LOGIN保育園からずっと好きだった。 ただ、それだけだった。 宮原玲は誰にでも優しい。 怒らない。乱れない。嫌われない。 渚といるときは特に、壊れ物を扱うように丁寧に触れる。 でも本当は――閉じ込めたい。めちゃくちゃにしたい。自分以外の誰にも渡したくない。 その衝動を、玲はずっと別のところで発散してきた。 相良渚には過去がある。 男性が怖い。でも玲だけは怖くなかった。 事件が起きる前の、まだ綺麗だった頃の自分を知っている人だから。 同棲が決まった夜、渚は初めて打ち明ける。 怖くなくなりたい。玲のために、自分のために。 そして同棲初日、すべてが崩れた。 優しい彼と、動画の中の彼。 ――どっちが本物?
View More※ ※ ※ 土曜日。玲は約束の一時間前には、すでにあの公園に立っていた。 かつて幼い自分が、渚を置き去りにして待たせてしまった場所。あの日の身勝手な自分を責め立てるように、玲は何度も何度も、同じ景色を、同じ足元を確認せずにはいられなかった。(ここでいいはずだ。渚が言ったのは、間違いなくこの場所だ) 時間が進むにつれ、心臓の奥がじわじわと冷たい不安に侵食されていく。(本当に、渚は来るのだろうか) やはり来ないかもしれない――直前になって怖気づき、約束を白紙に戻してしまったのではないか。そんな最悪の想定が頭をよぎり、足元がぐらりと揺らぐ。 それでも、玲はその場を頑なに変えようとはしなかった。一歩たりとも動くつもりはなかった。 幼い頃は、自分が渚を待たせた。だから今度は、玲が待つ番だった。どれだけ長くても、たとえ陽が落ちようとも、彼女が来るまでここで待ち続ける。その決意だけが、玲の身体をその場に縫い留めていた。 約束の時間が近付いたその時、公園の入口近くに一台のタクシーが滑り込んできた。 人混みが苦手な渚がここまで来るための手段がそれだったのだと、玲は瞬時に理解した。 ドアが開き、車内から見覚えのある小さなシルエットが降りてくる。(……本当に、来た) 胸の奥から、堰を切ったような猛烈な感動が突き上げてくる。夢じゃない。自分に会うために、渚がここまで来てくれた。その事実だけで、玲の心は破裂しそうなほどの歓喜で満たされる。 しかし、ゆっくりとこちらへ歩いてくる彼女の表情を見た瞬間、玲の歓喜はすっと不安へと色を変えた。 見えてきた渚の顔には、かつてのはにかんだ微笑みは一切なかった。きつく結ばれた唇と、何かに耐えるような硬い眼差し。自分に何かを告げようとする、強い覚悟に満ちたその表情に、玲の背筋には再びあの冬の日のような冷たい戦慄が走った。 玲の前まで辿り着くと、渚はふっと笑顔を見せた。 けれど、それはあまりにもぎこちなく、引き攣ったような、無理やり作った笑顔なのだと玲は瞬時に悟ってしまう。「急に呼び出してご
その声が間違いなく渚だと理解した瞬間、玲は跳ね起きるようにしてベッドの上に身を起こした。背負ったままだった鞄が重く床へ転がり落ちたが、そんな音は一切耳に入らない。「渚?」 低く冷たかった玲の声は、一瞬で温度があるものへと変わった。「いきなり電話してごめんね」「どうしたの……?」 玲は声を震わせながら訊ねた。 会うのをやめようと言ったのは、渚のほうだった。なのになぜ今になって連絡をしてきたのか――深く考え込むよりも先に、彼女の声を二ヶ月ぶりに聞くことが出来た感動の方が戸惑いよりも大きかった。彼女の息遣いが伝わり、玲は喜びに胸を震わせる。「あのね……」 渚の声が途切れた。 玲の鼓膜に、渚が深呼吸を繰り返している音が届く。言葉を吐き出そうとしては、飲み込んでいるような気配がした。