カフェ。太郎はスプーンでカップの中のコーヒーをかき混ぜながら、朝からここで待っていた。ようやく紗枝が店内に入ってくると、彼はすぐに立ち上がり、ぎこちなく笑みを作って言った。「お姉さん、座って」しかし、紗枝は彼の媚びるような態度を無視した。「警備員から聞いたよ。私を探していたそうね。何の用?」「母さんが、末期の癌だと診断された」太郎は紗枝をまっすぐ見据え、一言一言噛みしめるように言った。紗枝は一瞬、目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。「……何ですって?」「昨日、警察から連絡があったんだ。母さんが留置所で突然倒れて、病院に運ばれた。検査の結果、脳腫瘍で、もう末期らしい」太郎は重ねて言った。紗枝は彼の真剣な表情を見ながら、ふっと鼻で笑った。「それで? 私に嘆願書を書けってこと? 彼女を助けろって?」美希のような、贅沢三昧に育った人間が癌だなんて、しかも脳腫瘍? 信じられない。出雲おばさんには親族がいないため、紗枝は彼女の養女のような存在だった。もし彼女が「寛大な処置を求める嘆願書」を出せば、美希は軽い刑で済むだろう。「紗枝、お前に情ってものはないのか?彼女は僕たちの実の母親だぞ! 本当に見殺しにするつもりか?母さんが言ってた。あの家政婦は自殺したんだって!」太郎は憎しみに満ちた目で紗枝を睨みつけた。紗枝の表情が一気に冷え込んだ。「……自殺?私の母親は、美希に殺されたのよ」その瞬間、太郎の顔が歪んだ。「誰を母親って言ってるんだ? たかが家政婦のくせに、下層の汚い女が……」パシンッ!太郎の言葉が終わるより早く、紗枝の手が彼の頬を打った。彼は目を見開き、驚きに満ちた表情で紗枝を見た。「たかが家政婦のために、僕を殴ったのか?」「出雲おばさんは私にとって、ただの家政婦なんかじゃない。実の母親以上の存在だった。その口、慎みなさい!」太郎の頬がじんじんと熱くなった。怒りの言葉を吐き出そうとしたが、紗枝の鋭い視線に押され、飲み込むしかなかった。なぜか、彼女のことが少し怖くなった。「……いいよ。じゃあその話はやめよう。でも、僕たちの母親のことだ。どれだけ悪いことをしたとしても、お前が刑務所に送り込むのは間違いじゃないのか?」刑務所に送り込む?紗枝は苦笑した。「私が彼女を追い詰めたですって?
紗枝が戻ると、案の定、美希が治療のための保釈になったという知らせを受けた。弁護士の岩崎彰から電話がかかってきた。「紗枝、私が送ったメッセージ見たか? 病院の診断結果によると、鈴木美希は脳腫瘍らしい。それで、家族が治療のために保釈を申請して、もう釈放された」「うん、見たわ」紗枝はスマホを握りしめたまま、外で風雪に吹かれていた。「岩崎弁護士、美希は病気なんかじゃない。ただ責任を逃れるための手口よ」「私もそう思う。そんなうまい話があるか? 拘留されてまだ1ヶ月も経ってないのに、いきなり末期の脳腫瘍なんて、普通に考えてありえないだろ」「じゃあ、彼女を牢屋に戻す方法はある?」紗枝は、出雲おばさんの死を無駄にしたくなかった。たとえ美希が直接の加害者でなかったとしても、彼女が何度も追い詰めなければ、出雲おばさはあんな道を選ばなかった。「病院の診断が偽物だと証明するしかない」 彰はため息をつき、続けた。「でも、そんな偽の診断書を出した病院が、自分の嘘を認めるわけがない」「じゃあ、他の医者に再検査してもらうことはできないの?」 紗枝が尋ねた。「本来なら可能だが、美希たちが協力するはずがない」紗枝は、胸の奥に大きな石がのしかかるような感覚に陥った。このまま、美希を野放しにするしかないのか?「……そうだ」彰が何かを思い出したように言った。「紗枝、黒木さんに頼めないか? 彼は澤村和彦と友人だろ? もし澤村和彦が動けば、病院も適当な診断なんて出せなくなる」桃州市の医療資源の大半は澤村家が掌握している。辺鄙な小さな病院ですら、澤村家の影響を受けている。