上層階へ到着する。 案内されたのは、重厚感のある木製のドアの向こうにある重役用会議室だった。 壁の一面は完全にガラス張りになっており、眼下にはミニチュアのような東京の街並みが広がっている。 中央には磨き上げられた長大で立派なテーブルが鎮座していた。(場違い感がすごい。私、完全に迷い込んだ子羊状態なんだけど。子羊のローストにされて食べられちゃわないかな) 春菜が部屋の隅で縮こまっていると、別のドアが開いて御堂礼司が入ってきた。 今日は深いネイビーのスーツを着ている。彼の後ろには、揃ってダークスーツを着た3人の男女が続いていた。「よく来たな、佐伯。座ってくれ」 礼司はテーブルの中央に腰を下ろし、春菜にも席を勧めた。 春菜は革張りの椅子に浅く腰掛ける。 礼司の隣に並んだ3人は、それぞれ手帳やタブレット端末をテーブルに置いた。「彼らは我が社専属の法務チームだ。企業間の訴訟や契約トラブルの解決において、国内で右に出る者はいない」 礼司の紹介に合わせ、3人の中で一番年配の白髪交じりで眼鏡をかけた男性が頭を下げた。「御堂社長からお話は伺っております。早速ですが、お手持ちの資料を拝見してもよろしいでしょうか」 年配弁護士の落ち着いた声に促されて、春
レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」
ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと) このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。 誰よりも大切な婚約者のため、店を
高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫で
アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。 2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。 ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。 結果はすべて同じだった。 面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので
Rebyu