紗枝は、介護士から送られてきたリアルタイムの位置情報を頼りに、車を走らせて目的地へと向かった。途中、何が起きるかわからないという不安から、雷七も同行させていた。ほどなくして、目的地付近に到着した。遠目に見えた美希の姿は、見るも無残だった。病院のガウンをまとい、髪はぼさぼさに乱れ、かつて上流階級の夫人として漂わせていた気品のかけらもない。まるで魂が抜けたかのようにやつれ果てていた。紗枝が周囲を見渡すと、そこは鈴木グループの支社だった。美希は、なぜこんな場所に現れたのか?紗枝は介護士に到着を知らせることなく、スマートフォンのネットワークを一時的にオフにした。これで、介護士は彼女の現在地を追跡することができない。そのまま静かに車を降り、人目につかない場所に身を隠した。ちょうどその頃、美希は鈴木グループ支社の正面玄関へと向かっていた。だが、入り口で警備員に制止された。「鈴木青葉に会わせて!」美希は叫んだ。警備員は、突然目の前の女が社長の名前を直接口にしたことに眉をひそめ、語気を強めて怒鳴った。「誰だと思ってんだ!社長に会えるわけないだろ!さっさと立ち去れ、さもないと追い出すぞ!」美希は体の痛みに耐えながらも、頑として動かず、地面に座り込んだ。「連絡などいらない。私は夏目美希。私の名を聞けば、彼女は必ず出てくるはずだ」警備員たちは聞く耳を持たず、一斉に彼女を追い払おうとした。介護士も慌てて美希に駆け寄り、腕を引こうとする。「奥さん、いったい何をなさっているんですか?ここで何を......?」やがて、さらに多くの警備員が集まり始めた。介護士は次第に怯えの色を浮かべ始めたが、美希には微塵の恐れもなかった。「私に手を出しても構わないわ。でも、言っておく。私は末期がん患者よ。刑務所に入る覚悟があるなら、どうぞ好きにすればいい」その言葉を聞いた警備員たちは、手を出すことをためらい始めた。その隙をついて、美希は鋭い声で言い放った。「早く鈴木社長を呼んで。私は、彼女に良い知らせを届けに来たのだから」騒ぎは次第に大きくなり、社内の社員たちも次々と顔を覗かせ、物珍しげな目で美希を見つめていた。その頃、青葉はまだ支社に到着していなかった。今日は昭子が同行しており、青葉とともに視察に訪れる予定だった。青葉は昭子に会
昭子は、その一言でたちまち興味を失った。「紗枝の遺言が無効になったって、だから何だっていうの?稲葉家の資産なんて、とっくにお父さんが全部移し終えていて、紗枝が手にしたのはほんのわずかなお金だけじゃない」美希はまだ何か言いかけたが、昭子の冷ややかな様子を見て、言葉を飲み込んだ。「私が浅はかだったわ。あんなわずかな金額、鈴木家と比べたら話にもならないものね」「お母さん、他に用がないなら、これからは連絡してこないで」そう言い残して、昭子はすっと立ち上がった。誰かに非難されるのを恐れているのか、それとも美希が青葉に会いに行くのを警戒しているのか、慌ててバッグから小切手を取り出し、そばにいた介護士に手渡した。「はい、今月の食費と医療費、それからあなたの給料ね」介護士が小切手を受け取ると、昭子は振り返ることなく去っていった。残された介護士が封を開いて金額を確認し、思わず息をのんだ。六十万円。この金額では、美希の化学療法にかかる費用すら賄えない。他の治療や薬代を合わせれば到底足りず、むしろ一日数万円にものぼる入院費を思えば、焼け石に水だった。「たった六十万円じゃ、化学療法の費用を合わせたら全然足りませんよ」そう言って、介護士は首を振り、深いため息をついた。「六十万円......?」美希も信じられないという顔をしていた。もっと多くもらえると、どこかで期待していたのだろう。「だから言ったでしょう?もう一人の娘さんのほうが、まだマシだって。あなたは信じなかったけど」介護士はあきれたように肩をすくめた。美希は黙り込んだ。その沈黙の中で、介護士はふと気づいた。わずか二日で、美希の中にあった高慢さがすっかり影を潜めていたのだ。貧しい者も、金持ちも、結局は死からは逃れられない。それが現実だった。「ところで、さっき娘さんと何を話そうとしてたんですか?」介護士は好奇心から尋ねた。美希はじっと介護士を見つめ、自分に残された時間の少なさを悟ったのか、ゆっくりと口を開いた。「誰にも言わないって約束してくれるなら、話してもいいわ」「わかりました。約束します」介護士が真剣な表情で頷くと、美希はずっと胸に秘めてきた秘密を語りはじめた。その内容に、介護士は耳を疑った。「えっ?そんな......ひどすぎませんか?」「私