紗枝は一瞬黙り込んだ。「ちょっと考えてみる」和彦に借りを作りたくなかった。電話を切った後も、彼女はその場に立ち尽くしたまま、なかなか家の中に入る気になれなかった。どれくらい時間が経っただろうか。突然、「ドン!」 という大きな音が上の階から響いた。紗枝は我に返り、急いで屋内に入り、階段を駆け上がった。音の出どころは書斎だった。扉を開けると、啓司が床に倒れていた。「大丈夫?」紗枝はすぐに彼を助け起こそうとした。しかし、彼は彼女の腕が触れると、手を振り払った。「平気だ」紗枝は彼の拒絶に気づいたが、気にせず続けた。「どうしてそんなに不注意なの? もう家に戻ってきてだい
紗枝の体が瞬時に強張り、必死に彼を押し返そうとしたが、びくともしなかった。「……暇なの?」啓司は答えず、そのまま彼女の唇を塞いだ。血が逆流するような感覚が全身を駆け巡り、顔が一気に熱くなった。紗枝は口を開き、啓司の唇に噛みついた。しかし、啓司は痛みなど感じていないかのように、動きを止めなかった。紗枝はどうすることもできず、怒りで目が赤くなった。口の中には血の味が広がっていた。「……嫌?」啓司は紗枝の顔を包み込み、指先で何度も彼女の唇をなぞる。紗枝は彼の手を避けながら、逆に問いかけた。「じゃあ、もし私が他の男と一緒にいる写真を見たら、あなたはどうするの?」きっと大騒ぎになるに決まってる。啓司は案の定、黙り込んだ。その隙を逃さず、紗枝は彼の肩に思い切り噛みついた。前に残した歯形がまだ消えていないのに、また新たな傷が増えた。「どうして答えないの?」彼女が問い詰めると、啓司は彼女をさらに強く抱きしめた。「そいつを殺す」紗枝は彼の顔をじっと見つめた。「じゃあ、私にはどうする?」啓司は一瞬動きを止め、しばらく間を置いてから低く呟いた。「閉じ込めて、足を折る」紗枝は彼が冗談を言っているのだと思い、もうこれ以上話す気も失せた。「どいてよ」 紗枝は腰が限界に近づいているのを感じた。啓司はようやく身体をどけ、真剣な顔で尋ねた。「夏目太郎は、君に何の用だった?」「大したことじゃないよ。ただ、美希が病気を装って仮釈放されたって伝えに来ただけ」紗枝は簡潔に答えた。もし美希が若ければ、妊娠を理由に保釈を申請していたかもしれない。「今の時代、偽の診断書を作るのは難しいが、それを暴くのも簡単じゃない」啓司はゆっくりと言葉を紡ぎ、続けた。「和彦に調べさせる」「いいえ、結構よ」紗枝は即座に拒否した。「彼に借りを作るつもりはない」「……いや、これは借りじゃない。和彦は君に命を救われた。これくらいのこと、俺が頼まなくても当然やるべきだ」「私は、別の方法を考えるよ」和彦の助けを受け入れることは、彼の過去の行いを許すことと同じだった。啓司は彼女の頑なな態度に少し驚きながらも、淡々と聞いた。「どうやって?」「それは……秘密」紗枝は、海外にいた数年間で築いた人脈がある。特に、世界的な歌手であるエイリ
桃州では、白い雪がしんしんと降り積もっていた。新年が明け、積もった雪はますます厚くなっていた。ある賃貸アパートの一室で、柳沢葵は外の華やかなネオンを眺めながら、悔しさを噛みしめていた。本来なら、自分も堂々とその輝く人々の中にいるはずだった。それなのに、すべては紗枝のせいだ。ニュースの検索トレンドが削除されたのを見て、彼女は強くスマートフォンを握りしめた。「やっとここまで来たのに、また昔みたいに無名のまま、ただの普通の人間に戻れっていうの?」その時、電話がかかってきた。画面を見ると、発信者は黒木拓司だった。彼女はすぐに緊張し、電話を取ると慎重に口を開いた。「拓司さま」「写真と検索トレンドは用意した。いつ紗枝に会いに行くつもりだ?」拓司は待ちきれない様子だった。「拓司さま、私だって行きたくないわけじゃないんです。ただ、怖いんです……」「何が怖い?」「澤村和彦がよく啓司に会いに行ってるのを見ました。もし澤村和彦に見つかったら……」葵が本当に求めていたのは、安全に頼れる後ろ盾だった。