LOGIN保育園からずっと好きだった。 ただ、それだけだった。 宮原玲は誰にでも優しい。 怒らない。乱れない。嫌われない。 渚といるときは特に、壊れ物を扱うように丁寧に触れる。 でも本当は――閉じ込めたい。めちゃくちゃにしたい。自分以外の誰にも渡したくない。 その衝動を、玲はずっと別のところで発散してきた。 相良渚には過去がある。 男性が怖い。でも玲だけは怖くなかった。 事件が起きる前の、まだ綺麗だった頃の自分を知っている人だから。 同棲が決まった夜、渚は初めて打ち明ける。 怖くなくなりたい。玲のために、自分のために。 そして同棲初日、すべてが崩れた。 優しい彼と、動画の中の彼。 ――どっちが本物?
View More渚の瞳が、真央のお腹へと吸い寄せられた。 病室で玲が必死に叫んでいた姿が脳裏をよぎる。『妊娠は絶対にしていない』――そう言い切っていた彼の声と、目の前で愛おしそうにお腹を擦る真央の姿。 渚は真央のお腹をじっと見つめ、そして、テーブルの上のグラスに視線を戻した。「……妊婦さんがカフェイン取っていいんですか?」 真央の表情がぴきりと固まった。 一瞬の動揺。そして泳いだ視線。 別に、その問いだけで妊娠を否定できるわけではない。渚もそれくらいは分かっていた。 ただ――真央の反応を見るには十分だった。(……やっぱり、嘘なんだ) 病室で玲が必死な顔で「絶対にしていない」と叫んでいた言葉は、真実だったのだと悟る。渚は静かに真央を見つめ返した。「……玲とよりを戻すの?」 動揺を隠すように、真央は先ほどと同じ問いを繰り返した。その声にはどこか余裕がなく、縋るような焦燥が滲んでいる。「それは分かりません」 渚は包み隠さず、正直に答えた。 許せるのかも、これからどうしたいのかも、自分自身まだ答えは出ていない。だからこそ、偽りのない自分のいまの気持ちをそのまま口にした。「話したいことはこれだけですか?」 真央は口を半開きにしたまま、何も言えずに黙り込んだ。 渚は自分の注文したオレンジジュース代の現金をテーブルの上にそっと置くと、鞄を抱えて静かに席を立った。 背を向け、カフェの出口へと歩き出そうとした、その時。「……無理だよ」 低く絞り出すような真央の声が、背中に突き刺さった。 渚は足を踏み止め、肩越しにゆっくりと振り返る。真央の顔を直視した。「玲の性欲に、あんたがついていけるわけない」 歪んだ執着と嫉妬を撒き散らす真央の言葉に対しても、渚の心はざわつかなかった。かつてのように怯えて俯く渚は、もうどこにもいない。「……知っ
※ ※ ※「今日は和樹の当番ね。天ぷらとか言ってたわ」 社屋の自動ドアを抜け、夕暮れの街へと踏み出しながら、橘が楽しそうに隣の渚へと語りかけた。「ほんと、あの人見た目に反して食いしん坊なんだから。天ぷらなんて揚げ始めるとキリがないのよね」「橘さんは天ぷら揚げないんですか?」「揚げないわよぉ~。だって面倒でしょ?」「そうですね。どちらかと言えば敬遠しますね」「ねー。それを和樹は、タケノコとふきのとうの天ぷらを揚げるんですって」「旬ですね」「食材にもこだわるのよね~。美味しいから別にいいけど」 橘が嬉しそうに目を細めるのを見て、渚も笑う。 和樹が凝った料理をするのは、大好きな橘に喜んで貰うため。彼は、橘が美味しそうに食べている姿を幸せそうに見つめていることを渚は知っている。不意に、玲の顔が彼女の頭に浮かんだ。(玲も、私が食べている姿を嬉しそうに見ていたな) 玲が自分のために料理を作るのは、和樹と同じ理由だったのだろうか――。 玲とは病院で別れてから一週間が経過している。「待つ」と宣言した通り、玲からは連絡はなかった。渚から、まだ連絡はしていない。許せるのか、そもそも自分はどうしたいのか答えが出ていない。 あの時、流した玲の涙と苦痛な叫びは本物だろう。あんな痛々しい彼の素を渚は一度も見たことがなかった。玲はあれを、ずっと自分に隠していたのだろう。(もし、玲が私にありのまま曝け出していたら、私はどうしたんだろう) やっぱりいくら考えても、分からない。「もしも」で今考えても、過去は変わらないから。(玲が好きだという気持ちは変わっていたかな?) その答えは――。 考えながら歩みを進めていたその時だった。「話があるの」 会社の敷地から少し離れた街灯の影から、すっと一つの影が現れた。 不意に現れた人影に渚と橘の足がピタリと止まる。 薄暗い街灯の下へ歩み出てきたのは――真央だった。 整えられたメイクに小綺麗な服。けれど、その瞳