「嫌いとか、早く死んでほしいとか......それって、本気なの?」美希は布団に身を潜め、隣のベッドの人に聞こえないよう、かすれた声でぽつりと問いかけた。涙が混じり、声が震えていた。あの自慢の娘。ずっと溺愛してきた娘。ときには自分の信念さえ曲げて守ってきた、かけがえのないその娘が、母である自分に向かって「嫌い」「気持ち悪い」「早く死んで」と、あんな酷い言葉を吐いたなんて。この瞬間ばかりは、美希も初めて、自分がかつて紗枝に浴びせたあの言葉が、どれほど残酷だったかを思い知らされた。「お母さん、あれは誤解ですって」昭子が慌てたように否定した。「さっき青葉がいたでしょう?あの人、お母さんのことずっと恨んでるの、ご存知ですよね。だから、機嫌を取るために、嘘をつくしかなかったんです。どうか、真に受けないで。お母さんは私の実の母親ですよ?青葉より大事に決まってるじゃないですか」けれど、美希の目は、もう彼女の言葉を信じていなかった。瞳の奥から、じわじわと冷たさが滲み出ていく。「本当に......私のこと、青葉より大切なの?」「もちろんです」昭子は即座にそう答えた。「じゃあ、あなたの本当の母親は私で、あなたを産んだのも私だって、青葉に伝えてちょうだい」美希は冷えきった声で言い放った。昭子の瞳が一瞬で見開かれ、険しくなったかと思うと、今にも怒鳴り出しそうな勢いで口を開いた。「お母さん、それ本気で言ってるんですか?青葉に私があなたの娘だってバレたら、鈴木家の財産なんて、絶対に私に残してくれませんよ!」美希はスマホを握りしめたまま、声を震わせて言った。「結局、あの財産の方が、実の母親より大事ってこと?」「お母さん、こうしましょう。青葉が遺言を書き終えて、もう先が長くないってときに、本当のことを話します。それなら問題ないでしょ?」昭子の声は、慎重に様子をうかがうような響きを帯びていた。「そのときには、私の方が先に死んでるわよ!」美希は、失望をたたえた目で娘を見つめた。「あなたが言えないなら、私が言うわ」その言葉を聞いた途端、昭子の仮面が剥がれた。「ふざけないで!そんなことしたら、ただじゃおかないわよ!」あまりの剣幕に、美希は言葉を失った。すぐさま昭子はその顔を取り繕い、柔らかい口調に戻った。「お
最近、青葉は再び桃洲を訪れ、商談に励んでいた。その日の昼下がり、昭子は彼女と食事を共にしていた。料理が運ばれるたびに、昭子は進んで皿を取り分け、水を注ぎながら声をかけた。「お母さん、たくさん食べてね」「ええ」青葉は満足そうに微笑み、頷いた。だが、その穏やかな時間は突然の着信音で破られた。昭子がスマホを確認すると、美希からの電話だった。切ろうとしたが、誤って通話ボタンを押してしまい、そのままバッグにしまい込んだため、美希の声は耳に入らなかった。「誰から?」と青葉が訊いた。「出なかったの?」「ああ、迷惑電話よ」昭子は軽く肩をすくめてそう答えた。一方、電話口の美希は、応答がないことにいったん電話を切って掛け直そうとした。だがその時、バッグの中から微かに聞こえる声に気づいた。どうやら通話が繋がったままのようだ。そして、聞こえてきたのは、昭子と青葉の会話だった。「お母さん、このフォアグラ、すごく美味しいわ。前もって予約して空輸させたの」「いいね」青葉は軽く頷き、ひと口味わってから、ふと思い出したように問いかけた。「そういえば......美希、癌だって聞いたけど?」「ええ。末期がんで、医者によるとあと二年ももたないらしいわ」昭子は即座に答えた。青葉が美希を嫌っていることを知っているからこそ、その話題に迷いはなかった。「悪いことをした報いね。あのときお母さんからお父さんを奪ったくせに、今度は自分が癌だなんて」昭子はその言葉が、電話越しにしっかりと美希に届いているとは夢にも思っていなかった。青葉は冷ややかに鼻で笑った。「勘違いしないで。あの女に夫を奪われたんじゃない。私が捨てたのよ。あんな男、もういらなかったの。わかる?」青葉が世隆と結婚したのは、実家の圧力をかわすためにすぎなかった。感情など端から存在せず、ただ操りやすい相手として利用しただけだった。それでも、裏切りは許しがたかった。「ごめんなさい、言い方が悪かったわ。お母さん、美希みたいな女とお母さんを比べるなんて、ありえない」昭子は一口食べて顔をしかめた。「外で彼女を『お母さん』なんて呼ぶたびに鳥肌が立つの。ほんと、早く死んでほしい」青葉は娘をじっと見つめ、微笑んだ。「うちの子は、本当にしっかりしてるわね」二人はその後も言葉