拓司に言われるがまま、死んだことにして身を潜める生活には、もう耐えられない。最初は、拓司がなぜ自分に紗枝と啓司の関係を壊させようとするのか、理解できなかった。しかし今ならわかる。拓司は紗枝が好きなのだ。ならば、自分は彼を存分に利用すればいい。拓司もバカではない。当然、葵の考えを察していた。「心配するな。僕がいる限り、澤村和彦が見たところで何もできやしない」「わかりました。じゃあ、明日から計画を始めます」「ああ」拓司は電話を切った。オフィスの椅子に座り、万崎清子に熱いお茶を持ってくるように声をかけようとしたが、数日前から彼女に休暇を与えていたことを思い出した。仕方なく、別の秘書を呼んだ。間もなく、熱いお茶が彼の前に置かれた。カップを持つ手には、綺麗に整えられたネイルが施されていた。顔を上げると、そこには昭子の美しい顔があった。「君、どうしてここに?」「おばさんから、あなたが会社に出ていると聞いたので、会いに来ました。一緒にいたくて」鈴木昭子は答えた。拓司はお茶を飲まず、カップを脇に置いた。「必要ない。帰って休め」再び彼女を見ると、穏やかだが、針のように鋭い言葉が投げかけられた。「体調はま
昭子を慰めた後、青葉は孤児院を後にした。孤児院の院長は慈愛に満ちた表情で言った。「青葉社長、何十年もの間、ご支援いただき本当に感謝しています。お力になれず、申し訳ありません」青葉の目には、隠しきれない失望が浮かんだ。「……きっと、もう死んでしまったのかもしれないわね」院長は彼女を慰めた。「まだ見つかっていないということは、どこかで生きているということです。希望を捨てないでください。何かわかったら、すぐにご連絡します」青葉は静かに頷いた。「……ええ」彼女が去った後、院長の隣にいた教師がぽつりと漏らした。「青葉社長って、もう二十年以上も娘を探しているんですよね?最初はどうして行方がわからなくなったんでしょう?」院長は深いため息をついた。「青葉社長は昔、とても苦労していたのよ。今のようにお金も権力も持っていなかった。生まれたばかりの赤ん坊が何者かに連れ去られ、真冬の寒空の下、この孤児院の前に置き去りにされていたの。あの時、私が見つけなかったら、きっと凍え死んでいたでしょう」教師は不思議そうに尋ねた。「それなら、なぜ娘さんは見つからないままなんですか?」「その子は養子に出された。でも、里親が提供した情報が偽のものだった。おそらく、実の親に見つからないようにするためでしょうね」 院長はそう語った。「そういうことだったんですね……」青葉は、娘を出産した際、大量出血で二度と子供を産めない体になっていた。彼女は必死に、あの地獄のような鈴木家から逃れた。そして国外で整形し、一代でビジネス帝国を築き上げた。そして数年後、ついに日本に戻り、かつての鈴木グループを乗っ取った。彼女を陥れた者たちは、一人残らず悲惨な最期を迎えた。車の中で青葉は、昭子が送ってきた写真を見つめ、拳を握りしめた。昭子は実の娘ではない。しかし、彼女にとっては何よりも大切な存在だった。昭子こそが、彼女のすべて。もし誰かが昭子を不幸にするのなら、その代償を払わせる。すぐに部下へ電話をかけた。「黒木家とのすべての取引を中止しなさい」黒木拓司はやっと黒木家での立場を確立したばかり。そんな彼が、私の娘に屈辱を味わわせるとは?指示を終えると、青葉は紗枝をどう追い詰めれば、彼女に深い苦しみを味わわせられるか考え始めた。調べたところ、紗枝には