「今週の土曜日、会えないかな?」 予定なんて、あるはずがなかった。「玲に話したいことがあるの」 自分に話したいことがある――二ヶ月前の話の続きをするつもりなのだろうか。(俺を振った理由を聞かされるのか?) 心の傷を抉りにかかるのだろうか――そんな考えが駆け巡ったが、それは一瞬だった。「会えるよ」 玲はすぐに答えた。渚に会いたい理由は沢山ある。会えない理由なんてない。自分が何を言われるか、聞かされるのかという怖さよりも渚に一生会えない方が、不幸だった。「じゃあ、土曜日よろしくね」 玲の返事に、渚がホッと息を吐いた。「渚の学校に行くよ」「ううん。私が呼び出すから、私が玲のところまで行く」(渚が俺に会いに――……) 渚と再会してから初めてのことだ。 玲は女子寮まで迎えに行くつもりだった。彼女に会うために揺られる電車がどんなに満員だったとしても、一度も苦痛に感じたことはなかったから。(でも、電車は人が多いのに大丈夫かな) 初詣、映画館の人混みに青褪めていた渚が脳裏に浮かんだ。あのよ
※ ※ ※ 玲は自宅に帰り、まっすぐ自分の部屋へと向かった。 肩に食い込んでいた鞄を下ろす元気すら湧かず、制服のまま、ベッドの端に力なく腰を下ろす。重たい身体を丸めるようにして視線を落とすと、その先に、あの勉強机が嫌でも視界に入った。 そこには、あの日から一ミリも動かされることなく、静かに佇む渚から貰ったチョコレートの小さな紙袋があった。(渚……) 紙袋を受け取ったあの日、繋いだ手を思い出す。 玲は膝の上に置いた自分の両手を見つめた。 何をしていても、結局はあの場所に、あの瞬間に引き戻されてしまう。 あの時、確かに繋がっていた掌。今は驚くほど冷え切っていて、いくら指を握り締めても、温かい渚の体温が戻ってくることは二度となかった。 玲は鞄を下ろさないまま、重い身体ごとベッドへと倒れ込んだ。 仰向けのまま天井を見上げ、すぐに、逃げるように両手で顔を覆い隠す。(渚に会いたい……) その渇望だけが、濁流のように胸の奥で渦巻いていた。 暗闇を強引に作り出すように、顔を覆う玲の手の隙間から入り込む冷たい空気だけが、玲の頬を静かに撫でていく。 ――ピロン。 その静寂を切り裂くように、制服のポケットの中で、携帯のメッセージ受信音が短く鳴り響いた。 けれど、玲は顔を覆った手を微動だにさせず、携帯を取り出そうともしなかった。どうせクラスメイトからの他愛のない連絡だろう。今の玲にとって、渚以外からの言葉はすべて無価値な雑音でしかなかった。 画面を確認する気にすらなれず、玲はただ、深い泥のような思考に沈んでいく。(告白なんて、しなきゃよかったんだ……) 来週に迫ったゴールデンウィークだって、当然のように渚と会って、どこかへ出かけていただろう。手を繋いで映画を観たり、あるいは夢にまで見た狭いカラオケボックスで二人きりの時間を過ごしたりしていたかもしれない。 ぽっかりと空いてしまった大型連休の予定。何をして時間を潰せばいいのか、今の玲には全く思いつかな
※ ※ ※ 三年生に進級し、周りのクラスメイトたちの空気は一変した。 誰もが「受験」や「就職」といった現実的な未来を意識し始め、進路説明会の資料を睨みつけ、休み時間には参考書を片手に未来の選択肢を話し合う。教室の空気はにわかに熱を帯び、全員が必死に前を向いて進み始めようとしていた。 玲だけはその波に乗ることが出来なかった――というよりも、何もしていなかった。 玲は机に頬杖をついたまま、窓の景色を眺める。グラウンドで生徒たちがじゃれ合い、楽しそうに笑い声を上げていた。