紗枝は心の中で小さくため息をついた。鈴ってば、不純な動機を抱えてるくせに、肝心なところでまるで頭が回ってない。そんな風に思いながらも、心のどこかで「まあ、それなら相手をするのも楽でいいわね」とも感じていた。余計な気を使わずに済むぶん、こちらとしては助かる。「休ませてもらうわ」そう言って、紗枝は立ち上がった。「はい、じゃあ、お邪魔しません」鈴は、本当は「寝すぎないようにね」と声をかけようとしていた。けれど、紗枝が自分を黒木グループに加えてくれたその気遣いを思うと、踏み込んだ言葉を飲み込んだ。紗枝は庭をしばらく歩いたあと、日陰のベンチに腰を下ろし、そっと目を閉じた。遠くのほうで、鈴が大きな袋を抱えて戻ってくるのが見えた。袋の中にはぎっしりと詰まったプレゼントが入っており、それを別荘の使用人やお手伝い、さらには警備員にまで、一つひとつ丁寧に配っている。まるで善意を装った、見え透いた手管。紗枝はその様子を黙って見つめていた。止めるつもりも、口を挟む気もなかった。もしこんなもので人の心が買えるなら、もっとプレゼントの数を増やして、いくらでも寝返らせればいい。彼女はそんな鈴の小細工に一瞥もくれず、本を手に取って譜面の研究を再開した。鈴はときおりこちらの様子をうかがっていたが、紗枝がまるで気にしていないのを確認すると、次第に図に乗り始めた。そして、今度は別荘の人たちを誘って食事に行こうと計画し始める。その中でも、特に目をつけたのが牧野だった。彼にだけはわざわざ個別でメッセージを送り、「一緒にどうですか?」と誘いかけた。牧野はスケジュールを確認し、「明後日の夜九時以降であれば」と返信してきた。鈴はそれ以上言葉を重ねず、そのまま自分と牧野、ふたりだけで明後日の夜九時に食事をすることを密かに決めた。牧野は、ただの使用人とはわけが違う。啓司の側近であり、紗枝や啓司よりも長い時間を共にしている。牧野を懐柔できれば、啓司への接近もぐっと容易になる。鈴にとっては、そこが狙いだった。夜の食事の最中、鈴はスマホをテーブルの上に置いたまま席を立った。そのとき、紗枝が席に着くと、不意にスマホからメッセージの着信音が鳴った。何気なく目をやると、画面にはこう表示されていた。備考欄には「裕一」とある。【了解、じゃあ明後日9時半に神無月で
以前は、逸之が拓司にそれほど近づくこともなかったし、たとえ近づいたとしても、特に異変を感じることはなかった。けれど今日になって、初めてその黒いオーラに気づいてしまった。「じゃあ、家では気をつけてね。もうすぐ搭乗するから、これで切るよ」景之の穏やかな声が電話の向こうから聞こえた。「うん......」逸之は名残惜しそうに返事をし、そっとスマホを切った。ふと窓の外に視線を向けると、拓司はまだ外にいて、紗枝と綾子と何やら話をしていた。少し離れてはいたが、それでも拓司の身体を包む黒いオーラははっきりと見えた。不思議と、背筋がひやりとするような恐怖を覚えた。その頃、外で綾子は拓司の姿を見つめ、ふと以前のことを思い出した。逸之がライブ配信をしていたあの時のことだ。子どもに金を稼がせるなんて、あまりにも理不尽じゃない。そう思った綾子は、紗枝に向かってこう口を開いた。「ねえ紗枝、今あなた、毎日特にやることもないんでしょう?だったら拓司と一緒に会社で経験を積んでみたらどうかしら。少しでも収入が増えるなら、それに越したことはないでしょう。心配しなくていいのよ、一日三、四時間働くだけでいいの。子どもに悪影響は出ないわ」それは、紗枝と啓司が海外にいる間、綾子がずっと考えていたことだった。だからこそ、今こうして切り出したのだ。紗枝は意外そうな顔を浮かべた。以前の綾子なら、決して自分が外で働くことなど許さなかった。聴覚に障害がある嫁が表に出るなんて黒木家の恥だと、あれほどまでに言っていたのに。どうして、いきなり心変わりしたのだろう。「お義母さん、私は......時々、曲を書いています。何もしていないわけじゃないんです」言いながら、紗枝は心の中で、人は変わるものなのだと認めざるを得なかった。自分が外で働いていた頃は恥だと言って嫌がったくせに、今度は仕事がないと言えば「何もしていない」と責められる。どちらにしても、綾子の不満は消えないのだ。「曲を書く?」綾子の目が、一瞬にして軽蔑の色を帯びた。「あなたに、曲が書けるの?」普通の人にだって簡単なことではない。ましてや、聴覚に障害のある人間には――「ただの趣味です。そんなに詳しいわけじゃありません」紗枝は控えめに、しかしはっきりと答えた。「だったら、会社に行きなさい」綾子