夜になり、紗枝は作曲を終えると、逸之の部屋へ向かった。すると、彼のベッドのシーツと掛け布団カバーが新しくなっていることに気づいた。「逸ちゃん、このシーツと掛け布団カバー、逸ちゃんが替えたの?」「啓司おじさんが手伝ってくれたよ」「じゃあ、汚れた方は?」「啓司おじさんが『汚れたのは捨てればいい』って言ってた」「……」紗枝はしゃがみ込み、優しく説明した。「これからはシーツや布団カバーが汚れたら、ママに言ってね。洗えばまだ使えるから。世の中には、シーツすら持っていない人もたくさんいるのよ」「僕もそう啓司おじさんに言ったんだけど」逸之は真剣な顔で答えた。紗枝はその言葉を聞き、啓司と話し合う必要があると感じた。彼の浪費癖が子供に影響を与えてはならない。「わかった。もう寝なさい」紗枝は彼の額に優しくキスをした。立ち去ろうとしたとき、逸之が彼女の手を引き止めた。「啓司おじさんは善意でシーツを替えてくれただけだよ。ママ、怒らないで、責めないであげて」逸之は、こんな形で啓司を裏切るのは男らしくないと感じ、初めて彼を擁護した。紗枝は頷いた。「うん、わかってる」部屋を出ると、彼女は静かにドアを閉めた。逸之の言う通り、啓司は悪気があったわけではない。だから彼を責めるつもりはなかった。紗枝は洗面を済ませ、部屋に戻って休もうとしたとき、一通のメッセージが届いた。【紗枝、ネットに流出した写真、全部見たでしょ? いつになったら啓司を返してくれるの? 彼はあなたを愛していない。記憶が戻れば、絶対に一緒にならないよ】柳沢葵……紗枝は返信しなかった。するとすぐに、次のメッセージが届いた。【あなたにはすでに子供がいるんでしょ? 離婚もしていないのに、他の男の子供を作るなんて、私よりよっぽど汚れてるんじゃない?】【啓司の記憶が戻れば、きっとあなたを許さないわよ】紗枝は冷笑し、打ち返した。【啓司が欲しければ、自分で奪いに来なさい。くだらない手を使わないで】もはや、葵の言葉に眠れなくなるような自分ではなかった。その後、メッセージは来なくなった。紗枝はベッドに入り、眠りについた。しかし、その夜、彼女は悪夢を見た。夢の中で、啓司の記憶が戻り、彼の表情は冷たくなっていた。彼は、子供たちを自分から引き離そうとしただけでなく
紗枝は遠慮することなく、啓司の腕に噛みついた。それほど強くはなかったが、それでも少し痛みを感じた啓司は、優しく彼女の背中をなでた。「夢の中で、俺は何をした?」紗枝はゆっくりと口を離し、かすれた声で答えた。「あなたは私に、子供を堕ろせと言ったの」「馬鹿なことを……そんなわけないだろ?」紗枝は認めていなかったが、彼には確信があった。この子供たちは、間違いなく二人の子供だ。彼がどうして、それを手放すように強要できるだろうか。紗枝は彼を見上げた。「黒木啓司、今ここで約束して。たとえ記憶が戻ったとしても、私の子供に手を出さないって。景ちゃんも逸ちゃんも含めて」「わかった、約束する。もし俺が子供たちを傷つけたら、その時は報いを受ける」啓司は、今この瞬間に記憶が戻ったことを打ち明けようとした。しかし、もし彼女がそのことを知ったら、また離れてしまうかもしれない。彼女が今そばにいるのは、彼の記憶喪失と、視力を失っていることを憐れんでのことだった。彼の誓いを聞いた紗枝は、ようやく少し安心し、彼の胸に身を預け、再び眠りについた。……一方、葵は一晩中眠れず、紗枝からのメッセージを見て酒に溺れていた。友人の河野悦子が訪れ、床に散乱した酒瓶を見て心配そうに声をかけた。「葵、どうしてこんなに飲んでるの?」葵は悦子を見つけると、すぐに抱きついた。「悦子、私どうしたらいいの?啓司はもう私を好きじゃない。誰も私を好きじゃない……」実は葵が彼女を呼んだのは、実は一緒に上流社会の社交パーティーに参加するためだった。啓司と和彦はすでに自分を相手にしてくれない。拓司は危険すぎる。彼女には、新しい後ろ盾が必要だった。さらに、拓司から、啓司もその社交パーティーの招待を受け取っており、もしかすると来るかもしれない。だが、拓司は彼女に招待状を用意してくれず、自分で手に入れるように言った。拓司は、「もし招待状すら手に入れられないのなら、お前にこれ以上手間をかけて使う気はない」と言い放った。悦子はそんな彼女の様子を見て、胸が痛み、慌てて慰めた。「葵、落ち込まないで。あなたは十分魅力的よ。啓司がいなくても、もっといい人が見つかるわ」悦子は、葵が悪い女だとは思っていなかった。葵は小さく頷いた。「でも、どこで私を愛してくれる