「違う」 玲は渚の言葉を強く遮った。「俺は渚が好きだったんだ。理想だったからじゃない」「玲……」「高校で再会した時、すぐに分かった。何年も会っていなかったのに、人混みの中で、すぐに渚だって分かったんだ」 玲の声が、熱を帯びて激しく揺れた。「あの時、渚に何があったのか知らなかった。短い髪で、夏なのに長袖を着て、スカートの下にジャージを履いてた……。それでも、一目で渚だって分かった。……可愛いと思ったんだ」 あの時感じた愛おしさは、過去の幻影でも、勝手な理想でもなかった。「綺麗な理想を好きだったんじゃない。どんな姿でも、渚そのものが好きだったんだ」 玲は背筋を伸ばし、まっすぐに渚の瞳を見つめた。 もう涙は止まっていた。取り繕った仮面も、哀れな弱音もない。自分の愚かさと歪んだ執着を認め、それでも譲れない想いをただストレートにぶつけた。 理想じゃない。そんな理屈じゃない。 保育園の時に一人で泣いていた自分の手を引っ張ってくれた女の子を、あの時からずっと好きだった。渚が泣いていたら、不安で堪らなかった。渚をイジメる上級生がいれば、自分より体が大きくても怖さを忘れて立ち向かうことができた。それは全部、渚だったからだ。 ただ、小学二年生のあの日だけは、揶揄われるのが嫌で、渚が好きだという気持ちを否定してしまった。「ずっと好きだった俺の気持ちをっ――理想だなんて言葉で踏み躙らないでくれ」「……っ」 血を吐くような玲の叫びに、渚が息を呑み、小さな唇を震わせた。 病室の空気が、痛いほどピンと張りつめる。 渚の唇が震えているのを見て、玲は一度口を閉じた。浅くなった呼吸を整え、今度は声を落とした。「よりを戻したい。また渚と一緒にいたい」 渚は胸の前で手を握り合わせた。「……真央さんは?」「え?」「子どもが……できたんじゃ
「玲、違うよ」 玲の言葉を渚は否定した。けれど、玲は「聞いてくれ」と彼女の言葉を遮った。「違わない。俺は、クラスメイトに渚が好きなんだろ、って揶揄われたんだ。本当に好きだったのに、それがバレるのが嫌で、照れ隠しで否定して、サッカーで遊んだんだ。渚が苦しんでいる時に、俺は遊んでいた。あの時、自分の気持ちに素直になっていれば、渚は襲われなかった。全部、俺のせいなんだ」 胸の底で玲を苛み続けてきた罪悪感を吐露して、玲は両手で頭を抱え込んだ。「そんなことを知らずに、俺はずっと渚を探してたんだ」 ボロボロと溢れ落ちる涙が、白いシーツに次々と丸い染みを作っていく。玲の喉から、くぐもった痛々しい声が漏れ出た。「渚が転校していった理由も何も知らず……渚が消えてしまって楽しみもなくなって、毎日が灰色だった。でも、高校一年の夏に渚と再会して……奇跡だって、思った。毎日が楽しくて、灰色だった世界が一気に輝いたんだ。でも、渚の過去を知って、俺は自分がなんて呑気な人間だったんだろうって……」 どれほど後悔しても、過去には戻れない。 自分の照れ隠しのせいで、渚の人生を狂わせてしまった。その重みに押し潰されそうになりながら、玲は胸の奥の叫びを必死に絞り出した。 「渚に嫌われたくなかった。また突然俺の前からいなくなったら、俺、生きていけないと思った。だから……隠して、取り繕って……嫌われない自分だけを見せようとした。それが、全部間違いだった」「渚が、怖かった」 玲は震える手で、髪を掻き乱した。「渚を壊してしまいそうで怖かった。誰よりも大好きで、俺のだって証明したかった。本当は、激しくしたかった。でも渚に嫌われてしまうと思って絶対できない。だから別のところで発散していた。渚を守るためだった」 渚に見せる優しい顔も、職場の人間に見せる顔も、どちらも玲の本物の一面で、決して偽装じゃなかった。渚に嫌われることを恐れて、受け入れられそうな自分の一部だけを選んで見せていた。執着・支配欲・本性の粗さを隠し、その反動
※ 玲が渚と初めてセックスしたのは、高校三年生のクリスマスイヴだった。 渚が手編みのマフラーをくれた。「重いよね、ごめんね」と謝った渚に、強く首を振った。渚は知らない。玲にとって、渚から貰えるなら何でも嬉しいことを。 (あのマフラーは今でも使っている) 解れるたびに渚が手直しをしてくれる。冬になると、渚に毎日抱きしめられているような気分になる。 (あのデートも、セックスも、全部覚えてる) ――こんな、安っぽいホテルではなかったのは確かだ。 消毒液の匂いが混じったラブホテルの室内。 「ほら、ちゃんと力抜いて」 優しく言っている筈なのに、声は低く、逃げ道を塞ぐ響きを持っていた
「どうぞ」 無害そうな笑みを浮かべ、隣りを促すと女は恐る恐る玲の隣りに座った。 Barの高い椅子も不慣れなのか何度も座り直す。その度にスカートが捲れそうになり、慌てて手で押さえていた。 ようやく、思ったように座った彼女はマスターに「同じのを下さい」と伝えた。度が強いウイスキーだということを玲は教えなかった。 ――案の定、二杯で酔ってしまっていた。 「わたし、今日が二十歳のたんじょうび、なんれす」 「おめでとう」 心のこもらない言葉を、グラスで隠す。 女は愚痴を喋り続けている。 玲はそれを聞き流しながら、別のことを思い出していた。 (あの時) ――怖かった、と震える声で
※ ※ ※ 別に渚を疑っている訳じゃない。 社会人にでもなれば、残業は増えるものだ。 ここ最近になって、残業が増えたのは事業部長が変わったから、と言うのも納得は出来る。 だが――相手は海外から赴任してきた人物だ。 そんな人間が日本の悪しき風習である残業を部下にさせるだろうか。しかも、決まって毎週金曜日。金曜は渚に手料理を振る舞って、その後は配信ドラマや映画を観て、ベッドに入るという流れが今では夕食の時間が遅れ、ドラマと映画を見る時間が削られてしまっていた。 「橘部長がね、アメリカ本社のパーティで」 (橘) 「橘部長が、アメリカのカフェで」 (橘) 「橘部長が、今日の会議
「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、