(あーやって……渚と笑い合うことは二度とないのか……)『私たち、会うのやめよう』 そう呟いた渚の顔を、玲はなぜか思い出せなかった。脳がショックを和らげようと防衛反応でも働かせているのか、いくら記憶を遡ろうとしても、彼女が最後に見せた拒絶の表情には分厚い霧がかかっている。代わりに、いつも思い出すのは、彼女が直前に見せていた、あのマフラーに顔を埋めたはにかんだ笑顔ばかりだった。(告白なんてしなきゃ、ホワイトデーのお返しを渡せたのにな) 最初はお揃いの、あるいは彼女の白い肌によく映えるアクセサリーを買おうとした。けれど、付き合ってもいない幼馴染からのそんな贈り物はあまりにも重すぎるだろうと寸前になって思い直した。結局、お洒落な洋菓子店でクッキーを購入した。 それは今も、玲の勉強机の引き出しの奥で、静かに眠っている。「渡せる保障もないのにな」 窓ガラスに映る自分の生気のない顔を見つめながら、玲はぽつりと自嘲した。 賞味期限なんて、とうに切れているかもしれない。 けれど、それをゴミ箱に投げ捨てることさえ、今の玲には彼女との繋がりを自ら完全に断ち切ってしまうような気がして、どうしてもできなかった。 それは、渚から貰ったあのチョコレートも同じだった。 あの日、彼女が緊張しながら手渡してくれた小さな紙袋。中に入っているチョコレートは、箱すら開けられることなく、今も自宅の勉強机の上にぽつんと置かれたままだ。 本当なら、嬉しそうに食べる自分の姿を
※ 玲が渚と初めてセックスしたのは、高校三年生のクリスマスイヴだった。 渚が手編みのマフラーをくれた。「重いよね、ごめんね」と謝った渚に、強く首を振った。渚は知らない。玲にとって、渚から貰えるなら何でも嬉しいことを。 (あのマフラーは今でも使っている) 解れるたびに渚が手直しをしてくれる。冬になると、渚に毎日抱きしめられているような気分になる。 (あのデートも、セックスも、全部覚えてる) ――こんな、安っぽいホテルではなかったのは確かだ。 消毒液の匂いが混じったラブホテルの室内。 「ほら、ちゃんと力抜いて」 優しく言っている筈なのに、声は低く、逃げ道を塞ぐ響きを持っていた
「どうぞ」 無害そうな笑みを浮かべ、隣りを促すと女は恐る恐る玲の隣りに座った。 Barの高い椅子も不慣れなのか何度も座り直す。その度にスカートが捲れそうになり、慌てて手で押さえていた。 ようやく、思ったように座った彼女はマスターに「同じのを下さい」と伝えた。度が強いウイスキーだということを玲は教えなかった。 ――案の定、二杯で酔ってしまっていた。 「わたし、今日が二十歳のたんじょうび、なんれす」 「おめでとう」 心のこもらない言葉を、グラスで隠す。 女は愚痴を喋り続けている。 玲はそれを聞き流しながら、別のことを思い出していた。 (あの時) ――怖かった、と震える声で
※ ※ ※ 別に渚を疑っている訳じゃない。 社会人にでもなれば、残業は増えるものだ。 ここ最近になって、残業が増えたのは事業部長が変わったから、と言うのも納得は出来る。 だが――相手は海外から赴任してきた人物だ。 そんな人間が日本の悪しき風習である残業を部下にさせるだろうか。しかも、決まって毎週金曜日。金曜は渚に手料理を振る舞って、その後は配信ドラマや映画を観て、ベッドに入るという流れが今では夕食の時間が遅れ、ドラマと映画を見る時間が削られてしまっていた。 「橘部長がね、アメリカ本社のパーティで」 (橘) 「橘部長が、アメリカのカフェで」 (橘) 「橘部長が、今日の会議
「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、