啓司が商業帝国を再建するには、必然的に他の実業家との交流が欠かせなかった。こういったビジネス関連の酒席は、単なる酒宴以上の意味を持っていた。「分かりました。警備の人員を増やして、社長のお供をさせていただきます」牧野がそう申し出た。かつて武田家の古い世代は黒木啓司を狙ったことがあった。ただし、その時は人違いで、黒木拓司が標的にされてしまった。重傷を負った上、元々体の弱かった拓司は海外での治療を余儀なくされた。その後、黒木グループの規模を徐々に拡大していった啓司は、武田家の古い世代を次々と追い詰めていった。今や残されているのは、取るに足らない人間ばかりだった。武田陽翔は命乞いのため、啓司の前に土下座までしたことがある。啓司が武田家を完全に潰さなかったのは、慈悲心からではなく、桃洲の他の富豪たちが危機感を募らせ、団結することを懸念したからだった。古い諺にもある通り、窮鼠猫を噛むものだ。「ああ」啓司は短く答えた。ふと思いついたように、牧野は尋ねた。「皆さん伴侶同伴ですが、奥様もお連れしましょうか?」以前、啓司が公の場に連れて行ってくれないことで、夏目紗枝が怒っていたことを思い出していた。今なら、その埋め合わせができるはずだ。その言葉に、啓司は沈黙した。しばらくして、彼は首を振った。「いや、必要ない」「どうしてですか?奥様との関係を深める良い機会だと思うのですが」牧野は不思議そうに問いかけた。「今の俺があの酒席に現れたら、上流社会の連中は、どう見るだろうな?」啓司が問い返した。牧野は一瞬固まった。今の啓司が目が見えない——つまり、盲目であることを思い出したのだ。「きっと、いろいろと陰口を叩くでしょうね」「紗枝を連れて行けば、彼女まで世間の目にさらされることになる」啓司は静かに言った。以前、牧野は社長が視力を失っても冷静さを保ち続けられるのは、並外れた精神力の持ち主だからだと思っていた。目が見えないことなど気にしていないのだと。しかし今になって分かった。社長は実は深く傷ついていたのだ。ただ、他の人とは違って、啓司は驚くべき速さで現実を受け入れ、たとえ目が見えなくとも前を向いて生きていこうと決意したのだ。「申し訳ありません。私の考えが至らなかったです」どんな男も、愛する女性に自分のせい
雷七が逸之を迎えに行った帰りだった。逸ちゃんは二人に向かって大きく手を振り、こっそりと写真を撮った。そしてすぐに景之に送信。写真を受け取った景之は眉間にしわを寄せた。「くそっ」あいつ、こんなに早くママを落としたのか?逸之は更にメッセージを送る。「お兄ちゃん、これからはパパって呼ばないとだめだよ」「うるさい」景之は一言だけ返した。啓司なんか、絶対にパパなんて呼ばない!和彦は居間で水を飲みながら、景之の険しい表情が気になり、覗き込んでみた。途端に、喉に詰まった水を吹き出しそうになった。啓司さんが紗枝さんを背負っている?まさか、これには衝撃を受けた。あの黒木啓司が女性を背負うなんて。きっと鞄すら持ったことがないはずなのに。こっそり写真を撮ろうとした和彦だったが、指が滑って、仲間内のグループに送信してしまった。気付かぬうちに、啓司の親しい友人たちのグループは大騒ぎになっていた。祝福のメッセージが次々と届き、中には祝い金まで送る者も。「啓司さん、本当の愛を見つけましたね」かつて聴覚障害者を見下していた啓司が、なぜ今になって惹かれたのか。誰も理解できなかったが、皆、心からの祝福を送った。グループは瞬く間に祝福の言葉で溢れた。親友の花山院琉生もその投稿をじっと見つめていた。啓司は私事を公にすることを極端に嫌がる。和彦の行動を、啓司は知っているのだろうか。牡丹別荘に着くと、紗枝は急いで啓司の背中から降りた。逸之も車から降り、三人で歩いて帰ることにした。夜道を歩く三人の姿は、まるで幸せな家族のようだった。家に戻った啓司は、友人グループに大量のメッセージが届いていることに気づいた。音声を再生すると、祝福の言葉が次々と流れてきた。状況が呑み込めない啓司は、和彦に電話をかけた。和彦はその時になって、うっかり写真をグループに送信してしまったことに気付いた。今さら取り消すことはできない。「あの、ただみんなが啓司さんと奥様のことを祝福してるだけです」「突然、なぜだ?」「……」「話せ。何があった」重圧に耐えかねた和彦は、観念して話し出した。「お二人の写真を、グループに送ってしまったんです」「でも、私が撮ったんじゃありません。逸ちゃんが景ちゃんに送ったのを見て……」啓司の眉間に
啓司は紗枝がまた逃げ出すのではないかという直感から、差し出されたカードを受け取ろうとはしなかった。「もう使ったの。幼稚園の株式を買ったから。それに、他に使い道もないし……私、自分で稼いで使いたいの」紗枝が説明すると、啓司の表情が僅かに和らいだ。「お前の金はお前の金だ。俺が渡すのは、また別物」一呼吸置いて、啓司は続けた。「夫なら妻に資産を任せるのは当然だろう。俺がどれだけ持ってるか、知りたくないのか?」好奇心を抑えられない紗枝が尋ねる。「じゃあ、いくら?」啓司の唇が緩む。「数え切れないぐらい」なんて曖昧な答え。紗枝は呆れた表情を浮かべた。啓司は自然な仕草で紗枝を抱き寄せると、囁いた。「紗枝、近々プレゼントがある」「そんな……」思わず口にした断りの言葉。「断らせない」啓司の声が紗枝の言葉を遮った。紗枝は再び言葉を失った。結局、啓司の強引さに負けた紗枝は、デートに連れ出されることになった。まさか遊園地とは……妊婦の自分を遊園地に連れて行くなんて。この人のデート観は少し問題ありじゃない?最終的に、メリーゴーラウンドとジェットコースターに乗っただけで終わった。その夜、二人は映画を見に出かけた。都心の一等地にある映画館を完全貸し切りにしていたため、映画を楽しみにしていた客たちは、ショッピングモールの入り口で足止めを食らっていた。「昔はよく映画を見たがってたな。これからは毎週映画でもどうだ?」啓司が尋ねると、紗枝は首を振った。「家で見る方がいいんじゃない?外で見ても、あなたは映像が見えないし、音声だけでしょう。家なら音量も調節できるし、人目も気にならないわ」「ああ、お前の言う通りにしよう」素直な返事に、紗枝は薄暗い中で啓司の整った横顔を見つめた。思わず手を伸ばし、彼の顎に触れる。その瞬間、啓司は紗枝を強引に抱き寄せた。「や、やめて。監視カメラがあるわ」「全部外させてある。大丈夫だ」「ダメ!こういうの嫌」紗枝は必死で抵抗した。啓司は動きを止めた。「さっきは誘ってたんじゃ……」さっきの紗枝の仕草を誘いだと勘違いして、つい……牧野から、女性は恥ずかしがり屋だから、暗示的な表現をすることがあると聞いていたので。「誘ってなんかないわよ!何考えてるの?ここ外なのよ」紗枝は耳まで
紗枝は抵抗せず、天井を見つめながら、啓司に話しかけるような、独り言のような口調で続けた。「今でも分からないの。なぜあんなに私を憎んでいたのか……」「昔は、女の子が嫌いなのかと思ってた。冷血な人なんだって。でも今日見たの……」「病気で苦しいはずなのに、昭子にバッグを届けようとしてた。昭子が自分のことを嫌がってるって聞こえてたはずなのに、聞こえないふりをして……」「あんなに卑屈な様子、母らしくないわ」啓司は紗枝の手を強く握りしめた。「俺がいる」「もう怒ってないの?」紗枝は啓司の方を振り向いた。「相殺しないか?」啓司は問い返した。「相殺?」「俺が三年間冷たくした分と、お前が子供を連れて四、五年離れていた分。相殺して、やり直せないか?」啓司の声は静かに、しかし切実に響いた。紗枝は喉に込み上げるものを感じながら、啓司に向き直って抱きついた。突然の抱擁に啓司の体が強張る。やがてゆっくりと腕を回し、より強く紗枝を抱き寄せた。自制を効かせながら、紗枝の眉間に軽くキスを落とす。喉仏が微かに動いた。「これからは何かあったら、すぐに俺に言ってくれ。また突然いなくなるのは……」返事の代わりに、紗枝は顔を上げ、啓司の喉仏に唇を寄せた。その瞬間、啓司の理性は崩れ落ち、紗枝を押し倒した。......翌朝、朝食を済ませても両親が起きてこないことに、逸之は首を傾げた。声をかけようと部屋に向かおうとしたところを、家政婦に制された。「逸之ちゃま、お父様とお母様は昨夜遅くまでお休みになれなかったので、起こさない方が……」家政婦の部屋からは主寝室の明かりが見えるため、そう察していたのだ。「おばさん、母さんと父さん、昨日は一緒に寝たの?」逸之は小声で尋ねた。「ええ、主寝室の明かりだけでしたし、他のお部屋も使った形跡がありませんでした」昨夜は早く寝てしまい、両親を同じ部屋に寝かせるのを忘れていた逸之。でも両親が自然と同じ部屋で……まあ、毎日一緒に暮らしてるんだし、若い二人が……「おばさん、学校行ってきます!」逸之は嬉しそうな表情を浮かべながら手を振った。「いってらっしゃい」昼過ぎになってようやく目を覚ました紗枝は、昨夜のことを思い出して頬が熱くなった。何がそうさせたのか、啓司と話しているうちに、気付けば…
自分が愛だと思い込んでいたものの為に、本当に自分を愛してくれていた人を捨ててしまったことへの、深い後悔が。「あなた、私のことを恨んでいるでしょうね」涙を拭いながら、美希は呟いた。世隆は本当に忙しいのだ、昭子だって用事があるから付き添えないだけ——そう自分に言い聞かせた。ふと、スマートフォンを開いているうちに、古い家族グループを覗いていた。紗枝、太郎、自分、そして夫。四人家族のグループだ。そこには、夫が他界する直前に送ったメッセージが残されていた。「美希、娘の結婚式、このスーツで格好いいかな?」紗枝「お父さん、すっごくかっこいい!」美希「ダサすぎ」「じゃあ、別のにして驚かせるよ」これが、グループでの彼の最後の言葉となった。さらに上へとスクロールしているうちに、紗枝とのプライベートメッセージが開かれた。自分の命と引き換えに育ての恩を返した紗枝とのやり取りは、それ以来途絶えたままだった。スクロールしていくと、六年前の紗枝からのメッセージが目に入った。「お母さん、お誕生日おめでとう。今日買ったケーキ、食べた?」「お母さん、怒らないで。体に毒だよ。風邪引いてるみたいだから、梨の氷砂糖煮作ったの」「お母さん、離婚したい。もう人に頼らなくても大丈夫」「お母さん、私が働いて養うから。心配しないで」それらの温かなメッセージに対する自分の返信は、どれも冷たいものばかりだった。かつての紗枝からのメッセージを眺めながら、美希の脳裏には、幼い頃から今までの紗枝の姿が次々と浮かんでいった。母がバレリーナだと知った紗枝は、人一倍の努力を重ねた。ステージで踊る姿を見せて、母である自分を誇らしく思わせたいという一心で。今でも覚えている。舞台から降りてきた時の、血豆だらけの足を。あの旅行の時も。山で綺麗な花を見つけた自分が一言感心しただけで、紗枝は危険も顧みず摘みに行って、あわや足を折るところだった……数え切れないほどの思い出が押し寄せてきて、美希は慌ててスマートフォンの電源を切った。「あんな恩知らずのことなんて考えることないわ。所詮他人の子じも」「聴覚障害者なんて、何の才能も実績もない子が、どうして私の娘になれるっていうの?」独り言を呟く声が、空しく病室に響いた。布団に潜り込んでも、なかなか眠れない。
美希が一人で歩き出すと、後ろで介護士たちが小声で話し始めた。「可哀想に。あんな重い病気なのに、旦那さんも息子さんも来ないなんて。娘さんだってちょっと顔を出すだけで」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」「お金があっても、幸せとは限らないわねぇ」後ろの介護士たちの会話が耳に入り、先ほど病院の入り口で昭子が言っていた言葉が脳裏に蘇った。「何を勝手なことを!」突然、美希は激しい口調で言い放った。「私の夫がどれだけ私を愛しているか。息子だって仕事が忙しいだけよ。娘だって毎日私のことを心配して見舞いに来てくれる」「あなたたち、ただの妬みでしょう!」介護士たちは即座に口を閉ざし、それ以上何も言えなくなった。病室のベッドに横たわった美希の耳には、先ほどの昭子の嫌悪に満ちた言葉と、介護士たちの心無い噂話が繰り返し響いていた。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」プライドの高い美希が、娘の本心を認めるはずもなかった。それに、全ての望みをこの娘に託し、二度と踊らないという誓いさえ破り、夏目家の財産を鈴木家に譲るところまでしたのだ……美希は携帯を手に取り、世隆に電話をかけた。しばらくして、やっと通話が繋がった。「また何かあったのか?」苛立ちの混じった世隆の声。その語調に気付かない美希は尋ねた。「あなた、まだ仕事?いつ来てくれるの?一人は寂しいわ」「言っただろう?会社でトラブルがあって、今は本当に忙しいんだ。介護士も二人つけてやっただろう?暇なら彼女たちと話でもしていろ」美希が何か言いかけた時、世隆は一方的に電話を切った。かつての美しい妻が、今や病に侵された中年女性となった美希に、世隆はもはや一片の関心も示さなくなっていた。華やかな女性秘書が世隆の傍らで微笑んだ。「社長、そんなにお怒りにならないで」胸に手を当てて、なだめるように軽く叩く仕草に、世隆は秘書の手を掴んだ。「あの女が死んだら、君と結婚しようか?」二人の笑い声がオフィスに
太郎の言葉に、拓司は平静を保ったまま答えた。「紗枝さんの選択は、尊重すべきだ」今や太郎は、姉を拓司のもとに無理やりにでも連れて行きたい気持ちでいっぱいだった。「拓司さん、ご存じないでしょう。姉が啓司と結婚した時、あいつは義父の家を助けるどころか、逆に潰しにかかったんです。夏目家を破滅させたのは、あいつなんです」太郎には、夏目家の没落が自分に原因があるとは、今でも思えていなかった。かつて母親が黒木家に金を無心しに行ったことも、自分が会社と父の遺産を手放してしまったことも、すっかり忘れてしまっているようだった。「心配するな。これからは私がしっかりと支援しよう」拓司は静かに告げた。太郎は感極まった様子で大きく頷いた。きっと一流の実業家になって、自分を見下してきた連中を見返してやる――......一方、電話を切られた昭子は、激しい怒りに駆られていた。息子なのに母親の面倒も見ない太郎。なぜ娘の自分が世話をしなければならないのか。昭子は携帯を取り出し、父親の世隆に不満を漏らそうとした。しかし、昭子がバッグを忘れたのを気にした美希は、痛む体を押して追いかけてきていた。そして、昭子の言葉が耳に入った。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「あの人の財産がなければ、とっくに……」言葉の途中で振り返った昭子は、すぐ後ろに立ち尽くす美希の姿を目にした。慌てて電話を切り、作り笑いを浮かべる。「お母さん!どうして出てきちゃったの?まだ歩いちゃいけないって……」昭子は心配そうに駆け寄った。先ほどの嫌悪感など微塵も感じさせない表情で。美希は一瞬、自分の耳を疑った。だが何も言わず、ただバッグを差し出した。「昭子、バッグを忘れてたから」昭子は何の気兼ねもなく受け取った。「ありがとう、お母さん。じゃあ行くわね。お体に気をつけて、早く部屋に戻ってね」車に乗り込んだ昭子は、ほっと胸を撫で下ろした。聞かれてないはず……だって聞いていたら、母さんが黙っているはずがない。昭子は何食わぬ顔で運転手に出発を命じた。二人とも、近くに停めてある黒い車に見覚えのある人物が乗っているとは気付かなかった。後部座席
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